LCLが、鼻の奥まで満ちてきた。
前回もそうだった。でも前回は恐怖でパニックになりすぎて、この感覚をちゃんと認識する余裕がなかった。
今回は、違う。
嫌というほど、感じた。
生温かい液体が肺の中まで入り込んでくる感覚。溺れているのに溺れていない、という矛盾した状態。呼吸ができているのに、呼吸している気がしない。自分の輪郭が、少しずつ溶けて初号機に取り込まれていくような——そういう生理的な嫌悪感が、胃の底からじわじわと這い上がってきた。
(気持ち悪い)
俺は歯を食いしばった。
射出シークエンスが始まった。格納庫の壁が流れていく。外に出る。光が来る。
「初号機、発進します」
オペレーターの声が遠くに聞こえた。
ズドン、という衝撃。
視界が開けた瞬間、俺は——思っていたより、怖かった。
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廊下での覚悟なんて、ここでは何の役にも立たなかった。
「やってやる」と思った。本当に思った。鈴原たちが死んだら後悔する、それだけは嫌だと思った。だから乗った。でも、乗ってしまえば——
(俺はただの人間だ)
十五メートルの巨体に乗っていても、コックピットの中にいる俺は、ただの体が弱い中学生の体をした、元引きこもりの成人男性だ。機転とずる賢さと幸運値しか取り柄のない、どこにでもいるような男だ。
その俺が今、使徒に向かおうとしている。
「……本当に死んだら、終わりなんだよな」
誰にも聞こえない声で、俺は呟いた。
異世界では、アクアがいた。あのポンコツ女神でも、リザレクションを使えた。俺は何度か死にかけたし、一度は本当に死んだが、あの世界には「生き返る」という概念が存在した。
でも、ここは違う。
当たり前だ。この世界に蘇生魔法はない。神様に頼んで生き返らせてもらう仕組みもない。
ここで死んだら。
本当に、ただ——死ぬ。
(わかってた。わかってたけど)
実際にエントリープラグに乗って、LCLに浸かって、射出されてから改めてそれを認識すると、重さが全然違った。言葉として知っていることと、皮膚で感じることの間には、越えられない溝がある。
吐き気がした。LCLのせいか、恐怖のせいか、区別がつかなかった。
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シャムシエルは、煙の中にいた。
市の北側。爆発の煙がまだ立ち込めている中から、それは現れた。
見た瞬間に、わかった。
前回のサキエルとは違う。あれは、転んだら偶然倒せた。でもこれは——なんとなく、そういう感じがしなかった。腹の部分から伸びている二本の光の帯が、ゆっくりと、しかし確実に動いていた。
試すように、一閃。
三十メートル先のビルが、音もなく両断された。
切断面が、一瞬光った。
(……本物だ)
俺は動けなかった。
ゲームや漫画で「強敵」と対峙するシーンは何度も見てきた。でも俺が今感じているのは、そういう「物語の文法」としての緊張感じゃなかった。もっと原始的な何かだった。
草原で獣に遭遇した時、人間の体に刻まれた「逃げろ」という命令。
後退しようとした。本能的に、初号機を下がらせようとした。
でも、背後に——校舎があった。
モニターの端に映る、灰色の建物。避難指示は出ているはずだが、全員が出られたかどうかはわからない。そしてトウジは。ケンスケは。
(逃げられない)
小さく、そう思った。
「クソッ」
声に出た。みっともない声が。
「クソッ、逃げられない」
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「シンジくん、後退して! まだ作戦が——」
ミサトの声が来た。
後退。後退すれば、使徒は前に進む。前に進めば、校舎に向かう。校舎に向かえば——
「できません」
「え?」
「後退できません!」
「シンジくん! 今は——」
「後ろに学校があります!」
沈黙。
短い、一秒か二秒の沈黙だった。
「……シンジくん」
「わかってます」
何がわかっているのかは、自分でも整理できていなかった。正義感、ではない。そんな立派なものじゃない。俺がここで逃げれば、トウジたちが死ぬかもしれない。それは——俺のせいになる。
俺が殴られた相手が。
妹が入院しているあいつが。
俺の判断で、死ぬ。
「……それは嫌だ」
声が震えていた。
かっこいい覚悟じゃない。英雄の決意でもない。ただ「それだけは嫌だ」という、最後の一線だった。
俺は操縦桿を握り直した。
手が、震えていた。シンジの体の細い指が、白くなるほど握りしめられていた。
(行くのか、俺は)
行く。
行くしかない。
(こんなところで死ぬのか、俺は)
死にたくない。死にたくないが、逃げたら後悔する。後悔したまま、もし生き延びたとしても、それはそれで地獄だ。
どっちも嫌だ。全部嫌だ。
でも——
「初号機、前進します」
俺は言った。ミサトへの報告でもなく、自分への宣言だった。
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シャムシエルが動いた。
光の鞭が来た。
初号機の左肩の装甲をかすめて、甲高い金属音がコックピットに響いた。シンクロ率を通じて、熱と衝撃が俺の肩に走った。
「っ——!!」
痛い。本当に痛い。これは本物の痛みだ。
装甲に焦げ跡が見えた。あと数センチずれていたら、腕ごと持っていかれていた。
(死ぬ)
思った。本当に死ぬかもしれない、と思った。
その瞬間——なぜか、頭に浮かんだのは仲間たちの顔だった。
めぐみんが、爆裂魔法を撃って自分でひっくり返っているところ。
ダクネスが、盾を構えて笑っているところ。
アクアが、役に立たない癖にでかい顔をしているところ。
あいつらがここにいたら、きっと笑った。カズマさんまたピンチじゃないですか、とアクアが言って、私がいれば安心ですよとめぐみんが根拠のない大口叩いて、ダクネスはきっと役に立たなくて、
うるさくて、めちゃくちゃで、でも——
誰もいなかった。
コックピットの中には、俺しかいなかった。LCLと、計器の光と、使徒の影と、俺だけだった。
(俺は、本当にここで死ぬのか)
光の鞭が、また来た。
今度は右側から。
俺は——動いた。
答えを出す前に、体が動いた。シンジの体が、あるいは初号機が、あるいは俺の何かが——とにかく動いた。
使徒の懐へ向かって。
光をかいくぐって。
「死にたくない」
声に出た。
「死にたくないけど、逃げたくもないんだよ、クソッ!!」
誰への言葉かもわからなかった。
ミサトさんへの言葉かもしれないし、仲間への言葉かもしれないし、自分自身への言葉かもしれなかった。
シャムシエルが、正面にいた。
コアが、光っていた。