金持ち大学生「どうしたん? 大丈夫? 話きこか?」   作:あばなたらたやた

5 / 14
5話:滅び

 

 

 雨は、容赦なく街を濡らしていた。

 傘も差さず、一人の少女が歩いている。制服は雨で重くなり、髪は顔に張り付き、靴は泥で汚れていた。

 それでも足だけは止まらない。まるで、立ち止まったら壊れてしまうかのように。

 

「……祥子さん」

 

 呼び掛けられても、祥子は振り返らなかった。

 聞こえていないのか。

 聞こえないふりをしているのか。

 真我は歩幅を速める。

 

「祥子さん」

 

 それでも返事はない。

 ようやく隣まで追いついた真我は、静かにその腕を掴んだ。

 祥子はびくりと肩を震わせる。

 

「……離してください」

「ごめん」

 

 真我は穏やかな声で言った。

 

「今日は聞けない」

 

 そのまま近くのビジネスホテルへ連れて行く。祥子は抵抗しなかった。抵抗する力も、もう残っていなかった。

 

 

 暖房の効いた部屋。

 豊川の使用人が新しい服とタオルを置いて部屋を出ていく。

 

「お風呂、沸いています。食事も用意できますので」

「ありがとう」

 

 扉が閉まる。

 部屋には真我と祥子だけになった。

 テーブルには湯気の立つカフェラテが二つ。祥子は黙ったまま両手でカップを包んでいる。

 震えていた指が、少しずつ温まっていく。

 静かな時間だけが流れた。

 十分ほど経ってから、祥子がぽつりと呟いた。

 

「……CRYCHICを」

 

 少し息を吸う。

 

「終わらせました」

「そっか」

 

 真我はそれだけ答えた。

 祥子は俯いたまま続ける。

 

「わたくしは……」

 

 言葉が出ない。

 喉だけが震える。

 

「わたくしは」

 

 それ以上続かなかった。

 真我は何も急かさない。

 事情は理解していた。

 父は酒に溺れた。

 生活は壊れた。

 学校を辞めた。

 アルバイトを掛け持ちしながら家計を支えた。

 警察へ迎えに行く日もあった。

 それでも父は戻らない。

 その上、大切なバンドまで終わらせた。

 今、彼女は限界なのだ。

 

 だから。でも。なんだか。

 

「……祥子さん」

「なんですね」

「頑張った。お疲れ様」

 

 それだけだった。

 祥子の肩が、小さく震える。

 

「……」

「本当に、よく頑張った」

 

 祥子は唇を噛み締めた。

 

「……頑張っても」

 

 掠れた声が漏れる。

 

「何も変わりませんでしたわ」

「うん」

「全部」

「駄目でした」

「うん」

「わたくしが頑張れば、どうにかなると思っていました」

「……」

「でも、何も。誰も。救えませんでした。失うばかりで、何一つ」

 

 ぽたり。

 一滴、涙がカップへ落ちる。

 真我は否定しなかった。

 励まさなかった。

 「そんなことない」とも言わなかった。

 その悔しさは。

 その報われなさは。

 彼女だけのものだから。

 他人が塗り替えてはいけない。

 静かな沈黙のあと真我は立ち上がる。

 

「まず、お風呂に入ろう」

 

 祥子は顔を上げる。

 

「……え?」

「身体が冷えてる」

「頭も、たくさん使いすぎた」

「考えるのは温まって、ご飯を食べて、眠ってからでも遅くない」

 

 祥子はぼんやり真我を見つめる。

 

「食事も用意してある。消化のいいものをお願いした。今日は何も考えなくていい」

「……」

「眠る場所もある。朝まで誰も来ない。安心して休んで」

 

 祥子は何も答えない。

 ただ張り詰めていた糸が少しだけ緩んだ。

 真我はタオルを手渡す。

 

「全部終わってから、また話したくなったら聞く。話したくなければ、それでもいい。なんにしても今日は、祥子さんが生き延びることだけ考えよう」

 

 祥子はタオルを受け取り、小さく、小さく頷いた。

 その日。

 豊川祥子は久しぶりに温かい食事を口にし、湯船に浸かり、誰にも気を遣わず眠ることができた。

 真我は何も解決しなかった。ただ、壊れかけていた少女が、明日を迎えられるだけの場所を静かに用意していた。

 翌朝。

 雨はすっかり上がり、窓から柔らかな朝日が差し込んでいた。祥子は温かな朝食を食べ終え、昨夜用意された私服に着替えていた。

 血色はまだ悪い。

 それでも昨夜のような危うさはない。

 思考が戻り、瞳にも意思が宿っている。

 真我はその姿を見て、小さく安堵した。

 

「少し、顔色が良くなったね」

「お兄様のおかげですわ」

 

 祥子は穏やかに微笑む。

 

「久しぶりに、ちゃんと眠れました」

「それなら良かった」

 

 短い沈黙。

 祥子はカップに残った紅茶を飲み干すと、静かに告げた。

 

「……帰ります」

 

 その一言で十分だった。

 真我も理解する。

 父親のもとへ戻るのだと。

 

「そうか」

「はい」

「お父様が待っていますもの」

 

 その声には迷いがなかった。

 真我はゆっくり息を吐く。

 昨夜は言わなかった。身体も心も限界だった彼女に、自分の願いをぶつけるべきではないと思ったからだ。だから今、初めて口にする。

 

「祥子さん」

「はい。お願いがある」

 

 祥子は少しだけ目を丸くした。

 

「……お願い?」

 

 真我は静かに頷く。

 

「お父様は僕が支援する。生活も。住む場所も。治療も。必要なお金も。全部、僕が責任を持つ」

 

 祥子は黙って聞いている。

 

「だから」

 

 真我はまっすぐ妹を見つめた。

 

「祥子さん。父親を見捨ててほしい」

 

 祥子の瞳が静かに揺れる。

 

「そして豊川の家で、一緒に暮らしてほしい」

「……」

「これは命令じゃない。兄としての、僕の個人のお願いだ。祥子さんにお願いしたいんだ」

 

 部屋は静まり返る。

 祥子は兄を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。

 やがて。

 ふっと、小さく笑う。

 それは皮肉でも、困った笑みでもない。

 心の底から零れた、素直な笑顔だった。

 

「……珍しいですわね」

 

 真我も少し笑う。

 

「そうかな」

「お兄様が、自分のお願いをするなんて」

 

 祥子はどこか嬉しそうに目を細めた。

 

「いつもの兄さんでしたら、『祥子さんが決めることだよ』としか言わないでしょう?」

「そうかもしれない。」

「だから」

 

 祥子は優しく笑う。

 

「少し驚きました」

 その笑顔を見て、真我は胸が少しだけ温かくなる。

 それでも、祥子の答えは、もう決まっていることも分かっていた。

 祥子は椅子から立ち上がる。

 

 背筋を真っ直ぐ伸ばき、気高く。

 

「それでも、私は自分の道を生きますわ」

 

 迷いはなかった。

 

「お父様は、わたくしの大切な人です。見捨てることはできません。それにこれは、わたくしが選んだ道です」

 

 真我は静かに頷いた。

 

「……うん」

「ありがとうございます。お兄様。お願いしてくださって。とても嬉しかったです。でも、わたくしはわたくしでいたい」

 

 真我は返事をしなかった。

 ただ目を細める。

 その瞳には、妹の気高さへの誇らしさと、兄として止められない悲しさが、静かに滲んでいた。

 

 この子は強い。強すぎる。だからこそ、自分で選んだ苦しみから逃げない。

 その気高さを、真我は誰よりも知っている。だから、無理に引き留めることはしない。

 

「……分かった」

 

 穏やかな声だった。

 

「祥子さんの選択を尊重する」

「はい。ただ、一つだけ約束してほしい」

 

 祥子は真我を見る。

 

「逃げたくなったら。苦しくなったら。もう一人では抱えきれないと思ったら。その時は兄として迎えに行く。だから、その権利だけは、僕に残してくれないかな」

 

 祥子は少しだけ目を伏せた。

 そして、小さく笑う。

 

「……ええ。その時はお兄様を頼ります」

 

 真我も微笑み返した。

 

「約束だよ」

「はい、約束ですわ。」

 

 そう言って祥子は部屋を出ていく。

 真っ直ぐな背中だった。

 誇り高く。

 決して振り返らず。

 その姿を見送る真我は、最後まで笑顔を崩さなかった。けれど扉が静かに閉まった後、一人になった部屋で、小さく目を伏せる。

 

「本当に」

 

 誰にも聞こえないほど小さな声が漏れた。

 

「強い子だ」

 

 その言葉には、兄としての誇りと、ほんの少しだけ届かなかった願いへの寂しさが、静かに滲んでいた。

 

◼️ 真我はノートを取り出し、静かに書き綴る

 

……昨日の祥子さんは、今まで見たことがないくらい疲れていた。

 身体だけじゃない。

 心も。

 考える力も。

 もう限界だった。だから何も聞かなかった。

 聞けなかった、じゃない。

 聞かなかった。

 

 人は、限界を超えると考えられなくなる。その状態で「これからどうしたい?」なんて聞いても意味はない。

 答えられないから。だから最初に必要だったのは、答えじゃなくて、体温だった。食事だった。睡眠だった。安心して眠れる場所だった。

 

「今日は何も考えなくていい。」

 

 あれは、励ましじゃない。

 許可だ。今だけは、頑張ることをやめてもいい。そう伝えたかった。そして今日、朝になって、ようやく話ができた。

 

 少し眠っただけで、あんなに表情が戻る。

 人間は、心だけじゃ生きられない。身体も、ちゃんと休ませないといけない。改めてそう思った。

 

 お願いもした。

 父親を見捨ててほしい。

 豊川へ戻ってきてほしい。

 兄として初めて、

 

「こうしてほしい。」

 

 と言った。

 

 断られることは分かっていた。でも、言わないまま送り出したら、きっと後悔する。だからお願いだけした。

 

 選ぶのは、祥子さん。

 答えは変わらなかった。

 

「私は、自分の道を生きますわ」

 

 そう言った。

 ああ、やっぱり祥子さんだ。

 強い。強すぎる。でも、強い人ほど、助けを求められない。だから最後に残した。

 

「迎えに行く権利だけは残して」

 

 あれは、約束というより、僕自身のお守りだったのかもしれない。

 いつか、本当に苦しくなった時。自分から助けてと言えなくても、約束があれば、思い出してもらえるかもしれない。

 

 僕は、何も解決していない。父親も変わらない。生活も変わらない。

 CRYCHICも戻らない。

 でも、一つだけ変えられたことがある。

 昨日、あの子は眠れた。ちゃんと食べられた。朝を迎えられた。

それで十分なんだ。

 今は。

 

 内なる自分が言う。

 

「今回は負けた気分かい?」

 

……少しね。

 

「なぜ?」

 

 兄としては、連れて帰りたかった。

 苦しませたくなかった。

 全部背負わせたくなかった。

 そう思ってしまった。

 

「でも、やらなかった」

 

 うん。

 あの子の人生だから。

 僕が守りたいからといって、奪っていい理由にはならない。

 

「そこが今日、一番重要だ。君は昨日と今日で役割を変えた」

 

 役割?

 

「昨日は保護者だった。身体を温める。食べさせる。眠らせる。生き延びさせる。そこには本人の意思は必要ない。命を守ることが優先だから。」しかし今日の朝。彼女が眠り、食べ、考える力を取り戻した瞬間ら君は保護者をやめた」

 

 ……そうか。

 だからお願いしたんだ。命令じゃなくて。

 

「そう、昨日なら連れて帰ることも正当化できた。しかし今日の彼女は、自分で考え、自分で選べる状態だった。だから君は、選択権を返した。尊重とは、放置ではない。判断能力が失われている時は支える。判断能力が戻ったら返す。その境界線を守ることだ」

 

 ……昨日は生きるための支援。

 

 今日は生き方の尊重。

 似ているようで、まったく違うんだ。

 

「そして最後に一つ。君は『助けて』と言わせようとはしなかった。それも正しい。助けを求められない人に、『助けてと言え』と求めるのは、その人に新しい課題を背負わせることになる。だから君は、『助けてと言えなくても迎えに行ける約束』を残した。つまり、彼女ができないことを要求するのではなく、できないことを前提に支援の形を変えた」

 

……兄らしくできただろうか。

 

「十分だ。君は祥子を救わなかった。その代わり、祥子が自分で生き続けるための余白を守った。こ救済ではなく、誇りを失わせずに支えた。他に何を望むというのか」

 

 そうかな? そうだね、そうかも

サブストーリーとして一番交流してほしいキャラは?(メインは祥子と初音

  • 若葉睦
  • 椎名立希
  • 長崎そよ
  • 高松燈
  • 野良猫
  • 祐天寺にゃむ
  • 八幡海鈴
  • モーティス
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。