ステータス『0』の観測兵 ~転移したクラスを離れた少年は、砲火と魔法の異世界で昇進させられる~ 作:ハルキーノ
《王録》 九章 二十二節
『刃を折る者は、折れた刃の数を忘れぬ。』
2378- 北東石壁線後方 アンテラル視点
敵英雄級の胸を刺した感触は、剣を納めても消えなかった。
胸甲。結界。骨。
その順番で、刃は進んだ。
アンテラルは、剣を水で洗わなかった。洗う水は救護へ回すべきだったし、剣についたものは布で拭けば落ちる。
落ちないものは、水では落ちない。
「閣下、座ってください」
若い軍医が言った。療養所で包帯を替えた軍医ではない。顔に泥が跳ね、眼鏡の片方だけ曇っている。袖口から薬草と火薬の匂いがした。
「立てる」
「立てるかどうかではありません。縫う側の身にもなってください」
軍医は、少し怒っていた。
怒るだけの余裕があるなら、まだこの線は持っている。
アンテラルは石に腰を下ろした。右脇腹の布が、また赤くなっている。傷は開いた。開いたのではなく、戻ったものがもう一度破れた。
「深いですか」
「深いなら、あなたは今しゃべっていません」
「そうか」
「そうか、ではなく」
軍医は言葉を飲んだ。飲み込んだあと、細い針を火で炙る。炎の色は小さい。風が吹くたびに、火は横へ逃げた。
その横で、敵英雄級の遺体が運ばれていく。
顔は布で隠されていた。
胸の傷だけ、布の下で形が分かる。自分が作った穴だ。砲撃ではない。戦車でもない。羽黒承の命令でもない。
アンテラルの剣が作った穴だった。
「身元確認は」
「敵の記録具を回収中です。ですが、先に傷を」
「確認してからでいい」
軍医は針を持ったまま、アンテラルを見た。怒りより先に、呆れが来ている。呆れる人間は、まだこちらを生き物として扱っている。
「閣下。確認は書記官の仕事です」
「私が殺した」
「はい」
「なら、名を見ておく」
軍医は一度だけ目を閉じた。短い。祈りではない。作業前に手順を思い出す時の閉じ方だった。
「では、縫いながら聞いてください」
それで話は終わった。針が皮膚へ入る。痛みはある。
だが、痛みは今のものだ。戻る痛みよりは、まだ信じられた。
✶
敵英雄級の名は、ルガ・ヴァン・エイデルではなかった。
その名は前の戦域で死んだ別の英雄級だった。書記官が読み上げた本名は、アンテラルの知らない帝国語で長く、途中に古い家名らしい音が二つ挟まっていた。
書記官は、それを三度読み直した。
三度目で、やっと筆が追いつく。
「遺品は」
「短い護符が一つ。術式札が三枚。あと、録音結晶の欠片らしきもの」
録音結晶。
敵英雄級が持つには、少し軽い物だった。伝令用か、呪言用か、身元確認用か。掌に乗るほどの透明な片が、血のついた布の上に置かれている。
近づくと、結晶の中で光が揺れた。
光ではない。
記録された魔力の残りだ。
「触らない方が」
書記官が言う前に、結晶が鳴った。
声は小さい。
だが、アンテラルの耳には近すぎた。
『お前の能力は、元いた時間を殺している』
周囲の音が一瞬だけ薄くなる。軍医の針。荷車の軋み。
遠くのGT-73の冷却音。それらが、水の下へ沈んだように遠のいた。結晶の中の声は、若い。
男とも女とも取りにくい。軽く笑っているようで、息だけが乾いていた。
『死んだ人間が戻らない世界を、いくつ捨てた?』
「止めろ」
アンテラルは言った。
書記官が慌てて結晶を布で包む。だが、声はもう一度だけ漏れた。
『お前だけが、生き直してよいのか』
布の中で、結晶が砕けた。
小さな音だった。
小さすぎて、戦場の音に紛れる。
だが、アンテラルの右手だけが止まっていた。剣の柄にかかる指が、布越しに硬くなる。
「閣下」
軍医の声が戻ってきた。
「傷が開きます」
「縫え」
「今、力を抜いてください」
「縫え」
軍医はそれ以上言わなかった。針がまた皮膚へ入る。痛みが戻る。
今の痛み。
それだけを見ていれば、まだここにいられる。
✶
十五度。羽黒承をクラスメイトの中心に残した朝。十五度、あの少年は早い場所で死んだ。
連合王国は負けた。そのたびに、アンテラルは戻った。戻るたびに、戻らなかった者がいる。
それは理屈としては知っていた。
理屈は、手袋の上から刃を握るようなものだ。形は分かる。冷たさは少し遠い。
だが、声は違った。
お前だけが、生き直してよいのか。
その言葉は、手袋の縫い目から入り込んでくる。
第一王城の訓練場が浮かぶ。砂。空砲。
三郷弦の声。桐谷幸の弾。横河大輝の金の光。
羽黒承の走り方。剣を持つ形ではない少年の、前へ出る足。二千八百五十七度。
殺された数。同じだけ、殺した世界がある。
自分を殺した者たちは、次の朝には知らない顔で立っていた。彼らは何も覚えていない。アンテラルだけが覚えていた。いや、覚えていたと言えるほど、細部はもう残っていない。
残っているのは、数だけだ。数は便利だ。数だけなら、許される気がする。
許されるわけがないのに。
「閣下」
書記官が戻ってきた。血のついた布袋を持っている。中には砕けた結晶が入っているのだろう。
「解析班へ回します」
「回せ」
「今の声について、記録しますか」
アンテラルは、答える前に傷へ手を当てた。縫われたばかりの布が熱い。
記録すれば、誰かが読む。
誰かが読めば、誰かが判断する。
判断されることは、怖くない。
ただ、その言葉を紙へ置くと、そこに形ができる。
形ができたものは、次の戦場へ運ばれる。
「記録しろ」
書記官の筆が動いた。
「ただし、私の判断として添える。敵の心理攪乱術式の可能性あり。対象は転移者、または時間干渉系能力者を想定」
「時間干渉系、ですか」
「私を含む」
書記官の筆が一拍遅れた。
それでも、書いた。
よい書記官だ。
「閣下を、ですか」
「そうだ」
「では、護衛を増やします」
「要らない」
「増やします」
書記官は、そこで初めてアンテラルを見た。泥のついた眼鏡の奥で、目だけが細くなっている。
「あなたが要らないと言う時は、たいてい要ります」
アンテラルは、少し息を吐いた。
部下は、たまに上官より正しい。
正しいから面倒だ。
「好きにしろ」
「好きにはしません。規定通りにします」
書記官は布袋を抱え直し、去っていった。
その背中を見送りながら、アンテラルは剣へ手を置いた。
連合王国式の剣。王国式の革。縫われた脇腹。
砕けた結晶。どれも、ここにある。ここにあるものだけを信じろ。
そう思う。思ったそばから、別の言葉が底で鳴る。お前だけが、生き直してよいのか。
アンテラルは、剣を抜かなかった。抜けば、何かを斬りたくなる。斬れるものは、たぶん目の前にはない。
✶
夕方、羽黒承からの戦果表が届いた。敵中央戦車、火力喪失。敵機甲衝撃兵、一、戦闘不能。
敵英雄級、一、死亡確認。味方ST-71、一、結界喪失。甲一、中破、搭乗者応答あり。
アンテラル、負傷継続。
最後の一行で、アンテラルは少し笑いそうになった。
笑いではない。息が漏れただけだ。負傷継続。
便利な言葉だ。
生きている、とも、死に損なった、とも書かずに済む。
羽黒承らしい。あの少年は、言葉を選んでいる。選びすぎて、いつか選ぶものがなくなる。
その時、彼は何をするのか。
アンテラルには、いくつかの終わりが見えていた。正確な未来ではない。似た形の失敗が、体のどこかに残っているだけだ。
羽黒承がいつか死ぬかもしれない。前へ出すぎるかもしれない。
羽黒承が戻る人間より、止めるべき敵を優先する夕方。
そして、羽黒承が世界そのものを相手にしようとする夜。
どれも、まだ来ていない。来ていないから、止められる。止めるために、アンテラルはまた前へ出る。
だが、前へ出るたび、別の声も近づく。終わる死。戻らない死。
誰の朝も奪わない死。そんなものがあるなら、と考えた。考えた瞬間、縫われた傷が強く痛んだ。
アンテラルは、布の上から傷を押さえた。痛みはある。今の痛みだ。
今の痛みがあるうちは、まだ旗を間違えない。
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