ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《王録》 八章 十三節
『門番は鍵を預かるが、夜明けまで門の前に立つとは限らない。』
敵は、こちらの癖を覚えていた。
撃たない場所、張りすぎない結界、戻送線を先に守る順番。補給線を詰まらせれば、こちらが人を動かすこと。
その全部を、一日で読んだわけではないはずだ。昨日の煙、今日の青杭、南低地の荷車。細かい失敗と成功を、向こうも拾っている。
戦場は、こちらだけが学ぶ場所ではない。
「北東丘、動きなし」
「南低地、敵後退後、再集結なし」
「旧水路、通行可」
報告だけを聞けば、少し静かだった。
静かすぎた。
僕は地図の右端に、まだ何も置かれていない湿地帯を見た。葦が倒れた場所。水路ではなく、ただ水が溜まっているだけの低い土地。荷車も担架も通さない。
だから、昨日までは読まなくてよかった場所。
敵が来るなら、そこだ。
「南西の湿地帯、確認できますか」
通信兵が符号板を見た。
「そこは観測線が薄いです。水車小屋の裏からなら一部見えます」
「水車小屋裏の班へ。湿地帯、葦の倒れ方だけ確認。人影を探さないでください。葦を見ます」
「葦を」
「はい。人を見ると遅れます」
復唱が返る。数十秒。
雨の音が、天幕の布を叩く。水車小屋裏の班から報告が来た。
「葦、三列倒れています。風向きとは逆」
僕は赤鉛筆を取った。
「敵、います」
言った瞬間、湿地帯の奥で値が出た。
薄い。薄すぎる。
魔導布か、結界で隠しているせいで数は読みにくい。それでも、歩幅だけは見えた。
前に一。後ろに、ばらけた十数。さらに後ろ、重い値が二つ。
「南西湿地、伏兵。前に英雄級一。後続歩兵、十から十五。後方に重機関銃または携行砲、二」
通信台の空気が変わる。
「距離」
「指揮所まで、九百。水車小屋まで、四百。青杭枝線まで、三百弱」
「近い」
書記官が言った。
近い。近すぎる。
敵は、こちらの遠い戦い方を嫌って、こちらが嫌がる距離まで近づいてきた。
✶
敵の動きは、よく組まれていた。
先頭の英雄級が、低い板状結界を斜めに立てて進む。結界面は薄い。目立たない。けれど、弾の姿勢を乱すには十分だ。
後続歩兵は、その影に入らない。少し離れて、左右へ散る。
英雄の結界へ射線を集めれば、歩兵が湿地の縁から回り込む。歩兵を撃てば、英雄が一気に距離を詰める。
後方の重機関銃二つは、まだ撃たない。こちらが先に撃つのを待っている。
英雄歩兵共同戦闘。
教範の言葉なら、そう呼ぶのだと思う。
僕は地図の南西に、赤い札を三つ置いた。
「第一梯団、正面射撃禁止。水車小屋班、撤収準備。走らない。走ると撃たれます」
「水車小屋、撤収準備」
水車小屋の札が、作戦図の縁へ寄せられた。
「結界班、指揮所前へ板状障壁一。厚くしない。薄く、広く」
「指揮所前ですか」
「はい」
「少尉、ここに来ます」
通信兵の声が少し硬くなる。
「だから薄く広くです。厚くすると、ここが大事だと教えます」
「了解」
僕は立ち上がった。
椅子の脚が布敷きの上で鈍く動く。
「少尉」
書記官が呼ぶ。
「外へ出ます」
「なぜ」
「湿地の奥が、ここからだと足りません。水車小屋裏の視界を借ります」
「危険です」
「はい」
それ以上、言えることはない。
危険だから、外へ出る。
ここに残れば、誰かが遅れる。
「通信兵、僕の声は中継二へ。井上さんには、青杭枝線を一度閉じるよう伝えてください」
「少尉は」
「水車小屋裏。二分で戻ります」
「二分」
通信兵は時計板の針を確かめた。
「戻らなかったら、三分で怒ってください」
「怒るだけですか」
「できれば、引き戻してください」
通信兵は、笑わなかった。
符号板へ伸ばした指だけが、少し速い。
でも、符号板へ手を伸ばす動きは止まらない。
僕は天幕の外へ出た。
✶
雨は細い。
顔に当たると、冷たいというより邪魔だった。頬を伝って、顎の下へ落ちる。泥は靴底に薄く張りつき、二歩目から重くなる。
水車小屋までは、遠くない。
でも、指揮所の布一枚を出ただけで、音が違う。
通信具の声が遠い。
銃声が近い。
僕は背中のGR-370-1080-Aを下ろした。
重い。
前よりは、重さを知っている。
それが嫌だった。
「少尉、聞こえますか」
耳元の小型通信具から、通信兵の声。
「聞こえます。南西湿地、前進継続。英雄級、距離三百八十」
「三百八十」
「後続歩兵、左右へ分散。左六、右七。重機関銃二、まだ射撃なし」
水車小屋裏へ入る。
濡れた木の匂いがした。古い油と、湿った粉。壁板の隙間から湿地帯が見える。
葦が倒れている。その奥で、値が動く。英雄級の奥の表示が見えた。
硬い。その後ろの歩兵たちは、硬くない。揺れている。
でも、前へ出る。英雄が前にいるからだ。
「第一梯団、左六は撃たない。右七を止めます。右側の三人、足元。残り四人には撃てるだけ見せる」
「復唱。右七、足元三。残り見せる」
「山崎さん、重機関銃二の後ろ、土煙一。まだ当てない」
「了解」
砲声。湿地の奥で土が上がる。重機関銃二つの値が揺れた。
英雄級は揺れない。こちらへ来る。
僕の方へ。水車小屋裏へ。
「少尉、英雄級がそちらへ寄っています」
「見えています」
見えすぎる。「HP」。
奥の表示。その二つが重なっている。
その下に、細い文字がもう一つ滲んだ。状態、要確認。読み切る前に、敵の足が速くなった。
結界反応、薄い。本人起動型。携行具は腰。右手に短剣。左腕に小型結界具。
距離、二百四十。
速い。
「結界班、水車小屋前へ板一。僕と敵の間ではなく、敵と後続歩兵の間へ」
「少尉を守らないのですか」
「後続を切り離します」
「了解」
白い面が、湿地の縁へ立つ。面は途切れない。英雄級だけが、こちら側に残る。
後続歩兵が遅れる。敵英雄は、それでも止まらない。近い。
距離、百八十。百五十。
僕は途中で弾倉を交換していた。GR-370-1080-Aの弾倉を確認する。
三発。徹甲弾。敵の結界を抜けるかは、角度次第。
抜けても、殺せるかは別。殺せるか。その言葉が、喉に引っかかった。
「少尉、戻ってください」
通信兵の声。
「戻ると、後続が合流します」
「でも」
「二十秒ください」
「少尉」
「十九秒で済ませます」
僕は膝をついた。泥が膝に染みる。銃床を肩へ入れる。
視界の端で、左手に薄い文字が出た。奥の表示。敵ではない。
僕のもの。邪魔だ。今は、邪魔だ。
僕は照準を下げる。胸ではない。腰の結界具。
撃つ。反動が肩へ入った。結界面が白く歪む。
抜けない。でも、敵の左側が遅れた。二発目。
腰の結界具、少し下。撃つ。金属片が飛んだ。
敵の結界が薄くなる。敵英雄が踏み込む。距離、七十。
右手の短剣が見える。短い。
人を殺すには、十分。後続歩兵が結界面の向こうで止まっている。
こちらの第一梯団は撃てない。撃てば僕に近すぎる。
山崎くんの砲も使えない。水車小屋の壁がある。僕が撃つしかない。
戦闘室を狙っているつもりだったのに、狙いが逸れているのか、逸らしているのか自分でも分からなくなっていて、気づいた時には指の方が先に、まだ止まっていない一人の人間の胸へ照準を合わせていた。
三発目。胸。戦闘室ではない。
人間だ。胸。僕は息を止めなかった。
止めたら、たぶん撃てなかった。撃った。
結界は薄くなっていた。徹甲弾は、白い面を抜けた。
敵英雄の胸の中心から、泥より濃い色が出る。
値が落ちた。「HP」。落ちる。
落ちる。落ちる。「0」。
敵は、前へ倒れた。僕の方へ倒れた。水車小屋の湿った床板が、血で黒くなった。
止まった。
短剣は届かなかった。後続歩兵も、結界の向こうで足止めされたままだ。
息が、大きく一つ抜けた。肩の力が、腕の先まで抜けていく。
届いた。
✶
「敵英雄級、停止」
僕は言った。
声が出たことに、少し遅れて気づく。
「停止、ですか」
通信兵の声が震えている。
「死亡。僕が撃ちました」
言葉にすると、逃げる場所がなくなった。
通信具の向こうで、誰かが息を詰める。
「後続歩兵は」
「結界で分断中」
僕は銃を下ろせないまま、湿地を見る。後続歩兵の値が揺れている。英雄が倒れた。
支えが消えた。彼らはまだ生きている。
「第一梯団、後続歩兵へ発砲禁止。退路を開ける。水車小屋前の結界は維持。山崎さん、重機関銃二の後ろへ煙一。追わせない」
「了解。煙一」
山崎くんの声は、いつもの軽さを失っていた。
砲声。煙。後続歩兵が下がる。
重機関銃二も下がる。敵は、英雄の死体を拾えない。僕の前に残る。
水車小屋の床に、敵英雄の体がある。近い。近すぎる。
頭上の数字はない。もう、ない。代わりに、僕の左手に文字が出た。
左手の古い表示。今度は消えない。細い目盛りが、一本では済まない。
奥の表示。その文字も濃い。僕は銃を下ろした。
手が少し遅れて震えた。撃つ前ではない。
撃った後に震える。それが、余計に嫌だった。
震える手の甲に、薄い文字が滲んだ。「STR」、低下。誰のものか、一瞬だけ迷った。自分のものだと分かるまでに、数拍かかった。
「少尉、戻れますか」
通信兵が聞く。戻れる。立てる。
歩ける。そういう問題ではない。
「戻ります」
僕は答えた。
「ただ、担架を一つ。敵兵用です」
「敵兵用」
「はい。死体を泥に置いたままだと、後続が取りに来ます」
「了解」
通信兵の声が、少し戻った。
「少尉」
「はい」
「三分、過ぎています」
僕は水車小屋の壁に手をついた。
濡れた木が冷たい。
「では、怒られに戻ります」
通信兵は笑わなかった。
でも、返事は来た。
「戻ってください」
僕は敵英雄の体を一度見た。顔は泥で半分隠れている。年齢は分からない。
たぶん、僕より上だ。でも、父親ほどではない。その程度のことしか分からない。
僕は歩き出す。左手の文字は、まだ消えない。雨が手袋を濡らしても、消えない。
水車小屋から指揮所までの道は、来た時より短かった。
短かったことが、いちばん嫌だった。
――――――――
面白かったら、下記のリンクから評価やレビューをいただけると嬉しいです。
https://kakuyomu.jp/works/822139841314440520/reviews