バタン、と扉が静かに開いた。
「ただいま、カカさん。……アポロはもう寝たかい?」
そこに入ってきたのは、いつものように私たちに対して優しくて温かい笑顔を向けてくれる、私の最愛の夫――二鳥さん。
「お、お帰りなさい二鳥さん……アポロは先ほどミルクを摂取し、現在は最適とされるレム睡眠に入っております。それよりも、あなた、は……っ」
私は料理の皿を抱えたまま、駆け寄る足が震えるのを止められなかった。衣服の隙間から見える、彼の肉体は……また、傷が増えている…。
強靭なグルメ細胞は、本来であれば驚異的な超再生能力を持っています。あなたがどれほど激しい外傷を負って帰ってこようとも、貴重な医療食材と私の特殊調理による手料理を摂取し、この寝室で1日眠れば、その傷はすべて綺麗に消え去るはずなのです。
それなのに…なぜですか。次の日、あなたが身体に刻んで帰ってくる傷の総量は、前日よりも明らかに増加しているのです。
(……一龍さんとの修行が、日に増して激化しているのは明白です。グルメ細胞の活性化に伴う肉体の破壊と再生のサイクルが、完全に破綻しかけている。傷ついた肉体の再生が、あなたのその強靭な細胞をもってしても、もう追いついていないのです……っ)
私は料理を床に落としたことに気づかないまま、二鳥さんのボロボロの、鉄の匂いが染み付いた胸に縋るように抱きついていました…。
「二鳥さん……もう、分かっています。あなたが『これ以上は必要ない』と私が言っても絶対に拒絶し、明日もまたあの荒野へ向かうことは……っ」
私の耳から伝わる、二鳥さんの激しい脈拍。私の目が、彼の肉体の奥で細胞がギリギリと悲鳴を上げているのを残酷なほど詳細に捉えてしまう。
「ですが……ですが、もう、やめてください……っ! 私のために、アポロのために強くなろうとしてくれるその『
私は二鳥さんの衣服をぎゅっと握りしめ、顔を胸に埋めて、涙ながらに捲し立てた。昔の、恥ずかしさを誤魔化すための言葉ではない。ただ、目の前で大好きな人が少しずつ壊れていく恐怖に、心が張り裂けそうになって、言葉を止められないのです…。
「私は……お喋りで、ヤキモチ焼きなアポロと、そしてあなたと、この家でただ静かに、非効率的で甘い『あ〜ん』の時間を一生過ごせれば、それだけで良かったのです……。だから……お願いですから、もう……っ」
私の涙が、二鳥さんの胸の皮膚を濡らしていく。それを受け止める二鳥さんの大きな手が、そっと私の頭を壊れ物を扱うように優しく、優しく撫でた。
「……ごめんね、カカさん。心配かけて、本当に、ごめん」
二鳥さんの嘴から漏れ出たのは、絞り出すような、けれど、どこまでも深く、揺るぎない、謝罪の言葉だけだった。
やはり『やめる』とは、言ってくれない…。
「でもね……俺、絶対に死なないから。カカさんとアポロを置いて、どこにも行かない……カカさんと一緒に何百年も生きて、この家で幸せに過ごすって……そう、決めてるから」
二鳥さんは私をそっと引き寄せ、その大きな腕で、私の震える身体を包み込むように強く、強く抱きしめ返してくれました。その腕のぬくもりは、どんなに傷だらけでも、やっぱり温かくて、安心できる居場所そのもの。
私は彼の胸に顔を埋めたまま、ただ祈るようにその鼓動を聞き続けることしかできなかった。明日もまた、血を流して帰ってくるであろう、世界で一番不器用で、世界で一番愛おしい、私の夫の鼓動を――。
(……とはいえ、今のままじゃ駄目なことには変わりない………あそこに行くしかないのか…)
◆
「――一龍兄さん。悪ぃけど、修行を一旦『停止』させてくれ」
荒涼としたグルメ界の地平を見つめながら、俺は背後に立つ一龍兄さんにそう告げた。あくまで停止だ。やめるわけじゃない。
カカさんが流した涙の重さも、俺がみんなを救いたいと願った夢の結末も、何一つ諦めてたまるものか。だけど、今のままじゃダメだ。どれだけ身体を張って、どれだけ一龍兄さんにボロ雑巾のようにブチのめされたところで、それは単にグルメ細胞が持つ回復力に甘えているだけに過ぎない。
殴られて頑丈になる『だけ』じゃ、本当に強くなったとは言わないんだ。一龍兄さんのあの理不尽なまでの拳に、真っ向から『殴り返せるだけの力』を、そして『技術』を身につけなければ、俺は一生兄さんの背中を超えることも、未来の悲劇を叩き潰すこともできない。
自分の中にある意地が、ただの力任せのゴリ押しを拒絶していた。もっと精密に、もっと効率的に、自分の持つすべての細胞を完璧に制御する技術が必要だった。
だから…俺は今、グルメ界の「エリア7」――大陸全体が巨大な植物と生物に溢れているこの地へと、単身で足を踏み入れていた。
目的は、ただ一つ。細胞の全エネルギーを完全に一体化させ、あらゆる衝撃を受け流し、そして一撃へと昇華させる究極の格闘技術…
――猿武の体得だ。
「カカさん、アポロ……少しだけ、待っててくれよ」
ボロボロのシルクハットの鍔をぐっと指で押し上げ、俺は不敵な笑みを浮かべた。エリア7の四方から漂ってくる、数億の猿たちの圧倒的な圧。
普通なら足をすくませるほどの重圧だが、今の俺の胸を支配しているのは、ただカカさんの元へ「世界一強い父親」になって帰るという、燃え盛るような執念だけだった。
この猿武という技術は、俺にとって最高の武器になるはずだ。
「待ってろよ、一龍兄さん。次に対峙する時は、俺の頑丈で、一分の狂いもない拳を、その顔面に叩き込んでみせるからな」
――そう意気込んではみたものの…エリア7に足を踏み入れたその瞬間から、俺の身体は、ずっと不細工に震えていた。
この世界に、ブルーニトロとして転生してから、もう約20年もの月日が流れた。前世がただの人間だった俺の脳は、この世界のあまりにも濃密で過酷な日々に塗り替えられ、かつて貪るように読んだ『トリコ』の記憶なんて、今じゃもうほとんど残っちゃいない。
原作の細かいイベントも、キャラのセリフも、薄霧の向こう側だ。
…だけど。このエリア7の記憶だけは――嫌なくらいに、脳裏に焼き付いて離れなかった。
(カカさんが……カカさんが、ここで殺されるんだ)
このエリア7でカカさんは…ブルーニトロのアトムに殺害され、魂だけの存在にされてしまう。
その残酷な運命の記憶だけは、約20年経った今でも、まるで昨日のことのようにはっきりと、鮮明に覚えている。
そんな未来は――絶対に、嫌だ。あのお喋りで、心配性で、俺のために「非効率的なあ〜ん」を一生懸命やってくれた、愛おしいカカさん。
そして、そのカカさんの胸の中で「ピーピー!」と元気に鳴いている、俺たちの可愛い太陽、アポロ。
あいつらの未来を、そんな血生臭い原作の悲劇に引きずり込んでたまるか。
「……っ、ふぅ……」
震える拳を一度強く握りしめ、シルクハットの鍔をぐっと指で押し下げる。俺の魂が、恐怖を『気合い』へと組み替えていくのを感じた、その時だった。
――ゴ、ク、リ。
全身のグルメ細胞が…一瞬で凍りつくような圧倒的な「圧」が、音もなくすぐ近くまで接近してきた。
空間そのものが歪むほどの、桁違いの質量。気配の主は分かっている。
「猿王バンビーナ…」
何百年、何千年も前に最愛の恋人を亡くし、その悲しみを紛らわせるために、ただ一人で狂ったように遊びを求め続ける、孤独な猿の王。
(……なぁ、バンビーナ。お前も、大切な人を失った悲しみを知ってるんだろ?)
だったら、俺のこの『大切な人を守りたい』っていうわがままに、少しだけ付き合ってくれよ。今の俺じゃ一龍兄さんに殴り返すこともできない。だから、お前のその圧倒的な技術を…猿武を俺に盗ませてくれ。
「なぁ、バンビーナ。俺と……
そう静かに問いた――次の、瞬間だった。
――パァンッ!!!
乾いた、けれど大気が爆発したような凄まじい衝撃音が響く。視界が激しく揺れ、脳が痛みを認識するよりも早く、俺の右側に妙な『軽さ』が訪れた。
「……あ?」
見下ろすと、そこにあるはずの俺の右腕が、肩の付け根から綺麗に消え去っていた。
目の前には、いつの間にか悪戯っぽい笑みを浮かべたバンビーナが俺の千切れた右手を「がっしり」と握ったまま、不思議そうにこちらを覗き込んでいた。
(……あぁ、そうか。腕相撲かよ……ッ!!)
原作でトリコたちが一瞬にしてバラバラにされた、猿王の「遊び」。
その挨拶代わりに――俺は右腕を一本、持っていかれた。なんつう、理不尽だ。
即死しなかっただけでも、俺の身体を褒めてやりたい。
「が……はっ、あはは……っ! さすがは王様だ、挨拶の角度が、一分の狂いもなく容赦ねぇな……っ!!」
俺は、溢れ出る血をグルメ細胞の超再生で強引に止める間もなく、口を限界まで歪めて不敵に笑って見せた。
腕の一本や二本、カカさんの流した涙に比べたら、痛くも痒くもない。
父親としての意地と絶対の覚悟。千切れた腕から始まる、孤独な王との命懸けのダンス。二鳥の運命をひっくり返すための本当の地獄の特訓が、いま最悪の形で幕を開けようとしていた。
◆
山のてっぺんからぼんやり下を眺めていたら、オイラの縄張りにほかの猿たちより「ちょっとだけ」強い鳥が入ってきたのが分かった。
黒いおっきな帽子を被った青い鳥。そいつに近づいて、オイラの気配を察すると一瞬だけビビったみたいにブルブル震えた。
うん、いつものことだ。この山に入る奴らは、みんなオイラを見て怖がって逃げ出すか、すぐにお肉になっちゃう。だけど、そいつは違った。震えたのは本当に一瞬だけで、次の瞬間には、そいつの目に炎が宿ったんだ。
怖がってるんじゃなくて、何かを絶対に諦めないっていう、とんでもない執念?っていうのに一瞬で変わってオイラの肌にびりびりと伝わってきた。
んで、そいつ、オイラの目の前まで来て、こう言ったんだ。
『なぁ、バンビーナ。俺と……
「――ッ! ♪」
オイラ、もう嬉しくて、嬉しくて!つい我慢できなくなっちゃってさ!「よろしく!」って気持ちを込めて、そいつの右手をがっしりと『握手』しちゃったんだよね!そしたら、オイラの力がちょっと強すぎたみたいで、パァンって良い音がして、そいつの腕が肩から綺麗に千切れちゃった。
あちゃー、また壊しちゃった、ってちょっとショックを受けたんだけど……。
「が……はっ、あはは……っ! さすがは王様だ、挨拶の角度が、一分の狂いもなく容赦ねぇな……っ!!」
目の前の青い鳥は腕を無くしたまま、むしろ嬉しそうに口をひん曲げて大笑いし始めたんだ!痛いはずなのに、ボロボロ血が出てるのに、そいつの目の炎は1ミリも消えてない。寧ろ、もっとオイラと遊ぶ気満々で立ってる。
(おぉ……! こいつなら……! こいつなら、オラの『遊び相手』になってくれるかもしれない!)
何百年も、何千年も、オイラの全力の「遊び」についてこられる奴なんて誰もいなかった。みんなすぐに壊れて、動かなくなっちゃうから、オイラはずっと退屈で、ずっと一人ぼっちで山で水切りとかやって遊んでた。
だから、こんなに頑丈で、根性のある鳥が来てくれたのが、本当に嬉しかったんだ。
――でも……これはオラなりの『建前』ってやつで。オイラがそいつの手を引いたのには、もう一つ、自分でもよく分かんない理由があった。
(何かこいつ……放っておけない気がするんだよね。なんでかはわかんないけど……)
そいつの目の奥にある、あの狂気にも見える執念。あれは、ただ強くなりたいって奴の目じゃない。
何があっても、誰かを絶対に失いたくないって、命懸けで守ろうとしてる奴の目だ。
……大昔に、オイラの前からいなくなっちゃった、世界で一番大好きだったあいつのことを、思い出しちゃうような、そんな目。
だから、オイラはそいつの千切れた腕をじっと見つめてから、にっと口を大きく開けて笑ってみせた。
オイラの遊びはめちゃくちゃに厳しいぞ?毎日ボロ雑巾みたいになるまで、お前のそのバラバラの細胞を、一分の狂いもなく完璧に均してやるからな。
お前が守りたいものを、オイラみたいにどこかへ無くしてしまわないように。
バンビーノは既に恋人、バンビーナを亡くしている。
二鳥はこれから、愛する妻カカを亡くすかもしれない。
バンビーノは恋人を失う痛みと悲しみをしっている。
二鳥は恋人を失うかもしれない恐怖に怯えている。
「恋人を失ったバンビーノなら、俺の気持ちを理解してくれるかもしれない」
「八王一の問題児だからこそ…バンビーノは俺の味方になってくれるかもしれない」
皆さんはどっちだと思います?二鳥は…
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攻め?
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受け?