轟ちゃんは雄英高校ヒーロー科に推薦合格するほどの才能を持ちながら、入学直前に突然不登校になった。

理由は単純。

ヒーローになること自体が父親の望みに従うことだと気づいてしまったから。

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第1話

 雄英高校ヒーロー科一年A組には初日から空席があった。

 

 入学式の翌日。

 

 まだ誰もが教室の空気に慣れていない朝、ひとつの机だけが使われないままそこに置かれていた。

 

 欠席。

 

 それだけなら珍しい話ではない。

 

 体調不良、家庭の事情、道に迷った、緊張で腹を壊した。雄英に合格した人間でも腹は壊す。むしろ入学初日の重圧を考えれば、胃腸が負ける者の一人や二人いてもおかしくない。

 

 けれど、その席の主は少しだけ事情が違った。

 

 轟焦凍。

 

 No.2ヒーローであるエンデヴァーの娘。

 

 推薦入試を突破した、雄英ヒーロー科の新入生。

 

 そして、入学式から一度も姿を見せない生徒だった。

 

「轟って、あの轟だよな?」

 

「エンデヴァーの子ども?」

 

「推薦入学だろ? なんで来てねえんだ?」

 

「さあ……」

 

 教室のあちこちで、小さな声が行き交う。

 

 相澤消太はその声を止めなかった。

 

 止めたところで意味はない。あの名字は目立つ。ましてヒーロー科の推薦合格者が初日から何の説明もなく来ないとなれば、気にするなという方が無理だった。

 

 相澤は出席簿を閉じ、空席を見る。

 

 入学辞退の連絡はないし、欠席の連絡すら来ていない。

 

「……面倒だな」

 

 小さく呟いて、相澤は授業を始めた。

 

 その頃、轟焦凍は布団の中にいた。

 

 遮光カーテンを閉め切った部屋は昼前だというのに薄暗い。

 

 机の上には空のペットボトル、飲みかけのゼリー飲料、開けっぱなしの菓子袋。床には脱ぎ捨てられたパーカーと、いつ買ったのか覚えていない漫画が転がっている。

 

 モニターは煌々している。その光に照らされながら、焦凍は布団から片手だけを出し、コントローラーを握っていた。

 

 白と赤の髪は寝癖で乱れている。顔の半分は布団に埋まったまま。目だけがゲーム画面を見ていた。

 

 配信画面の端には、コメントが流れている。

 

『昼配信たすかる』

 

『また寝起き声で草』

 

『氷点ちゃん、学校は?』

 

『今日平日だぞ』

 

『社会性を捨てた声してる』

 

 焦凍はマイクに向かって、眠そうに言った。

 

「学校の話をした人から順番に氷河期に送ります」

 

『物騒』

 

『草』

 

『個性の匂わせやめろ』

 

『氷点ちゃんのそういうとこ好き』

 

『初見です。ここ何の配信?』

 

「初見さんいらっしゃい。ここは人生からログアウトした人間が集まる底辺のための居場所です」

 

『説明が終わってる』

 

『でもわかりやすい』

 

『人生からログアウトするな』

 

 焦凍は配信上では「氷点」と名乗っていた。

 

 顔出しはせず、声だけで配信内容はゲームと雑談。

 

 ときどき発言の端に、世の中全部を面倒くさがっているような温度の低さが混ざる。ダウナー(推定)美少女の配信というのは一定層に需要があるもので、少しずつリスナーは増えていた。

 

 本人にその自覚はあまりない。

 

 焦凍にとって配信は夢でも目標でもなかった。

 

 ただ、学校に行かず、家から出ず、誰ともまともに話さず、それでも暇を潰して小銭を得るための手段だった。

 

「今日の目標はランクを一つ上げることです。人生のランクは諦めました」

 

『諦めるな』

 

『人生ブロンズ帯』

 

『そこはまだチュートリアルだろ』

 

『学校行け』

 

「今、ひとり凍りました」

 

『すみませんでした』

 

 ゲームのマッチングが始まる。

 

 そのタイミングで机の上のスマホが震えた。

 

 画面には登録名が表示されている。

 

 カス。

 

 焦凍はそれを一瞥して、スマホを裏返した。

 

『電話?』

 

『出なくていいの?』

 

『彼氏?』

 

「彼氏だったらまだ出る価値があったかもね。いないけど」

 

『じゃあ誰だよ』

 

「出る価値がない人」

 

 また震える。

 

 焦凍はスマホを手に取り、電源を切った。それだけで、少しだけ部屋が静かになった。

 

 画面の中では味方が勝手に突っ込んで倒れていた。

 

『味方溶けた』

 

『助けてあげて』

 

『氷点ちゃん、救助!』

 

「嫌です」

 

 焦凍は即答した。

 

 倒れた味方を横目に敵の位置だけを確認する。

 

 助けに行けば、自分まで不利になる。そんな場所に突っ込む理由はない。勝つために必要なら起こす。必要なければ捨てる。

 

 ゲームでも現実でも、それは同じだった。

 

「自分で生き残ってください」

 

『冷たい』

 

『名前通り』

 

『でも正論』

 

 焦凍は敵を一人倒し、残った味方を盾にして、最後の敵を撃ち抜いた。

 

 勝利表示が出る。

 

『うま』

 

『見捨てて勝つ女』

 

『これはやさぐれ』

 

「見捨てたんじゃない。見なかったことにしただけ」

 

『もっと悪い』

 

 コメントが笑いで流れていく。

 

 焦凍は表情を変えなかった。

 

 彼女は人を助けたいわけではない。

 

 誰かの笑顔を守りたいわけでもない。

 

 正義に憧れているわけでもない。

 

 そんなものは、昔どこかに置いてきた。

 

 推薦入試の日。

 

 焦凍は氷だけで試験を終えた。

 

 左半身の力は使わなかった。炎は一度も出さなかった。

 

 父の力など使わない。

 

 あの男の望み通りにはならない。

 

 炎を使わずにヒーローになる。

 

 それが、自分にできる復讐なのだとその時は本気で思っていた。

 

 けれど、合格通知を見た夜。

 

 焦凍は気づいてしまった。

 

 ヒーローになる。

 

 その時点で、もう父の望んだ道の上にいる。

 

 雄英に入り、訓練を受け、プロになり、いつか父を超える。

 

 それは焦凍の反抗ではなかった。

 

 父が用意した物語の予定通りの展開だった。

 

 炎を使わない?

 

 だから何だ。

 

 ヒーローになる時点で、あの男にとっては勝ちだ。

 

 なら。

 

 なら、いっそ。

 

 ならない方がいい。

 

 父が望んだ最高傑作は、ヒーローにならない。

 

 雄英にも行かない。

 

 人も助けない。

 

 誰かのために戦わない。

 

 それが一番、あの男の人生を無駄にできる気がした。

 

「……あほらし」

 

 焦凍は小さく呟く。

 

『何が?』

 

『急に人生?』

 

『ランクマの話?』

 

「全部」

 

『草』

 

 その時、部屋の外からノックの音がした。

 

 こんこん、と二回。

 

 焦凍は反応しなかった。

 

 ゲームの次のマッチングを始める。

 

 もう一度、ノック。

 

 今度は少し強い。

 

「焦凍さん。いらっしゃいますか」

 

 扉の向こうから、男の声がした。

 

 焦凍は無言でヘッドホンの片耳をずらす。

 

 聞き覚えのある声だった。

 

 エンデヴァー事務所の人間。

 

 名前までは覚えていない。覚える必要もない。

 

「エンデヴァーさんより雄英への登校についてお話を伺うよう言われています」

 

 焦凍はマイクをミュートにした。

 

 コメント欄がざわつく。

 

『誰か来た?』

 

『今の声なに』

 

『氷点ちゃん?』

 

『ミュートされた』

 

 焦凍は椅子に座ったまま、扉を見た。

 

「帰って」

 

「そういうわけにはまいりません」

 

「帰って」

 

「焦凍さん」

 

「三回目はない」

 

 扉の向こうでわずかに沈黙があった。

 

 それでも男は引かなかった。

 

「雄英側からも確認が入っています。このまま登校されない場合、エンデヴァーさんのお立場にも――」

 

「知らない」

 

 焦凍の声は平坦だった。

 

「父親の立場がそんなに大事なら父親を学校に行かせれば」

 

「焦凍さん」

 

「私の名前を呼ばないで。不愉快」

 

 また沈黙。

 

 次の瞬間、金属の触れる音がした。

 

 鍵穴だ。

 

 焦凍は目を細めた。

 

 部屋の合鍵。

 

 誰が渡したのか考えるまでもない。

 

 父親だ。

 

 あの男はまだわかっていない。

 

 自分が呼べば来ると思っている。

 

 命令すれば動くと思っている。

 

 鍵を開ければ、中に入れると思っている。

 

「開けない方がいいよ」

 

 焦凍は言った。

 

 扉の向こうの動きが止まる。

 

「私は帰れ、と言ったよ」

 

「……焦凍さん、失礼いたします」

 

 鍵が回る音がした。

 

 その瞬間。

 

 扉の内側から、白い霜が走った。

 

 鍵穴。

 

 ドアノブ。

 

 蝶番。

 

 扉の隙間。

 

 すべてが一瞬で凍りつき、厚い氷に覆われる。

 

 がちん、と鈍い音がして、扉は完全に固まった。

 

「っ……!」

 

 向こう側で男が息を呑む。

 

 焦凍は立ち上がらなかった。

 

 椅子に座ったまま、扉を見ている。

 

「私はヒーローじゃない」

 

 低い声だった。

 

「誰の言うことも聞かないし、雄英にも行くつもりはない」

 

 扉の向こうは静かだった。

 

「でも」

 

 焦凍の右手から冷気がこぼれる。

 

 床を這った霜が、扉の下の隙間から外へ滲んでいく。

 

「私の部屋に入ってくるなら、話は別」

 

 廊下側から小さく後ずさる気配がした。

 

 焦凍は続ける。

 

「次に鍵に触ったら手首まで固める。次に父親の名前を出したら、廊下ごと凍らせる」

 

「……脅しですか」

 

「自己防衛」

 

 焦凍は即答した。

 

「帰って」

 

 それきり、扉の向こうから声はしなくなった。

 

 しばらくして、遠ざかる足音が聞こえた。

 

 焦凍は右手を下ろす。

 

 ドアは凍ったまま。

 

 鍵穴も、ノブも、蝶番も、白く固まっている。

 

 これでは自分も外に出られない。

 

 けれど問題はなかった。

 

 出る気がない。

 

 焦凍は椅子に座り直し、マイクのミュートを解除した。

 

『戻った!』

 

『大丈夫?』

 

『今の何?』

 

『誰か来てた?』

 

『氷点ちゃん、生きてる?』

 

 焦凍は何事もなかったように、ゲーム画面を開いた。

 

「生きてる」

 

 焦凍は布団に戻り、コントローラーを握った。

 

「続きやるよ」

 

 マッチング開始。

 

 画面に待機ロビーが映る。

 

 凍りついた扉の向こうで、世界が勝手に騒いでいる。

 

 雄英。ヒーロー。父親。将来。責任。期待。

 

 全部、知ったこっちゃない。

 

 燃えたいなら勝手に燃えていればいい。

 

 壊れたいなら勝手に壊れていればいい。

 

 ただし。

 

 自分の部屋に入ってくるなら、話は別だ。

 

「私はただ、平穏に引きこもりたいだけ」

 

『志が低い』

 

『でも切実』

 

『応援していいのかわからん』

 

 焦凍は小さく欠伸をした。

 

 氷に閉ざされた部屋の中で、最高傑作は今日も布団から出ない。

 


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