金持ち大学生「どうしたん? 大丈夫? 話きこか?」 作:あばなたらたやた
⑥豊川祥子
雨は、容赦なく街を濡らしていた。
傘も差さず、一人の少女が歩いている。制服は雨で重くなり、髪は顔に張り付き、靴は泥で汚れていた。
それでも足だけは止まらない。まるで、立ち止まったら壊れてしまうかのように。
「……祥子さん」
呼び掛けられても、祥子は振り返らなかった。
聞こえていないのか。
聞こえないふりをしているのか。
真我は歩幅を速める。
「祥子さん」
それでも返事はない。
ようやく隣まで追いついた真我は、静かにその腕を掴んだ。
祥子はびくりと肩を震わせる。
「……離してください」
「ごめん」
真我は穏やかな声で言った。
「今日は聞けない」
そのまま近くのビジネスホテルへ連れて行く。祥子は抵抗しなかった。抵抗する力も、もう残っていなかった。
◇
暖房の効いた部屋。
豊川の使用人が新しい服とタオルを置いて部屋を出ていく。
「お風呂、沸いています。食事も用意できますので」
「ありがとう」
扉が閉まる。
部屋には真我と祥子だけになった。
テーブルには湯気の立つカフェラテが二つ。祥子は黙ったまま両手でカップを包んでいる。
震えていた指が、少しずつ温まっていく。
静かな時間だけが流れた。
十分ほど経ってから、祥子がぽつりと呟いた。
「……CRYCHICを」
少し息を吸う。
「終わらせました」
「そっか」
真我はそれだけ答えた。
祥子は俯いたまま続ける。
「わたくしは……」
言葉が出ない。
喉だけが震える。
「わたくしは」
それ以上続かなかった。
真我は何も急かさない。
事情は理解していた。
父は酒に溺れた。
生活は壊れた。
学校を辞めた。
アルバイトを掛け持ちしながら家計を支えた。
警察へ迎えに行く日もあった。
それでも父は戻らない。
その上、大切なバンドまで終わらせた。
今、彼女は限界なのだ。
だから。でも。なんだか。
「……祥子さん」
「なんですね」
「頑張った。お疲れ様」
それだけだった。
祥子の肩が、小さく震える。
「……」
「本当に、よく頑張った」
祥子は唇を噛み締めた。
「……頑張っても」
掠れた声が漏れる。
「何も変わりませんでしたわ」
「うん」
「全部」
「駄目でした」
「うん」
「わたくしが頑張れば、どうにかなると思っていました」
「……」
「でも、何も。誰も。救えませんでした。失うばかりで、何一つ」
ぽたり。
一滴、涙がカップへ落ちる。
真我は否定しなかった。
励まさなかった。
「そんなことない」とも言わなかった。
その悔しさは。
その報われなさは。
彼女だけのものだから。
他人が塗り替えてはいけない。
静かな沈黙のあと真我は立ち上がる。
「まず、お風呂に入ろう」
祥子は顔を上げる。
「……え?」
「身体が冷えてる」
「頭も、たくさん使いすぎた」
「考えるのは温まって、ご飯を食べて、眠ってからでも遅くない」
祥子はぼんやり真我を見つめる。
「食事も用意してある。消化のいいものをお願いした。今日は何も考えなくていい」
「……」
「眠る場所もある。朝まで誰も来ない。安心して休んで」
祥子は何も答えない。
ただ張り詰めていた糸が少しだけ緩んだ。
真我はタオルを手渡す。
「全部終わってから、また話したくなったら聞く。話したくなければ、それでもいい。なんにしても今日は、祥子さんが生き延びることだけ考えよう」
祥子はタオルを受け取り、小さく、小さく頷いた。
その日。
豊川祥子は久しぶりに温かい食事を口にし、湯船に浸かり、誰にも気を遣わず眠ることができた。
真我は何も解決しなかった。ただ、壊れかけていた少女が、明日を迎えられるだけの場所を静かに用意していた。
翌朝。
雨はすっかり上がり、窓から柔らかな朝日が差し込んでいた。祥子は温かな朝食を食べ終え、昨夜用意された私服に着替えていた。
血色はまだ悪い。
それでも昨夜のような危うさはない。
思考が戻り、瞳にも意思が宿っている。
真我はその姿を見て、小さく安堵した。
「少し、顔色が良くなったね」
「お兄様のおかげですわ」
祥子は穏やかに微笑む。
「久しぶりに、ちゃんと眠れました」
「それなら良かった」
短い沈黙。
祥子はカップに残った紅茶を飲み干すと、静かに告げた。
「……帰ります」
その一言で十分だった。
真我も理解する。
父親のもとへ戻るのだと。
「そうか」
「はい」
「お父様が待っていますもの」
その声には迷いがなかった。
真我はゆっくり息を吐く。
昨夜は言わなかった。身体も心も限界だった彼女に、自分の願いをぶつけるべきではないと思ったからだ。だから今、初めて口にする。
「祥子さん」
「はい。お願いがある」
祥子は少しだけ目を丸くした。
「……お願い?」
真我は静かに頷く。
「お父様は僕が支援する。生活も。住む場所も。治療も。必要なお金も。全部、僕が責任を持つ」
祥子は黙って聞いている。
「だから」
真我はまっすぐ妹を見つめた。
「祥子さん。父親を見捨ててほしい」
祥子の瞳が静かに揺れる。
「そして豊川の家で、一緒に暮らしてほしい」
「……」
「これは命令じゃない。兄としてのお願いだ。祥子さんにお願いしたいんだ」
部屋は静まり返る。
祥子は兄を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。
やがて。
ふっと、小さく笑う。
それは皮肉でも、困った笑みでもない。
心の底から零れた、素直な笑顔だった。
「……珍しいですわね」
真我も少し笑う。
「そうかな」
「お兄様が、自分のお願いをするなんて」
祥子はどこか嬉しそうに目を細めた。
「いつもの兄さんでしたら、『祥子さんが決めることだよ』としか言わないでしょう?」
「そうかもしれない。」
「だから」
祥子は優しく笑う。
「少し驚きました」
その笑顔を見て、真我は胸が少しだけ温かくなる。
それでも、祥子の答えは、もう決まっていることも分かっていた。
祥子は椅子から立ち上がる。
背筋を真っ直ぐ伸ばき、気高く。
「それでも、私は自分の道を生きますわ」
迷いはなかった。
「お父様は、わたくしの大切な人です。」さ見捨てることはできません。それにこれは、わたくしが選んだ道です」
真我は静かに頷いた。
「……うん」
「ありがとうございます。お兄様。お願いしてくださって。とても嬉しかったです。でも、わたくしはわたくしでいたい」
真我は返事をしなかった。
ただ目を細める。
その瞳には、妹の気高さへの誇らしさと、兄として止められない悲しさが、静かに滲んでいた。
この子は強い。強すぎる。だからこそ、自分で選んだ苦しみから逃げない。
その気高さを、真我は誰よりも知っている。だから、無理に引き留めることはしない。
「……分かった」
穏やかな声だった。
「祥子さんの選択を尊重する」
「はい。ただ、一つだけ約束してほしい」
祥子は真我を見る。
「逃げたくなったら。苦しくなったら。もう一人では抱えきれないと思ったら。その時は兄として迎えに行く。だから、その権利だけは、僕に残してくれないかな」
祥子は少しだけ目を伏せた。
そして、小さく笑う。
「……ええ。その時はお兄様を頼ります」
真我も微笑み返した。
「約束だよ」
「はい、約束ですわ。」
そう言って祥子は部屋を出ていく。
真っ直ぐな背中だった。
誇り高く。
決して振り返らず。
その姿を見送る真我は、最後まで笑顔を崩さなかった。けれど扉が静かに閉まった後、一人になった部屋で、小さく目を伏せる。
「本当に」
誰にも聞こえないほど小さな声が漏れた。
「強い子だ」
その言葉には、兄としての誇りと、ほんの少しだけ届かなかった願いへの寂しさが、静かに滲んでいた。
◼️ 真我はノートを取り出し、静かに書き綴る
……昨日の祥子さんは、今まで見たことがないくらい疲れていた。
身体だけじゃない。
心も。
考える力も。
もう限界だった。だから何も聞かなかった。
聞けなかった、じゃない。
聞かなかった。
人は、限界を超えると考えられなくなる。その状態で「これからどうしたい?」なんて聞いても意味はない。
答えられないから。だから最初に必要だったのは、答えじゃなくて、体温だった。食事だった。睡眠だった。安心して眠れる場所だった。
「今日は何も考えなくていい。」
あれは、励ましじゃない。
許可だ。今だけは、頑張ることをやめてもいい。そう伝えたかった。そして今日、朝になって、ようやく話ができた。
少し眠っただけで、あんなに表情が戻る。
人間は、心だけじゃ生きられない。身体も、ちゃんと休ませないといけない。改めてそう思った。
お願いもした。
父親を見捨ててほしい。
豊川へ戻ってきてほしい。
兄として初めて、
「こうしてほしい。」
と言った。
断られることは分かっていた。でも、言わないまま送り出したら、きっと後悔する。だからお願いだけした。
選ぶのは、祥子さん。
答えは変わらなかった。
「私は、自分の道を生きますわ」
そう言った。
ああ、やっぱり祥子さんだ。
強い。強すぎる。でも、強い人ほど、助けを求められない。だから最後に残した。
「迎えに行く権利だけは残して」
あれは、約束というより、僕自身のお守りだったのかもしれない。
いつか、本当に苦しくなった時。自分から助けてと言えなくても、約束があれば、思い出してもらえるかもしれない。
僕は、何も解決していない。父親も変わらない。生活も変わらない。
CRYCHICも戻らない。
でも、一つだけ変えられたことがある。
昨日、あの子は眠れた。ちゃんと食べられた。朝を迎えられた。
それで十分なんだ。
今は。
内なる自分が言う。
「今回は負けた気分かい?」
……少しね。
「なぜ?」
兄としては、連れて帰りたかった。
苦しませたくなかった。
全部背負わせたくなかった。
そう思ってしまった。
「でも、やらなかった」
うん。
あの子の人生だから。
僕が守りたいからといって、奪っていい理由にはならない。
「そこが今日、一番重要だ。君は昨日と今日で役割を変えた」
役割?
「昨日は保護者だった。身体を温める。食べさせる。眠らせる。生き延びさせる。そこには本人の意思は必要ない。命を守ることが優先だから。」しかし今日の朝。彼女が眠り、食べ、考える力を取り戻した瞬間ら君は保護者をやめた」
……そうか。
だからお願いしたんだ。命令じゃなくて。
「そう、昨日なら連れて帰ることも正当化できた。しかし今日の彼女は、自分で考え、自分で選べる状態だった。だから君は、選択権を返した。尊重とは、放置ではない。判断能力が失われている時は支える。判断能力が戻ったら返す。その境界線を守ることだ」
……昨日は生きるための支援。
今日は生き方の尊重。
似ているようで、まったく違うんだ。
「そして最後に一つ。君は『助けて』と言わせようとはしなかった。それも正しい。助けを求められない人に、『助けてと言え』と求めるのは、その人に新しい課題を背負わせることになる。だから君は、『助けてと言えなくても迎えに行ける約束』を残した。つまり、彼女ができないことを要求するのではなく、できないことを前提に支援の形を変えた」
……兄らしくできただろうか。
「十分だ。君は祥子を救わなかった。その代わり、祥子が自分で生き続けるための余白を守った。この話は、救済の物語じゃない。誇りを失わせずに支える物語なんだ」