一龍の渾身の拳は、二鳥の頑丈な腹を、内臓ごと粉砕せんばかりの質量で完璧に叩き潰していた。
一龍の目から溢れる涙、そしてその歪んだ表情を見れば、誰もが理解できるはずだ。一龍はもうこんなことはやりたくない、今すぐにでも拳を引いて、可愛い弟を抱きしめてやりたいと、心の底から叫んでいることが。
しかし――一龍は、その手に込める力を、1ミリたりとも緩めはしなかった。
「……ぐ、はっ……!!」
二鳥の口から、血が激しく吐き出される。だが、二鳥の瞳は、まだ死んでいなかった。それどころか、一龍の拳を腹に受けたまま、さらにその奥にある凄まじい執念の炎を燃え上がらせている。一龍はその目を直視し、さらに奥歯を噛み締めて、次の容赦のない一撃を放つために拳を振り上げた。
すべては…二鳥が放った、あの『願い』が原因だった。
アポロが生まれ、新居での幸せな生活が始まった数日後。二鳥は一龍の前に跪き、頭を地面に擦り付け、強く、強く願った。
『一龍兄さん…お願いだ……俺に、大切な人を……カカさんとアポロを、何があっても守り抜ける、圧倒的な力が欲しい。俺を、本気で鍛え直してくれ!!』
その時、一龍は即座に拒絶した。
『馬鹿野郎、何言ってんだ二鳥。お前は今でも、そこらの奴らじゃ相手にならねぇくらい十分すぎるほど強い!アカシア様の元で鍛え上げた技術と頑丈な肉体がありゃ、家族を守るにゃお釣りがくる。これ以上、何を望むってんだ!お前だって、それを理解してるからこれ以上力を求めるのをやめていたんじゃないか!』
一龍の言葉は本心だった。一人の『兄』として、弟に傷ついてほしくなかった。だが、二鳥の目は、その生ぬるい言葉を完全に否定していた。前世が人間だった二鳥…彼は知っているのだ。
この世界の未来が、これからどれほど過酷で、残酷な運命の渦に巻き込まれていくのかを。アカシアの目的、ネオの存在、そしていずれ訪れる世界崩壊の危機。
今の強さでは足りない。愛する妻を守り、生まれたばかりの愛しい太陽・アポロの未来を守るためには、一龍、次郎、三虎という、この世界の頂点に立つ怪物たちと肩を並べ、それすらも超えるほどの『強さ』が必要不可欠なのだと、二鳥の魂が叫んでいた。
その、逃げ場のないほどに真っ直ぐな「覚悟」、一龍はその二鳥の目の奥にある、全てを投げ打つ覚悟を受け止めてしまった。
だからこそ、一龍は決心したのだ。中途半端な手加減は、この弟の覚悟に対する最大の侮辱になる。ならば俺は、この世界で一番の『壁』となり、死線の一歩手前までこいつを追い詰めてやる、と。
「……立て、二鳥ッ!!」
一龍の叫びと共に、重力を歪ませるほどの凄まじい『マイノリティ・ワールド』が、一龍の全身からオーラとなって噴き出す。
「お前がそこまでの覚悟を俺に見せたんだ……! だったら、途中で死ぬことすら許さねぇぞ! 家族の元へ、世界で一番強い父親になって帰ってみせろ!!」
「……ああ、もちろんだ、兄さん……!!」
二鳥はボロボロの肉体で再び立ち上がった。その拳に、愛する者のための力を込めて。
一龍の涙の拳と、二鳥の父親としての執念。二人の本気の激突が、グルメ界の奥地をどこまでも激しく、熱く揺らし続けていた。
◆
その夜、一龍はアカシアの家の食卓で、酒の入った杯を揺らしながら、本当に嬉しそうに、けれどどこかくすぐったそうに昼間の激闘を語っていた。
「かっかっか! 聞いてくれよアカシア様、二鳥の奴、あんなにボロボロになりながら、なんでそこまで力を欲しがるのかって問い詰めたらさ……。なんて言ったと思う?」
一龍はにっと豪快に笑い、昼間、荒野の泥の中でボロボロの肉体を起こしながら、涙目で叫んだ二鳥の顔を思い浮かべた。
◆
『カカさんが、殺される夢を見たんだ……っ!』
『カカさんだけじゃない。……アカシア様、フローゼ様……! 一龍兄さん、次郎に、三虎……! みんな、みんなが死んでしまう夢を見たんだ……っ!』
『…グスッ…! だから…だがら゛!そんなの絶対に嫌だ! 俺が、俺の手で、みんなを守れるだけの強さを掴みたいんだ……っ!!』
◆
「夢でみんなが死んじまうのが嫌だから強くなりたい、なんてさ。いい大人があんなに泣きじゃくりながら言うんだぜ? あんまりにも子供っぽくて、俺は思わずその場で吹き出しそうになっちまったよ」
一龍はおちゃらけた調子でそう言い、杯を干した。「夢を見たから」という理由は、一見すれば、あまりにも稚拙で、論理性を欠いた、子供の我が儘のような動機に聞こえるかもしれない。
しかし――その言葉を聞いたアカシアと一龍の二人は、それを子供っぽいと笑い飛ばしたり、侮辱したりすることは、決してしなかった。
「……そうか。二鳥は、そんな夢を」
アカシアは静かに目を細めて食卓の灯りを見つめた。その瞳には、からかいの色など微塵もなく、むしろ一人の愛しい息子の「優しすぎる魂」に対する、深い愛おしさと敬意が宿っていた。アカシアはふっと穏やかな微笑みを浮かべ、一龍に向かって言葉を紡ぐ。
「一龍。夢というのはね、時に人間の……いや、生物の魂が、無意識のうちに感じ取っている『最も失いたくないもの』への強烈な防衛本能が見せるものなんだよ。二鳥にとって、カカさんやアポロ、そしてここにいる私たちが、どれほど命に代えても守りたい宝物なのか……その子供っぽいと言った理由の中に、あの子の『全て』が詰まっているじゃないか」
「へいへい、分かってますよアカシア様。俺だってそれを侮辱するつもりなんて毛頭ねぇですよ」
一龍は頭を後ろで組み、天井を見上げて嬉しそうに目を細めた。
「夢の中で見た、ただの幻かもしれない。だけどさ、その幻に本気で恐怖して、本気で涙を流して、大切な奴らの未来を守るために、肉体が悲鳴を上げるほどの地獄の修行に耐え抜こうとしてるんだ。……子供っぽくて、泥臭くて、だけどあいつの動機は、世界中のどの戦士よりも真っ直ぐで、格好いい本物の『父親』のそれだよ」
二鳥が知っている未来。アカシアの目的、ネオの目覚め、そしてフローゼの死と、家族の離散という過酷な原作の未来。
それが「子供っぽい夢」という形での表現になってしまったが、その根底にあるのは、未来の残酷な運命を力尽くで捻じ曲げてでも、この愛しい日常を守り抜くという、転生者としての、そして一人の『人間』としての絶対的な覚悟だった。
「一龍。あの子のその優しい『
「おう、言われなくてもそのつもりですよ、アカシア様。あいつが、夢で見た絶望をすべて叩き潰せるくらいの『世界一強い男』になるまで、俺が何度でもその覚悟を殴って、叩き直してやりますから!」
夜の静かな居間で、二人の男たちが、二鳥のその純粋な想いを心からリスペクトし、その未来を温かく肯定するのだった。
◆
ドォォォォン!!
鼓膜を突き破るような爆音と共に、グルメ界の荒涼とした大地が再び大きく裂けた。
巻き上がる泥と爆煙の向こう側――俺、次郎は、ただ呆然とその光景を見つめることしかできなかった。
(なんだよ、これ……なんなんだよ、あの戦いは……!)
視線の先では、一龍兄ちゃんが、二鳥兄ちゃんを渾身の力でブチのめしている。その一龍兄ちゃんの姿は、普段俺が兄ちゃんに挑みかかって喧嘩している時の姿とは、似ても似つかないものだった。
俺が一龍兄ちゃんに殴りかかる時、兄ちゃんはいつだって、どこかで俺が『弟だから』と手を抜いていた。どれほど凶暴な力を振るおうとも、兄ちゃんは俺の暴力をすべて受け流し、一度だって俺に本気で牙を剥いたことはなかった。
だから、俺は一度だって一龍兄ちゃんに「勝った」ことはない。けれど、それ以上に……俺は一度だって、本気の一龍兄ちゃんに組み伏せられたこともなかった。
俺が自分の敵わない強さに苛立ち、悔しくてボロボロと泣き始めると、兄ちゃんはいつだって「悪かった悪かった、お前の勝ちでいいよ」と、優しく頭を掻きながら、俺に勝ちを「譲って」くれるばかりだった。
だが。目の前にいる一龍兄ちゃんは違う。大粒の涙を流しながらも、その青い拳に込める力を1ミリも緩めず、絶対に二鳥兄ちゃんに「勝ち」を譲ろうとしない。
一切の手を抜かない。俺に向けられていた生ぬるい優しさなんて微塵もない。そこにあるのは、相手のすべてを叩き潰してでも、その先へ進ませようとする、狂気にも似た本気の拒絶――。
今の俺に向けられているものとは、何もかもが逆の姿だった。
そして、逆の姿をしているのは、一龍兄ちゃんだけじゃなかった。
吹っ飛ばされ、泥に塗れ、一龍兄ちゃんの拳によってボロボロの傷だらけの姿にされている二鳥兄ちゃん。その兄ちゃんだって、俺とは何もかもが逆だった。
「……が、はっ……! まだだ……! まだ、終わってねぇぞ……っ!!」
あんなに酷い怪我を負わされているのに、二鳥兄ちゃんは泣くどころか、弱音一つ吐きやしない。俺ならとっくに、悔しさと痛みに耐えかねて大声で泣き喚き、兄ちゃんにすがりついていたかもしれない。
それなのに、二鳥兄ちゃんは巨体を泥まみれにしながら、ただカカ姉ちゃんとアポロのためだけに、鋭い瞳の奥の炎をさらに激しく燃え上がらせて、何度でも立ち上がってくる。
はっきり言ってしまうけど、純粋な身体能力や戦いにおける野生のセンス、グルメ細胞の底知れなさなら、俺の方が上だ。
二鳥兄ちゃんは、俺よりも弱い。なのに……。あのボロボロの背中は、俺よりもずっと、ずっと……大きくて…頼もしく見える……。
(俺は、一龍兄ちゃんに泣いて勝ちを譲ってもらってただけだ……。だけど、二鳥兄ちゃんは……泣き言一つ言わずに、本気の一龍兄ちゃんから、自分の力で『勝ち』を、未来を、毟り取ろうとしてるんだ……っ!)
二鳥兄ちゃんが見せている、命を懸けて家族を、俺たちを守ろうとする「父親の覚悟」。それに比べたら、自分の強さに胡坐をかき、兄たちの優しさに甘えていた自分が、どれほど小さく、子供っぽかったか。
「……ちくしょう……っ」
俺の目から、ボロボロと熱い涙が溢れ出してきた。だけど、この涙は、いつもの「悔し涙」なんかじゃない。二鳥兄ちゃんへの憧れと、そんな兄ちゃんの足元にすら及ばない自分への、激しい憤りだ。
「兄ちゃん……頑張れ、負けんな……っ!!」
荒野の風にかき消されそうな声で、俺は初めて、自分より弱い、けれど誰よりも強い兄の背中に向かって、魂の底から声援を送っていた。
俺も、いつか必ずあの二人の領域へ行く。二鳥兄ちゃんが命懸けで守ろうとしているこの家族を、俺もこの拳で、絶対に守れるだけの本当の強さを掴んでみせる。
泥まみれで立ち上がる二鳥兄ちゃんの背中を見つめながら、俺の胸の奥にある若きグルメ細胞が、これまでにないほど熱く、激しく、一人の『戦士』として目覚めるように咆哮を上げるのだった。
◆
ドゴォォォォン!!
耳をつんざくような爆音と共に、グルメ界の荒野がまた一つ、無惨に引き裂かれた。
舞い上がる赤黒い泥の向こう、一龍の兄者の拳が、二鳥の兄者の身体を容赦なくブチのめしている。骨の砕ける鈍い音が、風に乗って俺の耳へと届いた。
「……っ」
俺は岩陰で、自分の衣服の袖を、爪が食い込むほどにぎゅっと握りしめていた。恐怖で身体が震えているわけじゃない。ただ、胸の奥が、焼け付くように痛くてたまらないんだ。
俺には、元々何もなかった。暗い闇の中で、ただ飢えと孤独に怯え、誰からも必要とされずに泥水をすすっていた。そんな俺を救い、温かいスープを飲ませてくれたのが、兄者とカカだった。
そして、この家族とともに修行を重ねる中で、時に厳しく、時にバカみたいに笑い合いながら、本当の兄弟のような深い絆を結んでくれたのが、一龍、次郎、そして二鳥の兄者たちだった。
毎日、みんなで囲む賑やかな食卓。
「三虎、もっと食えよ」
そう言って肉を差し出してくれた二鳥の兄者の笑顔。それが、俺にとってのすべてだった。
この「家族」という居場所こそが、俺の人生に初めて訪れた、絶対に失いたくない本物の幸せだった。
だからこそ……俺には、わからないんだ。
(何故だ……。何故、家族が、家族を傷つけ合わなければならないんだ……!)
喉の奥から、行き場のない叫びが競り上がってくる。あんなに優しい一龍の兄者が、どうして涙を流しながら、実の弟のような二鳥の兄者をあそこまで容赦なく殴れるのか。
何故、アカシアもフローゼも、この血生臭い光景を黙って見つめ、誰も止めようとしないのか。
(分かってはいる……頭では、分かっているんだ……!)
二鳥の兄者が自ら進んであの地獄のような強さを望み、一龍の兄者がそれに対して、一人の男としての最大のリスペクトを持って応えていることくらい、俺にだって分かっている。
二鳥の兄者には、カカという大切な家族がいて、アポロという生まれたばかりの愛しい太陽がいる。それらを何があっても守り抜くための『父親の覚悟』なのだと、兄者の瞳を見れば嫌でも伝わってくる。
でも――分かっていても、俺の心がそれを拒絶する。
(覚悟なんてどうでもいい……! 理由なんて知るか……! 俺は……家族が、傷つく姿なんて見たくないんだ……っ!)
俺にとって、家族が血を流し、ボロボロになって倒れる姿は、あの暗かった孤独の過去へと引き戻されるかのような、最悪の恐怖そのものだった。
もし二鳥の兄者がこのまま死んでしまったら。
もし、この優しい家族の誰かが欠けてしまったら。
そう思うだけで、俺のグルメ細胞は狂ったように暴走しそうになる。
「……に、二鳥の兄者……」
泥に塗れ、一龍の兄者の圧倒的な重圧に押し潰されそうになりながらも、決して目を逸らさずに立ち上がろうとする二鳥の兄者の背中。
そのボロボロの背中を見つめながら、俺は自分の不甲斐なさに、悔しくて熱い涙を流していた。止めたい。今すぐ間に割って入って、この残酷な修行を終わらせたい。
けれど、二人の間に流れる「覚悟」があまりにも巨大すぎて、今の俺の力では、その領域に踏み込むことすら許されない。
(俺が……もっと強ければ……。兄者が命を懸けて力を求めなくても、俺が全部の敵をぶちのめして、この家族を、カカもアポロも、みんなをまとめて守ってやれるのに……っ!)
二鳥の兄者の壮絶な背中は、俺の胸の中に、悲しみと共に「飢え」にも似た凄まじい渇望を植え付けていた。
傷つく家族を見たくない。誰も失いたくない。そのための、圧倒的な、世界を統べるほどの『力』への飢え――。
荒野に響き渡る拳の音を全身に浴びながら、三虎の奥底に眠る食欲が、家族を想う優しさと、激しい怒りを燃料にして、静かに、凶悪なまでの輝きを放ち始めていた。
皮肉にも、二鳥が救いたいと、守りたいと願って己を犠牲にしようとした結果…三虎に『飢え』が戻ってしまった…。
皆さんはどっちだと思います?二鳥は…
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攻め?
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受け?