今にして思えば、万事屋に来た時から妙だった。
「こんにちはー」
挨拶をしながら入ってきたキリは、部屋の中を見回した。
「神楽ちゃんと、新八君は?」
「二人とも出てるぞ。あいつらに用か?」
「ううん、今日は銀さんに会いに来たから」
「俺?」
ソファーに寝転がってジャンプを読んでいた俺は、近づいてくるキリを目で追いながら上体を起こした。
キリは俺の前まで来ると、そこで足を止める。
「ねぇ、銀さん手、触ってもいい?」
「……まぁ、いいけど……急だな」
「急かな? でも、私銀さんの手好きだから」
この時は、また何か変な電波でも受信したのかと思ったのだ。
キリは脇に置いていたジャンプをソファーの端へ押しやり、膝が触れそうなほど近くに座った。
「……なんか近くねぇか?」
「そうかな? ダメだった?」
「いや、ダメとかじゃねぇけど……何?」
「銀さんの隣にいると落ち着くから、そばに座りたかったんだけど」
思わず横に逃げようとしたところで手を取られる。
そういや、手を触りたいとかいってたな。
キリは俺の左手に指を絡め、その上からもう一方の手まで重ねる。それだけで、嬉しそうに笑った。
こういうことをする奴ではある。だが、ここまで何も隠さずに笑う奴だったか。
まじまじと見つめてみても、顔も声も間違いなくキリだった。
「なぁ、お前、変なもの食べただろ」
「変なものは食べてないよ」
「待て。その『は』はなんだ。食ってねぇだけで、何かあったのか?」
「うん」
だよな、と納得する一方で、やっぱり聞きたくねぇという予感もしていた。
「何があったんだよ」
しかし、放っておくこともできず結局聞いてしまう。
「帰りがけ、交通事故に遭遇してね」
事故、という単語に反応して、思わずキリの頭から足先まで目を走らせる。
「あ、軽い接触事故で、怪我人はいないよ。車同士がぶつかっただけだから」
俺の視線に気付いたらしく、キリがすぐに付け足した。
「それで」
「トラックの荷代に積んでたのが、実験用の『スナオニナール』ってガスが入ったボンベで、事故の衝撃で割れちゃったみたい。私が通りかかった時にはもう漏れてて、それを吸っちゃったんだよね」
こいつ、さらっととんでもねぇこと言いやがった。
とりあえず一番大事なところを確認する。
「病院は行ったのか? 身体に影響はねぇのか?」
「うん、一応。でも健康被害は今のところ確認されてないから安心してって。もし、何かあったら連絡してって帰された」
「で、どうなるガスなんだ」
「名前のとおり、素直になっちゃうだけ」
「いつまでだ」
「三、四時間ぐらいだって。後遺症も残らないそうだし、良かったね」
よくねぇよおおおおと心の中でだけ叫びを上げる。
「へ、へぇ~」
「ねぇ、銀さん。抱きついていい?」
「止めておいたほうがいいんじゃねぇかな?」
「そっか、ごめんね」
拒まれたと思ったのか、キリは寂しそうに目を伏せた。それ以上は何も言わず、代わりに俺の手を撫で続ける。
「じゃあ、代わりに膝の上に座ってもいいかな?」
先ほどよりも小さな声で聞いてくる。
待て。代案の方が悪化してねぇか。
そう叫びそうになるのをこらえ、隣に座るキリを見下ろした。
「神楽ちゃんがよく座ってるでしょう。あれ、少し羨ましかったんだ」
そう言って、キリは俺の膝と顔を交互に見る。
「……それもダメ?」
「……少しだけな」
断りきれず、甲斐性という奴だと負け惜しみじみたことを考えた。
俺の膝へ横向きに座ったキリは、手だけは離したくないらしく、身体を支えることもできず危なっかしい。
「あぶねぇなぁ」
仕方なく腰へ腕を回して引き寄せると、とろけるんじゃねぇかってほどに笑った。
俺の胸に頭を預け、握ったままの左手に頬ずりする。
「銀さん、好き」
「……お前なぁ」
どうしろっつーんだよ。
天井を仰いで顔を覆いたいところだが、あいにく両手が塞がっている。
「ねぇ、銀さん。髪の毛さわっていい?」
「もう好きにしろ」
そこでようやく、俺の左手は解放された。
キリは相変わらず嬉しそうに笑いながら身を起こし、俺の頭へ手を伸ばす。
「柔らかいね。思ってたのと全然違う」
「お前、俺の髪を何だと思ってたんだよ」
「もっと針金みたいなのかなって思ってた」
「素直になりすぎんだろ」
「ずっと触りたかったんだ。できるなら、好きなだけ触っていたい」
「……素直になりすぎんだろ」
指先で頭皮をなぞるように髪を梳いたかと思えば、今度は両手の指を髪へ絡ませ、そのまま後頭部へ腕を回してくる。
必然、距離は近くなり、耳元に息がかかる。
「ねぇ、銀さん」
「はいはい、なんですかー」
「顔も触っていい?」
触りたくて仕方ねぇのを、どうにか我慢している。そんな顔だった。
「……いいんじゃねぇの?」
すんなり「いい」と言うのも妙に気恥ずかしくて、回りくどい返事になった。
けれど、キリはそんな返事も気にせず嬉しそうに笑い、俺の顔へ手を伸ばす。
こめかみから頬を伝い、顎に手をやり、耳のふちをなぞり、耳たぶを指先で転がす。
頬自分の頬を俺の頬へ重ね、一度だけ甘えるように擦り寄る。それからわずかに顔を離すと、俺の口元を見つめながら、人差し指で唇をなぞった。
「ねぇ、銀さん」
「……なんだ」
「キス……しちゃダメかな?」
キリの視線は、溶けた飴みてぇに俺の唇へ張りついていた。
「お前……薬切れた後しらねぇぞ」
「そうかな……そうかもしれないね。でも、キスしたいのは確かなんだ。銀さんダメかな?」
俺の膝を跨ぐように正面から座り直し、首の後ろへ腕を回しながらキリは言った。
頬ずりするように顔を寄せ、耳元で掠れた声を落としてくる。
「随分、おねだりが上手になったんじゃねぇの」
「……ダメ?」
キリは不安そうに眉尻を下げる。
ごくりと喉が鳴った。
「お前の好きにしろよ」
下がっていた眉がほどけ、口元に笑みが浮かぶ。間近にある目は、うっすらと潤んでいた。
「目、閉じて欲しい」
「はいよ」
落ちないようキリの背中へ腕を回し、言われたとおりに目を閉じる。
ほどなく、柔らかな感触が唇へ触れた。
短く触れては離れ、次は少し長く重なる。角度を変えながら、啄むような口づけを何度も繰り返された。
「ねぇ、銀さん」
呼ばれて薄く目を開けると、頬を上気させたキリが、潤んだ目でもう一度「銀さん」と呼んだ。
「次はなんだ」
「口、開けて欲しい」
キリの腰を抱いていた腕に、思わず力が入る。
「銀さんはやめといた方がいいと思うけどなァ」
「どうして? 銀さんは私に触れたくない? 私はもっと銀さんに触れたい。舌を絡めて、奥まで触れたいよ?」
俺の頬を両手で包み、そんなことをねだってくる。自分だって耳まで真っ赤にしているくせに、何度も俺の名前を呼んだ。
「……どうぞ」
「嬉しい」
キリがゆっくりと顔を寄せ、唇を重ねる。今度は目を閉じろとは言われなかった。
口を薄く開けると、重なった唇の隙間をキリの舌がぺろぺろと舐めた。
この先まで入っていいのか、俺の反応を窺うように、恐る恐る舌先を伸ばしてくる。
俺の口へ入ったかと思えば、すぐに引っ込む。今度は唇の内側をなぞり、また少しだけ入ってくる。
どう見ても不慣れな動きが、何度も繰り返された。
「んっ……ふっ」
息が続かなくなったのか、苦しそうな声が漏れる。
もっと奥まで触れたいのに、やり方が分からない。遠慮がちに出入りする舌から、そんなもどかしさが伝わってきた。
一度唇を離して呼吸を整えると、キリはもう一度唇を重ねてくる。
その瞬間、今度は俺から舌を差し入れた。所在なさげに動いていた舌を捕まえ、そのまま絡め取る。
「んっ」
腕の中でキリの肩がびくりと跳ねた。
舌先で上顎を撫でると、背中が弓なりに反る。
身体を引かないことを確かめながら、下の歯の裏をなぞり、頬の内側を舐め、上唇の裏まで探っていく。
最後にもう一度、逃がさないよう執拗に舌を絡め、捕まえた舌を強く吸い上げた。
「はぁ……はぁ……」
唇を離すと、息を乱したキリが、潤んだ目を丸くして俺を見た。
「どうした」
「銀さん……もっかいして欲しい」
てらてらと濡れた唇が、俺の返事も待たずに再び重なる。
背中へ回した手のひらから、息を呑むたびに強張る身体も、堪えきれずに震える肩も、何もかも伝わってきた。
時折漏れる声が、重なった口の中へ直接響く。
要望に応えるどころか、気づけばサービスを二つ、三つ――その先はもう数えてねぇ。
頼まれてもいない分まで勝手に追加して、キリの口の中を犯すだけ犯した。
おかしくなってんなという自覚はあった。こうなる前に止めるはずだったと。
けれど、肩を震わせるキリが、背中を弓ぞりにし必死にしがみつくキリが、どうしようもなく可愛くて仕方なくて、ヤバいなという冷静な俺を頭の片隅において行為を酷くしていた。
そろそろ頃合いかと舌を引き、唇をゆっくり離す。
「……は、ぁ……銀さん」
キリの声は幾分枯れていた。頬から首筋まで真っ赤になり、肌には細かな汗の粒が浮いている。
「気持ち良かったか?」
頭を撫でながら聞くと、キリはくすぐったそうに目を細め、その手へ頭をすり寄せた。
「気持ちよかった……。ねぇ、銀さんも……銀さんにも気持ちよくなってほしい。いい?」
勘弁してくれよ。
そう返す間もなく、また唇を塞がれた。
キリは教えられたことを思い出すように、一つずつ律儀に繰り返していく。
舌先で上顎をなぞり、下の歯の裏を辿る。頬の内側を舐め、次は上唇の裏へと移っていった。
「んっ……ん、っ」
声を抑えようとしているのに抑えきれず、舌が触れ合うたび、鼻にかかった声が漏れる。
俺の舌を絡め取り、吸う。そのたびにまた、自分の方が甘い声を漏らした。
唇の隙間から溢れた唾液が、キリの顎を伝っていく。その感触に肩を小さく震わせながらも、ひたすら俺の舌を追いかけてきた。
それすら刺激になるのか、眉を寄せ、ただひたすらに、懸命に俺の舌を追う。絡めてやれば嬉しそうな声が漏れ、なめ取れば気持ちの良さそうな声が漏れる。
絡め返せば嬉しそうに喉を鳴らし、舌を吸ってやれば気持ちよさそうに声を漏らす。
不器用な舌が俺の舌へ絡み、ほどければ、また追ってくる。
健気とすら思った。
覚えたばかりのやり方で、ただ俺を気持ちよくしようとしている。
「……っ、は……」
ゆっくりと唇が離れ、二人のあいだに細い唾液の糸が伸びる。
目の前のキリはとろとろに溶け切っていて、少し押せばそのまま形を崩しそうだった。
「銀さん……ねぇ、銀さんも気持ちよかった?」
何をねだるという訳でもなく、俺の肩口に顔を埋め、キリは体をこすりつけるように擦り寄せた。
「銀さん……暑い。もっとしたい。もっと深く繋がりたい」
何を、なんて聞き返さなくても分かった。
深く息を吸い、ゆっくりと吐く。
「銀さん……ダメ?」
首元で囁かれた声が、背骨を伝って身体の芯まで届く。
誘ったことを後悔するくらい、ぐちゃぐちゃにしてやりたかった。
息を吸う。
「あ゛ァァァァァァッ!!」
耳元で炸裂した絶叫に、キリの身体がびくりと跳ねた。
「本日閉店、ここまで!!」
「銀さん?」
キリの腰を持ち上げ、横に座らせる。
今まで熱を持っていた部分が急に涼しくなり、寂しくなるが……。
「銀さん」
袖を引きながら見上げてくるキリを無視して、乱れた着物の合わせを整えてやる。
「銀さん?」
「そんな目してもダメですぅ」
「なんで?」
「閉店したから」
「違うよね? えーっと……勃っちゃうから? 私が気持ちよくしてあげるのに」
「やり方知らねぇ癖に……本当、やめて。300円やっから。薬切れたら、止めてやった銀さんに感謝すると思うよ。マジで」
深い溜息をついて内に籠もった熱を逃がす。
「銀さん、ぎゅっとしていい?」
「ぎゅっとするだけな」
背中に手を回し抱いてやり、あやすように撫でると、嬉しそうに笑う。
何が楽しいのだか、空いていた俺の手まで宝物のように撫でていた。
それがピタリと止まる。
「銀……さん?」
キリはギチギチと音がしそうなほど、ぎこちなくこちらを向いた。
「ああ、薬、切れたか」
時計を見れば、切れてもおかしくない頃合いだった。
「膝、座るか?」
「いいです!! 結構です!!」
耳の裏まで真っ赤にして、両手で俺を押して逃げようとする。
「暑いんだっけ? 続きしてやろうか?」
「最低! 最悪!! 銀さんなんて……馬鹿っ!!」
逃げられないと知ると、今度は俺の胸元へ顔を押しつける。
「忘れて!」
「ちゃんと墓まで持ってくから安心しろ」
「今すぐ墓立てて!! 嘘、長生きして」
「どっちだよ」
「どっちも!!」
キリが立ち直るのが先か、神楽達が帰るのが先か。この調子なら、もうしばらくは付き合ってくれそうだと悪い考えが浮かぶ。