ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《王録》 八章 十節
『橋守は夜ごと灯を伏せ、渡るべき影だけを残す。』
煙は、風を選べない。
南東林の奥へ落とした煙弾は、最初の数分だけこちらの味方をした。白い幕は枝の間でふくらみ、敵の値を隠し、担架二を旧水路へ逃がした。
そのあと、風が変わった。
湿った風が、煙を低地側へ押し戻す。
青杭四番の先で、白が薄く伸びた。戻送線を隠すための煙が、今度は戻送線の形をなぞり始めている。
「風向き、変化。南東から西寄りです」
通信兵が報告する。
若い声だった。昨日、青い塗料を手につけていた兵だ。今日は爪の間だけが少し青い。
「ありがとう。青は落ちにくいですね」
「少尉案の色です」
「正式名を増やさないでください」
通信兵は、符号板から目を離さないまま口元だけを動かした。
僕は地図の上で、青杭四番から五番の線を消した。
実際に消えるわけではない。紙の上で一度、戻る場所を捨てるだけだ。
「青杭五番、使用停止。旧水路枝線へ切り替え。工兵班に、五番を抜かずに倒すよう伝えてください」
「抜かずに倒す、ですか」
「抜くと、そこが標識だったと分かります。倒れていれば、ただの失敗に見えます」
「了解。失敗に見せる」
「できれば、上手な失敗でお願いします」
復唱のあと、通信兵が少し笑った。僕は青鉛筆を置き、赤鉛筆を取る。
南東林の奥で、値が増えた。四つだったものが、七つ。
そのうち二つに、薄い「HP」の文字がついた。人間。低い。けれど、足は止まっていない。
負傷者を前へ出している。
敵の指揮官がいる。
「敵斥候、七へ増加。二名負傷表示。距離、一・一キロ。負傷者を前に出しています」
「囮ですか」
書記官が聞いた。
「囮か、拾わせるための針です。どちらでも、こちらの戻送線へ近づける意図は同じです」
言いながら、舌の裏に苦いものが残った。負傷者。こちらなら、青杭へ通す。
あちらは、青杭を探すために前へ出す。同じ言葉が、こちらとあちらで逆の意味を持っている。
「第一梯団、発砲許可を再申請」
「保留。水車小屋方面、待機してください」
「水車小屋、待機」
通信具の奥で、別の兵が息を吐いた。
遠い。
遠いのに、耳の近くで聞こえる。
「山崎さん」
「煙、追加?」
「追加しません。煙はもう道を描いています」
「嫌な描き方するな」
「僕も嫌です」
山崎くんが短く笑う。
その笑いの後ろで、砲兵の符号が小さく鳴った。
「敵の後列に、推定観測手。一。木の根元。枝の影で低い姿勢です」
「そこ、砲で潰す?」
「潰しません。砲を使うと林が開きます。小銃班で足を止めます」
砲兵回線が一度、無音になった。
「了解。今日は撃たせてもらえない日だな」
「山崎さんが我慢できたら、記録に残します」
「それは不名誉記録だろ」
「戦果より読まれるかもしれません」
通信兵が、符号板に手を置いたまま肩を小さく震わせた。
笑いすぎると、次の報告が遅れる。それでも、少し場が軽くなる。軽くなった場所へ、数字が入ってきた。
負傷表示の一つが、下がる。「HP 18」
見えた。今までは薄かった文字が、輪郭を持った。
生命、という大きな括りより、ずっと乾いている。十八。残り。目盛り。水筒の底に残った水みたいに、数字だけがそこにある。
敵兵は膝をついた。
もう一人が肩を貸す。
その後ろで、観測手の値がこちらへ向いた。
「射手長へ。前の二名は撃たない。後ろ、木の根元。推定観測手の足元へ一発。命中させないでください」
「足元」
「はい。右足の外、半歩。外してください」
返答が遅い。
外せという命令は、当てろより難しい。
射手長の声が返った。
「外します」
乾いた銃声。南東林の木の根元で土が跳ねた。観測手の値が伏せる。
同時に、負傷者二名が止まる。止まった。
止まっただけで、旧水路枝線の担架一が動ける。
「担架一、旧水路枝線へ入ります」
「速度を上げないでください。走ると、道が割れます」
「速度維持」
僕は青鉛筆を戻す。青杭五番を倒す。枝線へ回す。
負傷者は撃たない。観測手は殺さない。ここまでは、まだ選べる。
敵の後列で、別の値が膨れた。「精神」。ラベルだけが一瞬出て、消える。
次に「HP」が出た。高い。
人間にしては高い。中英雄クラス。
南東林の奥で、一つの値が前へ出る。負傷者の後ろ、観測手のさらに後ろ。歩幅が違う。林の枝を避けていない。濡れた枝が折れる音が、遅れてこちらの天幕まで届いた気がした。
「新規接近。一。中英雄級相当。距離、一・三キロから前進。敵負傷者を越えてきます」
通信台の空気が変わる。
誰かが椅子を引いた。木が擦れる音がした。
「前線まで」
「九百。青杭四番まで六百。旧水路枝線まで七百弱」
「装甲は」
「なし。結界反応、薄い。本人起動型か、携行装備です」
胸の内側が、冷たくなった。
あれは、こちらを見ている。
戻送線ではなく、僕のいる後方接続点を見ている。
たぶん、指揮所を探している。
「第一梯団へ。発砲禁止解除。ただし、正面射撃はしないでください。足元、泥の前。進路を重くします」
「第一梯団、足元」
「結界班、板状障壁を水車小屋前へ。隠すためではなく、相手の結界に触れさせるためです」
「触れさせる」
「はい。こちらの結界面で、相手の起動を乱します。押し返そうとしない」
結界班長の返答は短かった。
「了解。押さない」
「井上さん」
通信具の向こうで、少し高い声が返る。
「はい」
「医療線の札を一つ戻してください。枝線の入口、青布を外す。今、青は読まれています」
「外します」
通信兵は青布へ手を伸ばしかけた。
「手袋をして。塗料、落ちにくいので」
「そこですか」
「大事です」
井上さんが、小さく笑った。すぐに、走る足音へ変わる。中英雄級の値が、前へ出る。
敵の負傷者二名を越えた。観測手も越えた。
自分の部下を置いて、こちらへ来る。僕は赤鉛筆を握り直した。
「山崎さん。砲兵、撃てますか」
「待ってました」
「まだ待ってください」
山崎くんの返事が途切れた。
「おい」
「相手が水車小屋前の結界に触れてからです。接触音が入ったら、後方二十。榴弾ではなく、榴散。足を止めるだけ」
「殺さない?」
通信具の向こうが、少し低くなる。僕は地図を見た。青杭。
旧水路。担架。井上さんが外すはずの青布。
敵負傷者二名。推定観測手。その全部を越えてくる、一つの高い値。
「止まらなければ、殺します」
言葉は、滑らかに出た。
赤鉛筆の先が、地図の上で折れた。
「了解」
山崎くんは、それ以上軽口を足さなかった。
水車小屋前で、白い結界面が立つ。
切れ目のない薄い板が、雨を受けて淡く光った。
中英雄級の値が、そこへ触れた。
音は、金属ではなかった。
濡れた布を強く引いたような、嫌な音。
相手の結界が、こちらの板に重なる。形は見えない。けれど、数字が乱れた。「精神」の文字がまた一瞬だけ出て、次に「HP」が太くなる。
「今です。後方二十、榴散一」
「撃つ」
砲声。
着弾。
水車小屋の向こうで、泥と細かい破片が跳ねた。
中英雄級の値が止まる。止まっただけでは足りない。相手は膝をつき、すぐに立った。
「HP」が減っている。減ったのに、前へ出る。僕は、その数字を目で追ってしまった。
十八ではない。もっと多い。まだ多い。
「第一梯団、足元射撃。二発まで。射線を上げない」
「第一梯団、二発」
銃声が二つ。敵の足元で泥が跳ねる。中英雄級は一歩だけ遅れた。
それでも進む。僕の口の中で、鉄の味がした。
「射手長へ。胸ではなく、右肩。結界の薄い側。徹甲弾、一」
通信兵が、一瞬だけこちらを見る。
僕は地図から目を離さない。
「右肩です。戦闘継続能力を落とします」
射手長の返答。
「撃ちます」
銃声は一つ。
値が跳ねた。
「HP」が削れる。
相手の右腕が落ちる。落ちた腕に、短い剣のようなものが見えた。泥へ刺さり、雨水が刃を流す。
中英雄級は、まだ立っている。
でも、前へ出ない。
初めて、後ろを見た。
「敵中英雄級、停止。右肩損傷。前進意図、低下」
僕は言った。
声が、いつもより少し低かった。
「追撃は」
「しません」
即答できた。
「敵負傷者二名、観測手一、後退路を開ける。第一梯団、撃つな。結界班、板を維持。砲兵、次弾装填だけ」
通信が重なる。撃つな。維持。
装填だけ。敵は、下がった。
中英雄級の値も、負傷者二名も、煙の向こうへ沈む。
林の奥で、数字が薄くなる。
消えたわけではない。
見えなくなっただけだ。
✶
戦果表には、今度はもっと短く載らない。敵中英雄級一、前進停止。敵負傷、少なくとも一。
味方損害なし。戻送線、維持。書記官が、そこでペンを止めた。
「右肩損傷は入れますか」
「入れてください。撃ったのは、こちらです」
「撃破ではなく」
「損傷です」
書記官は頷き、字を直した。
敵中英雄級一、右肩損傷、後退。
その文字が紙に乗る。
僕の喉の奥で、さっきの鉄の味がまだ残っていた。
「少尉、青布、外しました」
井上さんの声が入る。
少し息が上がっている。
「ありがとうございます。手袋は」
「青くなりました」
「では、今日の正式装備です」
「本当にそう書きますよ」
「書かれる前に、戻ってきてください」
返事は、少し遅れて来た。
「戻ります」
僕は青鉛筆を持った。
旧水路枝線に、細い線を引く。
さっきまで使っていた五番の線は、紙の上で消したままだ。
道は一つ減った。
その代わり、戻った人がいる。
敵も、死なずに下がった。
そのはずなのに、僕の目の奥には、撃たれた右肩の数字だけが残っている。
「HP」
減った数字。
僕が減らせと言った数字。
通信台の向こうで、誰かが次の報告を読み始める。
僕は返事をした。
明るく聞こえるように。
聞こえたかどうかは、分からない。
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