ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《王録》 八章 二十五節
『余白に置かれた印は、進む者の足より先に迷う。』
試行開始から一時間、旧水路の鈴は鳴らず、青杭枝線の白札も出なかった。敵も味方も余計には動かない。その間に、机の上の記入項目だけが増えていく。
救護線は片手結び、結界再展開線は白札二秒。そこへ反対可能欄、実施前確認、戻し手順、中止符号が加わった。
机の上に置く紙が一枚増え、書記官がその端を押さえた。
彼は徹夜明けでも字が崩れない。すごい、というより怖い。左手の小指だけ、少しインクで黒くなっていた。
「少尉、反対可能欄は、反対があった場合だけ記入しますか」
「いえ。反対なしも書いてください。空欄だと、あとで誰も見なかったことになります」
「では、見たが反対なし、も記録します」
書記官は小さく頷き、欄の名を変えた。
反対可能欄。
その横に、確認者、反対有無、中止権者と細く追記する。
「中止権者まで要りますか。誰にします」
僕の名前を入れれば早い。けれど、それでは現場から止めるまでに僕の返事を一つ挟むことになる。
王城でも、似たような欄が増えていると聞いた。ランドマール殿下の裁可を経ずに動かせる決裁範囲がどこまでか、という話だ。王位継承の話がまだ済んでいないせいで、誰の印を先に取るかだけで一日潰れることもあるらしい。ここではその余裕がない。
「各線の班長です。救護線は救護班長。青杭枝線は工兵下士官。結界再展開線は結界班長」
「少尉ではなく」
「はい。私は線を動かします。止める人は、線の上にいる人にします」
背中が重くなる。書記官は僕の名前ではなく、三つの役職を書き込んだ。
「了解しました」
整った字で権限が僕の手元から離れても、左手の奥の表示は薄くならなかった。
✶
最初に中止権を使ったのは、救護班長だった。
場所は旧水路戻送路の二つ目の曲がり角。担架一、軽傷者二、付き添い一。鈴も片手結びも問題なく、敵影もない。それでも救護班長は止めた。
「救護線、中止符号」
通信兵は顔を上げ、そのまま理由と場所を続けて読んだ。
「担架の患者、呼吸不整。水路を通すより、その場で処置。曲がり角二の手前です」
地図上の曲がり角二は、敵からも味方からも見えにくい。止めるには悪い場所だが、それを見た上で救護班長が中止符号を出している。
「中止を承認。旧水路の鈴と帰り鈴は止めます。処置音を隠すため、水車小屋線で短い笛を二つ。山崎さんには撃たせないでください。砲声は大きすぎます」
「旧水路、鈴停止。水車小屋線、笛二つ。砲撃なし」
救護兵から通信が入る。
「少尉、止めます。怒られますか」
「止めてください。怒りません」
通信具の向こうで、担架の足が土に置かれる音がした。
「後で記録には」
「救護班長判断。呼吸不整。中止妥当。そう書きます」
通信の向こうで、包帯を引く音がした。
「妥当かどうかは、後で医師が決めます」
「では、今の欄は中止理由までにします。妥当は書きません」
「お願いします」
僕は書記官へ言う。
「妥当、削除。中止理由のみ」
「はい」
書記官は妥当の二字へ線を引いた。まだ乾いていないインクが横へ滲む。
現場が止めた理由に、机の上から評価まで足す必要はない。
冷えた湯を飲むと、苦味だけが舌に残った。
✶
次に止めたのは、青杭枝線の工兵下士官だった。南低地から歩兵四、推定観測手一。重機関銃も結界補助具もなく、予定では白札を二秒だけ見せる場面だった。
通信兵が工兵班の符号を読み直した。
「中止提案。理由は、風」
僕は天幕の入口を見る。
布が、さっきより少し南へ引かれている。
白札を出すと、結界面そのものは動かない。けれど、雨粒、草、水面、煙の流れが変わる。敵の推定観測手が見れば、面の角度を読める。
工兵下士官は、それを見ている。
「中止を承認。白札は出しません。代わりに、青杭六番の倒した土嚢を起こしてください」
「起こすんですか」
「敵に予定変更を見せます。白札は出さず、青杭六番の土嚢を起こす、と復唱してください」
「白札は出さない。青杭六番の土嚢を起こす」
僕は地図の青杭六番へ丸をつけた。白札なし。結界HP消費なし。工兵判断による中止、理由は風。それで記録には足りる。
土嚢が起きると、敵の推定観測手の値がそちらへ寄った。白札を待っていた目が、代わりに土嚢を追っている。
そこへ、救護線の中止で止まっていた旧水路の処置が終わった。
「救護線、再開可能」
「旧水路は鈴一だけ。帰り鈴はまだ止めてください」
小さな鈴が一度鳴る。敵の推定観測手は青杭六番の土嚢を追ったまま、旧水路を見ていない。
担架は水音に紛れて角を一つ曲がった。
「通過。まだ処置は終わってません」
救護兵の声は掠れていた。
「了解。続けてください」
通信が切れる。
通信兵が符号板を下げた。
「救護所は強いですね。少尉も、少しは怖がった方がいいです」
「喉は乾いています」
通信兵は僕の顔を見たが、納得しなかったらしい。
手袋の下では、読みにくい二つの表示が重い。喉が乾いても、声に出るより先に地図の数字を追ってしまう。手袋の中が遅れて熱くなった。
二つの表示の隙間に、もう一つ薄い字が浮きかけた。「状態」らしい形だったが、輪郭が定まる前に沈んだ。今は追えない。
✶
夕方、試行の結果をまとめた。
救護線は中止一、再開一、担架一通過。患者処置は現地判断。結界班は待機を維持し、容量を残したまま敵推定観測手を青杭六番へ誘導した。
味方損害、弾薬消費、砲兵消費はすべてなし。数字だけなら、空欄まできれいだった。
そのきれいな表の隅に、救護兵の髪紐がある。
その横には黒い鈴があり、工兵下士官の泥のついた棒が壁に立てかけてある。
髪紐の端には薬草の緑がつき、棒の先では乾いた泥がひび割れている。どちらも戦果表には入らない。
僕は書記官へ言った。
「試行結果に、反対と中止の行数を成功欄とは別に残してください」
「目立ちます」
「目立たせてください」
書記官は、ペンを止めた。
「この形式だと、上が嫌がります。削れと言われたら」
「削った版と、削る前の版を両方残します」
書記官の机には、まだ乾いていない紙が三枚ある。置き場所だけが足りない。
「書類が増えます」
「すみません」
「いえ」
書記官はインクで黒くなった小指を布で拭いた。色は落ちず、その指で二部目の紙を引き寄せる。
「では、二部作ります」
「お願いします」
僕は頭を下げた。二部とも、書記官の手がなければ残らない。
外では、夕方の泥がまた冷え始めていた。
夜になれば、線はまた見えにくくなる。
今日の戦果欄の横には、中止と反対、それで残った弾数と結界容量を書いた。
僕は左手を机の下へ下げた。
左手の奥にある二つの表示は、濃いままだった。
濃さの奥で、敵味方を示すはずの色がまだ定まらない。味方の位置は分かる。敵の意図までは、まだ滲んだままだった。
戦果欄の横で、中止一の字がまだ乾いていない。
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