金持ち大学生「どうしたん? 大丈夫? 話きこか?」   作:あばなたらたやた

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6話:滅び

 

⑥豊川祥子

 

 雨は、容赦なく街を濡らしていた。

 傘も差さず、一人の少女が歩いている。制服は雨で重くなり、髪は顔に張り付き、靴は泥で汚れていた。

 それでも足だけは止まらない。まるで、立ち止まったら壊れてしまうかのように。

 

「……祥子さん」

 

 呼び掛けられても、祥子は振り返らなかった。

 聞こえていないのか。

 聞こえないふりをしているのか。

 真我は歩幅を速める。

 

「祥子さん」

 

 それでも返事はない。

 ようやく隣まで追いついた真我は、静かにその腕を掴んだ。

 祥子はびくりと肩を震わせる。

 

「……離してください」

「ごめん」

 

 真我は穏やかな声で言った。

 

「今日は聞けない」

 

 そのまま近くのビジネスホテルへ連れて行く。祥子は抵抗しなかった。抵抗する力も、もう残っていなかった。

 

 

 暖房の効いた部屋。

 豊川の使用人が新しい服とタオルを置いて部屋を出ていく。

 

「お風呂、沸いています。食事も用意できますので」

「ありがとう」

 

 扉が閉まる。

 部屋には真我と祥子だけになった。

 テーブルには湯気の立つカフェラテが二つ。祥子は黙ったまま両手でカップを包んでいる。

 震えていた指が、少しずつ温まっていく。

 静かな時間だけが流れた。

 十分ほど経ってから、祥子がぽつりと呟いた。

 

「……CRYCHICを」

 

 少し息を吸う。

 

「終わらせました」

「そっか」

 

 真我はそれだけ答えた。

 祥子は俯いたまま続ける。

 

「わたくしは……」

 

 言葉が出ない。

 喉だけが震える。

 

「わたくしは」

 

 それ以上続かなかった。

 真我は何も急かさない。

 事情は理解していた。

 父は酒に溺れた。

 生活は壊れた。

 学校を辞めた。

 アルバイトを掛け持ちしながら家計を支えた。

 警察へ迎えに行く日もあった。

 それでも父は戻らない。

 その上、大切なバンドまで終わらせた。

 今、彼女は限界なのだ。

 

 だから。でも。なんだか。

 

「……祥子さん」

「なんですね」

「頑張った。お疲れ様」

 

 それだけだった。

 祥子の肩が、小さく震える。

 

「……」

「本当に、よく頑張った」

 

 祥子は唇を噛み締めた。

 

「……頑張っても」

 

 掠れた声が漏れる。

 

「何も変わりませんでしたわ」

「うん」

「全部」

「駄目でした」

「うん」

「わたくしが頑張れば、どうにかなると思っていました」

「……」

「でも、何も。誰も。救えませんでした。失うばかりで、何一つ」

 

 ぽたり。

 一滴、涙がカップへ落ちる。

 真我は否定しなかった。

 励まさなかった。

 「そんなことない」とも言わなかった。

 その悔しさは。

 その報われなさは。

 彼女だけのものだから。

 他人が塗り替えてはいけない。

 静かな沈黙のあと真我は立ち上がる。

 

「まず、お風呂に入ろう」

 

 祥子は顔を上げる。

 

「……え?」

「身体が冷えてる」

「頭も、たくさん使いすぎた」

「考えるのは温まって、ご飯を食べて、眠ってからでも遅くない」

 

 祥子はぼんやり真我を見つめる。

 

「食事も用意してある。消化のいいものをお願いした。今日は何も考えなくていい」

「……」

「眠る場所もある。朝まで誰も来ない。安心して休んで」

 

 祥子は何も答えない。

 ただ張り詰めていた糸が少しだけ緩んだ。

 真我はタオルを手渡す。

 

「全部終わってから、また話したくなったら聞く。話したくなければ、それでもいい。なんにしても今日は、祥子さんが生き延びることだけ考えよう」

 

 祥子はタオルを受け取り、小さく、小さく頷いた。

 その日。

 豊川祥子は久しぶりに温かい食事を口にし、湯船に浸かり、誰にも気を遣わず眠ることができた。

 真我は何も解決しなかった。ただ、壊れかけていた少女が、明日を迎えられるだけの場所を静かに用意していた。

 翌朝。

 雨はすっかり上がり、窓から柔らかな朝日が差し込んでいた。祥子は温かな朝食を食べ終え、昨夜用意された私服に着替えていた。

 血色はまだ悪い。

 それでも昨夜のような危うさはない。

 思考が戻り、瞳にも意思が宿っている。

 真我はその姿を見て、小さく安堵した。

 

「少し、顔色が良くなったね」

「お兄様のおかげですわ」

 

 祥子は穏やかに微笑む。

 

「久しぶりに、ちゃんと眠れました」

「それなら良かった」

 

 短い沈黙。

 祥子はカップに残った紅茶を飲み干すと、静かに告げた。

 

「……帰ります」

 

 その一言で十分だった。

 真我も理解する。

 父親のもとへ戻るのだと。

 

「そうか」

「はい」

「お父様が待っていますもの」

 

 その声には迷いがなかった。

 真我はゆっくり息を吐く。

 昨夜は言わなかった。身体も心も限界だった彼女に、自分の願いをぶつけるべきではないと思ったからだ。だから今、初めて口にする。

 

「祥子さん」

「はい。お願いがある」

 

 祥子は少しだけ目を丸くした。

 

「……お願い?」

 

 真我は静かに頷く。

 

「お父様は僕が支援する。生活も。住む場所も。治療も。必要なお金も。全部、僕が責任を持つ」

 

 祥子は黙って聞いている。

 

「だから」

 

 真我はまっすぐ妹を見つめた。

 

「祥子さん。父親を見捨ててほしい」

 

 祥子の瞳が静かに揺れる。

 

「そして豊川の家で、一緒に暮らしてほしい」

「……」

「これは命令じゃない。兄としてのお願いだ。祥子さんにお願いしたいんだ」

 

 部屋は静まり返る。

 祥子は兄を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。

 やがて。

 ふっと、小さく笑う。

 それは皮肉でも、困った笑みでもない。

 心の底から零れた、素直な笑顔だった。

 

「……珍しいですわね」

 

 真我も少し笑う。

 

「そうかな」

「お兄様が、自分のお願いをするなんて」

 

 祥子はどこか嬉しそうに目を細めた。

 

「いつもの兄さんでしたら、『祥子さんが決めることだよ』としか言わないでしょう?」

「そうかもしれない。」

「だから」

 

 祥子は優しく笑う。

 

「少し驚きました」

 その笑顔を見て、真我は胸が少しだけ温かくなる。

 それでも、祥子の答えは、もう決まっていることも分かっていた。

 祥子は椅子から立ち上がる。

 

 背筋を真っ直ぐ伸ばき、気高く。

 

「それでも、私は自分の道を生きますわ」

 

 迷いはなかった。

 

「お父様は、わたくしの大切な人です。」さ見捨てることはできません。それにこれは、わたくしが選んだ道です」

 

 真我は静かに頷いた。

 

「……うん」

「ありがとうございます。お兄様。お願いしてくださって。とても嬉しかったです。でも、わたくしはわたくしでいたい」

 

 真我は返事をしなかった。

 ただ目を細める。

 その瞳には、妹の気高さへの誇らしさと、兄として止められない悲しさが、静かに滲んでいた。

 

 この子は強い。強すぎる。だからこそ、自分で選んだ苦しみから逃げない。

 その気高さを、真我は誰よりも知っている。だから、無理に引き留めることはしない。

 

「……分かった」

 

 穏やかな声だった。

 

「祥子さんの選択を尊重する」

「はい。ただ、一つだけ約束してほしい」

 

 祥子は真我を見る。

 

「逃げたくなったら。苦しくなったら。もう一人では抱えきれないと思ったら。その時は兄として迎えに行く。だから、その権利だけは、僕に残してくれないかな」

 

 祥子は少しだけ目を伏せた。

 そして、小さく笑う。

 

「……ええ。その時はお兄様を頼ります」

 

 真我も微笑み返した。

 

「約束だよ」

「はい、約束ですわ。」

 

 そう言って祥子は部屋を出ていく。

 真っ直ぐな背中だった。

 誇り高く。

 決して振り返らず。

 その姿を見送る真我は、最後まで笑顔を崩さなかった。けれど扉が静かに閉まった後、一人になった部屋で、小さく目を伏せる。

 

「本当に」

 

 誰にも聞こえないほど小さな声が漏れた。

 

「強い子だ」

 

 その言葉には、兄としての誇りと、ほんの少しだけ届かなかった願いへの寂しさが、静かに滲んでいた。

 

◼️ 真我はノートを取り出し、静かに書き綴る

 

……昨日の祥子さんは、今まで見たことがないくらい疲れていた。

 身体だけじゃない。

 心も。

 考える力も。

 もう限界だった。だから何も聞かなかった。

 聞けなかった、じゃない。

 聞かなかった。

 

 人は、限界を超えると考えられなくなる。その状態で「これからどうしたい?」なんて聞いても意味はない。

 答えられないから。だから最初に必要だったのは、答えじゃなくて、体温だった。食事だった。睡眠だった。安心して眠れる場所だった。

 

「今日は何も考えなくていい。」

 

 あれは、励ましじゃない。

 許可だ。今だけは、頑張ることをやめてもいい。そう伝えたかった。そして今日、朝になって、ようやく話ができた。

 

 少し眠っただけで、あんなに表情が戻る。

 人間は、心だけじゃ生きられない。身体も、ちゃんと休ませないといけない。改めてそう思った。

 

 お願いもした。

 父親を見捨ててほしい。

 豊川へ戻ってきてほしい。

 兄として初めて、

 

「こうしてほしい。」

 

 と言った。

 

 断られることは分かっていた。でも、言わないまま送り出したら、きっと後悔する。だからお願いだけした。

 

 選ぶのは、祥子さん。

 

答えは変わらなかった。

 

「私は、自分の道を生きますわ」

 

 そう言った。

 ああ、やっぱり祥子さんだ。

 強い。強すぎる。でも、強い人ほど、助けを求められない。だから最後に残した。

 

「迎えに行く権利だけは残して」

 

 あれは、約束というより、僕自身のお守りだったのかもしれない。

 いつか、本当に苦しくなった時。自分から助けてと言えなくても、約束があれば、思い出してもらえるかもしれない。

 

 僕は、何も解決していない。父親も変わらない。生活も変わらない。

 CRYCHICも戻らない。

 でも、一つだけ変えられたことがある。

 昨日、あの子は眠れた。ちゃんと食べられた。朝を迎えられた。

それで十分なんだ。

 今は。

 

 内なる自分が言う。

 

「今回は負けた気分かい?」

 

……少しね。

 

「なぜ?」

 

 

 兄としては、連れて帰りたかった。

 苦しませたくなかった。

 全部背負わせたくなかった。

 そう思ってしまった。

 

「でも、やらなかった」

 

 うん。

 あの子の人生だから。

 僕が守りたいからといって、奪っていい理由にはならない。

 

「そこが今日、一番重要だ。君は昨日と今日で役割を変えた」

 

役割?

 

「昨日は保護者だった。身体を温める。食べさせる。眠らせる。生き延びさせる。そこには本人の意思は必要ない。命を守ることが優先だから。」しかし今日の朝。彼女が眠り、食べ、考える力を取り戻した瞬間ら君は保護者をやめた」

 

 ……そうか。

 だからお願いしたんだ。命令じゃなくて。

 

「そう、昨日なら連れて帰ることも正当化できた。しかし今日の彼女は、自分で考え、自分で選べる状態だった。だから君は、選択権を返した。尊重とは、放置ではない。判断能力が失われている時は支える。判断能力が戻ったら返す。その境界線を守ることだ」

 

 ……昨日は生きるための支援。

 

 今日は生き方の尊重。

 似ているようで、まったく違うんだ。

 

「そして最後に一つ。君は『助けて』と言わせようとはしなかった。それも正しい。助けを求められない人に、『助けてと言え』と求めるのは、その人に新しい課題を背負わせることになる。だから君は、『助けてと言えなくても迎えに行ける約束』を残した。つまり、彼女ができないことを要求するのではなく、できないことを前提に支援の形を変えた」

 

……兄らしくできただろうか。

 

「十分だ。君は祥子を救わなかった。その代わり、祥子が自分で生き続けるための余白を守った。この話は、救済の物語じゃない。誇りを失わせずに支える物語なんだ」

 

 

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