ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《王録》 八章 三十一節
『高い椅子は、遠くを見る者の膝から先に冷やす。』
辞令は、夜に来た。
補給係が帰り、会計担当が算盤を袖へ戻し、通信兵が三度目の湯を薄く入れ直した後だった。
湯というより、色のついた水に近い。
それでも温かい。
温かいものは、戦場ではだいたいありがたい。
ありがたい、と書くと軽くなるので、口には出さない。
「師団司令部より、緊急符号」
通信兵の声が変わった。
眠気が抜ける声だった。
「反攻準備連絡班、羽黒少尉宛」
「はい」
「読み上げます」
通信兵は符号紙を両手で持った。
紙の幅は、普通の命令書より短い。
短い紙ほど、時々重い。
「ゴルペホ橋梁線、旧水路戻送路、青杭枝線、水車小屋線、ならびに復路回収補助試行における戦域調整実績を確認」
書記官のペンが止まった。
補給係がまだいたら、帳簿を落としていたかもしれない。
通信兵は続ける。
「羽黒承少尉を、本日付で反攻準備連絡班副長待遇、臨時中尉相当へ任ず」
中尉。通信兵の声がそこで一度止まり、天幕の薄い湯気だけが動いた。
「なお、戦域調整権限は現行範囲を維持。追加権限については、次段階、いえ」
通信兵が、自分で符号紙を見直した。
頬が少し赤くなる。
「すみません。第九作戦期、補給再編後に再審査」
「章ではありません」
「はい。第九作戦期です」
通信兵が咳を一つした。符号紙には、相当、待遇、臨時と逃げ道のような語が並び、その下で責任範囲だけが太くなっていた。
「辞令原本は」
「明朝、司令部文書便で」
「受領印は」
「今は符号受領のみでよいそうです」
書記官が、ようやくペンを動かした。
字は乱れていない。
けれど、行の頭だけ少し詰まっている。
「おめでとうございます」
通信兵が言った。声は明るい。明るくしようとした声ではない。
本当に、少し明るかった。それが、きつい。
「ありがとうございます」
僕は答えた。
ちゃんと答えられた。
そこも、少しきつい。
✶
机の上に、仮の階級章が置かれた。
誰かが用意していたわけではない。
通信兵が、予備箱から似たものを探してきた。
少尉のものより、線が一本多い。
正式ではない。
でも、遠目には分かる。
階級章というのは、近くで見るためのものではないのだろう。
遠くから、誰に従えばいいか分かるためのものだ。
僕はそれを見て、まず地図を見た。ゴルペホ橋梁線。旧水路戻送路。
青杭枝線。水車小屋線。復路回収補助。
線は増えている。戻すための線も増えた。同時に、僕の名前で動く線も増えた。
「少尉」
書記官が言いかけ、止めた。
「中尉」
言い直す。
その一文字の差で、天幕の布が少し厚くなった気がした。
「まだ、臨時中尉相当です」
「呼称は中尉で統一するよう、通達にあります」
「ありますか」
「あります」
書記官は符号紙の下を指した。確かにある。呼称統一。
小さな字だ。小さいのに、逃がしてくれない。
「では、中尉です」
自分で言った。
舌の上で、少し重い。
「羽黒中尉」
通信兵が、試すように言った。
「言いやすいです。中尉も、そのうち慣れます」
「慣れたくないです」
「慣れないと困ります」
通信兵は、符号板を抱え直した。彼の爪の間に黒い汚れがある。符号紙の炭だ。
昨日もあった。たぶん、明日もある。
僕の呼称が変わっても、彼の爪はすぐにはきれいにならない。
そういうものの方が、信用できる。
✶
昇進の理由書には、戦果が並んでいた。敵砲撃誘導。推定観測手観測不能化。
敵重機関銃射線逸脱。敵二十ミリ火点沈黙。敵装甲戦闘輸送車三、行動不能または閉塞。
敵英雄級二、排除。うち一、本人交戦による止め。敵歩兵死者、確認三十一、推定五十以上。
敵車両乗員死亡推定九。敵後続突入予備、展開停止。機甲衝撃兵撃破補助。
機甲衝撃兵一、本人射撃により戦闘室破壊。敵戦車一、砲塔喪失。行動不能。結界HP温存。
救護線保持。復路回収補助試行。作戦継続条件確認欄、暫定採用。
どれも、僕一人でやったことではない。
むしろ、僕一人では何もできないことばかりだ。
工兵下士官。結界班長。救護班長。
通信兵。書記官。山崎さん。
希望。桜華さん。名前を並べると、辞令より長くなる。
それでも、紙の上では僕の名前へ集まる。僕の弾で止まった人もいる。
三郷の剣で押し返し、砲兵の着弾へ送った人もいる。
戦果表はそこを分けてくれない。
本人交戦、という四文字だけが、きれいに残る。
それが階級なのだと思った。
いや、思った、では足りない。
階級は、人の働きを一つの名前へ寄せる仕組みだ。
便利だから、怖い。
怖いから、使わないわけにはいかない。
「中尉」
補給係が戻ってきていた。
さっきまで帳簿を取りに行っていたらしい。
息が少し上がっている。
「復路回収補助、組合側が一便だけ受けるそうです」
「条件は」
「帰り荷の回収手数料、組合評価点、救護協力記録。あと、温かい食事」
帳簿の新しい欄は、まだ線だけだった。食事、と書く場所だけが妙に狭い。
「食事」
「食堂班が怒ります」
「会計担当も怒ります」
「はい」
補給係の袖に、湯気の匂いがついていた。食堂まで走ったのだろう。
「通します」
補給係は、そこで僕の襟元を見た。
まだ階級章は付けていない。
机の上にある。
「おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「言っていいやつですか」
「処理上は」
補給係は、一瞬だけ分からない顔をして、それから笑った。
「処理上、おめでとうございます」
「処理上、ありがとうございます」
桜華さんの言葉が、変なところで役に立った。
役に立ってしまったので、あとで少し怒られるかもしれない。
生きている人に怒られる予定がある。
それは、悪くない。
✶
夜半、仮の階級章を襟へ付けた。金具が硬い。うまく入らない。
通信兵が見かねて手を伸ばしかけ、止めた。僕が自分でやるべきだと思ったのだろう。正しい。
でも、少し助けてほしい。そういうことは、戦場に多い。
「貸してください」
書記官が言った。
「いいんですか」
「曲がったまま出られると、こちらの記録にも残ります」
「それは困ります」
僕は階級章を渡した。
書記官は、金具を一度開き、襟布の厚みを指で確かめてから付けた。
手つきが丁寧だった。
書類だけの人ではない。
布の厚みも分かる人だ。
「これで」
「ありがとうございます」
「中尉」
「はい」
呼ばれるたびに、少し遅れる。
その遅れがあるうちは、まだ大丈夫だと思いたい。
すぐ返事ができるようになった時、何かが減っているかもしれない。
僕は手袋の下を見た。
二つの表示は濃い。その下に、まだ空白がある。HP。
SAN。STR。昨日より、少し太い。
空白のさらに奥に、まだ字にならない揺れがいくつも見えた。`状態`。`負荷`。`敵味方`。輪郭は不安定で、同時に読み取れるのは、いつも一つか二つだけだった。
気のせいだと思いたかった。
でも、戦果板の数字が増えた後にだけ、左手の奥の表示も濃くなる。
強くなっている。
そう書けば、たぶん褒め言葉になる。
でも、僕の中では、何かをもらった感覚ではなかった。
誰かから剥がれたものが、薄く手袋の下へ貼りついている。
読めるものが増え、読めないものも増える。
中尉になっても、分からないものは残る。
残ってほしい。
全部分かったら、たぶん僕は人を戻す線ではなく、人を動かす線だけを見るようになる。
辞令は、戦果の後に来た。
戻れなかった人の数を書いた後に来た。
僕の名前は、その紙の上で少し高い場所へ移された。
誰かが死ぬたびに、僕の階級はまた一つ上がっていく。
そういう仕組みの中に、もう自分はいる。
✶
深夜、通信兵がもう一枚、符号紙を持ってきた。今度は僕宛ではない。
「エザグランマ方面から、まとめて入っています。閲覧許可欄に、中尉の名前もあります」
殿下側の本隊が、ようやくエザグランマへ到着したという。
橋を落とさず一日縛った分だけ、殿下側は追撃に割く戦力を減らせた。その戦力が、そのままエザグランマへ回ったらしい。
「第二夫人側の残存戦力、投降。王位継承問題、これにて事実上の終結、とあります」
通信兵はそこで一度止まった。
残存戦力。
その二文字が、地図から目を上げさせた。
殿下と第二夫人の身柄自体は、もう一年以上前に確保されていた。あの夜、赤石が亜空間転移で連れ出し、三郷たちが囮を務めた。ノエホ要塞が焼けたのは、その報復だったと聞いている。
終わっていなかったのは、身柄の方ではなく、まだどこかで戦い続けていた第二夫人側の残りだった。
「王位継承の件は、これで」
「たぶん、区切りです」
僕は符号紙をもう一度見た。残存戦力、投降。
三郷たちが囮になった夜から、ここまで一年以上かかったことになる。
あいつらは、自分たちが何の区切りのために死んだのか、知っていたのだろうか。
知らないまま死んだのなら、その方がまだましな気がした。
符号紙の余白に、もう一行だけ追記があった。
帝国駐留部隊、撤収せず。動向、継続監視。
その一行だけ、他の行より字が硬かった。
「誰かが死ぬたびに、階級が上がっていく」というさっきの感覚が、少し違う形で戻ってきた。
今度は、僕が知らない場所で、死んだ友人たちの手柄が、誰かの負けを決めていた。
✶
天幕の外へ出ると、夜の補給列が止まっていた。
馬の息が白い。
荷台には、空薬莢の袋と、修理済み部品の箱が一つ。
その横に、温食用の鍋が載っている。食堂班が本当に出したのだ。鍋から、薄い湯気が上がっている。
冒険者が一人、荷台の縁に腰を掛けていた。眠そうな顔で、こちらを見る。
「あんたが、帰り荷を金にした中尉か」
「処理上は」
「何だそりゃ」
「僕も、まだ慣れていません」
冒険者は鼻を鳴らした。
悪い感じではない。
「飯が温かくて、もう少し味が濃いなら次も考える」
「食堂班へ、そのまま伝えます」
「本当に伝えるんだな」
冒険者は、少し困ったように椀を揺らした。
こういう人たちが、割の合う仕事を選ぶ。その割を、こちらが少し作り替える。それは戦術ではない。
でも、戦場を動かす。反攻は、砲声だけでは進まない。
温い鍋と、空薬莢の袋と、修理済み部品の箱でも進む。
荷台の前では、たぶん普通に返事ができていた。
できているなら、それでいい。戻った後で、どれだけ嫌になってもいい。僕は襟元の階級章に触れた。
冷たい。高い椅子は、まだ見えない。でも、机は少し高くなった。
そこから見えるものは増えた。
増えた分だけ、視界の端に薄い揺れが増える。まだ、この天幕の外までしか届かない。届く範囲がもう少し広がったら、何が見えるのか。今は、想像するだけで指が冷えた。
戻せなかった人のことも、戻すための箱のことも、僕は同じ地図の上で扱っている。
戦果が増える。
呼び方が変わる。
部下が、前より少し安心した顔で返事を待つ。
全部、誰かが戻らなかった後に来る。この反攻は、ここで区切られた。そういう区切りが本当にあるわけではない。
明日も、箱は足りない。明日も、誰かが戻る。戻らない人もいる。
それでも、僕は中尉と呼ばれる。呼ばれたら、返事をする。返事をしてから、戻す線を見る。
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