董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~ 作:ねじぇまる
二度目に梁温の蔵へ行った時は、向こうの人足が俺たちの顔を覚えていた。
「粟はこっちだ。布も揃えてあるぞ」
言われた場所へ車を回すと、蔵の中から梁温が出てきた。丸い顔に汗を浮かべ、顎を手の甲で拭っている。
前の荷は、もうほとんど残っていなかった。
「待ってましたよ。今日は泊まっていかれますか」
「ええ。明日の朝に出るつもりです」
「では、あとで寄ってください。東から戻った知り合いも来てますから」
董白が顔を上げた。
「徐州へ行っておった方ですか?」
「そうです。あちらの荷の話も聞けますよ」
「それは、ぜひ」
俺は、帰りに買う布の話を先に済ませようと思っていた。董白は蔵の奥を一度見てから、俵を下ろす人足へ場所を空けた。
その晩、東の商人と話していたのは、ほとんど董白だった。
どこの町まで車が通れるのか。泊まる場所はあるのか。呂布と劉備の間は、今どうなっているのか。
軍が動けば、荷も止まる。梁温が前に話してくれたとおりだ。訊いておいて損のある話ではなかった。
俺は帰り荷の数を確かめながら、二人の話を聞いていた。
~
宛へ通えば、いつでも粟を積めるわけではなかった。
次は五台で行こうと話していたのに、倉から売りに出す分がないと断られたこともある。車を集める前で助かったが、その時は梁温にも待ってもらった。
もっと困ったのは、車を出した後だった。
寒くなってからの一便が、粟を積まずに戻ってきた。
「先へは行けねえ。兵が道を塞いでる」
御者は、泥の付いた足で車から下りた。
曹操の軍が、また宛へ来たのだという。別の道を訊いても、昨日までは通れたという答えばかりだったそうだ。
「戻ってきてくれてよかったです。車は、どこか傷んでませんか」
「車より俺たちだよ。夜まで待たされてな。飯を食わせてくれ」
宿へ案内してから、俺は買い手へ出す知らせを書いた。
宛で積めなかったものを、町の倉から勝手に出すわけにはいかない。白札と引き換える粟は、持ち主から預かっているものだ。
結局、その便は取りやめた。払った車代と人の賃だけが残った。
年が改まり、冬が過ぎても、道の心配は続いた。
春にも戦のために宛との往来を止めた。買い付けに出られない間は、町で頼まれた荷を運び、壊れた車の修理を待った。宿にいる御者の顔を見るたび、次はいつ出せるのかと訊かれる前に、俺から首を振る日もあった。
それでも、道が開けばまた荷を出した。
初めは旅のたびに声を掛けていた護衛のうち二人には、続けて働いてもらうようになった。宛へ出る日以外にも、近くの蔵へ荷を送る仕事がある。こちらも顔を知った者に頼める方が気楽だった。
三台だった車を、五台出せる日が増えた。
全部が俺たちの物になったわけではない。借りる車もあったし、鄧遷に仕入れの銭を出してもらう便もあった。それでも、帰るたびに次の車代を心配することは少なくなった。
梁温の所では、俺たちが帰りに積む麻布が、戸口の横へ先に置かれるようになった。
董白宛ての書付が、その上に載っていることもあった。
「この前お尋ねの件だそうです」
梁温から渡されると、董白は中を読んで礼を言った。
俺が売り上げを数えている間に、また返事を頼んでいた。使いへの礼は、俺たちの儲けから出している。控えにも残してあった。
東との商いを増やしたいのだろうとは思った。
俺たちの町へ戻ってからも、董白は下邳の話をしなかった。
~
宛の初荷を運んだ翌年の秋、倉で荷を待っていると、蔵番が曹操の話をした。
「曹操は、今度は東へ行くそうだな」
俺は、受け取った控えから顔を上げた。
「東へ、ですか」
「ああ。呂布を攻めるとか。こっちへ来られるよりはましだが、売り先の道まで空くかは分からんぞ」
隣で粟を見ていた董白が、蔵番へ近づいた。
「それは、どなたから?」
「昨日来た商人だ。向こうで軍に納める荷を集めていると言っていた。東へ出すつもりなら、自分たちでも確かめておけ」
「そういたします」
董白はそれ以上訊かなかった。
俵の数と値を確かめ、いつものように買い付けを済ませた。俺も御者へ声を掛けたが、出発までの間、どうしても董白の方を見てしまった。
曹操が、呂布を攻める。
下邳、という地名が頭に浮かんでいた。
その先を口にしかけた夜のことも、覚えている。
梁温の町へ着くと、今度は蔵へ入る前に呼び止められた。
「お二人に、東から返事が来ています」
董白がすぐに受け取った。
いつもの短い便りより、ずっと長かった。読む間に俺たちの車が蔵の前を通り、御者が荷台から下りてくる。
董白は最後まで目を通すと、書付を巻いた。
「柳誠。荷を渡したら、少し時間を取ってくれ」
~
梁温に部屋を借り、二人で入った。
戸を閉めると、董白がさっきの書付を卓へ広げた。旅の間は邪魔にならぬよう結んでいる藍紫の髪が、肩から前へ落ちる。端を払い、俺の方へ文面を向けた。
「東へ行きたい」
俺は向かいへ座った。
「下邳へ?」
「うむ」
返事を聞いて、書付を読んだ。
梁温の取引先からだった。曹操が呂布を攻めるという話は、向こうでも聞いている。さらに、下邳へ退く呂布の軍を見た者が戻ってきたという。
軍の進む先では、糧や運び手を求められることが増えていた。
商人の蔵に売れる粟があり、車を持つ者にも心当たりがある。こちらが本当に来るのであれば、軍へ荷を納めている相手に話をつなげる、と書いてあった。持ってきてほしい麻布の注文も添えてある。
ただし、引き受けられる仕事も、通れる道も、軍が進めば変わる。
来れば必ず商いになる、という返事ではなかった。
「仕事の紹介を頼んでいたのか」
「先に頼んだのは、呂布の居場所じゃ。前に届いた便りに、曹操が攻めてくるという話があってな。その返事で、軍へ荷を入れておる者を紹介してくれと頼んだ」
「いつから調べてたんだ?」
董白は、俺を見た。
「あの夜からじゃ」
やはり、聞き流してはいなかった。
「そなたが、呂布は下邳で、と言うた。あの話の続きなら、死ぬのであろうと思った。じゃが、いつのことかは分からぬ。ここで待っておって、すべて済んでから聞かされるのは嫌じゃった」
初めて梁温の蔵へ行ってから、一年以上になる。
俺はその間、粟の値を覚え、御者に顔を覚えてもらい、次の荷を増やすことを考えていた。
董白も同じ仕事をしていた。笑っていたし、儲けを喜んでもいた。
それをしながら、あいつの居場所を聞き続けていたのだ。
「俺に訊いてくれれば……」
口にしてから、その先が続かなかった。
俺の方が黙ったのだ。董白はその時、続きを求めなかった。
「言いたくないことまで、聞き出そうとは思わぬ。商人に呂布の話を訊くくらいなら、妾にもできる」
「でも、下邳で何が起きるかは、俺も細かく知ってるわけじゃない。呂布が死ぬことは覚えてる。いつなのかも、今の戦がどう進むかも分からないんだ」
董白は頷いた。
どうしてそんなことを知っているのかとは、訊かなかった。
「今なら、そこへ行く道がある。それは分かった」
書付へ置いた指を、そのままにして言う。
「この目で見たい。あやつが死んだと、人から聞くだけでは嫌なのじゃ」
静かな声だった。
祖父を殺された怒りを、俺は同じようには分からない。けれど、前に呂布の名を聞いた時、董白が飯を食わなくなったことは覚えていた。
そこまで望んでいたのか、と思った。
ただ、望んでいるから行かせてよいとも思えなかった。
「軍の近くまで行っても、会わせてもらえるとは限らないぞ。兵に止められたら、それ以上は進めない。俺たちの護衛じゃ、軍とは戦えないんだから」
「分かっておる。兵を連れて攻めに行くのではない。荷を届ける仕事を得て、軍の者と話せる所まで行きたい。その先は、向こうが何を欲しがるか聞いてからじゃ」
「宛で張繡と商いしてたことも、訊かれると思う」
「隠してあとで知られるより、初めから話す。あちらも商人を使うのであろう。扱える荷があることくらいは、見てもらえる」
書付には紹介先がある。売れる粟も、借りられるかもしれない車もある。董白は、そこまで確かめてから俺へ見せたのだ。
「帰る銭は、残すぞ」
そう言うと、董白の目が俺へ戻った。
「仕事の払いをもらえなくても帰れる分だ。それと、町で次の仕入れに使う銭も。向こうで全部使ったら、帰ってきたって何もできない」
「うむ。それでよい」
「俺も行くから、出るまでに留守の仕事を渡しておく。先へ行くなら、杜恪にも頼みたい。知らない道ばかりだ」
董白は返事をせず、俺を見ていた。
「何だよ」
「一緒に来てくれるのか」
「一人で行かれた方が、落ち着かないよ」
戦になると知っていた宛でも、怖かった。今度は、その曹操の軍の近くへ行くのだ。
できれば行きたくない。
それでも、董白をここから一人で送り出して、毎日帰りを待つ自分を考えると、やはりそちらも嫌だった。
「荷を届けるなら、俺の仕事もあるだろ。車と銭のことは、いつもどおり俺がやる」
「……頼む」
董白は書付から手を離した。
「帰りも、一緒じゃぞ」
「ああ。そのつもりで言ってる」
梁温へ返事を頼みに行く時、董白は俺が立つまで待っていた。
梁温には、取引先への紹介も書いてもらった。俺たちが町へ戻って支度をする間に、向こうへ行くと先に知らせてくれるという。
~
いったん町へ戻り、東へ出る支度をした。
持ち帰った荷を渡し終え、鄧遷に話をする。軍の近くで商いをしたいと言うと、鄧遷は、紹介の書付を置いて考え込んだ。
「いつ戻られますか」
「まだ、はっきりとは言えません。向こうまで行くにも日数が掛かりますし、仕事を引き受けられるかも、着いてから確かめることになります」
「では、こちらの商いは、お二人が戻る日を当てにせず続けられるようにしておきましょう。宛の蔵番にも、代わりに行く者を知らせておかねばなりませんな」
こちらに残す車と御者は決めてあった。
何度も通った道だから、いつもの御者たちなら宛も梁温の蔵も分かる。荷の受け渡しには、これまで同行していた者を付けられる。
鄧遷と次の買い付けを相談し、留守の間に回す銭を残した。町の蔵で札と粟を扱う者も、そのままだ。
俺が普段確かめている控えは、出る前に揃えて渡すことにした。
「向こうの粟は、向こうで買うのですね」
「そのつもりです。宛から積んでいくと、道中の賃だけでも随分掛かるので」
「それがよろしいでしょう。紹介先が変わっていたら、一度梁温殿を通してください。無理に知らぬ相手へ銭を預けずとも」
董白が頷いた。
「そなたにも知らせる。こちらの荷で困ったことがあれば、梁温の所へ便りを寄越してくれ」
「承知しました。良い売り先ができましたら、そちらもお忘れなく」
鄧遷は、最後にはいつもの調子へ戻っていた。
杜恪は話を聞くと、指で顎をこすった。
旅用の上着は肘に継ぎが当たっていたが、足には新しい草鞋を履いていた。俺たちが留守の間も、近くの町へ荷の様子を見に行っていたらしい。
「ずいぶん遠くまで行く気になったな」
「東の取引先を継いでいく。そなたには、先の道と宿を確かめてもらいたい」
「俺だって、下邳の裏道まで知ってるわけじゃねえぞ。知った顔がいる所までは口を利けるが、その先は人を探すところからだ」
「うむ。先へ進む前に、道を知る者を探してほしい。通れぬと分かれば、別の道も考えられる」
「分かった。俺も、着いてから道がねえってのは御免だからな」
俺が東へ持っていく荷の控えを渡すと、杜恪は目を落とした。
「いつもの賃で、帰る日も決まらねえ旅は勘弁してくれよ」
「この旅の間は日当を上げよう。人に訊くための銭も別に出す。そちらの余りは、戻してもらうぞ」
「分かってるよ。じゃあ、こっちの仕事を片づけてくる。留守の間に頼む相手とも、話をしておきたいからな」
杜恪は控えを俺へ返すと、戸口へ向かった。
出す車は一台にした。
俺たち二人と杜恪、御者が一人、いつも頼む護衛が二人。それぞれに、軍の近くまで行くつもりだと伝え、賃を決めた。
持っていくのは道中の食料と身の回りの荷、それに東の取引先から頼まれた麻布だった。買い付け用の銭も持つが、糧と車は向こうで実物を見てから決める。
重い粟をここから延々と運ぶ旅ではなかった。
それでも、荷を並べれば車は狭くなる。
女将が持ってきた包みを載せると、董白が結び目を開いた。中には、厚手の上着が入っていた。
「今から着るには、暑くないか」
「着く頃には寒くなるよ。帰りはもっとだ。二人とも入れておきな」
俺は自分の上着も受け取り、畳んで荷の底へ入れかけた。
「そこじゃ、途中で出せぬぞ」
董白に言われ、もう一度持ち上げた。
女将が笑いながら、空いている所を指した。
「こっちにしておきな。雨に濡れないよう、布も掛けて」
荷を動かして場所を作ると、董白も上着をそこへ置いた。
「戻ったら、また顔を見せにおいで」
「うむ」
「手紙も頼むよ。帰りが遅いのか、どこかで寝込んでるのか、分からないのは困るからね」
「梁温さんの所を通して、知らせるよ」
俺が答えると、女将は荷台の布を引き上げた。
出発の支度は、それで終わった。
~
梁温の町を過ぎると、見覚えのない道になった。
前から教わっていた宿でも、戸口に立てば初めての場所だ。杜恪が先に話をつけ、俺が車を入れる場所と泊まりの銭を確かめた。
その先へ荷を送っている商人を紹介してもらい、途中までは同じ列に加わった。
朝に車を出し、昼に荷を確かめ、暗くなる前に泊まる。橋の手前で長く待たされる日もあれば、先の宿が埋まっていると聞き、日があるうちに足を止める日もあった。
董白は、宿で人の話を聞いた。
俺も隣に座った。
呂布はまだ下邳にいるのか。曹操の軍は、どこまで進んでいるのか。
前は董白が何を知りたがっているのか分からなかった。今は、俺も同じことを聞いていた。
返ってくる話は、揃ってはいなかった。
もう城へ追い込まれたという者がいる一方で、呂布の兵を道で見たという者もいた。いつ見たのか訊くと、十日以上前の話だったりする。
杜恪は、訊いた相手がどこから来たかを俺へ教えた。俺は手元に残した道の控えに、聞いた場所と日を書き添えた。
旅に出て二十日を過ぎた頃には、朝、上着を羽織るようになっていた。
軍へ向かう荷車を見ることも増えた。
道の分かれ目に兵が立ち、俺たちも呼び止められた。御者が手綱を引く。護衛の一人がこちらを振り向いたので、俺は座ったまま、紹介の書付を荷から出した。
行き先を告げ、荷を見せた。
兵は麻布の包みを開けさせ、食料の袋にも手を入れた。俺たちの顔を順に見てから、書付を返す。
「その町なら、この道だ。軍の陣へ入るなよ」
「はい」
車が動きだしてから、ようやく息をついた。
董白も口を開かず、前を見ていた。
翌日の午後、梁温の取引先の蔵へ着いた。
荷台の麻布を見せると、蔵の主がほっとした顔で人足を呼んだ。背の低い、肩の厚い男で、前を歩くたびに上着の裾が大きく揺れる。
「待っていました。道で止められませんでしたか」
「何度か。荷を検められましたが、行き先を話して、通してもらえました」
書付を渡すと、男は梁温の名を確かめて頷いた。
「荷はここへ。泊まる所も用意してあります。お話の方は、明日なら相手に会えますよ。軍で糧の買い付けを受け持つ者です」
「下邳の戦は、まだ続いておりますか」
董白が訊いた。
男は顔を向けた。
「続いています。城を囲んでいるそうですが、呂布を捕らえたとは、まだ聞きません」
董白は、黙って頷いた。
俺は荷台の縄を解いた。道中で濡れて乾いた結び目は固く、爪を入れてもなかなか緩まない。
横から董白の手が伸び、反対側の縄を押してくれた。
二人で結び目をほどき、麻布を下ろした。
「明日、話を聞こう」
俺が言うと、董白は顔を上げた。
「うむ。頼りにしておる」
蔵の主に呼ばれ、俺たちは中へ入った。