ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《王録》 九章 十九節
『鎧は旗を忘れぬ。傷だけは、その旗の名を問わぬ。』
2378- 連合王国北部野戦療養所 アンテラル視点
右脇腹の傷は、朝になると閉じていた。閉じている。それだけなら、治癒術式として扱える。
だが、問題はそこではない。傷口の形が、昨日と同じだった。
皮膚の下に残る引き攣れも、息を深く吸った時に遅れて来る痛みも、包帯へ滲む血の量も、昨日と同じ場所へ戻っている。
治ったのではない。戻った。アンテラルは、この戻り方を知っている。
十五度、同じ朝を見た。十五度、羽黒承をあの教室の集団に残した。十五度、彼は死んだ。
戦場ではない。王城の陰でもない。
クラスメイトの近くに置いたまま、もっと早い場所で死んだ。
その後の連合王国は、帝国に勝てなかった。
だから、引きはがした。
恨まれることは分かっていた。
本人に意味が分からないことも分かっていた。
それでも、羽黒承を彼らの中心から外さなければならなかった。
軍医は、それを言葉にしなかった。
彼は小さな鋏で古い包帯を切り、乾いた布片を木皿へ落とした。木皿の縁には、赤黒い染みがいくつも重なっている。洗っても落ちない染みだ。
「閣下、痛みは」
「ある」
「増えていますか」
「同じだ」
「同じ、ですか」
軍医の手が一度だけ止まった。
その止まり方で、彼が昨日も同じ質問をしたことが分かる。
アンテラルは、寝台の上で上体を起こした。
連合王国軍の濃緑外套が椅子に掛けられている。襟には前線療養所の仮識別布が縫い付けられていた。縫い目が硬い。急ぎの仕事だ。
その下に、自分の古い鎧がある。
連合王国式の鋼。
第一王城で支給された時の刻印は、鑢で削られていた。だが、削った跡の下に残る浅い溝までは消えていない。
王国近衛の刻印だ。
アンテラルは、連合王国の騎士だった。
今も、最後までその兵士であるつもりだった。
人の名も、鎧の刻印も、完全には消えない。
消えたように扱われるだけだ。
「戦況は」
「中央低地の帝国支隊が、一つ消えました」
軍医ではない声が答えた。
幕の入口に、参謀将校が立っている。
まだ若い。
靴の泥が乾ききっていない。後方にいる時間より、伝令線を往復している時間の方が長いのだろう。
「消えた、とは」
「包囲を受け、降伏勧告後に交戦継続。精鋭歩兵、術式兵、機甲衝撃兵を含む部隊が全滅しました」
参謀将校は、紙をめくった。
めくる前から、次に出る名は分かっていた。
「味方側指揮官は、羽黒承。連合王国軍、少佐待遇」
ハグロ。名前は、胸の奥へではなく、右手へ落ちた。剣を握る手が、わずかに硬くなる。
二千八百五十七度。
あの訓練場で、アンテラルは彼らに殺された。
三郷の剣。桐谷の弾。横河の金。
名も覚えきれない能力の重なり。
そのどれかが届く世界を、二千八百五十七度見た。
だから、あの日の数字は跳ねた。強さではない。殺された回数だ。
第一王城の訓練場。砂。空砲の音。
肩に力の入りすぎた少年が、こちらへ走ってきた。
剣を持っていた。
剣を持つ形ではなかった。
それでも、あの時の少年は前へ出た。
自分が前へ出る人間ではないと、まだ知らない走り方だった。
「羽黒承が、少佐待遇か」
「はい。実務上は、さらに上位の戦域調整権限へ近づいているとの情報もあります」
「戦ったのか」
「直接交戦記録があります。帝国英雄級および機甲衝撃兵の処理に関与。三郷弦の剣を携行している、との報告も」
三郷。その名は、右手ではなく背中へ来た。訓練場で、いつも最初に声を出した少年。
笑いながら前へ出る。転んだ者へ手を伸ばす。
怖さを知らないのではない。怖さより先に体が動く種類の者だった。
アンテラルは、あの少年を前線へ置いた。置ける、と判断した。判断は間違いではなかった。
だからこそ、取り返しがつかない。
「三郷弦は」
参謀将校の紙が、半枚だけ下がった。
「死亡記録あり」
「そうか」
それ以上は聞かなかった。
聞けば、軍医と参謀将校の前で、自分の声が変わる。
変わった声を、療養所の記録官に拾わせるわけにはいかない。
幕の外で、車輪が軋んだ。
負傷兵用の荷車ではない。
機甲衝撃兵の予備部材を運ぶ低床車だ。疑似筋束の束が、油紙に巻かれて積まれている。布の隙間から、黒い繊維が湿った髪のように覗いていた。
帝国は、よく準備している。歩兵を置く。戦車を置く。
術式兵を置く。
英雄級が速く見える場所まで、先に道を作る。
それは正しい。
作戦としては、正しい。
だが、何のためにその道を作るのか。
そこだけが、いつも紙の端からはみ出している。
「閣下」
参謀将校が言った。
「帝国上層部は、アトラス中央部への圧力継続を命じています。迷宮資源線を確保するまで、停止はないとの解析です」
「大陸中央を取るためか」
「はい。半島本土の工業力を維持するには、魔導機械材料と迷宮資源の安定供給が必要です。停戦線を現状で固定すれば、こちらの資源圏が残ります」
「それを、兵にどう説明している」
「帝国の未来、と」
アンテラルは、少し息を吐いた。右脇腹が痛む。同じ痛み。
同じ場所。同じ答え。
「未来は便利な言葉だ」
参謀将校は答えなかった。
若い者ほど、便利な言葉の危うさを知っている。知っていても、口にできない。
アンテラルは寝台から足を下ろした。
軍医が止めようとしたが、止める前に手を引いた。
止めても無駄だと知っている手だ。床の板は冷えていた。裸足の裏へ、木目の荒さが移る。
鎧へ手を伸ばす。削られた刻印。濃緑外套。
療養所の仮識別布。
どれも、今の自分に合わせて仮に縫われたものだ。
だが、旗は替わっていない。
「出る」
「まだ歩行許可は」
「許可は要らない」
「命令上は、閣下の投入は次戦域まで保留です」
「なら、次戦域をここへ持ってこい」
参謀将校が口を閉じた。
強い言葉だった。
だが、自分の声ではない気がした。
誰かが、胸の内側に薄い紙を貼り、その上から言葉を書いている。
怒り。忠誠。死を恐れぬ勇気。
どれも、字としては読める。だが、手触りがない。アンテラルは、剣帯を取った。
連合王国式の古い剣帯だ。
新しく支給されたものより、革が柔らかい。汗を吸い、何度も締め直された革は、持ち主の腰の形を覚える。
それだけは、まだ自分に合った。
療養所の布は肩に乗る。
王国の革は、腰へ戻る。
体は、どちらが自分のものかをまだ覚えている。
「羽黒承は、三郷弦の剣を持っているのだな」
「報告では」
「ならば、あの少年は前へ出る」
「味方指揮官が、ですか」
「前へ出るしかなくなっている」
アンテラルは剣を腰へ戻した。
金具が鳴る。
第一王城の訓練場で聞いた音と、同じだった。
「出れば、兵は戻る。戻れば、兵は彼を信じる。信じられれば、彼はまた前へ出る」
「危険な敵、ということですか」
「危険なのは、敵であることだけではない」
幕の外から、朝の号令が聞こえた。連合王国語。短い。
よく揃っている。揃っているものは、美しい。美しいものほど、どこかへ進むのが早い。
「彼は、戻すために殺す」
自分で言ってから、少し口の中が乾いた。
羽黒承。三郷弦。訓練場の砂。
あの日、こちらへ走ってきた少年。
あの時に叩き落とした剣が、別の死者の名を持って、戦場へ戻っている。
傷は同じ場所へ帰る。剣も、たぶん同じ場所へ帰る。アンテラルは外套を羽織った。
濃緑の布が、古い鎧の上へ落ちる。似合わない。
だが、戦場は似合うかどうかで人を選ばない。
「次の交戦で、私を前線へ出せ」
「命令書を確認します」
「確認しろ。間に合わなければ、後で書け」
参謀将校は敬礼した。連合王国式の敬礼だった。アンテラルは、すぐに返した。
腕は、まだ角度を覚えている。古い自分ではない。今も、ここにいる自分だ。
幕の外へ出る。朝の空気は冷たい。
遠くで、機甲衝撃兵の疑似筋束が試運転されている。濡れた革を引き絞るような音が、何度も折り返して聞こえた。
その音の向こうで、誰かが笑った。兵の笑いだ。若い。
明るい。
まだ今日、自分がどの道へ置かれるのかを知らない笑いだった。
アンテラルは、右脇腹へ手を当てた。
傷は閉じている。
閉じているのに、痛む。
その痛みだけが、自分の旗を間違えなかった。
――――――――
面白かったら、下記のリンクから評価やレビューをいただけると嬉しいです。
https://kakuyomu.jp/works/822139841314440520/reviews