FAIRY TAIL ―継ぎ接ぎのS級魔導士― 作:七草空斗
「……うん、いいだろう。少し冷たいぞ」
定期健診に訪れた担当医が僕の胸へ聴診器の冷たい金属を当てる。静かに呼吸を繰り返す僕を、ミラはベッドの反対側から祈るように両手を合わせて見つめていた。
やがてトントンと胸を叩いていた医師の手が止まり、小さく「ふむ……」と息を漏らす。そのまま聴診器を外すと、横に控えていた看護師へ向き直った。
「おい、例の書類を至急持ってきてくれ。それから手続きの準備を」
「あ、はい!すぐに!」
指示を受けた看護師が慌ただしい足取りで病室を出ていく。その様子に釣られるようにミラの肩が僅かに強張り、僕の胸にも嫌な予感がよぎった。
まさか、まだ何か問題が残っているのだろうか。
「全く……。君の身体は一体どういう構造をしているんだかね」
医療器具を片付けながら、呆れたように肩をすくめる医師に思わず身体を起こしかける。
「先生。僕の身体、何か悪いところでもあったんですか……?」
隣でミラが息を呑む。
「悪いどころか、その逆だ。傷の治りがこちらの見立てよりずっと早い」
「……え?」
厳しい表情のまま医師が頭を掻いていると、先ほどの看護師が一通の書類を手に小走りで戻ってきた。医師はそれを受け取り僕たちの前へ掲げてみせる。
「外側の傷はほとんど塞がっている。もちろん中まで完全に治ったわけではないし、無茶を許可するつもりもない。だが、今の経過なら院内で寝かせ続けるより院外療養へ移しても問題ないだろう」
差し出された書類には、鮮明な判子とともに『退院許可証』の文字が並んでいた。
その意味を理解するまで僅かに間が空き、次の瞬間には僕とミラがほとんど同時に顔を見合わせる。
「もう一週間は退屈なベッド生活を覚悟してもらう予定だったのだがな。……おめでとう。明日、退院だ」
「良かったわね、ヴェル!」
ぱっと顔を輝かせたミラが僕の手を握る。
「あぁ、ありがとう。これも皆がすぐに僕をここまで運んで、治療を受けさせてくれたおかげだよ」
あれだけの負傷から十日余りで退院できるのだから喜ばない理由はない。けれど浮かれかけた僕を見透かしたように、医師は白衣の襟を正して「ただし」と声を低くした。
「まだ『完治』ではない。少なくとも一週間は安静にしてもらう。無茶をすれば塞がった傷もまた開くし、今度は治りが遅くなるかもしれん。分かったかね?」
「……はい。肝に銘じます」
あくまで病院の外で療養できるようになっただけで、元の生活へ戻っていいわけではないらしい。喜びを抑えながら頷くと医師もひとまず納得したように息を吐いた。
その後は退院に必要な手続きや傷の処置、定期観察のための通院について説明を受け、用意された書類へ一つずつサインを記入していく。すべてが終わる頃には思っていた以上の時間が経っており、医師と看護師が病室を後にした瞬間ようやく肩の力が抜けた。
「思ったより早い退院で助かったよ。ずっとベッドの上じゃ身体が訛っちゃうからね」
長い事務処理から解放され、ゆっくりとベッドの背もたれへ体重を預ける。
「ええ、本当に良かった。……それで、明日からは自宅に戻るの?」
いつもの柔らかな笑みを浮かべたミラが、ベッドの脇から僕の顔を覗き込んできた。
「うん、そのつもりだけど……どうして?」
退院できるのなら十日余り留守にしていた自宅へ戻る。当然そう考えていたのだが、ミラは人差し指を顎へ当て少し考えるように視線を上げた。
「……貴方の家って、本当に『何もない』じゃない?もし良かったら、身体がちゃんと動くようになるまでうちに来ない?」
「え?」
予想していなかった提案に自分の家の中を思い浮かべる。
一人で暮らすには十分すぎるほど広い一軒家。そのくせ中にあるものといえば最低限の着替えに換装用の魔導武器と少し大きめのベッドと金庫くらいで、食料はおろか応急処置に使えるような医療用品すらまともに置いていない。
普段ならそれで何も困らない。
仕事で家を空けていることの方が多いし、食事だって外で済ませればいい。けれど今の僕は、少し無茶をしただけで傷口が開くかもしれない身体だ。
そんな状態であのがらんとした家へ一人で戻る自分を想像してみる。
……うん。明らかに無理がある。
「確かに、今の僕じゃ家にいても餓死しちゃうかもね……。じゃあ、お言葉に甘えてしばらくミラの家に間借りさせてもらおうかな」
「それが良いわ!それじゃあ貴方が快適に過ごせるように、今から色々準備してくるわね!」
返事を聞くや否やミラは嬉しそうに立ち上がり、そのまま小走りで病室を出ていった。弾むような足取りに合わせて純白の後ろ髪が軽やかに揺れ、やがてパタンと扉が閉まる。
一気に静かになった病室に僕一人だけが残された。
少し開いた窓の隙間からはマグノリアの街の穏やかな喧騒が遠い潮騒のように流れ込み、先ほどまで誰かしらが傍にいたのが嘘のように、ゆっくりとした時間が戻ってくる。
夜間を除けば、目覚めてから初めて訪れた一人の時間だった。
何気なく窓の外へ向けていた視線が止まる。周囲が静かになったことで、ファントムとの抗争から今日まで意識の隅へ追いやられていた約束をようやく思い出した。
ガルナ島で出会った、一つ目の大柄な男――シモン。
ベッド脇の卓上カレンダーへ目を向ければ、あの時に指定した十日後という日はまさに今日だった。
互いにまともな話すらできないまま別れたものの、彼が求めていたのが何かを成すための『強い魔導士』だったことは覚えている。けれど病衣の隙間から覗く身体には今も大量の包帯が巻かれ、その下にはほんの数日前まで生死の境を彷徨う原因になった傷が残っていた。
これでは、彼が期待していたような役目を果たすのは無理だろう。
だからといって何も伝えず約束を反故にする気にもなれなかった。シモン自身にも、その背後にいるらしい人物にも訊きたいことは残っているし、少なくとも今の自分では協力できないという返事くらいは直接伝えておくべきだ。
今夜はそのために行く。
そう決めたところで、つい先ほど医師から言われたばかりの言葉が脳裏を掠めた。
――無茶はするな。
行き先は海を越えたガルナ島だ。戦わないとしても、この身体でそこまで飛ぶこと自体が安静とは程遠い。ミラに話せば間違いなく止められるだろうし、医師に知られても同じことを言われるに決まっている。
それでも、戦いに行くわけではない。
シモンと話をして、協力できないと伝えたらすぐに戻る。それだけなら大事にはならないだろう。
「……怒られるだろうな」
そんなことを考えている時点で、自分でも褒められた行動ではないと分かっているのだろう。
けれど一度そう決めてしまえば、あとは約束の時間を待つだけだった。
窓から差し込む光が昼の白さから黄金色へ、やがて燃えるような茜色へ変わっていく。その間にも病室の外からは人の行き交う足音や話し声が聞こえていたが、時間が進むにつれてそれも少しずつ疎らになっていった。
やがて太陽が地平線の向こうへ完全に姿を消す。
僕は包帯の上から脇腹を押さえ、できるだけ音を立てないようにベッドから足を下ろした。
窓枠へ手をかける。
背後に残した白い寝台を一度だけ振り返り、それから僕は夜の空へ身を滑らせた。
―――――――――――――――――――――――――
青白い月明かりがガルナ島の遺跡を照らし、崩れかけた石柱や風化した石畳の中央にはひとつ目の大男が身じろぎもせず佇んでいる。上空から静かに高度を落としていく僕の影が、月光を塗りつぶすように彼の足元へ深く伸びていった。
「ずいぶんと遅い到着だったな」
地上から低い声が響く。
「あまり無理ができない身体でね。でも、間に合っただろ?」
背中に展開していた
「……っ」
脇腹を焼けるような痛みが貫き、思わず膝が落ちかける。
着地の衝撃で包帯の奥がじわりと熱を持ち、病衣の下へ嫌な湿り気が広がっていく。飛んでいる間は風と魔力に意識を向けることでどうにか痛みを誤魔化せていたが、地面へ降りた途端、押さえ込んでいたものが一気に戻ってきたらしい。
つい昼間に医師から釘を刺されたばかりの「無茶をするな」という言葉が、今更になって脇腹の奥から直接突きつけられているようだった。
「ヴェルク・ヴァニシュ。その身体で来るべきではなかった」
それまで落ち着いていたシモンの声音に、僅かな動揺が混じった。
月明かりの下では、病衣の上からでも分かる大量の包帯も、そこへ滲み始めた血も隠しようがない。僕の状態を一通り確かめた一つ目が、最後に脇腹の辺りで止まった。
「これかい?……少しギルドで問題があってね。その時の負傷だよ」
胸元の病衣を少し広げ、全身に巻かれた包帯を見せる。軽口のつもりだったが、口から出た声は思っていた以上に掠れていた。
「そんな訳で、単刀直入に言おう。今の僕は負傷の身で、ほとんど戦力にはなれない。……すまないが、前に話した協力には応じられそうにない」
シモンが以前口にした『強い魔導士』という条件に、今の僕はどう考えても当てはまらない。わざわざここまで来たのも、今の状態では協力できないということだけは直接伝えておきたかったからだ。
シモンは僕の包帯へ視線を落としたまま、しばらく何も言わなかった。夜のガルナ島に波が岩肌を叩く音だけが続き、やがて諦めるような小さな吐息が漏れる。
「噂には聞いていたが、
僕の負傷を責めているわけではない。ただ、ここへ来るまで組み立てていたはずの予定が根本から崩れたことへの焦りだけは、その声音から隠しきれていなかった。
「僕を過大評価しすぎだよ。それに、質問を返させてもらうけど……そこまで君たちを焦らせている張本人は誰なんだ?一体、何が起きている」
僕の問いに、シモンはすぐには答えなかった。
苦渋を滲ませた顔を伏せ、何かを選ぶように沈黙を深める。岩肌を洗う静かな波音が幾たびか静寂を揺らした後、ようやく、重い口が開いた。
「――ジェラール。オレたちの、かつての仲間だ」
「ジェラール……」
聞き覚えのない名前だった。
「今、奴はある無人島に建てられた塔を支配している。オレたちは、それを『楽園の塔』と呼んでいる」
「楽園の塔……」
名前だけを聞けば随分と穏やかな場所を思わせる。それなのに、そう口にしたシモンの表情には懐かしさも救いもなく、むしろその名そのものを疎んでいるようにさえ見えた。
かつての仲間が支配する塔。そこまで聞いても、僕にはまだ彼らの間で何があったのかまでは分からない。
「それが、エルザと関係しているのか」
問い返すと、シモンの一つ目が僅かに揺れた。
「……深くな。だが、オレの口からすべてを語ることはできない。これは本来、エルザ自身の過去だ」
「なら、僕がここで聞き出していい話じゃないね」
エルザがギルドの誰にも。マスターにすら話していないことなら、本人のいない場所で僕が勝手に踏み込むべきではない。シモンから聞けるからという理由だけで、それを知っていいことにはならないだろう。
「僕に話すより、まずはエルザ本人に――」
「それができるなら、オレはお前に会いに来ていない」
低く返された言葉に口を閉じる。
シモンはエルザの過去を明かしたくないだけではなく、本人へ直接話を持ち込むことさえ避けなければならない理由が今も残っているらしい。
「……誤解しないでほしい。求めていたのはエルザの過去を聞いてもらうことじゃない」
シモンがゆっくりと顔を上げる。月光を受けた一つ目には迷いが残っていたが、続く言葉にはそれまでとは違う明確な覚悟があった。
「オレが必要としていたのはジェラールを止める力だ。……必要なら、奴を倒すための力だった」
「倒す?」
最後の一言を告げた後も、シモンは視線を逸らさなかった。勢いや怒りに任せて口にしたわけではないことくらい、その顔を見れば分かる。
だからこそ、こちらも曖昧に頷くわけにはいかなかった。
「待ってくれ。僕はそのジェラールという男を知らない。君の話だけで、会ったこともない相手を倒す約束はできない」
「分かっている。だが、奴はもうオレたちの知るジェラールではない。塔を支配し、オレたちを縛り、その場所に残った者たちの運命さえ握っている」
「……君たちでは止められないのか」
「止められるなら、とっくに止めていたさ」
返ってきた言葉に迷いはなかった。
シモンはそれ以上、自分たちが何をして、どう失敗してきたのかまでは語ろうとしない。それでも、外部の人間である僕へ助けを求めなければならないほど追い詰められていることだけは、その短い返答から十分に伝わってきた。
「近いうちに、ジェラールはエルザを塔へ呼び戻そうとしている」
「エルザを?」
それまで聞き覚えのなかったジェラールと楽園の塔という二つの名前に、そこで初めてよく知る人間の名が結びついた。
「ただの再会ではない。あいつはエルザに会いたいんじゃない。目的のために、エルザを利用するつもりだ」
利用する、という言葉が妙に重く耳へ残る。
「ジェラールは、エルザが何を捨てられないか知っている。力ずくでなくても、あいつはエルザを動かせる。だから危険なんだ」
シモンが何を指しているのかまでは分からない。ただ、エルザを正面から打ち負かして連れ去る必要すらないというのなら、僕一人の戦力がどうこうという話ではなかった。
あのエルザが、自分から危険な場所へ向かわざるを得ない何かをジェラールは持っている。それだけでも放置していい話ではない。
「……君の話が本当なら、なおさら今すぐギルドに戻ってマスターに伝えるべきだ。僕が戦えなくても、
「ダメだ!」
シモンの声が夜気を裂いた。
それまで抑え込まれていた声音が初めて大きく揺れ、崩れた石柱の間へ鋭く反響する。
「前にも言っただろう。これは公にできない内容なんだ。こちらが大きく動けば、ジェラールは即座に気づく」
「だからって、黙って見ていろって言うのか」
「そうじゃない。だからお前に話している」
シモンは歯を食いしばるように答え、そのまま言葉を続けた。
「だが、今すぐギルド全体を動かすのは駄目だ。塔にはまだオレたちの仲間がいる。奴に悟られれば、彼らがどうなるか分からない」
マスターに伝えれば、少なくとも僕一人で考えるより多くの手を打てる。そう思ったからこその提案だったが、塔に残された人間がいるとなれば話は単純ではない。
こちらが動いたこと自体を知られることで、最初に危険へ晒されるのは敵地に取り残されている彼らになる。
脇腹の奥に鈍い痛みが走り、無意識に包帯の上から手を当てた。自分一人ではまともに戦えず、かといって人数を増やせば済む話でもない。先ほどまで考えていた単純な解決策が、そこで一つ潰れた。
「それに――」
シモンが言葉を切る。
握り締められた拳に力が入り、白くなった指の関節がピクリと震えた。
「今エルザにこの話を伝えれば、あいつは間違いなく一人で塔へ向かう。ジェラールは、そこまで分かっている」
「……エルザが、一人で」
否定する言葉は出てこなかった。
自分の過去へ仲間を巻き込むくらいなら、自分一人で背負う。誰にも頼らず、誰にも弱さを見せないまま、自分だけで危険な場所へ向かう。普段は誰より仲間の無茶を止めるエルザ自身が、自分のことになった時にも同じように立ち止まれる人間かと問われれば、僕には素直に頷けなかった。
「何も知らない者が無理にエルザの過去へ踏み込めば、彼女自身を傷つけることにもなる」
シモンの警告に、すぐ返す言葉は出てこなかった。
ギルド全体を動かせないのなら、マスターにだけ秘密裏に伝えることはできる。けれど僕が持ち帰れるのは、ジェラールも楽園の塔も実際には知らないまま聞いた、シモン一人の話だけだ。
ましてその先には、エルザがこれまで誰にも語らずにきた過去がある。それを僕の判断だけで誰かへ預けることにも、このまま何も知らない顔で抱えておくことにも、素直には頷けなかった。
答えを出せないまま黙り込んだ僕へ、シモンが静かに口を開く。
「お前がその気になれば、今聞いた話をそのままギルドへ持ち帰ることもできる。お前がオレを信じる保証など、どこにもない」
月光を受けた一つ目が、真っ直ぐ僕へ向けられる。
「それでも賭けるしかなかった。あいつの――エルザの仲間であるお前なら、この話をただの戯言として捨てたりはしないと」
シモンの話をそのまま信じるには、まだ知らないことが多すぎる。
それでも、僕の負傷を知った時の落胆やエルザの名を口にする時に滲んだ迷いを見ていれば、少なくとも彼がこの状況を本気で危惧していることまでは疑わなかった。
「……それでも、今の僕にジェラールを止める約束はできない。倒すなんて、なおさらだ。僕は今、戦える状態じゃない」
シモンの視線が僕の身体へ巻かれた包帯へ落ちる。
着地した時に少し開いたのだろう。脇腹には先ほどよりはっきりと血が滲み、病衣の白をゆっくりと赤く染め始めていた。
「……そうだな」
しばらくその傷を見つめていたシモンは、やがて何かを諦めるように息を吐き、懐へ手を入れた。
取り出されたのは、小さな通信用ラクリマだった。
月明かりを受けた石の奥には淡く鈍い光が閉じ込められ、差し出された掌の上で静かに揺れている。
「なら、せめてこれを持っていてくれ」
「これは?」
「オレが持つものと対になっている。長くは繋がらないが、こちらからなら声を届けられる。もしこれが光った時は――ジェラールが動いた、その合図だと思ってくれ」
差し出されたラクリマを見つめる。
今の僕では協力できないと、わざわざここまで伝えに来たばかりだ。それなのにこれを受け取れば、状況が変わった時には力を貸すと約束するのと同じように受け取られかねない。
少なくとも、曖昧な期待だけを残して帰るつもりはなかった。
「これは、受け取れないよ。今の僕では君の期待には応えられない。持っているだけで希望を持たせるなら、それは無責任だ」
「期待じゃない」
シモンは間を置かずに答えた。
「保険だ」
その二文字だけは、妙にはっきりと響いた。
「お前に今すぐ戦えとは言わない。ジェラールを倒せとも言わない。だが、もし本当にエルザが塔へ引き戻される時が来たら……この話を知らなかったことにして目を背けないでほしい」
波が岩肌へ砕ける音が、二人の間へ静かに入り込む。
シモンは差し出した手を引かなかった。
「頼む。捨てずに持っていてくれ。……それだけでいい」
僕はその掌の上にあるラクリマを見つめた。
ジェラールを倒す約束はできない。シモンの話をすべて信じたわけでもない。それでも、エルザが狙われている可能性を知った以上、この情報そのものをなかったことにするつもりはなかった。
ただし、これを受け取るなら一つだけ決めておかなければならない。
「……これが光って、本当にジェラールが動いたと分かった時は」
そこで一度言葉を切り、シモンを見る。
「もう僕一人でこの話を抱えるつもりはない」
シモンの表情が僅かに動いた。
「今は君の話を預かる。でも、状況が変わってまで黙っている約束はできない。その時にどうするかまで、僕一人で決めるつもりもないよ」
しばらく僕を見ていたシモンは、やがて僅かに肩の力を抜いた。
「……ああ、それでいい。そこまで事態が動けばオレにもお前を止める理由はない」
その答えを聞いてようやく手を伸ばす。
夜気に晒されていたラクリマは掌へ収めると驚くほど冷たかった。
「預かるよ。協力の約束じゃなく、あくまで保険として」
シモンは一度だけ深く頷いた。
安堵と呼べるほど表情が緩んだわけではない。それでも、ここへ来てからずっと張り詰めていたものが僅かに解けたのか、強く寄せられていた眉間の皺がほんの少しだけ薄くなった。
「……すまない」
「謝るのは、僕の方だよ。今の僕では、君の望む答えは返せない」
「それでも構わない」
シモンは大きなコートを翻し、遺跡の闇へ歩き出す。
「ヴェルク。もしその石が光り、お前がオレの言葉を信じる時が来たなら――」
数歩進んだところで足を止める。
振り返ることなく、彼は告げた。
「――その時は、エルザを見捨てないでくれ」
そう言い残し、シモンの巨躯は月明かりの届かない遺跡の奥へと溶けていった。
その姿が完全に見えなくなってから、掌に残されたラクリマへ目を落とす。
その時は、もう自分一人の中だけで答えを出さない。つい先ほど自分で口にした言葉だった。けれど、それを胸の内でなぞった瞬間、今夜ここへ来た自分の行動が嫌でも思い返される。
戦いに行くわけではない。話をして帰るだけだから大丈夫だ。そう判断したのは僕一人で、結局は医師にもミラにも何も告げないまま病室を抜け出した。
「……帰ったら、ミラに謝らないとな」
自分でも呆れるような小さな声が、誰もいなくなった遺跡へ落ちる。
包帯の上から脇腹へ触れると、開いた傷はまだ鈍い熱を持っていた。これ以上ここに留まっていれば、謝るどころか本当に病室へ戻れなくなるかもしれない。
夜風を一度深く吸い込み、再び背中へ魔力を集中させる。
――『
光の翼が広がり、青白い月光の下で崩れた石畳を照らし出す。脇腹の奥で熱い痛みが小さく弾けた。
今度こそ無視せず、その痛みを身体の奥へ抱えたまま、僕はマグノリアへ向けて夜空を飛び立った。