スレイン法国、最高神官長たちの円卓会議。
そこは今、国のお通夜どころか、人類という種そのものの葬儀会場のような絶望に包まれていた。
「……終わった。人類は、終わったのだ……」
火の神官長が、虚ろな目で宙を見つめながら呟いた。
彼らの切り札であった『漆黒の聖典』は、たった一人の少女(カレラ)によって、世界級アイテム『傾城傾国』ごと文字通り「次元の彼方へ消し飛ばされた」。
生存者はゼロ。死体すら残らない完全なる消滅。
もはや法国には、トブの大森林に陣取るあの『魔国連邦(テンペスト)』に対抗しうる武力など何一つ残されていない。周辺の王国や帝国が次々と軍を解体し、あの国に媚びへつらっているという情報も入ってきている。
「いや……まだだ。我々にはまだ、最後の……絶対に不可侵の切り札が残されているではないか」
水の神官長が、震える声で言った。
その言葉に、他の神官長たちの顔がさらに青ざめる。
「正気か!? あの『絶死絶命』を解き放つというのか! 彼女は法国の守護の要であり、同時に何をしでかすか分からない諸刃の剣だぞ!」
「だが、あのバケモノどもを前にして、神人の血を引く彼女以外に誰が立ち向かえるというのだ! 万が一、彼女が負けるようなことがあれば……その時は、我々人類が六大神の元へ還る時だ」
重苦しい決断が下された。
人類の存亡を賭け、法国の最深部に秘匿された『規格外の怪物』の封印が、今解かれようとしていた。
法国の聖域、その最奥。
白と黒の髪を左右に分けた、十代半ばの少女のような姿をした女が、退屈そうにルービックキューブを弄っていた。
彼女の名は、番外席次『絶死絶命』。
六大神の血を色濃く引く「神人」であり、新世界における人類最強にして最高到達点の存在である。
「――へぇ。漆黒の聖典が、全滅?」
神官長から悲痛な報告を受けた絶死絶命は、ルービックキューブを放り投げ、目を輝かせた。
悲しみや怒りなど微塵もない。あるのは純粋な歓喜だけだった。
「隊長も死んじゃったの? ということは、トブの大森林にいるっていう魔王様は、私より強いかもしれないってことだよね!」
「そ、そうだ絶死絶命よ。相手は未知の魔物の軍勢。どうか、人類のために――」
「あははっ! 人類のためなんかどうでもいいよ。でも、私を負かしてくれる『強いオス』がいるなら、話は別!」
絶死絶命は己の武器――かつて六大神の一柱(死の神)が振るったとされる巨大な大鎌(デス・サイズ)を軽々と担ぎ上げた。
「もし私を打ち負かすほどの強者がいたら、私はそいつの子供を産んであげる。……さぁ、神々の血を引く私に敗北を教えてくれるバケモノは、どこのどいつかなぁ!」
狂気と好戦的な笑みを浮かべ、新世界最強の『絶死絶命』が、テンペストへの単独強襲に向けて飛翔した。
トブの大森林、魔国連邦の国境付近。
絶死絶命は木々の間を神速で駆け抜けながら、肌を刺すような異常な魔力の濃密さに頬を紅潮させていた。
「すごい、すごいすごい!! なにこの魔力! 森の空気を吸ってるだけで体が熱くなる! あぁ、本当に強い奴がいるんだ……!」
彼女の感覚は、森の中心部に近づくにつれ、かつて六大神が残した武具すらおもちゃに思えるほどの、圧倒的なエネルギーの渦を感じ取っていた。
誰から殺そうか。まずは一番強そうな奴を引きずり出して、全力で殺し合って――。
「――おやおや。森の結界を力ずくで破る野良猫がいると思えば。……ずいぶんと物騒なオモチャを持ったお嬢さんですね」
「え?」
絶死絶命は、空中で急ブレーキをかけた。
彼女の目の前。進行方向の空間が「ぐにゃり」と歪んだかと思うと、そこから一人の男が音もなく歩み出てきたのだ。
漆黒の執事服。血のような赤いメッシュの入った黒髪。
そして、三日月のようにつり上がった、金と赤の禍々しい瞳。
原初の黒(ノワール)、ディアブロである。
「な……いつの間に!?」
絶死絶命の顔から笑みが消えた。
彼女の神人としての直感が、頭蓋骨の内側でガンガンと警鐘を鳴らしている。
(こいつ、何者!? 魔力はそれほど巨大には見えない。なのに、底が見えない……! ブラックホールみたいに、私の感覚が吸い込まれる……!)
「申し遅れました。私はリムル様に仕える悪魔、ディアブロと申します」
ディアブロは、右手に持っていた「高級な茶葉の入った紙袋」を邪魔にならないように自身の影の中に収納しながら、優雅に一礼した。
「実は、リムル様の午後のお茶会のために、新世界で最も香りが良いとされる茶葉を南方の国まで買いに行っていた帰りでしてね。……あなたのような羽虫に構っている暇はないのですが、我が国に土足で踏み入ろうとするならば、少し『お掃除』をしなければなりません」
「羽虫……羽虫って言った!? 私を!!」
絶死絶命のプライドが爆発した。
彼女は新世界でただ一人、敗北を知らない最強の存在。それを、ただの使い走りのような執事に鼻で笑われたのだ。
「いいよ、悪魔! アンタから切り刻んでやる!」
絶死絶命の姿がブレた。
音速すら置き去りにする神速の踏み込み。そして、六大神の武具である『大鎌』が、ディアブロの細い首を刎ね飛ばす軌道で振り抜かれる。
彼女の筋力とこの武器が合わされば、アダマンタイトの鎧ですらバターのように両断できる。
――ガキンッ!!
「……は?」
絶死絶命は、間抜けな声を漏らした。
彼女の全力の斬撃。必殺の大鎌の刃は、ディアブロの首に届く数センチ手前で、完全に静止していた。
いや、違う。
「……良い材質の武器ですね。ですが、少々作りが甘い。刃の魔力伝導率にムラがあります」
ディアブロが、大鎌の刃を『左手の指二本』でつまんで止めていたのだ。
「ば、馬鹿な……! 神の武器だぞ!? 私の全力の一撃だぞ!?」
「神、ですか。クフフ……新世界の神など、リムル様の爪の垢にも劣るというのに。滑稽ですね」
ディアブロが指先にほんの少し力を込める。
パチン、という軽い音と共に、人類至宝の大鎌の刃が、まるで薄いガラスのように粉々に砕け散った。
「あ、あぁ……ッ!」
絶死絶命は後方へ大きく飛び退いた。
全身の毛穴から冷や汗が噴き出す。勝てない。純粋な物理攻撃では、このバケモノの皮膚に傷一つつけられない。
ならば、自身の持つ『最強の異能(タレント)』を使うしかない。
「ふざけるな……私は、私は絶死絶命! 私の戦技(アーツ)の前では、全ての命は等しく死を迎える!!」
絶死絶命は自身の命を削り、六大神から受け継いだ究極の力を解放した。
それは、かつて『アインズ・ウール・ゴウン』が用いたとされる絶対死の魔法――あらゆる即死耐性を無視して対象を死に至らしめる『すべての生きとし生ける者は死に絶える(The goal of all life is death)』に近しい、理不尽な死の具現化。
彼女の周囲の草木が枯れ果て、空気が死の概念そのものに塗り替えられていく。
「死ね!! どんなバケモノだろうと、これで終わりだァァァッ!!」
絶対的な死の力が、不可視の波となってディアブロへと殺到した。
これを受ければ、竜王であろうと、不死者であろうと、確実に命を刈り取られる。絶死絶命はついに勝利を確信し、口角を上げた。
しかし。
死の波がディアブロの身体を通り抜けた瞬間。
「…………へ?」
何も、起きなかった。
ディアブロは自身の執事服の襟を軽く直し、不思議そうに首を傾げた。
「今、何かしましたか?」
「な……んで? どうして生きてるの!? 私の力は、死の概念そのものを叩きつける絶対の異能……!」
「ああ、なるほど。微かな『死のベクトル』を感じたと思えば。……クフフフ、アハハハハハッ!!」
ディアブロは、腹を抱えて不気味に笑い始めた。
「いやはや、滑稽すぎて腹の底から笑いが込み上げてきます。……死の概念、ですか? 私に?」
ディアブロの目が、スッと細められた。
その瞬間、森の空気が「重さ」を変えた。絶死絶命の放った死の気配など、ただのそよ風に思えるほどの、根源的で、圧倒的で、深淵なる『恐怖』が、ディアブロの足元から泥のように溢れ出したのだ。
「教えてあげましょう。私は『原初の黒(ノワール)』。……我々悪魔にとって、死とはただの状態変化の一つに過ぎない。精神と魂の力こそがすべて」
ディアブロが、ゆっくりと絶死絶命に歩み寄る。
「私の魂は、絶対の主であるリムル様に捧げられている。この世界のどのような理(ルール)であろうと、私の魂に干渉することなど不可能なのです。……さぁ、今度は私が、あなたに『本当の絶望』を教えてあげましょう」
「ひっ……! ぁ、あ……!」
ディアブロから放たれる【魔王覇気】と【誘惑の世界(テンプテーションワールド)】。
絶死絶命の精神が、ディアブロの作り出した仮想世界――終わりのない精神崩壊の空間へと強制的に引きずり込まれる。
神人としての耐性? 新世界最強の精神力?
原初の悪魔の前では、薄紙ほどの意味もなかった。
「やめっ……こないで……! ゆるし……アァァァァァァァァァッ!!!」
現実世界ではわずか数秒の出来事。
しかし、精神世界において数百年分の「純粋な恐怖と絶望」を味わわされた絶死絶命は、白目を剥いて地面に崩れ落ちた。
全身の震えが止まらず、口からはよだれを垂らし、新世界最強の威厳など見る影もない。完全に心がへし折られていた。
「さて」
ディアブロは、ピクピクと痙攣する絶死絶命を見下ろした。
「リムル様は『無意味な殺生は好まない』と仰っています。それに、羽虫とはいえ、あなたの魔力量は新世界の人間の中では多少マシな部類のようだ」
ディアブロは、絶死絶命の首根っこを掴んで持ち上げた。
「あ、あぁ……」
「我が国の迷宮(ダンジョン)では、ゼギオン殿の下で『清掃係兼サンドバッグ』の需要が常にあります。あなたには、そこで永遠に労働する権利を与えてあげましょう」
絶死絶命は焦点の合わない目でディアブロを見つめた。
圧倒的な敗北。自身がどれほどちっぽけな存在であるかを、魂の底から刻み込まれた。
しかし、彼女の歪んだ「強者への執着」は、完全に狂った形で発露した。
「あ……あぁ……つよい……。あなた、つよい……!」
絶死絶命の顔が、恐怖から一転、熱に浮かされたような恍惚の表情に変わる。
「私を……私をあなたのモノにして! 子供を……あなたのように強いバケモノの子供を産ませてぇぇッ!!」
ディアブロの腕にすがりつき、顔を擦り寄せる絶死絶命。
しかし、ディアブロの顔は「本物の汚物」を見るような、極寒の軽蔑に歪んだ。
「……気安く触るな、下等生物。殺しますよ?」
「ひぃんっ! その冷たい目もステキィ!」
「私の魂も肉体も、すべてはリムル様のためだけに存在しているのです。お前のようなゴミ虫の繁殖欲求など、吐き気がする。……さっさと迷宮に放り込んで、ゼギオン殿に徹底的に『再教育』してもらいましょう」
ディアブロは絶死絶命を空間魔法で乱暴に迷宮の最下層(ゼギオンの領域)へと放り投げると、自身の執事服を念入りに浄化魔法で洗い流した。
「やれやれ。こんな道草を食っている場合ではありません。リムル様がお茶の時間を楽しみにお待ちです」
こうして。
スレイン法国が人類の存亡を賭けて解き放った最後の切り札『絶死絶命』は、テンペストの執事の「おつかいの帰り道」に遭遇しただけで、完全に粉砕され、迷宮の変態清掃員へとジョブチェンジすることとなった。
人類至上主義を掲げたスレイン法国は、ついにすべての防衛手段を喪失し、歴史の闇へと静かに姿を消していくことになるのである。