――大正三年。
とある地に、狭霧山という自然豊かな山がある。はるか過去には賑わいを見せた歴史もあったけれど、今はもう訪れる者もあまりおらず、静かな山だ。
そんな山の麓にぽつんと建てられた庵に、若い男女の声が響いた。
「鱗滝さん、ただいまっ」
「鱗滝さん、ただいま。元気そうだな、安心した」
ここは鬼殺隊の育手、鱗滝左近次の住まう庵であり、「ただいま」の挨拶とともにやってきたのは、それぞれが鬼殺隊の柱たる存在だった。
最初に庵へと入ってきたのは、現水柱である女性隊士、真菰。彼女は黒の隊服の上に、水面を漂うような水色の瑞雲を映した羽織を身につけている。これは彼女の養父でもあり師でもある、鱗滝左近次と同じものだ。
真菰は鱗滝左近次の弟子としては初の鬼殺隊士であり、二十六歳となる岩柱・悲鳴嶼行冥と並び、最年長の柱として大正の鬼殺隊を支える存在だ。
続いて扉を潜り庵へと入ってきたのは錆兎だ。
真菰と違い、彼の羽織は橙に染まった瑞雲模様だ。まるでそれは、燃え上がる炎を反射する水面を思わせた。
錆兎はその羽織と同様に、水と炎の呼吸を修得し使い分けるという、鬼殺隊の歴史でも稀に見る才覚を持つ剣士と成った。
赤熱するほどに熱く、熾烈に。水面のように静かに、冷たく。相反する二つの呼吸を合わせたその様はあたかも鋼の鍛造を思わせ、今や『
そんな、鬼殺隊の頂点へと成長した二人の弟子を庵へ迎え入れる鱗滝の表情は、やはり赤い天狗面に隠されている。
だが、二人に茶を用意し、囲炉裏で煮物を温め直す鱗滝の佇まいからは。師として、あるいは第二の親としての確固たる愛情が感じられた。
「しかし、珍しいな。真菰と錆兎が揃って戻ってくるとは。柱の任務は大丈夫なのか?」
「うん、本当にたまたまだけどね。最近は義勇が私の地区で活動してくれてるから、一時期よりは身体を休められるようになったんだよ。義勇も柱の資格は得てるし、水柱はしばらく安泰だね」
真菰はずいと入室すると、勝手知ったる我が家として庵の居間に腰を下ろし、鱗滝から茶を受け取っている。その姿は弟子と師というより、久しぶりに実家に帰ってきて親に甘える成人女性のそれだった。
彼女の弟弟子でもある冨岡義勇は、今は柱に次ぐ階級・甲として活動しており、鬼狩りとして柱への昇進条件もすでに満たしていた。
真菰が怪我をして戦えなくなっても、あるいは体力の限界が訪れたとしても、信の置ける弟弟子に水柱の役目を託すことができる。それは真菰にとっても、大きな心の支えである。
「俺は相変わらず、自由に動いて鬼を狩り尽くしてこいって指令しか来ないしな。休むも休まないも自由なんだ」
「遊撃の柱――か。お館様はとうとう、新たな流れを作ったのだな」
錆兎もまた茶を受け取ると、真菰の横に腰を下ろす。彼もまたこの庵で育った期間が長く、この家を第二の我が家だと思っている。
真菰と錆兎。彼らは今やそれぞれが柱となり、己の住む屋敷を産屋敷家から与えられていた。
けれど、真菰も錆兎もこの狭霧山からほど近い土地に屋敷を構え、こうして時折己の師であり、第二の親でもある鱗滝左近次のもとに帰ってくることが多かった。
そのように――。
いつもならばただの『里帰り』ですむ話だが、昨年からは大きく事情が異なっている。
一息ついた面々の視線が、ふすまの向こうの隣室へと向かう。部屋には、煮詰まった煮物の香りが漂っている。
「で、鱗滝さん。炭治郎の修行はどうなんだ」
ふすまの向こうで寝こけている少年――竈門炭治郎。
彼はとある山にて冨岡義勇と出会い、育手である鱗滝左近次を紹介され、この狭霧山までやってきた。
いわば錆兎と真菰からすれば、鱗滝一門の新たな弟弟子だ。
鱗滝一門は、最終選別で死者を出さず、なおかつ現役の柱を二人も送り出したことで、一時は弟子入り志願者が殺到していた。
そこで鱗滝が錆兎とともに考案したのが「殺傷罠だらけの山を数刻で駆け下りる試験」だが、今のところはそれを無事に達成したのはこの少年、竈門炭治郎だけである。
「修行は……そうだな。炭治郎は真面目で、努力家だ。順調に、一歩ずつ力を付けていっている。今は体力を使い果たし、起きてくるのは明日になるだろうがな」
「それは残念だな。炭治郎がまだ元気そうなら、俺が特別に朝まで実戦稽古でもしてやろうと思ってたんだが」
「ほらー、駄目だよ錆兎。炭治郎は全集中もまだままならないんだから、まずは死ぬほど呼吸の稽古をさせるところからでしょ?」
二人は義勇からの伝達により、昨年からこの少年、竈門炭治郎のことは知っていた。
これまでもこの山へと訪れる機会を作り、すでに何度か修行をつけている。もっとも、炭治郎は未だに全集中の呼吸もままならぬ身であり、柱である彼らからすれば修行と呼べるほどのことはしていない。
炭治郎は未だ、鱗滝から基礎を叩き込まれたばかりの少年だ。まもなく彼は、大岩をその刀で斬る、という試練を課せられることとなる。
「真菰さんは炭治郎に甘いんだよ。男ならば実戦から光明を見つけるべきなんだ。実戦なくして成長はない」
「錆兎ったら槇寿郎さんに影響されすぎてない? 昔から錆兎は向こう見ずなところあったけど、槇寿郎さんの弟子になってから、向こう見ずなのが増してるよ?」
「……やめてくれ真菰さん。あんな人と一緒にされるのは、本当に勘弁してくれ。俺の師匠は鱗滝さんだけだ」
二人は鱗滝が温め直した煮物を当然のようにつまみながら、軽口を叩き合っている。
錆兎の二人目の師にあたる元炎柱・煉獄槇寿郎。錆兎を鬼殺隊の指令の外にある『遊撃の鬼狩り』の道へと引きずり込んだ張本人であり、ひたすらに錆兎を実戦で鍛え上げた第二の師でもある。
だが、錆兎としては槇寿郎からは迷惑を被った記憶の方がはるかに多いため、頑なに、彼を師とは認めないようだ。
もっとも――。
「はは……いや、錆兎を煉獄家に向かわせたのは、正解だったようだな」
「くそ、鱗滝さんまで。本当に勘弁してくれよ」
錆兎の本心を嗅ぎ取る嗅覚を持っている鱗滝には。
あの時、錆兎の背を押したのは正しかったと思わせるだけの温かな感情もまた、十分に伝わっているのだった。
◇ ◇ ◇
「それで――」
煮物が皿から無くなったころ。
錆兎が立ち上がり、奥の間に続く襖をそっと開いた。
「――こっちの姫さんはまだ寝たきりか」
鱗滝も、真菰も。無言で後に続く。
この庵ではいま、体力を使い切った炭治郎がぐっすりと寝息を立てているけれど、しかしこの庵にいるのは彼だけではない。
決して光の当たらぬ奥の間の薄暗がり。そこに、炭治郎の妹である禰豆子が長らく、眠り続けていた。
三人はそっと、禰豆子の寝顔を観察するように、彼女の横に腰を下ろす。
禰豆子。
炭治郎の妹であり――鬼である。
彼女が頸を斬られず、
手紙を受け取った真菰たちは当初、義勇が何を言っているのか信じられなかったが、今となってはもはや詮無きことである。
「禰豆子は、医者に診せても何の異常もないとのことだった」
二人の弟子は「鬼である禰豆子を医者に診せた鱗滝も、当時はかなり混乱していたのだろうな」とは思っているが、口にはしない。
眠り続ける禰豆子。彼女は鬼となってからもまだ、一人として人間を食べてはいないという。
これがひと昔、ふた昔前の鬼殺隊士ならば、今のうちに首を刎ねるべきだと提言したかもしれない。けれど、錆兎と真菰は知っていた。
過去にも一人、全く同じようにして二年間眠り続けた『あやかし』がいたことを。
禰豆子の横には、炭治郎が書いたのであろう『禰豆子へ』と書かれた封書が置かれている。
これは、鬼殺隊士を目指す炭治郎に、鱗滝が書かせたものだ。鬼殺隊士というものは皆、残された身内へと遺書を残していく。炭治郎の場合、身内はもう鬼である禰豆子しか残されていないのだ。
「『禰豆子』――か。やっぱりこの子は、巫女鬼様……
「花枝と同じかもしれんし、そうではないかもしれん。禰豆子が起きるその日にならねば、わからんよ」
花枝。それは慶応四年のあの夜、鱗滝が救えなかった少女の名であり、真菰や錆兎からしてみれば、自分たち狐の子たちを救い続け、強くしてくれた少女の名だ。
彼女は鬼となって藤襲山に入れられたその日から、二年間眠り続けたのだという。
二年の間、眠り続ける花枝をたったひとりで守り続けた手鬼が、それをはっきりと証言していた。
そして、もう一つ。
仮に禰豆子が目覚めたとき、花枝のように『あやかし』として生まれ変わらなかったとしても。
ここには禰豆子を救うための『とっておき』の手段が用意されていた。
「ねえ鱗滝さん。禰豆子が起きたら、絶対にあの実を食べさせてあげてね? 人をまだ食べていないなら、禰豆子は大丈夫なはずだから」
「ああ。それは絶対に、約束しよう」
真菰が鱗滝に預けている、ひとつの実。
一見すると小ぶりな蜜柑のようにみえるそれは、しかし決して蜜柑などではない。通称『トキジクの実』という、鬼の呪いを祓い、理性を取り戻させる奇跡の実である。
このトキジクの実は、上弦の弐との戦いにより引退を余儀なくされてしまった元百合柱・胡蝶カナエから受け取ったものだ。もともとはカナエが隠れ里にてトキジクの実を分け与えられた際、花枝が「真菰の分」として余分に渡してくれたものなのだという。
あの実験も、そしてまだ若い胡蝶カナエの引退も、真菰にとっては非常に苦々しく、心に深い傷跡を残した出来事である。
けれど、それがいま、一つの希望として繋がっているのだと思うと。真菰はまだ、笑顔を見せることができた。
「禰豆子、大変だったね。でも、起きたらきっと、鱗滝さんと炭治郎が助けてくれるからね」
そっと、真菰が眠る禰豆子の髪を撫でる。
「鬼になってしまったあなたが生きていける場所も、ちゃんとあるからね」
その手は、その表情は。十五年もの長い間、全てを鬼狩りに捧げてきた人生だというのに。
とても、とても、穏やかで、優しい眼差しだったと。
後の錆兎は語っている。
◆ ◆ ◆
真菰たちは、一時的に鱗滝と炭治郎の様子を見に来ただけで、この日はすぐにそれぞれの屋敷へと帰ることとなった。
錆兎などは本音を言えば炭治郎に実戦特訓をさせたがっていたが、さすがに師である鱗滝の前で眠る炭治郎を叩き起こすわけにもいかず、今日のところは大人しく引き下がるようだ。
庵の外まで見送りにでた鱗滝に真菰たちは振り返り、ずっと聞きたかった質問を、口にする。
「ねえ、鱗滝さん。本当に、藤襲山には行かなくていいの?」
天狗の面が、その足を止めた。
真菰に続いて錆兎もまた、声をかける。
「鱗滝さん。俺は……もう、鱗滝さんは自分を許していいと思う。いつまでもこの山を守ったところで、巫女鬼自身が贖罪なんか求めていないんだ」
「……儂はきちんと、花枝と対話をしているつもりだよ」
数秒の沈黙の後、鱗滝は暗くなった山を見上げて、静かに言葉を発する。
江戸時代。
鱗滝が若かった頃には、この山の上に一つの古い歴史を持つ神社があり、麓には今よりも多くの人々が生活していたのだという。だが、それらは慶応四年のあの日、喪われた。
――わたしが危ない目にあっていたら、鱗滝さまが助けに来てくださいますか?
――ああ、もちろんだ。約束しよう。
柱として貯めた財を使い、人のいなくなってしまったこの山を買い取ったのは、鱗滝左近次だ。
彼がどのような気持ちでこの山に住み続けているのか。いま、どのような顔でこの山を見上げているのか。
真菰たちには、わからない。
「……でも、対話って言っても、鱗滝さんから手紙を送ったことはないでしょ?」
真菰の言葉に、天狗面がゆるりと頭を振る。
「儂が弟子を育て、狐面を託し、あの子らがそれに応じる。この対話を、もう何十年も続けているつもりだ」
「随分気の長い交換日記だな……」
最後に、呆れたように錆兎が呟いた。
鱗滝が見上げていた狭霧山の山影は。人々の営みを見下ろすように、彼らの悲しい歴史に寄り添うように。
ずっと、ずっと。そこに佇んでいるのだった。
幕間『みたまや大正噺』了
次話より4章『炭のカグツチ』
8月31日23時公開予定です
*当小説は「独自設定」タグ付きで進行させていただいております