「……悠久の黄昏に、蜂蜜色の命の源が、輝く時がきたわね……」
花畑を見下ろす東屋で、風見鬼が静かに詩を読み上げた。
東屋から見渡せるのは、広大な花畑だ。御霊矢神社が山の上にあった神社なので、花畑も広大な平地ではなく、段々に作られた斜面を利用して作られている。
その花畑のうち、菜花に充てられた土地にはいま、手鬼やモグラ鬼、田中鬼といった鬼たちが労働のために集まっていた。あれは住民全員参加の花札大会で負け、強制労働を課されたものたちだ。
「蜂蜜色の命の源というか、菜種油ですけどね」
菜種油。つまりは、眼下で行われている労働は、油の原料となる菜種の収穫作業だ。
少し前まで黄色い花々を咲かせていた菜花は、今は開花の時期が終わり、乾いた菜種の
手鬼たちはそれらの莢のついた茎を刈り取り、木で作った箱に入れてふるいにかけ、菜種だけを取り出す作業を繰り返していた。
この花畑では何十年もの長い間、この周期を繰り返し、菜種を採りつづけてきたのだ。
「量はあんまり作れませんけど、産屋敷家が送ってくれた油よりも、やっぱりここの菜種から作る菜種油のほうが美味しいですよねー」
「黄昏の世界。この地には、巫女の光が満ち……菜種の一つにまで、慈愛の力が注がれているのよ」
「うーん、そんな大層なものじゃないと思いますけど」
蜂蜜の源にもなり、住民たちの食料にもなり、種を集めて絞れば油が抽出できる。
この花畑に咲き乱れる菜花は、花枝たちがこの隠れ里に住み始めた当初から栽培されてきた、ある意味ではこの里の食事事情の生命線といえる花だった。
――巫女鬼様ー! 見てください、あちらの花園に菜花がたくさん咲きましたよ!
元は
外から持ち込んだ菜花が開花したときの百合鬼の声を、花枝は思い返す。
「ふふ、懐かしいですね」
「……懐古。いったい、何を懐かしんでいると、言うのかしら?」
「一番はじめに菜花が咲いた日のことを思い返していました。風見鬼はその時はまだいませんでしたね」
「あー、私と筆鬼がここの住民になってすぐですよね、それ」
はじめは、境内の空いていた土地に花園を作っただけだった。
それが今では森を切り開き、広大な斜面を整え、菜花をはじめとした色とりどりの花畑や野菜畑が広がっているのだから、驚きだ。
花枝は感慨深げに、東屋から見える花畑に視線を巡らせている。
手鬼たちが何やら大笑いしながら菜種を集めている。何か面白いことでもあったに違いない。
「……人がいて、初めて里は里となるのよ。悠久の時の、始まりの日ね……」
「悠久……そうですね。私と手鬼だけではここは里ではありませんでした。筆鬼と百合鬼がやってきたあの日から、わたしたちの里が始まったのかもしれませんね」
◇ ◇ ◇
「筆鬼が手鬼と巫女鬼様に学問を教えはじめて、私はかなり焦ってたんですよ。自分だけなんの役にも立てないのは嫌だなって」
「あなたがはじめに菜花を育ててくれたからこそ、この里の自給自足が始まったんですよ。百合鬼のおかげです」
「えっへっへ」
そうして、気づけば雑談の趣旨は『里の思い出話』となっていた。
明治という長い時代、この隠れ里は住民とともに大きく発展した。思い返せば、色々な出来事があった。
「いろいろと増えましたね。露天風呂に、氷室、炭焼き小屋に。粉挽き小屋や水車小屋は大失敗しましたが」
「……想起。限られた中で、色々とやってみたわね」
里の皆で作り上げてきたものは様々だ。
今でこそ大窯や露天風呂、氷室などで大きく生活は変わったが、最初は何もなかったので、全てが手探りだったのだ。
中には、水車小屋や粉挽き小屋といった、結局形にはならずに終わったものもある。
「粉挽き小屋とかそういうのは、結局色々試したあげく『鬼の力で挽き潰したほうが早い』っていう元も子もない結論がでちゃいましたからねー」
「水車。今も、川沿いに残骸が遺されている……悲しき歴史ね……」
「今でこそ笑い話ですけど、あのときの徒労感はなかなかのものでしたよ」
菜種や穀物の類いをすりつぶす作業を簡略化しようと、皆であれこれ知恵を出し合った日々があった。
水車の計画などは最たるもので、川を流れる水の力を利用してものを動かす計画を立てたのだ。
まともな知識も設計図もない状況で、自分たちで設計図を描き、組み立てて。失敗を繰り返し。
最終的には、自分たちが鬼の力ですりつぶしたほうが圧倒的に早くて楽だという結論に落ち着いたのだ。
「でも、全部が楽しかった思い出です」
花枝は、目をつむって様々なことを思い出す。
皆で設計図を作り、木材を切り出した。力のない花枝は作業の邪魔になり、手鬼に追い出されたこともあった。
大きな岩を切り出したときは大変だった。岩を運ぶのは手鬼や包丁鬼といった力もちの鬼がいたのでどうにかなったが、足下で応援していた花枝は、邪魔だと手鬼に追い出されたこともあった。
そうやって色々思い返していると、なんだか手鬼に対する怒りがこみ上げてきた。不思議である。
静かな時間が過ぎていく。
花畑では菜種の収穫が終わり、モグラ鬼の号令でこのまま野菜の収穫に移行するようだ。
「ねえ、巫女鬼様」
「はい、どうしました?」
そんな時間をすごしていると、ふと。
百合鬼と風見鬼が、とても優しく、そしてどこか寂しそうな瞳で、花枝を見つめていた。
「私たちは、これから先に何があっても。巫女鬼様にいただいたこの時間を、忘れることはありませんからね」
「……そうね。時代が変わり、鬼と戦うときが近づいて来ているわ。それでも……」
「百合鬼。風見鬼……」
明治から大正へと時代が切り替わった頃。あの上弦の弐に存在を知られたことで、この永遠と思われていた時間は、動き出さざるを得なくなった。
きっと間もなく、この優しかった時間には終わりが訪れる。それは里の全員が予感していることだ。
ただ、それを口にしたら、その瞬間にでも、この幸せな時間が終わってしまいそうだった。
だからこそ、誰も今まで、それを口にしようとはしなかったのだ。
けれど、いつまでも過去にだけ浸ってはいられない。
花枝もまた、何かを言おうとする。
けれども、いざ何かを伝えようとすると、言葉が出てこない。溢れる想いを言語化するのは、とても難しい。
そのような、もどかしい時間は――。
『ガァ! ガァ! 隠レ里ニ、隊士タチガ近ヅイテ来テルゾ!!』
「え?」
花畑へと飛んできたヤタガラスの声で終了となった。
花枝たちはすぐにヤタガラスへと向き直る。野菜の収穫をしようとしていた手鬼たちも手を止め、ヤタガラスの言葉の続きを待っている。
『胡蝶カナエト冨岡義勇ガ、山ニ入ッテキタゾオオ!!』
「えっ?」
そして、続いて出てきたその意外すぎる組み合わせに。
花枝も、風見鬼も。そしてなにより、百合鬼も。
皆が目を丸くして、ぽかんとした顔を浮かべてしまうのだった。
◇ ◇ ◇
「カナエちゃん……! 良かった、元気そうだねえ!」
花枝が百合鬼と手鬼を護衛に引き連れて藤襲山へと向かうと、カナエと義勇はちょうど藤の花で覆われた斜面を上ってきている最中だった。
百合鬼は真っ先にカナエへと駆けよると、カナエに全身で抱きつき、カナエも百合鬼の抱擁を受け入れる。
「百合鬼さん。会いたかったです、あの日、私を救ってくれて……ずっと、ずっと、お礼を言いたかったんです」
「うん、うん、あの腹立たしい上弦には勝てなかったけど、良かった……良かったよおお」
「ありがとう、ありがとうございます……百合鬼さん……」
花枝と手鬼の目の前で、カナエと百合鬼は互いに、声を震わせながら再会を喜んでいる。
カナエは今でも日輪刀を手にしているけれど、あの頃のように全集中の呼吸には至っていない。きっともう、戦いの呼吸が使える身体ではないのだろう。
それでも、百合鬼とカナエがこうして再会できたことを、花枝は心の底から喜ばしく思う。
そして花枝は次に、カナエの横でぼんやりと無表情で立っている青年――冨岡義勇へと視線を向けた。義勇は鬼殺隊の黒い隊服に身を包み、中央で全く柄の違う布地を縫い合わせた不思議な羽織を纏っている。
その佇まいは十三歳の頃とは大きく違い、何も考えていなさそうな顔をしているにも関わらず、一切の隙がない。
実力だけならばきっともう、あの日に好勝負を演じた田中鬼など、はるか遠くに追い越してしまっているのだろう。
「義勇。あなたも随分と成長しましたね」
「俺は二十一になった」
「わあ、おめでとうございます」
「へっ。相変わらず会話がずれてやがるが、もうあんぽんたんじゃなさそうだな」
義勇は二十一歳だった。
もちろん花枝は年齢を聞いたわけではないが、あのころのまだ子供だった義勇が、今では立派な大人になっていることを素直に喜んだ。
手鬼は相変わらず素直ではないが、彼もまた義勇の佇まいから伝わる成長を喜んでいるようだ。
「でも義勇。あなたがカナエと一緒にやってくるなんて、いったい何があったんですか?」
「それは……」
義勇は少し考えるそぶりを見せてから、しかしすぐ。淡々と、必要最低限のことを伝えはじめる。
「俺たちは、お館様の命を受けてやってきた」
「チッ……産屋敷の案件かよ」
「義勇、どういうことですか?」
『お館様』とはもちろん、現在の産屋敷家当主――産屋敷耀哉のことだ。
耀哉は過去に自害した先代当主に続いて、もう二十年近く当主を務めている人物だ。
その耀哉の使いとして、義勇とカナエが派遣された。これは間違いなく、花枝たち『あやかし』にとっては重大な用件ということなのだろう。
事態を飲み込んだ手鬼は表情を硬くし、カナエに抱きついていた百合鬼もすぐに彼女から離れ、まじめな表情を見せる。
「炭治郎だ。炭治郎と禰豆子が、那田蜘蛛山という鬼の棲む山へと向かった。相手はおそらく、十二鬼月だ」
「炭治郎と、禰豆子が……?」
ここで炭治郎たちの名前が出たことに花枝は少しだけ驚いたが、そもそも炭治郎を鱗滝に紹介したのがこの義勇だったことを思い出す。
ならば、義勇はその妹の事情も知っているはずだ。
十二鬼月とは、鬼舞辻無惨配下の鬼たちだ。花枝と百合鬼の脳裏には、上弦の弐の姿がよぎる。
果たして、十二鬼月との戦いで炭治郎たちになにがあったのか。彼らは無事なのか。花枝はごくりと唾を飲み込み、義勇の言葉の続きに耳を傾ける。
「そして、柱たちによる裁判が開かれることになるだろう」
「……え?」
「その裁判に、巫女鬼に出席してほしい」
「待ってください、待ってください」
「わかった」
義勇の説明内容に、花枝が一度『待った』をかける。
義勇は律儀に待ってくれていた。
「気のせいか、なんだか話がいきなり飛んでませんか? 山に向かった炭治郎たちはどうなったんですか?!」
「この野郎、相変わらず説明がど下手くそだな」
花枝の疑問と手鬼のぼやきが聞こえても、当の義勇は無表情のままだった。
そして、義勇とともに山へと入ってきたカナエが、一連のやりとりに呆れたような、困ったような苦笑を浮かべて。
この後、義勇に代わり、いきさつの説明を買って出てくれるのだった。
◆ ◆ ◆
その日、
行き先は、鬼殺隊本部。
代々の産屋敷家当主が住まう邸宅でもあるその場所にて、まもなく鬼を連れた隊士、竈門炭治郎の裁きを論ずる『柱合裁判』が行われる。
花枝は、その裁判へと招かれた。
それは、トキジクの実を食べ『あやかし』と化した竈門禰豆子の潔白を、その身で証明するために。
そして。
長らく産屋敷家が伏せていた『とある真実』を、公にするために。
次話更新は9月7日(月) 23時予定です