───ドッゴォォォン!!!
大気を引き裂くような激突の余波が、アスファルトを容赦なく削り取っていく。
駐車場の中央で繰り広げられる狂気の闘争。だが、その均衡はあまりにも残酷な形で崩れ去ろうとしていた。
「ぐッ……! ガハッ! ……チィィッ! ……腹立つぐれぇ強ェなァ!」
恭平はひしゃげた乗用車のボンネットに背中から叩きつけられ、そのまま地面へと滑り落ちた。口の端からドロリと流れ出る、どす黒く熱い血。
それを、泥と煤に汚れた右手の甲で乱暴に拭いながら、恭平は目の前に立つ異形を血走った眼で睨み付け、激しい悪態をつく。
昂る感情。その脳内に迸る狂気的な興奮に呼応するように、彼の肉体はリアルタイムで変異し、最適化を続けていた。
細胞の密度は増し、血管は引き千切れんばかりに脈打ち、骨格はその膂力を支えるために頑強なものへと再構築されている。
しかし、それでも尚、目の前に佇む異形と恭平との間には、物理的にも感覚的にも、到底埋まりようのない絶望的な『差』が存在していた。
ヤツの動きは、速すぎる。そして、重すぎる。
どれだけ恭平の脳が思考を加速させ、世界を静止させようとも、ヤツはその静止した世界の中を平然と、より高い次元の速度で蹂躙してくるのだ。
「オ゛ニ゛……」
異形は、まるでお遊びは終わりだ、もっとかかって来いとでも言わんばかりに、その異常に引き伸ばされた両手を左右に大きく広げた。
そして、耳元まで引き裂かれた醜い口を歪め、首をコキリと横に傾ける。その仕草の一つ一つが、恭平のこれまでの絶対的な強者としてのプライドを、根底から嘲笑い、踏みにじるための不遜なパフォーマンスに他ならなかった。
「ヒヒッ……! ナメやがって、クソがよォ……!」
その絶対的な余裕、底知れない不遜な態度に、恭平の脳髄は文字通り沸騰した。額に青筋が何本も浮き上がり、顔面全体の筋肉が限界まで収縮する。怒りと闘争本能が、肉体の『鍵』をさらに深くへと回そうとしていた。
(……まだだ……! まだチカラが足りねェ……!)
身体の奥底、未知の領域に眠る濁流のようなエネルギーを、恭平は無理やり引きずり出そうと、五臓六腑を絞り出すようにして足掻く。
───ガリィッ! ギリィッ!
異様な骨擦れ音が、恭平の指先から響いた。削れたアスファルトに深く食い込んでいた彼の指先。
その先端から生えていた人間の爪が、突如として黒く、そして恐ろしいほどの厚みを持った物質へと急速に変質していく。
それは最早、人間の爪などではなかった。獲物の肉を容易く引き裂き、骨ごと贅沢に咀嚼するための『獣の鉤爪』そのものだ。
それだけではない。グッと引き上がった口元。その隙間から覗く犬歯が、ミシミシと音を立てて鋭く、長く伸びていく。口内に広がる強烈な鉄の味。牙が、自らの唇を内側から突き破らんばかりにその存在感を強めていた。
肉体が、闘争に特化したバケモノのそれへと、さらに一歩、踏み込んでいく。
その時。恭平の超加速された視界に映る異形の姿が、ほんの一瞬、陽炎のようにブレた。
「───っ!」
(来るッ!)
本能が、最大級の警鐘を鳴らす。刹那。恭平は自身の右斜め後方、死角から肉薄してくる、ハイキックの構えで大気を切り裂く異形の姿を、その網膜に確かに捉えた。
超加速のさらにその先。ヤツが発動した、人知を超えた質量移動の『軌跡』。恭平は今、この土壇場において初めて、視覚的に視界へと収めることに成功した。
(やっと見えたッ!!!)
歓喜が脳を突き抜ける。視界に捉えられたのであれば、対処は可能。恭平は即座に、自身の左腕と、辛うじて動く右腕を交差させ、最も頑強な防御の姿勢を取った。
───が。
「グハァッ!!!」
捉えた、と思った瞬間には、恭平の身体は弾け飛んでいた。ガードの上から叩き込まれた、文字通りの『超質量』の蹴り。
それは、防御という概念そのものを、その圧倒的な物理的暴力によって無慈悲に粉砕する代物だった。
恭平の身体は、水面に投げ込まれた平らな石───水切り石の如く、駐車場の頑丈なアスファルトの上を何度も激しく跳ね返り、そのたびに地面へ深い窪みとひび割れを残しながら、凄まじい速度で弾け飛んでいく。
ガードは中途半端な姿勢のまま、ただ衝撃の直撃をコンマ数パーセント和らげるのが精一杯だった。
────────ズガガガガァン!!!
何十メートルも吹き飛ばされ、ようやく駐車場の隅に山積みにされていた瓦礫の山に激突して、恭平の身体は停止した。
「ヴォエッ……! ゴホッ! ガハッ! ……痛ってェなァ……」
喉の奥からせり上がる、焼けるような内臓の熱。恭平は地面に這いつくばりながら、汚物と血を盛大に吐き散らした。
自身の身体の状態を、本能が瞬時に把握し、脳へと絶望的な報告を届けてくる。
交差させて蹴りを受け止めた右前腕。それは不自然な方向へ、まるで飴細工のように複雑にひしゃげ、骨が皮膚を突き破りかけていた。完全に使い物にならない。
さらに、胸部を覆う肋骨は半分以上が砕け散り、背骨は異常な衝撃によってきしみ、ありとあらゆる関節と骨格が、今にもバラバラに崩壊しそうな悲鳴を上げていた。
信じられないほどの激痛。常人であれば、ショック死すら免れないレベルの肉体破壊。
『勝てない』
恭平の昏い脳髄のなかに、そんな無慈悲な二文字が、冷酷な現実として浮かび上がっていた。
確かに、動きは見えた。ヤツの速度の領域に、脳の処理速度だけは、辛うじて追いつき始めていた。しかし、肉体そのもののスペックが、その限界を遥かに超越した速度と質量に追いつかない。
何より絶望的なのは、今ヤツが見せたあの神速のハイキックすら、本気だという保証はどこにもないという点だ。
あの不遜な笑み、遊ぶような仕草。ヤツはまだ、その底知れない怪力の半分も、力を温存しているかもしれないのだ。
(……ハァ、マジで、クソゲーだ)
瓦礫の上でピクリとも動けず、ただ泥のように伸びている恭平は、自嘲的な思考のなかで、不意に視線を動かした。
その視界の端。体育館の建物の傍らに立ち、この凄惨な殺し合いを呆然と見つめている、数人の人間に目が留まる。
(……はっ。なんて、顔してやがんだ……)
そこには、顔面を蒼白にさせ、今にも泣き出しそうな、悲痛極まりない面持ちで恭平を見つめる慎太郎、達也、風弥の三人組がいた。
そして、その隣には、冷徹極まりない表情の奥底に、消え入りそうな、しかし強固な『期待の炎』を宿したまま、じっと戦況を見定めている長身のスーツ姿の男、神崎誠一郎の姿。
彼らは、こんな化け物同士の戦いの最中だというのに、逃げ出すこともせず、ただ恭平の勝利を、生存を祈っている。
ドスンッ、ドスンッ……。
コンクリートの地面を揺らす、重く、そして規則正しい地響き。まるで、獲物の命を刈り取る死神の、死のカウントダウンの如き足音が、恭平の耳にじりじりと近づいてくる。
異形が、ゆっくりと、確実に、恭平の息の根を止めるために歩み寄ってきていた。
(……俺は、ここで死ぬのか?)
死に対する『恐怖』は、不思議な事に、今の恭平の心には一切湧いてこなかった。
世界がパンデミックによって崩壊したあの瞬間から、彼は日常というクソゲーから解放されたことを喜んでいた。
だから、ここでゲームオーバーになるとしても、それはそれで構わないはずだった。
だが。心残りがあった。胸の奥底が、酷くザラザラとした、未完の欲求に苛まれていた。
(……まだ、全力じゃねぇ……。アイツに、本気を出させてやれてねェ……!)
恭平は、折れ曲がった首を必死に動かし、顎を引いて、近づきつつある異形の姿を、再びその視界に収めた。
その瞬間、恭平は奇妙な違和感に気づく。
(……ふっ。そういう顔も、するんだな)
目の前に立つ異形の顔。そこには、先ほどまでの、こちらの神経を逆撫でするような、引き裂かんばかりの醜悪な口角の吊り上がりは消えていた。
血走っていた濁った黄色い瞳は、今や細く、小さく窄められ、一切の感情を失ったかのような、無機質で冷徹な眼差しを、ただ恭平に向けている。
それは、おもちゃが壊れたことを悟り、急速に興味を失いかけている、捕食者の虚無そのものだった。
(……まるで、"アイツ"みてぇだ)
フッと、恭平が自嘲混じりの息を吐き出そうとした、その瞬間。
彼の脳髄を、かつてないほどの強烈な、息が止まるような『既視感』が、奔流となって襲いかかった。
(は? "アイツ"って、何だ……? 俺は今、誰を思い浮かべた? 俺の記憶の、どこに、こんな───)
頭蓋の奥深くが、内側から激しく爆破されたかのような、凄まじい激痛。
「うぐッ……! がァッ! イッ……!!!」
恭平は、両手で頭を抱えようとしたが、ひしゃげた右腕は動かない。激痛とともに、彼の意識は、現実の戦場から、光のない記憶の底流へと、力任せに引きずり込まれていった。
押し寄せる、無数の、見たこともないはずの光景と、ノイズに塗れた冷酷な大人たちの『声』。
『───抑制値が、限界値を超えて上昇しています!』 『出来損ないめ……! これほどのコストをかけて、この程度か』 『まるで獣だな。凶暴過ぎる。知性の制御がこれでは、実戦投入など到底不可能だ』 『……これでは使い物にならない。廃棄処分か?』 『……いや、待て。まだ計画の第一段階だ。遺伝子の基礎適合率は悪くない』 『しかし、現段階では、ただの失敗作だ』
白い、あまりにも白すぎて目が潰れそうな天井。不機嫌に無機質なビープ音を鳴らし続ける、見た事もない複雑な計器類。
ガラスの向こう側から、自分を生物としてではなく、ただの不快な実験サンプルとして蔑むようにして見下ろす、白衣を身にまとった大人たち。
彼らが吐き捨てる毒のような言葉。冷たい金属製のベッド、肉体に直接埋め込まれた太いチューブ、全身を巡る、細胞をぐちゃぐちゃに破壊し再構築する薬物の灼熱。
その、地獄のようなノイズの嵐の向こう側から。突如として、底抜けに明るい、幼い子供の声が、彼の脳内の暗闇に響き渡った。
『君が今日の相手? よろしくね!』
(……誰だ、コイツ……)
恭平の意識が、その声の主を特定しようと必死に目を凝らす。しかし、声の主の姿は、ひどい電波障害を起こしたモニターのように、分厚いノイズがかかって激しくぼやけ、どうしても顔を見ることができない。
ただ、その小さな手が、自らの身体と同じように、どこか異常な変質を遂げていることだけが感覚的に分かった。
場面が、万華鏡のように激しく切り替わる。
『くぅぅ! 悔しい! もっかい! もっかいだけやろう!』 『やったぁ! じゃあ、行くよ!』
何度も、何度も。白い冷徹な実験室のなかで、互いの小さな肉体をぶつけ合い、速度と力のみを競い合う、狂気的で、しかし唯一無二の、甘やかな『遊戯』の時間。
白衣の大人たちが眉をひそめて見守るなか、彼らだけは、その檻のなかで、確かに笑い合っていた。
そこで、場面はまた、不意に切り替わる。遊び疲れ、冷たいコンクリートの床に背中を預けて、二人で天井を見上げている瞬間。
『はぁ……。結局、今日も君には勝てなかったや。───そう言えば、君の名前は?』
──────。
『へぇ、じゃあ由来は?』
──────。
『……そっか。……でも、それは……なんかヤダなぁ』
ノイズの向こうの相手は、一瞬だけ、本当に困ったように間を開けた。
そして、何かを閃いたように、パタパタと小さな手をこちらへ伸ばし、恭平の小さな、しかし硬い手をぎゅっと握りしめてきた。
『あっ! そうだ! 名前、付けてあげる! じゃあ、えーっとね!
───君は今日から、──────』
『オ゛ニ゛』
「ハッ!!!」
恭平は、肺に強引に空気を叩き込むようにして、ガバッとその上半身を跳ね起き上がらせた。
激しい呼吸。心臓が破裂しそうなほどのドラムを刻んでいる。恭平は狂ったように視線を走らせ、周囲の光景を確認した。
自身は、駐車場の隅に山積みにされた瓦礫の上。目の前の正面には、耳まで裂けた口を無機質に閉ざし、こちらを見下ろしている、あの二メートルを超える異形。
そして、少し離れた位置。体育館の割れたガラス戸の陰から、必死の形相で自分を見つめている慎太郎たち三人組と、固い表情を崩さない神崎局長。
夢、だったのか。それとも──────。
荒い息。頭部の中心に、鈍く、しかし確実に、熱い楔を打ち込まれたかのような鈍痛が残っている。
だが。その痛みすらも、次の瞬間に発生した『肉体の暴走』によって、一瞬にして掻き消された。
───シューゥゥウウウウウウッッッッ!!!!!
凄まじい、高圧の排気音。恭平の肉体、その全身のすべての毛穴から、まるで沸騰したボイラーの安全弁が弾け飛んだかのような、濃密で強烈な白い蒸気が、天に向かって一気に立ち込み始めた。
その熱量は、周囲の空気の温度を一瞬にして数度跳ね上げるほどに凄まじい。
恭平は、自らの身体の内側で、信じられないような『超活性』が、猛烈な速度で行われていることを、皮膚を通じて直感した。
そして導かれるように、自身の身体にゆっくりと目を向ける。
「──────っ!」
彼は、目を見開いた。
異形のハイキックによって、不自然にひしゃげ、骨が皮膚を突き破りかけていた右前腕。
それが、グズグズ、メキメキと、信じられないような速度で自律的に骨格を噛み合わせ、元通りの……いや、それ以上に強固な腕へと瞬時に『再生』していたのだ。
砕け散っていた肋骨も、悲鳴を上げていた背骨も、すべての関節が完璧に修復され、信じられないほどの全能感が、全身の末梢神経の隅々にまで満ち溢れていく。
全身を覆っていた無数の裂傷、それらすべてが、跡形もなく消え去っていた。
そして。何よりも異常だったのが。
(……赤い)
それは皮膚そのものが、まるで血管をすべて表面に浮き出させ、沸騰した血液をそのまま纏っているかのような、禍々しくも美しい、深みのある『紅色』に変色していたのだ。
さらに、水の中で見た時には僅かな線でしかなかった腹筋が、今や彫刻家が精魂込めてノミで削り出したかのように、圧倒的に、明確な形状を伴って、鋼鉄の如き硬度で浮かび上がっていた。
肉体が、完全に『変態』を終えた。
恭平は、自らの傍らに、衝撃で無造作に転がされていた公用車へと歩み寄った。
その、ひしゃげたドアに残っていた、割れずに辛うじて形を留めていたサイドガラス。その黒いガラスの表面に、鏡のように映し出された、自らの顔を、恭平はじっと見つめる。
そこに映っていたのは。紅い顔面。引き裂かれたように獰猛な鋭い犬歯。
そして、額のちょうど中心。皮膚を内側から突き破り、己の『存在』を、そして己の『出自』を決定付けるために生えてきた、一本の黒く、鋭い、強固な『突起』。
「ふっ……。ハハッ……。……あぁ……そういう、こと……か……」
恭平の口から、引き笑いではない、心底納得したような、静かで、冷徹な笑い声が漏れた。
すべてのピースが、脳内で完璧に噛み合った。
なぜ、このパンデミックが発生した瞬間から、自分の肉体にこれほどまでの異常な出力が備わっていたのか。
なぜ、自分の皮膚が、ゾンビの牙すら通さない特殊装甲のようになっていたのか。
なぜ、あの目の前の異形が、自分に対して親しげに、愉悦混じりに『オニ』と呼びかけたのか。
『────最初から、普通の人間などではなかった』
恭平は、ゆっくりと向き直り、正面に立つ異形の方に、その紅い顔を向けた。
その瞬間、恭平はまた一つの、決定的な肉体の変化を自覚する。
先ほどまで、見上げるほどに巨大だと思っていた、二メートルを超える異形の存在。
それが、今、恭平の網膜に映るヤツの顔は、見上げる必要など、どこにもなかった。
異形の黄色い瞳と、寸分狂わぬ、まったく『同じ高さの焦点』。
ドスンッ……。
恭平が、紅く染まった自らの右足を、一歩、前に踏み出す。
駐車場のコンクリートを、まるで重力そのものを一点に集中させたかのように、明確な重さを持った轟音へと変え、周囲の空気をピリピリと震わせた。
やがて目の前の異形の前に堂々と立ち塞がり、静かに、しかし戦場全体を支配するような絶対的な声で、こう呟いた。
「──────俺は……『鬼』だったんだな……」