ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《王録》 八章 十一節
『秤の皿は空に見えても、指先は重さを忘れない。』
右肩を撃たれた敵は、死ななかった。
それは、戦果表の上では良いことになっている。
敵中英雄級一、右肩損傷、後退。敵負傷者二、後退確認。
味方損害なし。戻送線、維持。
四行を見れば、よくできた処理に見える。撃破より軽く、撤退より確実で、こちらの担架も戻っている。
紙の上では、そうだ。
僕の口の中には、まだ鉄の味が残っていた。
「少尉、医療線の札、戻りました」
井上さんの声が通信具から入る。
息は少し落ち着いている。走った後の声ではなく、走った後に無理やり整えた声だった。
「ありがとうございます。手袋はまだ青いですか」
「青いです」
「では、洗わずに残してください。次に誰かが迷った時、目印になります」
「人間を標識にしないでください」
「すみません。便利そうだったので」
井上さんが短く笑う。
その笑いの奥で、誰かが担架を下ろす音がした。布と木が湿った地面へ触れる、低い音だ。
戻った。
戻った人がいる。
僕は、そのことを先に数える。
そうしないと、撃った方の数字を数え始める。
✶
昼を過ぎるころ、敵はもう一度来た。同じ南東林ではない。北東の低い丘、折れた柵の向こう。
距離、二・二キロ。値、十五。
歩兵だけではない。前に三、後ろに十、左右へ一つずつ散っている。中央後方に、濃い値が一つ。
「北東丘から新規接近。敵十五。前衛三、後列十、側面二。中央後方に英雄級相当、一」
通信兵が復唱する前に、別の報告が重なった。
「第一梯団、弾薬残り確認。十ミリ通常弾、残り少。徹甲弾は温存指示中」
「第二梯団、前進継続可。ただし低地縁で詰まりあり」
「医療線、担架三、旧水路枝線へ入ります」
情報が増えると、地図は狭くなる。
赤い札、青い線、黒い点。
そこに人の声が重なる。
僕は青鉛筆を置き、黒鉛筆で北東丘の縁に小さな丸をつけた。
「敵の目的は、こちらの弾薬反応の確認です。さっき中英雄級を止めたので、徹甲弾の残量を探っている」
「撃たせたい、ということですか」
書記官が聞く。
「はい。こちらが徹甲弾を使えば、次に装甲を出せます」
「使わなければ」
「英雄級が近づきます」
返事が詰まりそうになった。
詰まる前に、通信具を取る。
「水車小屋方面、聞こえますか」
「聞こえます」
現地小隊長の声。昨日から少し嗄れている。
「前衛三を、倒さないで止めます。土手手前の泥へ通常弾。二発ずつ。射線を人に上げないでください」
「了解。泥へ二発ずつ」
「結界班、北東丘側へ板状障壁を二枚。縦ではなく斜め。敵から見て、こちらが小さく見える角度で」
「小さく」
結界班が、板の角度を取り直した。
「はい。弱そうに見せます」
「それ、怒られませんか」
「僕が怒られます」
「なら、やります」
通信台の周りで、少し笑いが起きる。
笑いは軽い。
地図の上の黒い丸は、軽くない。
「山崎さん」
「今度こそ撃つ?」
「まだです。砲兵は丘の裏へ照準だけ。撃つ前に、相手の後列が左右へ割れるか見ます」
照準値を読む声だけが、回線の奥で続いた。
「少尉、今日は本当に我慢大会だな」
「優勝候補です」
「うれしくない」
「僕もです」
山崎くんの笑いが、すぐ符号に変わる。砲兵が動く。
撃たない砲兵は、音が少ない。その少なさが、かえって怖い。
✶
北東丘の敵前衛三が、土手へ入った。銃声。泥が跳ねる。
前衛三の足が止まる。止まった瞬間、中央後方の英雄級が動いた。速い。
前衛を追い越すのではない。前衛が止まるのを合図に、側面二を内側へ寄せる。こちらに撃たせるのではなく、こちらの射線を折りたたませる動きだ。
「敵英雄級、側面二を内へ寄せています。包む動きではありません。射線確認。こちらの火点を探っています」
「火点三、撃ちますか」
「撃たない。火点三は死んだふりをしてください」
火点三の銃口が、土嚢の陰へ下がった。
「死んだふり」
「できるだけ退屈そうに」
「難しい注文ですね」
「戦場なので」
少し前なら、その言い方は硬すぎた。今は、通信兵が一つだけ息を漏らした。僕は地図の火点三に、鉛筆の尻を置く。
撃たない場所を押さえる。撃つ場所より、ずっと指に力が入る。敵英雄級が、火点三を見た。
見た、というより、値の向きが変わった。次に、こちらの青杭線へ視線を滑らせる。視線ではない。
でも、そう見えた。薄い文字が、敵の頭上に出る。奥の表示。
初めて見るラベルだった。「精神」より硬い。「HP」より遠い。
人の中で、まだ折れていない部分を示すような文字。
その値が、こちらを選んだ。
「敵英雄級、こちらの戻送線を選択。青杭四番ではなく、旧水路枝線へ寄ります」
自分の声が、少し速い。
「井上さん、旧水路枝線から離れてください。青布を戻さない。今は何も目立たせない」
「了解」
「走らないで」
「走りません」
返事が来る。でも、足音は速い。僕は赤鉛筆を取った。
敵英雄級の進路に、短い線を引く。止める。
殺さない。でも、止める。
「第一梯団、徹甲弾を使います」
通信台の周りが止まる。
「目標は敵英雄級ではありません。側面二のうち、右側の結界補助具。結界面に当てる。人には当てない」
「結界補助具」
「はい。相手を折るのではなく、選んだ道を消します」
自分で言った言葉が、地図の上に落ちる。
落ちた言葉は、拾えない。
「射手長、徹甲弾一。右側面、結界補助具。外装だけ」
「撃ちます」
銃声。
結界が白く歪んだ。
面は途切れない。けれど、面全体が震え、敵の右側面が一歩下がる。
英雄級の奥の表示が揺れた。
折れてはいない。
ただ、選択が遅れた。
「山崎さん。丘裏、煙ではなく土煙。砲弾一。後列十の前、五十」
「殺傷なし?」
「足止めです」
「了解。足を汚す」
砲声。
丘裏の乾いた土が、雨の中で濁った煙になる。
後列十が止まる。
前衛三も、側面二も、英雄級も、同じ場所に入れなくなった。
敵の形が崩れる。
崩れた瞬間、こちらの第二梯団が低地縁を抜ける。
「第二梯団、詰まり抜けました」
「医療線、担架三、旧水路枝線から後方へ」
「第一梯団、損害なし」
報告が続く。
報告の奥で、敵英雄級の奥の表示がまだ残っている。
強い。削ったのは装備だけだ。相手はまだ来られる。
それでも、今日は来ない。そこまでを読んで、僕は赤鉛筆を置いた。
「追撃なし。火点三、死んだふり継続。第一梯団、弾薬残数を隠してください。空箱を二つ前へ。中身のある箱は後ろへ」
「空箱を前へ」
「はい。こちらが困っている顔をします」
「本当に困っているのでは」
「そこは演技力でお願いします」
現地小隊長が笑った。
嗄れた声でも、笑いは分かる。
僕は、その声を聞きながら、敵の奥の表示を見ていた。
まだ折れていない。
こちらも、折れていない。
折れていないもの同士が、地図の上で向かい合っている。
✶
戦闘が終わった後、書記官は戦果欄の前で迷った。
「敵英雄級一、進路変更。敵結界補助具一、損傷。敵後列十、停止。味方損害なし。第二梯団、低地縁通過」
「それでお願いします」
書記官が戦果欄の空きを指で示した。
「撃破、捕縛ともになし」
「ありません」
「しかし、作戦上は大きい」
「はい」
書記官のペン先が紙に触れる。その時、僕の視界の端に、文字が出た。敵ではない。
地図でもない。僕の左手のあたり。手袋の上に、薄く。
左手の古い表示。すぐ消えた。次に、もっと薄く奥の表示が出た。
それも消えた。僕は手を動かせなかった。
「少尉」
通信兵が呼ぶ。
僕は返事をする。
「はい。読めます」
「まだ何も言ってません」
「では、先に読んだということで」
通信兵が笑う。
書記官も、ペンを止めずに口元だけを緩めた。
僕は左手を、地図の下へ入れた。隠したのではない。そう言えるほど、上手くはなかった。
手袋の下で、指先が少し冷えている。敵を殺していない。味方も死なせていない。
それなのに、何かが僕の中へ戻ってきた。戦果表には、書けないものだった。たぶん、書いたら、もっと読めなくなる。
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