ただの息抜きでやっていることなので、広い心でご覧ください。
細かい設定とかは何もないです。
◆(1)休暇とは何か ― 最高司令部高官
休暇を取った。
数年ぶりだった。正確には、最高司令部の人事部門が、休暇という制度がまだ私にも適用されることを思い出したらしい。
通知を受け取った私は、しばらく万年筆を置いたまま動かなかった。
「……休暇か」
口に出すと、聞き慣れない薬品名のようだった。
執務机の前には、副官が立っている。端末を閉じる手つきに、妙な確信があった。
「閣下。医務室からも強い勧告が出ています」
「私は病人ではない」
「病人になる一歩手前、という所見です」
「失礼だな」
「睡眠時間のほうが失礼です」
反論できなかった。
私は椅子の背に身を預けた。会議がない。決裁印を押さなくていい。政府、議会、企業、国防総省、各軍総司令部、そしてなぜか毎回私に意見を求めてくる各地の自治政府から、少なくとも数日は解放される。
人類はまだ希望を捨てていない。
「では、一人で行ってくる」
「いけません」
間髪を入れずに返ってきた。
「私用だぞ」
「存じております」
「公務ではない」
「だから危険です」
「なぜだ」
「公務なら護衛計画を組めます。経路封鎖、警備分担、緊急退避路の確保もできます。私用の場合、閣下は突然、知らない喫茶店に入ります。古本屋にも入ります。屋台で夕食を済ませようとする可能性もあります」
「旅行とはそういうものだ」
「閣下の旅行は、現地治安機関の危機管理試験になります」
そのとき、扉が開いた。
情報局長が入ってきた。階級は中将。穏やかな表情をしているが、その表情のまま表沙汰に出来ないような諜報網を三つほど潰しても違和感のない男である。
「休暇先が決まったと聞きました、閣下」
「誰から聞いた」
「偶然です」
私は副官を見た。副官は静かに視線を外した。
「情報局長。まさか君も付いてくるとか言わんだろうな」
「閣下、当然私も御同行いたします」
「なぜだ」
「閣下が私用で移動される場合、情報局としても最低限の状況把握が必要です」
「最低限とは」
「現地治安、交通網、宿泊施設、犯罪統計、食中毒履歴、爆発物処理班の到着平均時間、過去十年の殺人事件発生地点、探偵事務所の詳細、事件遭遇率の高い未成年者の行動範囲などです」
「最後の二つは何だ」
「休暇先が米花町ですので」
私は旅行案内を見た。
古い商店街。落ち着いた住宅地。気軽に立ち寄れる飲食店。個性的な住民たち。そして最後に、小さな文字でこうあった。
事件と人情が交差する町。
私はその一文を、見落としたことにした。
◆(2)今日も平和 ー 米花町住民
米花町の朝は早い。
七時二十分、遠くで爆発音がした。
「今日は三丁目かしら」
洗濯物を干していた主婦が、煙の方向を見て言った。
「昨日は二丁目だったものね」
隣の主婦が、洗濯ばさみを口にくわえたまま頷く。
「黒煙が細いわ。ガス爆発かしら」
「爆弾なら、もう少し派手だものね」
二人は驚かなかった。米花町では、爆発音は天気予報に近い。
晴れ、ときどき殺人。昼過ぎから立て籠もり。夕方にかけて、名探偵の眠気に注意。
駅前のコンビニでは、店員が棚におにぎりを並べていた。
「店長、今日は多めですか」
「多めだ。俺の勘が祭りか起きるって囁いているんだ」
「事件ですか」
「まだ分からん。だが、今日は朝一からビルが爆発するぐらいはあるかもな」
「ビルの爆発ぐらいなら確かにあるかもしれないですね」
「よし準備しろ!事件が起きれば売れるぞ!」
駅前の不動産屋には、こういう貼り紙まである。
《事故物件ではありません。事件後、清掃済み》
《探偵事務所から徒歩五分。解決が早く安心》
《爆発音に慣れている方歓迎》
《脱出路あります》
誰も冗談だとは思っていない。
そんな町に、その日、姿勢のよい三人組が降り立った。
疲れた顔でも背筋だけは崩れない壮年の男、端末を抱えて半歩後ろに控える無表情な随行者、そして穏やかに笑っているのに誰も近づきたがらない男。
通行人は一瞬だけ見て、すぐ目を逸らした。
米花町民は知っている。目立つ人間に関わると、だいたい事件に巻き込まれる。
◆(3)到着五分 ー 最高司令部高官
米花町駅に着いた。
私は軽く息を吸った。
「……悪くない町だな」
遠くのビルが爆発した。
訂正するには、早すぎる。
黒煙が上がる。ガラス片が光る。通行人は一瞬だけ見上げ、すぐ歩き出した。悲鳴はない。足を止める者もほとんどいない。
「副官」
「はい」
「今、ビルが爆発したな」
「爆発しました」
「住民が平然としている」
「平然としています」
「治安機関は何をやっている」
「出動中と思われます」
情報局長が端末に目を落とした。
「速報では原因不明の爆発。人的被害は軽微とのことです」
「なぜそんなに早い」
「この町では、速報のほうも慣れているのかと」
その横を、少年たちが爆発現場の方角へ走っていった。小学生に見える。その一人はスケボーに乗っていた。
速い。
速すぎる。
「副官」
「はい」
「あれは交通違反ではないのか」
「おそらく」
「おそらくではなく、確実にそうだろう」
「児童の移動速度に関する現地基準を確認します」
「確認しなくていい。今は休暇中だ、止めろ」
「承知しました」
休暇中の私は、管轄外の妙に犯罪発生率の高い町の交通行政に口を出す立場ではない。
いけないのだが。
「帰るか」
「まだ到着から五分です」
「五分で爆発が起きる町に、二泊三日も滞在する必要があるか」
「医務室からは、その日程で休養を取るようにと」
「医務室をこの町に連れてこい。考えが変わる」
◆(4)休暇防衛計画 ー 副官・情報局長
ホテルへ向かう車内で、副官は情報局長に声を落として報告した。
「中将、駅到着直後に爆発事案を確認。閣下の精神的負荷が上がっています」
情報局長は窓の外を見たまま答えた。
「大佐、まだ第一段階だ。閣下の前で警戒を見せるな。休暇だと思わせておけ」
「承知しました。ただ、現地治安は想定より不安定です」
「不安定ではない」
「では、何と」
「平常運転だ」
大佐はしばらく黙った。
「中将。平常運転で爆発する町は、軍事作戦区域です」
「その認識でよい。閣下には言うな」
「特殊部隊の投入準備は」
「近傍に待機済みだ」
「規模は」
「大隊規模」
大佐の眉がわずかに動いた。
「中将、それは休暇の同行体制ではありません」
「表向きは同行ではない。周辺地域における安全確保予備戦力だ」
「実質的には作戦展開です」
「閣下の休暇だ。戦略級案件と見ていい」
「まさかエコーズも…」
「分遣隊を入れた」
「エコーズまでですか」
情報局長は、大佐を横目で見た。
「米花町だぞ、大佐」
大佐はそれ以上、言わなかった。
中将は淡々と続ける。
「特殊部隊大隊、特殊急襲制圧部隊、エコーズ分遣隊、電子戦班、狙撃班、爆発物処理班、医療班、装甲車両。軌道上の監視衛星も一基回している」
「中将、それは休暇の同行体制ではありません」
「繰り返すな。私も分かっている」
「閣下の安全が最優先です」
「そうだ。数年ぶりの休暇だ。ここで閣下が諦めれば、医務室が騒ぐ。最高司令部の局長や部長連中も騒ぐ。最高司令部の書類処理速度は戻るだろうが、閣下の寿命が削れる」
「そのためには」
「米花町を静かにする」
「方法は」
情報局長は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「犯罪者を片っ端から処理する」
「逮捕ですね」
「原則としては」
「原則として、ですね」
「閣下に危害が及ぶなら、原則は後退する」
車の窓の外で、いかにも怪しい男が、いかにも怪しい鞄を抱え、いかにも怪しい路地へ消えた。
情報局長が通信機に触れる。
「三班、対象を確認。静かに捕まえろ。閣下の視界には入れるな」
数秒後、路地の奥で鈍い音がした。
大佐は表情を変えない。
「中将」
「何だ」
「静かでしたね」
「エコーズだ。優秀だろう」
◆(5)偉い人たちが青ざめる ー 極東行政府
極東行政府の危機管理会議室は、朝から空気が悪かった。
円卓には、極東行政府高官、極東治安機構長官、警視総監、外務担当官、治安担当補佐官が並んでいる。肩書だけなら立派な面々だが、今は誰も偉そうにしていなかった。
米花町に、連邦軍最高司令部の最高幹部が私用で滞在している。
そこまでは、まだ受け止めようがあった。問題は、その到着から五分でビルが爆発したことだった。
極東行政府高官は、震える手で資料をめくった。
「なぜだ」
誰も答えない。
「なぜ、よりにもよって米花町に来る」
外務担当官が、申し訳なさそうに言った。
「観光案内では、落ち着いた住宅地と紹介されています」
極東治安機構長官が机を叩いた。
「落ち着いた住宅地は、朝から爆発しない!」
警視総監が額の汗を拭う。
「ただ、米花町では比較的――」
「比較的という言葉を使うな!」
高官の声が裏返った。
「比較対象が米花町になった時点で、行政文書として終わっている!」
通信担当官が端末を確認し、さらに顔を白くした。
「連邦側から追加連絡です。当該高官の身辺に危険が及んだ場合、連邦側はあらゆる措置を講じる用意がある、と」
「あらゆる措置……」
警視総監が受話器を見つめた。
治安機構長官が低い声で聞く。
「付近に部隊は」
「未確認ですが、連邦軍特殊部隊が展開している可能性があります。規模は……大隊規模との情報が」
会議室の温度が下がった。
「大隊?」
「はい」
「休暇で?」
通信担当官は答えなかった。答える必要がなかった。
治安機構長官が資料を一枚、さらに差し出した。
「特殊部隊らしき活動兆候もあります」
警視総監は両手で顔を覆った。
「米花町に軍の特殊部隊……」
誰かが小声で言った。
「もう、米花町を戒厳令にしたほうが早いのでは」
「できるか!」
極東行政府高官が椅子から身を乗り出した。
「私用で休暇に来た高官を迎えるために戒厳令など敷いたら、歴史の教科書に載る!」
「では、どうしますか」
「治安を改善しろ」
「米花町のですか」
「米花町のだ!」
警視総監はしばらく受話器を見つめ、諦めた顔で取った。
「捜査一課につなげ。目暮警部だ」
数秒後、回線がつながる。
「目暮君か」
『はい、目暮です』
「米花町の治安を改善しろ」
『は?』
「あらゆる障害を排除してでもだ」
『障害とは』
「犯罪者、爆発物、立て籠もり犯、毒物、怪盗便乗犯、怪しい黒服、怪しい白服、怪しい老人、怪しい犬、怪しい壺、その他すべてだ!」
『子供もですか』
「いや、眼鏡の少年は除外しろ。その子は必要だ」
『総監?』
「今日だけでいい。米花町を、普通の町に見せろ」
『普通の町とは』
警視総監は目を閉じた。
「人が死なず、爆発せず、サッカーボールが人間を制圧しない町だ」
電話の向こうで、目暮警部が沈黙した。
『……努力します』
「努力では足りん。結果を出せ。極東行政府も、治安機構も、外務も、全員が胃薬を飲んでいる」
通信が切れた。
会議室には、紙をめくる音だけが残った。
極東行政府高官は、旅行案内の「落ち着いた住宅地」という一文に赤線を引いた。
◆(6)目暮警部、胃が痛い ー 警視庁
警視庁捜査一課。
目暮警部は、受話器を置いたまま動かなかった。
高木刑事が恐る恐る近づく。
「警部?」
目暮警部は帽子を押さえた。
「高木君。米花町の治安を改善しろとの命令が来た」
「いつまでにですか」
「今日中だ」
高木刑事は一瞬、真顔になった。
「今日中に米花町をですか」
「そうだ」
「警部、それは……」
「言うな。私も分かっている」
その直後、別の刑事が駆け込んできた。
「警部! 米花町駅近くで爆発です!」
「知っている!」
「ホテルで宿泊客が倒れました!」
「早い!」
「商店街で強盗準備中の男を確認!」
「準備中なら止めろ!」
「喫茶店で毒物混入の疑い!」
「混ぜる前に押さえろ!」
「公園で誘拐未遂の未遂!」
「未遂の未遂とは何だ!」
佐藤刑事が資料を持ってきた。赤丸だらけだった。
爆発未遂、強盗準備、毒物購入、保険金殺人計画、誘拐未遂、怪盗予告の便乗犯。端のほうに、痴情のもつれまで書き込まれている。
目暮警部は資料を見て、しばらく黙った。
「全部止めるぞ」
高木刑事が青ざめた。
「全部ですか?」
「全部だ。今日だけは、米花町を普通の町に見せる」
「普通の町とは」
「人が毎日死なない町だ!」
刑事たちが一斉に動き出した。
それでも、目暮警部には分かっていた。警察だけでは足りない。
彼はもう一度、受話器を取った。
「毛利君を呼べ。いや、眠ってもらう必要はない。近くにいてくれればいい。それから、コナン君にも連絡を」
高木刑事が小さく言った。
「伝家の宝刀を使うんですね」
目暮警部は、疲れた顔で返した。
「米花町存亡の危機だからな」
高木刑事は黙って頷いた。
◆(7)米花町治安改善作戦 ー コナン達
「つまり、今日は事件を起こさせちゃいけないってこと?」
江戸川コナンは、目暮警部の説明を聞き終えると、半眼になった。
目暮警部は真剣だった。
「そうだ、コナン君。町のどこかに、とても偉い高官がいる。もし巻き込まれたら大変なことになる」
「大変なことって?」
「聞かないでくれ」
「聞かないほうが怖いよ」
横で毛利小五郎が腕を組んでいた。
「ふん。米花町の治安改善? そんなもん、警察の仕事だろうが」
その十秒後、路地裏から男が飛び出してきた。
「すみません! 金庫破りの道具を持ってます!」
「まだ何も聞いてねえぞ!」
小五郎が叫んだ。
男は泣いていた。
「急に黒い服の人たちが路地に現れて、静かにこっちを見るんです! 怖くて!」
コナンの目つきが変わる。
「黒い服……?」
一瞬、別の組織が頭をよぎった。だが、今回の黒い服は違う。動きが軍人だった。怖さの種類が違った。
少年探偵団も駆け込んでくる。
「コナン君! 駅前で怪しい人見つけたよ!」
「商店街で変な箱を持ってる人がいた!」
「歩美、毒を買ってるおじさん見た!」
「みんな、一回落ち着こうか」
コナンは額を押さえた。
この町では、子供たちの情報網が警察無線より速いことがある。
「よし。今日は先回りする」
「全部?」
光彦が驚いた。
「全部って、米花町の事件を全部ですか?」
「今日だけね」
元太が拳を握る。
「よーし! うな重のために頑張るぞ!」
「治安のために頑張って」
少し離れた場所で、灰原哀が建物の屋上を見ていた。
「ねえ、工藤君」
「何?」
「あの屋上に三人。狙撃姿勢ではないけど、警戒配置。路地の奥と停車中の車にもいるわ」
コナンは振り返らず、目だけを動かした。
確かにいる。
町が、いつもと違う意味で包囲されていた。
「……本当に何者が来てるんだよ」
灰原は肩をすくめた。
「少なくとも、今日の米花町は犯罪者に向いていないわね」
「いつも向いててたまるか」
その日、コナンたちは走った。スケボーで走り、探偵バッジで連絡し、サッカーボールを蹴り、麻酔針はできるだけ温存した。眠らせる相手が多すぎたからである。
「三丁目で強盗未遂!」
「高木刑事に連絡!」
「駅前で誘拐未遂!」
「そっちは佐藤刑事!」
「喫茶店で毒殺未遂!」
「蘭姉ちゃんがいる店じゃないよね!?」
「違う!」
「じゃあ後!」
「後でいいの!?」
よくはない。
優先順位をつけなければ、小学生でも過労になる。
◆(8)ホテルも安全ではない ー 最高司令部高官
ホテルに到着した。
私はフロントで宿泊手続きをしていた。ようやく落ち着ける。そう思ったところで、上階から悲鳴が響いた。
「きゃあああああああ!」
ペン先が止まった。
「副官」
「はい」
「今のは悲鳴ではないか」
「悲鳴です」
「何が起こっている」
「上階で宿泊客が倒れているようです」
「体調不良か」
「男性が心肺停止です。首筋に不審な痕跡、室内に飲み残しのグラス。同伴者三名が互いに疑い合っています」
「なぜ分かる」
「廊下から聞こえます」
私は天井を見た。
「治安機関は」
「もう到着します」
本当に到着した。警察が速い。異常に速い。
そして警察とほぼ同時に、眼鏡の少年が入ってきた。
私は言葉を失った。
「副官」
「はい」
「子供が殺人現場に入って行ったぞ」
「入りました」
「なぜ誰も止めない」
「米花町では、捜査の一部なのかもしれません」
「捜査とは」
少年は現場の近くで「あれれー?」と言った。その瞬間、大人たちの顔つきが変わる。犯人らしき人物の額に汗が浮かんだ。
この町では、「あれれー?」が尋問開始の合図らしい。
十分後、犯人は泣きながら崩れ落ちた。
裁判どころか、取調室にも行っていない。自白までの速度が、軍法会議の尋問より遥かに速い。
「副官。ホテルを変える」
「候補は三つあります」
「安全な順に」
「第一候補は昨年、爆破未遂一件、毒物混入一件、幽霊騒動一件です」
「第二候補」
「連続窃盗、密室殺人、芸能人トラブル」
「第三候補」
「比較的安全です」
「そこだ」
「ただし、怪盗から予告が出ています」
私は目を閉じた。
「最高司令部に戻りたい」
「まだ休暇初日です」
「休暇初日に殺人事件のホテルで宿泊手続きをした者の気持ちを考えてくれ」
◆(9) 胃薬が足りない 極東行政府
極東行政府の危機管理会議室では、第二報が読み上げられていた。
「当該高官、宿泊予定ホテルに到着直後、殺人事件に遭遇」
極東行政府高官は両手で顔を覆った。
「なぜだ」
治安機構長官が言う。
「米花町ですので」
「それを説明として使うな!」
警視総監は受話器を握ったまま固まっている。
外務担当官が、さらに紙を差し出した。
「連邦側の副官と思われる人物から、現地警察の対応について問い合わせが入っています」
「対応について問題があったのか!?」
「なぜ児童が現場に入っているのか、という確認です」
会議室が凍った。
警視総監が小さく言う。
「それは……いつものことだ」
「そんな説明を最高司令部の最高幹部にできるか!」
極東行政府高官は机を叩いた。
「いいか。現地警察に伝えろ。あらゆる障害を排除してでも、米花町の治安を改善しろ」
治安機構長官が手帳を開く。
「障害の定義は」
「犯人だ!」
「犯人以外は」
「犯人になりそうな者もだ!」
「犯人になりそうな者とは」
「米花町を歩いている者の中から、目暮警部に判断させろ!」
「ほぼ全員では」
「だから困っているんだ!」
警視総監が、再び目暮警部に電話をかけた。
「目暮君。ホテル事件は解決したか」
『はい。コナン君が――』
「その先は言うな。公式記録に残せない」
『はい』
「次だ。次を止めろ」
『次とは』
「分からん。だが、米花町なら次がある」
『否定できません』
「否定してくれ、目暮君」
『できません』
警視総監は受話器を握ったまま、天井を仰いだ。
机の端では、誰かが胃薬の瓶を開けていた。
◆(10)閣下防衛線、拡大 ー 副官・情報局長
ホテルの廊下で、副官は情報局長に報告していた。
「中将、閣下の帰投意思が上昇しています」
「早すぎる」
「駅前爆発、ホテル殺人、現場への児童侵入。通常の休暇環境ではありません」
「それはこちらも把握している」
「作戦目的を変更すべきでは」
「どう変更する」
「閣下を即時帰投させます」
中将は首を横に振った。
「駄目だ。閣下は休まなければならない」
「しかし、この町では休めません」
「だから町を休ませる」
「町を、ですか」
「米花町そのものを一時的に鎮静化する」
大佐は言葉を選んだ。
「中将。それは行政権の侵害では」
「我々は何もしていない。情報提供と身辺警戒だ」
廊下の奥で、特殊部隊員が不審者を二名、音もなく拘束していた。
大佐は見なかったことにした。
「中将、今のは」
「身辺警戒だ」
「範囲が広いように見えます」
「閣下が歩く可能性のある場所は、すべて身辺だ」
大佐は一拍置いて頷いた。
「理解しました。では、米花町全域が身辺です」
「その通りだ、大佐」
二人は何かを間違えていた。
ただ、その間違いを訂正する者は近くにいなかった。
◆(11)治安がよすぎて不安 ー 米花町住民
午後になると、米花町民は異変に気づき始めた。
「ねえ、今日、まだ人が死んでなくない?」
「午前中に一人倒れたけど、すぐ解決したわよ」
「じゃあ実質ゼロね」
「怖いわね」
「怖いわ」
平和は、人を不安にさせることがある。米花町では特にそうだった。
商店街の八百屋が、隣の魚屋に言う。
「今日は警察が多いな」
「多いどころじゃない。さっき万引き犯が商品を取る前に捕まってたぞ」
「未然防止か」
「米花町で未然防止なんて初めて見た」
「縁起が悪いな」
「分かる」
喫茶店では、毒を盛ろうとしていた男が、そっと小瓶をしまった。店の外に黒服の男が立っていたからである。
目が合った瞬間、黒服は小さく首を横に振った。
男は悟った。
今日はやめておこう。
米花町では珍しく、犯罪者に自制心が芽生えた日だった。
◆(12)検挙件数が伸びすぎる ー 警視庁
「警部! 三丁目の強盗団、全員確保です!」
「警部! 駅前の誘拐未遂、未遂の未遂で確保です!」
「警部! 毒物混入予定者、自首しました!」
「警部! 保険金殺人を計画していた夫婦が、夫婦喧嘩の途中で揃って出頭しました!」
目暮警部は、机に積まれていく報告書を見ていた。
「なぜ今日だけ、こんなに解決するんだ」
高木刑事が言う。
「いいことでは?」
「いいことだ。いいことなんだが、普段の我々が何をしているのかという話になる」
佐藤刑事が横から資料を差し出した。
「犯罪者側が怯えているようです。路地裏で黒服の人影を見たという証言が複数」
目暮警部の顔が引きつった。
「それは、例の組織ではないだろうな」
「どの例ですか」
米花町には、例が多すぎた。
電話が鳴る。相手は警視総監だった。
『目暮君。現時点で、高官の身辺に直接的危険は確認されていないな』
「はい。直接的には」
『直接的には、とは何だ』
「ホテル内で殺人事件が発生しましたが、解決済みです」
『それを直接的ではないと言える米花町の基準を、私は今日ほど憎んだことはない』
「申し訳ありません」
『いいか。さらなる治安改善努力に期待する』
「努力します」
『努力では足りん。あらゆる障害を排除しろ。犯人、犯人になりそうな者、爆発しそうな物、毒が入りそうなグラス、怪しい紐、怪しい氷、怪しい置物、怪しい壺だ』
「壺もですか」
『米花町なら壺も怪しい』
「承知しました」
電話が切れた。
目暮警部は受話器を置き、部下たちを見た。
「今日中に、米花町を安全な町にするぞ」
高木刑事が小さく聞く。
「一日でですか」
「一日でだ」
「できるんですか」
目暮警部は窓の外を見た。
「できるかではない。やらなければ、何かが来る」
「何かって何ですか」
「分からん。だが、米花町がいつもとは別の理由で更地になる気がする」
誰も笑わなかった。
刑事たちは、再び走り出した。
◆(13)犯罪者の渋滞 ー コナン達
「コナン君、こっち!」
歩美が手を振っていた。
路地裏に怪しい男が三人いる。一人はバール、一人はロープ、一人は睡眠薬。用途が分かりやすい。
「今日はやめといたほうがいいよ」
コナンが言った。
三人組は顔を見合わせる。
「な、何だこの子供」
「子供に忠告されてるぞ」
「米花町ではよくあることだ」
逃げようとした瞬間、サッカーボールが飛んできた。
バールが弾け飛び、ロープが絡まり、睡眠薬の瓶が持ち主の口元で砕けた。
「ごめん、ちょっと強かった」
ちょっとではなかった。
光彦が探偵バッジに叫ぶ。
「コナン君、次です! 駅前で爆弾らしき鞄!」
「分かった!」
元太が倒れた三人を見下ろす。
「こっちの犯人は?」
「高木刑事に任せる!」
灰原が淡々と言った。
「工藤君、あなた今日、警察犬より忙しいわね」
「比較対象がひどい」
「でも、犯人の匂いは分かるでしょう?」
「分からないよ」
「米花町に長くいると、分かるようになるわ」
「なりたくない」
別の現場では、毛利小五郎が既に苛立っていた。
「おい、コナン! 今日はやけに事件が多くねえか!」
「いつもだよ、おじさん!」
「いつもより多いだろ!」
「今日は減らしてこれなんだよ!」
「どういう町だ!」
コナンは答えなかった。
答えられる者は、たぶん米花町にもいない。
◆(14)レストラン立て籠もり ー 最高司令部高官
夕食を取ることにした。
私はもう多くを望んでいなかった。静かな店、温かい食事、爆発しない天井、毒の入っていない水、銃を持った男が入ってこない入口。
人間の望みは、環境によってここまで下がる。
「副官。この店は安全か」
「現時点では、事件発生情報はありません」
「現時点では、という言葉が気になる」
副官は答えなかった。
店は落ち着いた内装で、客も少ない。私は席につき、メニューを開いた。
三十秒後、厨房から男が飛び出してきた。
「全員動くな! 金を出せ!」
私はメニューを閉じた。
もう驚かなかった。驚く体力がない。
「副官」
「はい」
「この町の飲食店は、注文前に事件が起きる規則でもあるのか」
「確認します」
「確認しなくていい」
犯人が銃を振り回した。
「警察を呼ぶな! 妙な真似をしたら――」
その瞬間、窓の外を少年がスケボーで通過した。
速い。
犯人がそちらを見た直後、サッカーボールが店内へ飛び込んできた。ドアを抜け、壁に跳ね、テーブルの脚をかすめ、拳銃だけを弾き飛ばす。
弾道がおかしい。
物理法則が、少年に気を遣っている。
もう一人の犯人が叫んだ。
「何だ今のは!」
その問いは正しい。私も聞きたい。
だが答えは来ない。代わりに警察が来た。
「確保!」
「動くな!」
「また君かね、コナン君!」
「えへへ、偶然です」
偶然という単語の信用度が、この町では低すぎる。
私は椅子に座ったまま、遠い目をした。
「副官」
「はい」
「私は何を見ている」
「米花町です」
「米花町とは何だ」
副官が珍しく黙った。
情報局長が、代わりに言う。
「閣下。分類不能です」
私は頷いた。今日初めて、情報局長の報告に全面的に同意した。
◆(15)もう何も分からない ー 極東行政府
危機管理会議室に第三報が届いた。
「当該高官、飲食店にて強盗立て籠もり事件に遭遇」
極東行政府高官は、資料を見たまま固まった。
治安機構長官が読み上げる。
「なお、事件は未成年者の蹴ったサッカーボールにより制圧されたとのことです」
会議室では、誰も笑わなかった。笑いたいのに、笑えない。
警視総監が呻く。
「またサッカーボールか」
外務担当官が震える声で聞いた。
「連邦側に、どう説明しますか」
「スポーツ振興の成果とでも言うのか?」
「通りますか」
「通るわけがないだろう!」
極東行政府高官は立ち上がった。
「もう駄目だ。米花町の治安を改善しろなどという段階ではない」
「では」
「犯罪の芽を抜け。怪しい目つき、怪しい荷物、怪しい遺産相続、怪しい同窓会、怪しい招待状、怪しい洋館、怪しい船旅、怪しい雪山、全部だ!」
治安機構長官が真顔で資料に書き込む。
「怪しい洋館も対象」
「書くな。だが対象だ!」
警視総監が、三度目の電話を取った。
「目暮君。飲食店の件は」
『解決済みです』
「高官は」
『ご無事です。ただ、かなりお疲れのようで』
「当然だ!」
警視総監の声が会議室に響いた。
「私も疲れている! 極東行政府高官も疲れている! 治安機構長官はさっきから胃薬をラムネのように食べている!」
『総監、落ち着いてください』
「落ち着けるか! 米花町に連邦軍最高司令部の最高幹部が来てから、爆発、殺人、立て籠もりだぞ!」
『米花町としては、比較的――』
「比較的を禁句にする!」
通信が切れた。
警視総監は息を荒げていた。極東行政府高官は窓の外を見ながら、ぼそりと言う。
「もう、あの高官には一刻も早く帰っていただこう」
「休暇では?」
「こちらの寿命が縮む」
その瞬間だけ、会議室の意見は完全に一致した。
◆(16)限界判断 ー 副官・情報局長
レストラン事件の後、大佐は中将に静かに具申した。
「中将、閣下の精神的疲労が危険域です」
「分かっている」
「夕食前に三度、遠い目をされました。さらに先ほど、『最高司令部の書類のほうが静かだ』と」
中将の表情が変わった。
「それは重症だ」
「はい」
「大佐、休暇継続は困難か」
「困難と判断します」
「医務室には私から説明する」
「ありがとうございます」
「ただし、撤収前に退路上の脅威を消す。閣下の視界に事件を残すな」
「承知しました。警視庁には?」
「既に圧力……いや、協力要請をしている」
「中将、今、圧力とおっしゃいましたか」
「聞き間違いだ、大佐」
「失礼しました」
「特殊急襲制圧部隊には、発砲を禁じろ」
「既に禁じています」
「爆破もだ」
「禁じています」
「エコーズは」
「非致死、非露見、非破壊を徹底しています」
「よろしい。装甲車両は」
「閣下の視界外です」
中将は端末を閉じた。
「大佐。この町は戦場ではない」
「はい」
「だが、戦場より疲れる」
大佐は短く頷いた。
「同感です」
◆(17)平和すぎる一日 ー 米花町住民
夕方になると、奇妙な噂が流れた。
「今日は犯罪をしないほうがいいらしい」
「誰が言ってたの?」
「知らない黒服」
「じゃあ本当ね」
米花町民は、黒服の警告に慣れている。慣れてはいけないのだが、慣れている。
商店街では、ひったくり犯が自転車に乗る前に自首した。駅前では、詐欺師が電話をかける前にスマホを捨てた。公園では、痴話喧嘩が始まりそうになったカップルが、通りすがりの小学生に見られて和解した。
町内会長は感動していた。
「こんなに平和な米花町は初めてだ」
副会長が頷く。
「記念碑を建てますか」
「何の」
「人があまり死ななかった日」
「やめなさい。不吉だ」
夕焼けの下、パトカーが行き交い、警察官が走り、黒服が路地から路地へ消えていく。
米花町は平和だった。
米花町基準では。
◆(18)勝ったのか負けたのか ー 警視庁
目暮警部は、椅子に沈み込んでいた。
「本日の米花町内、重大事件発生件数は?」
高木刑事が資料をめくる。
「発生しかけた件数は非常に多いですが、解決済み、または未遂で阻止したものが大半です」
「つまり?」
「比較的平和でした」
目暮警部は目を閉じた。
「比較的、か」
「米花町基準では」
「その基準を全国に広げるな」
佐藤刑事が言った。
「例の高官は、今夜中に町を離れるようです」
目暮警部は息を吐いた。
「そうか……よかった」
「よかったんでしょうか」
「よかったんだ。米花町が別の意味で有名にならずに済んだ」
高木刑事が窓の外を見る。
「でも、今日だけでずいぶん犯罪者を捕まえましたね」
目暮警部は机の上の書類を見た。
「普段からこれができればな」
誰も何も言わなかった。
できるなら苦労はしない。
◆(19)謎の高官 ー コナン達
駅前。
コナンは少し離れた場所から、三人組を見ていた。
疲れ切った顔の壮年の男、端末を抱える無表情な随行者、穏やかそうに笑っている男。
中央の男は疲れ切った顔をしている。だが、立ち姿には妙な重みがあった。ただ者ではない。
「ねえ、コナン君」
歩美が尋ねる。
「あの人が、偉い人?」
「たぶんね」
光彦が眼鏡を押し上げる。
「大人なのに、すごく疲れた顔をしています」
元太が頷く。
「事件に巻き込まれたからだろ」
灰原が小さく言った。
「この町に一日いれば、誰でもああなるわ」
コナンは苦笑した。
「否定できないな」
そのとき、中央の男がこちらを見た。コナンと目が合う。
男は、何か言いたそうだった。
児童の安全管理。事件現場への立ち入り。サッカーボールの威力。警察より先に子供がいる理由。おそらく、聞きたいことは山ほどある。
だが、男は何も言わなかった。
ただ、小さく頭を下げた。
コナンも手を振った。
「ばいばーい!」
男の顔が、さらに疲れたように見えた。
◆(12)帰投 ー 最高司令部高官
駅に着いた。
遠くでパトカーのサイレンが鳴っている。別の方向では、警察官が犯人らしき男を連行していた。その横を、例の少年がスケボーで走り抜けていく。
歩道を。
高速で。
歩道を。
私はもう指摘しなかった。
副官が尋ねる。
「閣下、本当にお帰りになりますか」
「帰る」
「明日は観光施設の予定が」
「帰る」
「温泉も」
「帰る」
「医務室には」
「米花町に来させろ。私の判断を理解する」
情報局長が穏やかに言った。
「閣下、帰投後は少なくとも半日の休養を」
「最高司令部で休む」
「執務室で書類を読むことは休養ではありません」
「米花町よりは休養だ」
二人は反論しなかった。
列車が入ってくる。私は乗り込む前に、もう一度だけ町を見た。
旅行案内には、事件と人情が交差する町、とあった。
正確には違う。
事件が渋滞し、人情がそれを交通整理している町だ。
「もう帰るか……」
◆(21)嵐は去った ー 極東行政府
極東行政府危機管理会議室。
通信担当官が、最後の報告を読み上げた。
「当該高官、米花町を離脱」
その瞬間、会議室にいた全員が息を吐いた。
極東行政府高官は椅子に沈み込む。
「助かった……」
治安機構長官は、空になった胃薬の瓶を見つめていた。
「本当に助かったのでしょうか」
「少なくとも、今日は助かった」
警視総監が資料を閉じる。
「本日の検挙件数は過去最高です」
「それは成果なのか」
「分かりません」
「治安は改善したのか」
「一時的には」
「一時的に?」
警視総監は窓の外を見た。
「高官が帰った以上、明日から通常の米花町に戻るかと」
通常の米花町。
爆発し、事件が起き、探偵が現れ、少年がボールを蹴る町。
極東行政府高官は、しばらく黙ってから言った。
「今日の件は、公式記録には何と書く」
外務担当官が、用意していた文案を読み上げる。
「連邦軍高官の私的滞在に伴う、現地治安確認および関係機関連携訓練」
「訓練だったのか」
「訓練ということにします」
「よろしい」
治安機構長官が、最後に尋ねた。
「米花町については、今後、要注意地域として扱いますか」
警視総監は首を横に振った。
「要注意地域にしたら、地図が真っ赤になる」
「では」
「現状維持だ」
「いいのですか」
警視総監は、疲れた顔で答えた。
「米花町は、今日も米花町だった。それで済ませよう」
極東行政府高官は、赤線だらけになった旅行案内を閉じた。
「行政とは、時に諦める勇気も必要なのだな」
誰も反論しなかった。
◆(22)平和な職場 ー 最高司令部高官
数時間後。
最高司令部の執務室に戻ると、机の上には未決裁書類が積まれていた。
予算案、人事案、艦隊再編案、議会答弁案、財団からの要望書、アナハイムからの厄介な資料。参謀本部からの検討書は、表紙を見ただけで頭痛がする。
いつもの光景だった。
私は椅子に座り、深く息を吐いた。
「……平和だな」
副官が横に立つ。
「閣下。通常、その量の未決裁書類を平和とは呼びません」
「爆発しない」
「はい」
「人も死なない」
「基本的には」
「拳銃を持った男も出ない」
「出ません」
「サッカーボールも飛んでこない」
「飛んできません」
「なら平和だ」
副官は黙った。
情報局長が静かに頷く。
「閣下のおっしゃる通りです。米花町との比較において、最高司令部は極めて平穏です」
「比較対象がおかしい」
副官が小さく言った。
私は最初の書類を手に取った。紙はただ紙で、毒も爆薬も仕込まれていない。少なくとも今のところは。
その夜、医務室から通信が入った。
『閣下、休暇はいかがでしたか』
私は少し考えた。
「二度と米花町には行かない」
通信の向こうで、医務官が黙った。
私は決裁印を押した。
乾いた音が、静かな部屋に一つだけ響いた。