董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~ 作:ねじぇまる
二度目に梁温の蔵へ行くと、人足がこちらへ手を振った。
「粟はこっちだ。前と同じ所でいいぞ」
御者へ行き先を教えるより早かった。
前に俺たちが運んだ粟は、もうほとんど残っていなかった。空いた場所へまた俵を積めるのが嬉しくて、俺も袖をまくって車へ回った。
董白は、梁温に呼ばれていた。
「東から戻った者が来ていますよ。この前、話を聞きたいとおっしゃっていたでしょう」
「おお。まだしばらくおられますか?」
「今夜はうちに泊まります。お二人も、飯の時にでも」
董白は礼を言い、こちらへ戻ってきた。
その晩は、俺が帰りに買う麻布の話をしている間も、東の商人へ熱心に話しかけていた。通れる道や宿のほかに、呂布と劉備のことも訊いていた。
戦になれば荷が止まる。商いをするなら、聞いておく必要はあるのだろう。
俺は、次の買い付けの数を書いていた。
~
寒くなると、本当に荷が止まった。
曹操の軍がまた宛へ来て、出した車が何も積まずに戻ってきた。春にも戦があり、売る粟を用意できぬと断られた。
預かっている白札の分は使えない。仕事のない日は近くの荷を運んでしのぎ、道が開くと、また宛へ通った。
初荷を運んだ年が過ぎ、次の秋を迎える頃には、五台の車を出すことも増えていた。
車を借りる銭もかかった。それでも、賃を払い、鄧遷へ仕入れの銭を返した後に、次の仕事へ回す銭が残るようになった。護衛の二人にも、続けて働いてもらっていた。
董白は儲けが出るたび喜んだ。俺も嬉しかった。
梁温の所へ届く董白宛ての便りが、少しずつ増えていることは知っていた。使いに渡した礼も控えに残してあった。
ただ、あの夜の下邳の話は出なかった。
俺からも訊かなかった。続きを話さずに済むのなら、それでいいと思っていた。
その秋、宛の蔵番から、曹操が今度は呂布を攻めるらしいと聞いた。
董白は誰から聞いた話かを確かめた後、いつものように俵を数えていた。俺はその横顔が気になって、何度も見てしまった。
二日後、梁温の蔵で東からの便りを受け取ると、董白は俺を別の部屋へ呼んだ。
「下邳へ行きたい」
戸を閉めるなり、そう言った。
俺は、返事をする前に座った。
董白は、肩へ落ちた藍紫の髪を払って、便りを俺の方へ向けた。曹操の軍が東へ進み、呂布が下邳へ退いたとある。梁温の取引先が寄越したものだ。
東では軍へ納める糧と車を求めている。来るのであれば泊められるし、商いの相手も探せる。ただ、戦の進み具合で話は変わる、と書いてある。
「……いつから調べてたんだ?」
「あの夜からじゃ」
董白は俺を見た。
「そなたが、呂布は下邳で、と言うた。あの話の続きなら、死ぬのであろうと思った。じゃが、いつのことかは分からぬ。ここで待っておって、すべて済んでから聞かされるのは嫌じゃった」
一年以上、一緒に働いていた。
俺が次の荷を増やすことを考え、董白と飯を食って喜んでいた間も、ずっと調べていたのだ。
知らなかったことが情けなかった。あいつが笑っていれば、もう気にしなくていいように思っていた自分が、今になって嫌になった。
「俺に訊いてくれれば……」
言いかけて、黙った。
先に口を閉じたのは俺だ。
「言いたくないことまで、聞き出そうとは思わぬ。商人に呂布の話を訊くくらいなら、妾にもできる」
「俺だって、細かく知ってるわけじゃないんだ。呂布が下邳で死ぬことは覚えてる。でも、いつなのかも、今の戦がどうなるかも分からない」
「うむ。だから、今の話を聞いておった」
どうして知っているのかとは訊かなかった。
「この目で見たい。あやつが死んだと、人から聞くだけでは嫌なのじゃ」
董白の声は静かだった。
俺が知っているのは、一緒に逃げてからの董白だ。その前に祖父とどんな話をして、どれだけ大事にされていたのかは、ほとんど知らない。もう忘れた方がいいとは、とても言えなかった。
俺は便りへ目を落とした。泊めてくれる相手はいる。けれど、軍に近づけるとも、呂布に会わせてもらえるとも書いていない。
「荷を売りに行っても、兵に止められたら、それ以上は進めないぞ」
「まず、軍へ荷を入れる仕事を探す。軍の者と話せるようになれば、頼めることもあろう」
「宛で張繡と商いしてたことも、訊かれると思う」
「それは話す。隠してあとから知られては、商いどころではなくなる」
すぐに答えが返ってきた。
董白は、俺に言う前から考えていたのだろう。それでも、行ってこいとは気軽に言えなかった。知らない土地で兵に囲まれたら、俺たちにはどうにもできない。
できれば、行ってほしくなかった。
けれど、ここまで望んでいたことを知って、危ないからとだけ言って終わらせるのも嫌だった。
「帰る銭は残すぞ。向こうで儲からなくても、全員戻ってこられる分は。それと、町の仕事を続ける銭も使わない」
「……よいのか」
「俺も行く。杜恪にも道を調べてもらおう。俺たちだけじゃ、どこの宿に泊まればいいかも分からないからな」
董白は、しばらく返事をしなかった。
「一緒に来てくれるのか」
「一人で行かれたら、帰ってくるまで落ち着かないよ」
怖いのは変わらない。曹操の軍に関わるなんて、できれば避けたい。
ただ、商いで困った時はいつも二人で相談してきた。董白がこれほど望んでいることに、俺も何かしてやりたかった。
「荷を扱うなら、俺の仕事もあるだろ」
「……うむ」
ようやく、董白が笑った。嬉しそうな顔を見ると、俺も少し安心した。
「帰りも、一緒じゃぞ」
「ああ。帰るための銭なんだからな」
~
留守の商いは鄧遷に頼んだ。
宛へは通い慣れた御者と荷を扱う者がいる。蔵番へ代わりに行く者を知らせ、次の仕入れの銭と控えを渡すと、出発までに俺がする仕事は、思っていたより少なくなった。
少し寂しかったが、俺たちがいなくても仕事を続けてもらえると分かって、安心した。
杜恪には遠出の間の日当を上げることになった。
「俺だって、下邳まで知った道じゃねえぞ。途中からは、案内できる者を探すところからだ」
「それを頼みたい。俺たちだけで探すよりは、ずっといいよ」
連れていくのは、俺と董白、杜恪、御者一人に護衛二人。車は一台で、梁温の取引先から頼まれた麻布と、道中の食料を積んだ。軍へ売る糧を買うなら、東へ着いてからだ。
皆に行き先を伝え、賃も決めた。
出る朝、女将が厚手の上着を持ってきた。
「帰る頃には、今より寒くなってるよ」
「そんなに長居するつもりはないのじゃが」
「それなら、着ずに持って帰っておいで」
董白は言い返さず、受け取った。俺も自分の分を荷へ入れた。
数日で戻る旅の時とは違った。女将の顔を見ていると、急に宿を離れがたくなった。
「向こうから、便りを出すよ」
「頼むよ。待ってるからね」
~
旅に出て二十日を過ぎた頃、朝にはその上着が要るようになった。
梁温に教わった商人や宿を頼り、途中では同じ方へ向かう車と連れ立った。董白が宿で呂布の話を訊く時には、俺も隣で聞いた。
もう城を囲まれたという者も、まだ野で兵を見たという者もいた。いつの話か訊くと、半月も前のことだった。
早く着きたかった。けれど、急げば車が速く走るわけでもない。
梁温の取引先の町まで、あと二日ほどという所で、俺たちは足を止めた。
先の渡し場で、軍へ向かう車を先に通しているらしい。
朝から待っても渡れなかった御者が、宿の庭で文句を言っていた。杜恪はその男と話し込み、戻ってくると俺たちへ首を振った。
「今日ここから出ても、向こう岸で泊まれるか分からねえ。ここに泊まって、様子を聞いた方がいい」
「明日なら通れそうか?」
董白が訊いた。
「それも、まだ何とも言えねえってよ」
俺は宿代の銭を出した。
董白は、下ろした荷の横に立っていた。いつもなら俺と一緒に包みの数を確かめるのに、表の道を見ていた。
呼ぶとすぐに振り向いたが、荷を運び終えた後も落ち着かない様子だった。
あと二日で着くと言われたばかりなのに、ここで待つしかなかった。俺まで悔しくなった。何か声を掛けたかったが、もうすぐだからと慰めても、今の董白には何の足しにもならない気がした。
昼を過ぎてから、宿の主人が男を連れてきた。
杜恪が、東で荷を扱っている者を紹介してくれと頼んでいたのだ。
「こちら、
申達は細身の男で、顎にまばらな髭があった。薄茶の上着は新しかったが、履いている靴には泥が厚く付いていた。
「梁温殿のお知り合いだそうですね。どちらへ?」
俺が取引先の名を伝えると、申達は頷いた。
「その蔵なら知っています。渡しを越えて、もう一日ですな。私も明日、そちらへ荷を出します」
「軍へ納める荷ですか?」
董白が訊いた。
「ええ。町の外に糧を集める蔵があって、そこで受け取ってもらうのです」
申達は、董白へ顔を向けた。
「軍との商いをお望みですか」
「ええ。糧の買い付けをする方と、お話ししたいのです」
「それなら、お連れできますよ。三日後に、私も納めに行くのでね」
董白が身を乗り出した。
「会わせていただけますか?」
「ただ、紹介だけというのも。うちの粟を買っていただけるなら、一緒に売り込みに行きましょう。運ぶのはこちらで引き受けます」
俺は董白の顔を見た。
梁温の取引先を頼れば、軍とのつながりを探すことはできる。けれど、いつ会えるかまでは分からなかった。
この男なら、三日後には会わせられるという。
「まず、粟を見せてくだされ」
董白が答えた。
~
申達の蔵は、宿の裏手にあった。
杜恪は渡し場の様子を聞きに行った。俺たちは護衛の一人と一緒に、申達の後について入った。
「こちらです。少し古いので、安くお譲りしますよ」
壁際には、俵が積まれていた。
申達は手前のものを開け、粟を掬って見せた。俺も受け取ってみたが、粟は乾いていて、粒も崩れていなかった。
示された値は、ここまでの道中で聞いたものより安かった。
董白も粟を確かめたが、すぐに申達へ顔を戻した。
「その方は、下邳の戦の様子もご存じでしょうか」
「軍の方ですからね。私などよりは、よほど詳しいでしょう」
「呂布は、まだ城に?」
「捕らえたとは聞いていません。お急ぎなのですか」
「できるだけ早く、お会いしたい」
俺は、その言い方が少し気になった。
粟の値を訊く時より、ずっと強い声だった。
「でしたら、今日決めていただかないと。明日には荷を出しますから」
申達が言うと、董白は俺を見た。
「銭は足りるか?」
俺は袋を卓へ出し、確かめた。
「買い付けに持ってきた分で出せる。でも、ほかの荷を買う余裕は少なくなるぞ」
「うむ。残りの粟もよければ、買いたい」
申達は笑って、人足を呼んだ。
俺が次の俵を見せてもらう間も、董白は軍の話を訊いていた。申達は気さくに答えていた。
俺も、うまくいけばいいと思った。
ここまで来て足止めを食うのは嫌だったし、董白を早く連れていってやりたかった。
人足が、開けた俵を脇へ寄せた。
「そっちの下も、見せてもらえますか」
俺は奥の俵を指した。今まで見たのは、手前のものばかりだ。
男は面倒そうに上の俵を退けた。下から引き出された俵の裏が、黒ずんでいた。
「これ、濡れてませんか」
「もう乾いてるよ」
口の縄が緩められると、俺はしゃがんだ。
嫌な臭いがした。
奥へ手を入れると、粟が固まりになって出てきた。指で割っても、真ん中に白っぽいものが残っていた。
町の倉で、濡らして駄目にした粟を見せてもらったことがある。あの時と同じだった。
「白。ちょっと来てくれ」
董白が話をやめ、こちらへ来た。
俺の掌を見ると、すぐに眉を寄せた。
「……これは、食えぬぞ」
申達も覗き込んだが、驚いた様子はなかった。
「少し古いと、申し上げたでしょう」
「古いのと、腐ってるのは違いますよ」
思わず言い返した。
これを俺たちの荷として持っていったら、軍の者に何と思われるだろう。董白がここまで調べ、ようやく辿り着こうとしているのに。
腹が立った。
俺は立ち上がって、銭袋を手元へ戻した。
申達の笑顔が消えた。
「お買いにならないなら、紹介もできませんよ」
董白は、傷んだ粟を見たままだった。
「早く会いたいのでしょう。ほかを探しているうちに、戦が終わってしまうかもしれませんな」
董白の手が止まった。
この男は、俺たちの事情までは知らない。けれど、董白が急いでいることは分かったのだ。
それでも、この粟に銭は払えない。
「白」
董白がこちらを向いた。
「この銭は、まだ渡さないからな」