ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~   作:ハルキーノ

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八章十四話 手袋の下

《王録》 八章 十四節

『手を洗う水は、井戸の底まで澄ませはしない。』

 

 指揮所へ戻るまで、誰も僕に触れなかった。怪我をしていないからだ。銃も持てる。

 

 歩ける。返事もできる。

 

 だから、誰も肩を貸さない。その方がいい。

 

 今誰かに支えられたら、たぶん本当に立てなくなる。

 

「少尉、戻りました」

 

 通信兵が言う。

 

 本人に向けた報告なのか、周囲への報告なのか、一瞬だけ分からなかった。

 

「戻りました。三分は、少し越えました」

 

「かなりです」

 

「では、かなり怒られます」

 

 通信兵は、そこでようやく息を吐いた。

 

 笑いにはならない。

 

 でも、声が戻る。

 

「怒るのは後です。水車小屋前、敵後続歩兵、撤退中」

 

「追わせないでください」

 

「復唱済みです」

 

「ありがとうございます」

 

 僕は地図の前に座った。椅子が低い。さっきまでと同じ椅子なのに、少し低い。

 

 左手の手袋には、まだ文字が出ている。左手の古い表示。その下に、細い目盛り。

 

 奥の表示。こちらは、前よりも濃い。手袋を脱げば消えるかもしれない。

 

 そう考えて、脱がなかった。消えなかった時に困る。

 

「戦果欄を確認します」

 

 書記官が言った。

 

 声は仕事の声だった。

 

 僕は頷く。

 

「敵英雄級一、死亡。敵歩兵、撤退。敵重機関銃二、撤退。味方損害なし。水車小屋前線、維持」

 

「敵英雄級の遺体は」

 

「担架待ちです」

 

「記録してください。敵遺体一、回収予定。泥中放置せず」

 

 書記官のペンが止まる。

 

「戦果欄に入れますか」

 

「補記で」

 

「了解」

 

 ペンが動く。敵英雄級一、死亡。僕が撃った。

 

 その二語は、戦果欄に入らない。入れなくても、消えない。

 

 

 水車小屋から敵英雄の遺体を運ぶ担架は、味方用とは別の布を使った。

 

 敵味方を分けるためではない。

 

 血の量が違ったからだ。

 

 濡れた布は重くなる。

 

 担架を持つ兵の腕に、泥と血が混じって落ちる。

 

 僕は天幕の入口からそれを見た。見ない方がいい。見た方がいい。

 

 どちらも、間違っていない。だから、足が動かなかった。

 

「少尉、見なくても」

 

 通信兵が小さく言った。

 

「見ます」

 

「はい」

 

「僕が撃ったので」

 

 通信兵は何も言わなかった。

 

 符号板を抱えたまま、天幕の端に立っている。

 

 敵英雄の顔は、泥を拭われていた。年齢は、やはり分からない。僕より上。

 

 父親ほどではない。それ以上の情報は、今もない。

 

 額の横に、小さな傷がある。古い傷だ。今日のものではない。左の耳に、黒い糸で縫った跡。首元の革紐には、薄い金属片が一つ下がっていた。

 

 識別票か。

 

 守り札か。

 

 こちらからは読めない文字が刻まれている。

 

「それも記録へ」

 

 僕は言った。

 

「敵遺体、首元に金属片一。文字あり。回収時、破損させない」

 

 通信兵が復唱する。

 

 僕は左手を握った。

 

 左手の古い表示が、握った布の内側でまだ見える。

 

 手を閉じても、隠れない。

 

 

 敵は、その後すぐには来なかった。来なかった代わりに、遠くで動いた。北東丘の後退線。

 

 南低地の後方。南西湿地の奥。三つの場所で、薄い値が集まっては離れる。

 

 会議をしている。地図の上では、そう見えた。

 

「敵、再編中。北東、南低地、南西湿地で指揮単位の入れ替えがあります」

 

「こちらへすぐ来ますか」

 

 書記官が聞く。

 

「来ません」

 

 言い切った後で、理由を探す。理由は、見えている。敵の奥の表示が、こちらへ向いていない。

 

 こちらを見る前に、互いを見ている。英雄級を一人失った。それを誰の失敗にするか、決めている。

 

「彼らは、こちらより先に自分たちの中を見ています」

 

「派閥ですか」

 

「たぶん。作戦は合理的でした。でも、失敗した後の処理は速くない」

 

 言いながら、帝国という名前を思う。

 

 思うだけにする。

 

 今、敵の内情まで言葉にすると、僕が偉くなったように聞こえる。

 

 実際には、僕は一人撃っただけだ。一人。でも、その一人は英雄級だった。

 

 敵の動きが変わる。味方の声も変わる。

 

 水車小屋から戻ってから、通信兵は僕を呼ぶ時に一度だけ息を整えるようになった。

 

 書記官は、僕の左手を見ない。

 

 見えていないはずなのに、見ない。

 

 それが、いちばん困る。

 

「少尉」

 

 今度は、外から下士官が入ってきた。

 

 橋梁線で、英雄は血の後に強くなると言った人だ。

 

 袖に泥がついている。

 

 膝にも、乾きかけの草が付いていた。

 

「水車小屋前の件、現地班から報告です」

 

「お願いします」

 

「敵英雄級の結界、二発目で薄くなったそうです。三発目が入ったのは、結界HPが尽きたからではなく、本人が踏み込んだからだと」

 

「そうですか」

 

「つまり、少尉は相手が踏み込む場所を待って撃った」

 

 僕は返事をしなかった。

 

 下士官は、続ける。

 

「偶然ではない、と班は見ています」

 

「班の評価は、過大です」

 

「過大なら、全員が気楽です」

 

 下士官の声は乾いていた。

 

「少尉」

 

「はい」

 

「あなたは、英雄ではないと言いました」

 

「言いました」

 

「今も、そう言いますか」

 

 天幕の布が、雨で少し沈んでいる。

 

 その下で、僕の左手だけが熱を持っていた。

 

「言います」

 

 下士官は頷いた。

 

「では、そういうことにしておきます」

 

「助かります」

 

「ただ、敵はそう見ません」

 

 その言葉だけを置いて、下士官は出ていった。

 

 足音は泥に吸われる。

 

 天幕の内側に、短い匂いだけが残った。濡れた革と、火薬と、汗。

 

 

 夕方前、森田さんから通信が入った。

 

 音は少し悪い。

 

 後方線が混んでいるのだろう。

 

「羽黒くん」

 

「はい」

 

「水車小屋前の戦闘記録を読みました」

 

 机の端には、まだ乾いていない同じ記録がある。

 

「早いですね」

 

「嫌な記録ほど早く来ます」

 

「では、次から楽しい記録だけ送ります」

 

「無理を言わないでください」

 

 森田さんの声は、いつもより疲れていた。紙をめくる音がする。

 

 図書館の紙ではない。軍務局の紙だ。

 

「直接撃ったのですね」

 

「はい」

 

「必要でしたか」

 

「必要でした」

 

 そこで、音が消えた。

 

 遠くの回線のざらつきだけが残る。

 

「あなたがそう言うなら、必要だったのでしょう」

 

「私が間違っている可能性はあります」

 

「あります」

 

 即答だった。

 

 その即答で、少し呼吸が戻る。

 

「だから、記録を残してください。あなたが正しかった証拠ではなく、誰かが後で疑える形で」

 

「はい」

 

「それから」

 

 森田さんの声が、少し低くなる。

 

「体調に変化は」

 

 左手の文字が、布の下で濃くなる。見えないはずのものが、見える。言うべきか。

 

 言わないべきか。言えば、記録になる。

 

 記録になれば、僕の身体も運用対象になる。言わなければ、僕が見落とす。

 

「左手に、表示があります」

 

 通信台の周りで、音が止まった。

 

 僕は続ける。

 

「読みにくい二つの表示。敵ではなく、私の手元です。水車小屋前の後から消えません」

 

 森田さんは、すぐには返さない。

 

 今度は、紙の音もしない。

 

「痛みは」

 

「ありません」

 

「視界の乱れは」

 

「あります。けれど、読めます」

 

 目の奥に、薄い砂を入れられたようなざらつきが残っている。瞬きをしても取れない。

 

「読めることを、良いことにしないでください」

 

「はい」

 

「その表示は、今は誰にも見せない。記録は私の私信扱いで残します。公式記録には入れません」

 

「隠しますか」

 

「守ります」

 

 森田さんは、そう言った。守る。

 

 その言葉は便利すぎる。でも、今は拒めなかった。

 

「分かりました」

 

「羽黒くん」

 

「はい」

 

「あなたは、強くなっています」

 

 左手の内側が、熱い。

 

「SAN」という字が、熱の下でうっすら光った気がした。確かめる前に、森田さんの声が続いた。

 

「それを、良いことにしてはいけません」

 

「はい」

 

 返事はできた。

 

 それ以外は、できなかった。

 

 

 夜になる前に、戦果表の写しが三枚作られた。

 

 一枚は師団司令部へ。一枚は軍務局へ。一枚は、この指揮所の箱へ。

 

 僕の手元には残らない。書記官が最後の写しを箱へ入れる。

 

「少尉、確認を」

 

「はい」

 

 僕は箱の中を見た。敵英雄級一、死亡。味方損害なし。

 

 水車小屋前線、維持。敵遺体一、回収予定。

 

 その下に、森田さん宛の私信番号は入っていない。

 

 僕の左手のことは、そこにない。

 

 ないのに、消えない。

 

「確認しました」

 

 箱が閉じられる。金具の音が、軽かった。僕は手袋を外した。

 

 指先は白い。雨で濡れて、冷えている。そこに、文字がある。

 

 手袋の下に、読みにくい二つの表示が残っている。

 

 薄い目盛りが、二本。僕は手袋を戻した。

 

 符号板にも、薄い負荷の字が滲んでいた。通信機器の使いすぎか、僕の見間違いか、区別がつかない。

 

 手袋を戻した。布越しでも、二本の目盛りがある場所だけは分かった。

 

――――――――

 

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