逃げちゃだめ?いや、全力で逃げるが?   作:李忠成

6 / 6
逃げ場のない孤独

 

LCLが、鼻の奥まで満ちてきた。

 

前回もそうだった。でも前回は恐怖でパニックになりすぎて、この感覚をちゃんと認識する余裕がなかった。

 

今回は、違う。

 

嫌というほど、感じた。

 

生温かい液体が肺の中まで入り込んでくる感覚。溺れているのに溺れていない、という矛盾した状態。呼吸ができているのに、呼吸している気がしない。自分の輪郭が、少しずつ溶けて初号機に取り込まれていくような——そういう生理的な嫌悪感が、胃の底からじわじわと這い上がってきた。

 

(気持ち悪い)

 

俺は歯を食いしばった。

 

射出シークエンスが始まった。格納庫の壁が流れていく。外に出る。光が来る。

 

「初号機、発進します」

 

オペレーターの声が遠くに聞こえた。

 

ズドン、という衝撃。

 

視界が開けた瞬間、俺は——思っていたより、怖かった。

 

---

 

廊下での覚悟なんて、ここでは何の役にも立たなかった。

 

「やってやる」と思った。本当に思った。鈴原たちが死んだら後悔する、それだけは嫌だと思った。だから乗った。でも、乗ってしまえば——

 

(俺はただの人間だ)

 

十五メートルの巨体に乗っていても、コックピットの中にいる俺は、ただの体が弱い中学生の体をした、元引きこもりの成人男性だ。機転とずる賢さと幸運値しか取り柄のない、どこにでもいるような男だ。

 

その俺が今、使徒に向かおうとしている。

 

「……本当に死んだら、終わりなんだよな」

 

誰にも聞こえない声で、俺は呟いた。

 

異世界では、アクアがいた。あのポンコツ女神でも、リザレクションを使えた。俺は何度か死にかけたし、一度は本当に死んだが、あの世界には「生き返る」という概念が存在した。

 

でも、ここは違う。

 

当たり前だ。この世界に蘇生魔法はない。神様に頼んで生き返らせてもらう仕組みもない。

 

ここで死んだら。

 

本当に、ただ——死ぬ。

 

(わかってた。わかってたけど)

 

実際にエントリープラグに乗って、LCLに浸かって、射出されてから改めてそれを認識すると、重さが全然違った。言葉として知っていることと、皮膚で感じることの間には、越えられない溝がある。

 

吐き気がした。LCLのせいか、恐怖のせいか、区別がつかなかった。

 

---

 

シャムシエルは、煙の中にいた。

 

市の北側。爆発の煙がまだ立ち込めている中から、それは現れた。

 

見た瞬間に、わかった。

 

前回のサキエルとは違う。あれは、転んだら偶然倒せた。でもこれは——なんとなく、そういう感じがしなかった。腹の部分から伸びている二本の光の帯が、ゆっくりと、しかし確実に動いていた。

 

試すように、一閃。

 

三十メートル先のビルが、音もなく両断された。

 

切断面が、一瞬光った。

 

(……本物だ)

 

俺は動けなかった。

 

ゲームや漫画で「強敵」と対峙するシーンは何度も見てきた。でも俺が今感じているのは、そういう「物語の文法」としての緊張感じゃなかった。もっと原始的な何かだった。

 

草原で獣に遭遇した時、人間の体に刻まれた「逃げろ」という命令。

 

後退しようとした。本能的に、初号機を下がらせようとした。

 

でも、背後に——校舎があった。

 

モニターの端に映る、灰色の建物。避難指示は出ているはずだが、全員が出られたかどうかはわからない。そしてトウジは。ケンスケは。

 

(逃げられない)

 

小さく、そう思った。

 

「クソッ」

 

声に出た。みっともない声が。

 

「クソッ、逃げられない」

 

---

 

「シンジくん、後退して! まだ作戦が——」

 

ミサトの声が来た。

 

後退。後退すれば、使徒は前に進む。前に進めば、校舎に向かう。校舎に向かえば——

 

「できません」

 

「え?」

 

「後退できません!」

 

「シンジくん! 今は——」

 

「後ろに学校があります!」

 

沈黙。

 

短い、一秒か二秒の沈黙だった。

 

「……シンジくん」

 

「わかってます」

 

何がわかっているのかは、自分でも整理できていなかった。正義感、ではない。そんな立派なものじゃない。俺がここで逃げれば、トウジたちが死ぬかもしれない。それは——俺のせいになる。

 

俺が殴られた相手が。

 

妹が入院しているあいつが。

 

俺の判断で、死ぬ。

 

「……それは嫌だ」

 

声が震えていた。

 

かっこいい覚悟じゃない。英雄の決意でもない。ただ「それだけは嫌だ」という、最後の一線だった。

 

俺は操縦桿を握り直した。

 

手が、震えていた。シンジの体の細い指が、白くなるほど握りしめられていた。

 

(行くのか、俺は)

 

行く。

 

行くしかない。

 

(こんなところで死ぬのか、俺は)

 

死にたくない。死にたくないが、逃げたら後悔する。後悔したまま、もし生き延びたとしても、それはそれで地獄だ。

 

どっちも嫌だ。全部嫌だ。

 

でも——

 

「初号機、前進します」

 

俺は言った。ミサトへの報告でもなく、自分への宣言だった。

 

---

 

シャムシエルが動いた。

 

光の鞭が来た。

 

初号機の左肩の装甲をかすめて、甲高い金属音がコックピットに響いた。シンクロ率を通じて、熱と衝撃が俺の肩に走った。

 

「っ——!!」

 

痛い。本当に痛い。これは本物の痛みだ。

 

装甲に焦げ跡が見えた。あと数センチずれていたら、腕ごと持っていかれていた。

 

(死ぬ)

 

思った。本当に死ぬかもしれない、と思った。

 

その瞬間——なぜか、頭に浮かんだのは仲間たちの顔だった。

 

めぐみんが、爆裂魔法を撃って自分でひっくり返っているところ。

 

ダクネスが、盾を構えて笑っているところ。

 

アクアが、役に立たない癖にでかい顔をしているところ。

 

あいつらがここにいたら、きっと笑った。カズマさんまたピンチじゃないですか、とアクアが言って、私がいれば安心ですよとめぐみんが根拠のない大口叩いて、ダクネスはきっと役に立たなくて、

 

うるさくて、めちゃくちゃで、でも——

 

誰もいなかった。

 

コックピットの中には、俺しかいなかった。LCLと、計器の光と、使徒の影と、俺だけだった。

 

(俺は、本当にここで死ぬのか)

 

光の鞭が、また来た。

 

今度は右側から。

 

俺は——動いた。

 

答えを出す前に、体が動いた。シンジの体が、あるいは初号機が、あるいは俺の何かが——とにかく動いた。

 

使徒の懐へ向かって。

 

光をかいくぐって。

 

「死にたくない」

 

声に出た。

 

「死にたくないけど、逃げたくもないんだよ、クソッ!!」

 

誰への言葉かもわからなかった。

 

ミサトさんへの言葉かもしれないし、仲間への言葉かもしれないし、自分自身への言葉かもしれなかった。

 

シャムシエルが、正面にいた。

 

コアが、光っていた。

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。