数百年たった。人里も住んでいる人や着ている服もすっかり様変わりした。射命丸は山に戻り、目新しいものを手帳に書きつけては上の者に報告する職に就いていた。
ある日、気まぐれで賽の河原と呼ばれる場所へ降り立った時、後ろから耳慣れない声に呼び止められた
「貴女が探している子は此処にはいませんよ。」
閻魔だった。
「あの子は地獄にいます。」
射命丸は突然のことに驚いたが長年の修行で培った胆力でそれを表に出さなかった。それどころか、にこやかに笑って見せる。
「まあ、そうでしょうね。」
映姫は勺で口元を隠しながら近づいてきた。二人の間の距離は手を伸ばせば触れるほどしかなかった。
「手塩にかけた我が子が先に死ぬ辛さは古今東西でも類を見ないものです。貴女方の気持ちも分かります。でもあの子のことを許してあげてください。」
射命丸は犬走お願いされたのにもかかわらず、未だに丁の墓に行ったことがなかった。恐らく、そのことを言っているのだろう。全く、余計なお世話だと思った。
「出会い頭に説教ですか。流石閻魔様ですね。」
閻魔との遭遇もそうだが、生温い風に運ばれる鉄の匂いに気分が悪くなって、早く立ち去りたくなった。心なしか湿っぽい空気が羽根に纏わりついて重いような気もする。
「貴女は意地を張り過ぎている。」
飛び立とうとした射命丸の翼が止まった。
「何を。」
「区切りをつけるのは必ずしも悪いことではないのです。」
天狗の顔は苦々しく、渋柿を食べてもこうはならないだろうという表情を浮かべた。
「あの子は貴女のことを母と呼ばなかったことを後悔していました。」
「私が呼ばせなかったのです。」
射命丸は拾った子供に「母親」というものを教えなかった。恐らく、大きくなってから姫海棠に教えてもらったのだろう。幼いころから様付で呼ぶように躾けていた。一番に教えたことがそれだった。
「妖怪と人間は対等ではないのですから。」
「私の目には変わらないように見えましたよ。」
「ご冗談を。」
不機嫌さを隠すように目を細めて睨みつけた、。
「いずれ人里に下ってもいいようにしていたのでしょう?」
「想像するのは勝手ですよ。」
会いに行くなら止めません、と閻魔は言った。生者が死者に会うことを許すのは信心深い僧侶でも滅多にあることではない。審判の場で何か思う所でもあったのだろうか。破格の対応だった。
「誰が会いに行きますか。」
鴉天狗は眉をひそめて吐き捨てると映姫の呼び止める声にも振り向かずに今度こそ飛び去った。無礼な退場だったが閻魔は文句の代わりに溜息をつくと、もと来た道を引き返していった。
射命丸が河原で対岸を眺め、石を川に投げ込んでいるといつの間に童子の亡者らが周りを取り囲んでいた。
「お姉さんは誰。」
見慣れない人物に興味津々なさまは無邪気な子どもらしい。その気になればこんな小童らは纏めて吹き飛ばすことができるが、幼くして死んだ彼らを邪険にすることは躊躇われた。
「射命丸と言います。」
「お姉さんも死んだの。」
「いいえ。」
ある一人の少女がおずおずと前に出た。
「あのね。」
「何ですか。」
「もし、私のお母さんにあったら伝えてほしいことがあるの。」
人間のくせに天狗にお願いしようとは。一笑に付すところだが、その蛮勇に免じて聞くだけだったらいいだろう。
「言ってみなさい。」
「私ね。もう一度お母さんのところに生まれたらまた御萩を作ってほしいの。」
生前は親に甘やかさせていたことを予想させる、丸っこい顔つきのコロコロした子だった。
「おやおや。貴女ぐらいの子はやはり花より団子なのですね。」
鴉天狗は口元を手で覆いながら笑った。
「お姉さんは萩の花のほうが好きなの。」
「そうですね。萩の盛りはよい酒がありませんから好きではありません。一人の花見は酒がないと楽しくないのですよ。」
「ふーん。」
射命丸は童子らの石を積み上げる手をこれ以上止めないようにまた話しかけられる前にサッと空に舞い上がった。三途の川の上空で円を描くように回ると、彼岸のほうを横目で眺めてその場を後にした。
「嫌ですね。」
賽の河原からの帰り道、里の近くを通り過ぎようとしたころ、見たくない光景が目に映った。夕焼けの中に浮かぶ大小の二つの影に顔をしかめた。小さい影は大きな影を見上げて、仕切り何か話しかけている。
「射命丸様。」
声が聞こえた気がした。その声は絶えて久しいのに射命丸は耳馴染みの良い明朗な語り口を今でもハッキリと覚えている。
「いい天気ですね。」
「こんなに綺麗な青空だと洗濯物がよく乾きます。」
「今晩はフカフカの布団で寝られますよ。」
あの子の取り留めもない話に耳を寄せながら空も飛んだこともあった。中身のない会話を楽しそうに喋る少女に適当に相槌を打っては揶揄った。
確かに射命丸は丁に世話をやいていたが、同じ屋根の下で寝食を共にしたことはない。一緒に外でご飯を食べたのも数える程度しかなかった。今思い返せば、よく懐いてくれたなと思う。
でも、それでも、丁は射命丸のことを慕っていた。他の人の所にいても一声かければ、すぐ笑顔で駆け寄ってくる子供に優越感と温かい何かが胸にあった。
両腕にすっぽりと収まる柔らかくてあたたかい身体を思い出すと熱いものがこみ上げてくる。
ああ、淋しいな。とても淋しい。
認めなくはないが絆されていたところはあったのだ。丁と過ごす時間は嫌ではなかった。
「駄目ですね。これでは数百年の時間が無駄になってしまうではありませんか。」
朱色の目に涙が迸る。
「馬鹿な子。あなたが生きていれば他に何もいらなかった。」
本当は地獄で苦しんでいるという少女のもとへ駆けつけてやりたかった。でも、そんなことをしたら射命丸は今度こそ過去に囚われてしまう予感があった。
山に着くと、いつぞやの店主と再会した。
「射命丸様。お久しぶりです。怪我もすっかり良くなられたようで。」
「もう何年たっていると。貴方も大事がないようで何よりですね。」
世間話に興じていると、店主は懐から黒い巾着を取り出した。
「実はこれを貴女に渡そうと思っていまして。」
中に入っていたのは碧いトンボ玉だった。
「これは。」
「丁ちゃんがね。言っていたんですよ。大好きな人によく似た物を身につけるのは嬉しいんだって。だから、次に会ったときにあの子にこれを渡してやろうと準備していたんです。」
射命丸は無言で受け取った。
「人の子というのは誠に忌まわしいものですね。」
「あの。」
店主は余計なことをしてしまったのかと思った。
しかし、それは全くの杞憂であった。
「どれほど時が過ぎてもまるで昨日のことのように思い出してしまう。いつまでも色褪せないガラス玉はあの子に本当によく似ています。」
射命丸の目は穏やかだった。
店主や周りにいた天狗は揃って地を見つめた。
ある禁忌が頭をよぎっても自分の心に嘘をつけなかったのだ。その光景は丁が今も鮮やかに皆の記憶に残っていることを示していた。
「来世は妖怪とは無縁の人生を送りなさい。愛しい愛しい馬鹿娘。」
同日、犬走は天魔のもとに参上していた。呼ばれるままに屋敷の奥に向かうと、そこには灰色の空から降る春知らぬ花を肴に盃を傾ける老天狗がいた。
かつて大天狗として武勇を誇り、天魔の地位まで上り詰めた彼女も生涯を振り返る年頃にさしかかっていた。
「犬走。」
「はい。」
「愛していたからこそ、憎いものもある。」
天魔は前栽に積もる白雪を眺めながらこぼした。
「今夜は冷えそうだな。」
「はい。」
「あの子が寒がりそうだ。後で笠を被せてあげなさい。」
「はい。」
白狼天狗の毛皮が湿っていたのは道中の雪の他にも理由もあるのだろう。屋根の下でも乾く様子はなかった。