金持ち大学生「どうしたん? 大丈夫? 話きこか?」 作:あばなたらたやた
叩きつけるような雨が、大地を濡らしている。
星降る街の中を傘も差さずに歩く少女が一人いる。濡れそぼった服は重く垂れ下がり、頬には髪が張り付き、靴先は泥に塗れていた。
それでも足取りだけは止まらない。一度でも歩みを止めれば、そのまま心身ごと砕け散ってしまうかのように。
「……祥子さん」
呼びかける声にも、祥子は振り返らない。激しい雨音に消されたのか、それとも聞こえない振りをしているのか。
追いついた真我は、歩幅を早めてその華奢な腕をそっと掴んだ。
祥子の身が、びくりと大きく跳ねる。
「……離してください」
「ごめん。今日は聞けない」
抵抗する力すら失っていた彼女を抱えるようにして、真我は近くのビジネスホテルへと連れ入れた。
エアコンの心地よい温風が満ちる客室。
手配された豊川家の使用人が、真新しい私服とタオルを整然と置くと、静かに一礼して退室していく。
「お風呂、沸いています。お食事も用意できます」
「ありがとう」
ドアが閉まる。静寂の中に真我と祥子の二人だけが残された。
テーブルの上には、湯気を立てるカフェラテのカップが二つ。
祥子は一言も発さず、ただ両手で温もりを抱え込むようにカップを包み込んでいる。凍えていた指先が、じんわりと体温を取り戻していく。やがて、祥子の唇からぽつりと呟きが零れ落ちる。
「……CRYCHICを終わらせました」
「そっか」
真我は短く受け止めた。祥子は俯いたまま、絞り出すように言葉を繋ごうとする。
「わたくしは……わたくしは」
その先は、もう言葉にならなかった。
真我はただ黙って彼女を見つめていた。事情は全て理解している。酒に溺れ、破滅した父親。崩壊した日常。学校の転校。過酷なアルバイトの掛け持ちと家計の打診。
警察へ迎えに行く夜。どれほど自分を擦り減らしても、父が元に戻ることはなかった。そして何より大切だった居場所すら、己の手で砕いてしまったのだ。
今、彼女の精神は、完全に限界を超えている。
「……祥子さん」
「なんですね」
「頑張った。お疲れ様」
祥子の肩が、小さく揺れる。
「……」
「本当に、よく頑張った」
唇を強く噛み締める祥子。
「……頑張っても。何も変わりませんでしたわ」
「うん」
「全部」
「駄目でした」
「うん」
「わたくしが頑張れば、どうにかなると思っていました」
「……」
「でも、何も。誰も。救えませんでした。失うばかりで、何一つ」
ぽたり。
一滴の涙が、温かなカフェラテの表面に波紋を描いた。
真我は否定しない。安易に慰めもしなかった。「そんなことはない」と否定して救うことすら拒んだ。
その悔しさも、報われなさも、すべては彼女自身が血を流して得た感情だからだ。他人が勝手に書き換えていい領域ではない。
静寂のなか、真我はそっと腰を上げた。
「まず、お風呂に入ろう」
祥子が顔を上げる。
「……え?」
「身体が冷えてる。頭も、たくさん使いすぎた。考えるのは温まって、ご飯を食べて、眠ってからでも遅くない」
茫然と兄を見つめる祥子。
「食事も用意してある。消化のいいものをお願いした。今日は何も考えなくていい」
「……」
「眠る場所もある。朝まで誰も来ない。安心して休んで」
言葉はない。けれど、極限まで張り詰めていた緊張の糸が、ほんの少し解けていく。
真我は乾燥したタオルを手渡した。
「全部終わってから、また話したくなったら聞く。話したくなければ、それでもいい。なんにしても今日は、祥子さんが生き延びることだけ考えよう」
祥子はタオルを強く抱きしめ、深く、小さく頷いた。
その夜、豊川祥子は久しぶりに温かい糧を口にし、湯に身を沈め、誰を警戒することもなく眠りに落ちた。
真我は事態を何ひとつ解決してはいない。ただ、壊れかけていた一人の少女が、無事に明日を迎えるための安全な港を密かに差し出しただけだった。
翌日。
激しかった雨は嘘のように上がり、窓からは柔らかな朝日が差し込んでいた。
朝食を終えた祥子は、用意された清潔な私服へと着替えている。
顔色は依然として蒼白だったが、昨夜のような破滅的な危うさは消えている。
正気を取り戻した瞳には、確かな強い意思が宿っている。真我はその姿を確かめ、静かに胸を撫で下ろした。
「少し、顔色が良くなったね」
「お兄様のおかげですわ」
祥子は穏やかな笑みを浮かべる。
「久しぶりに、ちゃんと眠れました」
「それなら良かった」
しばしの静寂。紅茶の残りを飲み干した祥子は、意を決したように告げた。
「……帰ります」
その言葉の意味を、真我は正確に察した。足枷のような、父親のもとへと戻るのだと。
「そうか」
「はい。お父様が待っていますから」
揺るぎない声。
真我は深く息を吐き出した。昨夜は言わなかった言葉。極限にいた彼女に自分の願望を押し付けるべきではないと踏みとどまった本心を、今ここで初めて口にする。
「祥子さん」
「はい」
「お願いがある」
「……お願い?」
「お父様は僕が支援する。生活も。住む場所も。治療も。必要なお金も。全部、僕が責任を持つ」
息を呑み、耳を傾ける祥子。
「だから祥子さんには父親を見捨ててほしい」
祥子の瞳が、静かに動揺に揺れる。
「そして豊川の家で、一緒に暮らしてほしい」
「……」
「これは命令じゃない。兄としての、僕の個人のお願いだ。祥子さんにお願いしたいんだ」
祥子は兄の顔を注視したまま、しばらく口を開かなかった。やがて、ふっと、儚く、しかし温かな笑みが唇を割る。
「……珍しいですわね」
「そうかな」
「お兄様が、自分のお願いをするなんて。いつものお兄様でしたら、『祥子さんが決めることだよ』としか言わないでしょう?」
「そうかもしれない」
「ですから、少し驚きました」
その表情に触れ、真我の胸に暖かなものが込み上げる。しかし同時に、彼女の答えが既に固まっていることも知っていた。
祥子はスッと椅子から立ち上がる。
背筋を凛と伸ばし、気高く。
「それでも、私は自分の道を生きますわ」
そこに一切の迷いは存在しなかった。
「お父様は、わたくしの大切な人です。見捨てることはできません。それにこれは、わたくしが選んだ道です」
真我はただ、静かに首を縦に振った。
「……うん」
「ありがとうございます。お兄様。お願いしてくださって。とても嬉しかったです。でも、わたくしはわたくしでいたい」
真我は静かに目を閉じる。
そこには、妹の誇り高さへの心からの尊敬と、兄として彼女の苦難を止められない切なさが同居していた。
この少女は気高く、強すぎる。だからこそ、己が選んだ修羅の道から逃げ出すことを良しとしない。
その高潔さを誰よりも知っているからこそ、力ずくで引き留めることなどできなかった。
「……分かった」
「祥子さんの選択を尊重する。権力を使ってどうこうもしない。ただ、一つだけ約束してほしい」
真我はまっすぐに祥子を見つめ返す。
「逃げたくなったら。苦しくなったら。もう一人では抱えきれないと思ったら。その時は兄として迎えに行く。だから、その権利だけは、僕に残してくれないかな」
祥子は視線を微かに落としたのち、小さく微笑んだ。
「……ええ。その時はお兄様を頼ります」
「約束だよ」
「はい、約束ですわ」
それだけを遺し、祥子は部屋を辞した。
凛と伸びた背中。
誇り高く、一度も振り返ることなく。その姿を、真我は最後まで柔らかな笑みを崩さずに見送り続けた。だが、ドアが静かに閉まり、静寂に取り残された瞬間、一人になった部屋でそっと目を伏せる。
「本当に強い子だ」
父親を見捨ててほしい、豊川へ帰ってきてほしいと、兄として初めて、自分の願望をエゴとして口にした。
『こうしてほしい』
拒絶される未来は目に見えていた。だが、この言葉を飲み込んだまま送り出せば、生涯後悔することになる。だから想いだけは差し出したのだ。
『私は、自分の道を生きますわ』
そう言い放った彼女の美しさ。
やっぱり彼女は豊川祥子だ。あまりにも気高く、強すぎる。強い人間ほど、悲鳴を上げる術を知らない。
だから僕は最期に足枷を残した。
『迎えに行く権利だけは残して』
あれは約束というより、自身が壊れないための命綱だったのかもしれない。
いつか真の窮地に陥った時、自ら助けを呼べずとも、あの約束という起点があれば羽ばたくことができるかもしれないから。
(人々には希望が必要なんだ。希望とはあるだけで価値がある。それが偽りの翼であっても)
結局、真我は何も解決していない。破滅した父親も、過酷な生活も、散り散りになった。
CRYCHICも元には戻らない。けれど、たった一つだけ変えられた事実がある。
昨日、彼女は温かな床で眠り、糧を口にし、無事に今日という朝を迎えることができた。
いまは、それだけで充分なのだ。
サブストーリーとして一番交流してほしいキャラは?(メインは祥子と初音
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若葉睦
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椎名立希
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長崎そよ
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高松燈
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野良猫
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祐天寺にゃむ
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八幡海鈴
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モーティス