横転した蒸気機関車の車体からは多くの人々が投げだされ、苦しみに呻いていた。
ボイラーが爆発し、後に続く車両にも炎が燃え移り、次々と浸食されていく。
燃え盛る車両の中では、禰豆子がたった一人で灼熱の中をかけまわり、炎の中から乗客たちを助け出し、その命を救い続けている。
そんな、燃えゆく無限列車の炎に照らされながら。
上弦の参――猗窩座が、杏寿郎に声をかけた。
「お前も鬼になれ、杏寿郎」
「ならない」
簡素なやりとりだ。
だが、杏寿郎のその言葉は、なにより強い意志を秘めていた。
炭治郎は、先の戦いの反動で動かなくなった身体で、大地に伏せたまま。
ただ、炎柱と上弦の参が向かい合う姿を、祈りとともに見つめていた。
◆ ◆ ◆
この日。
無限列車へと乗り込んだ杏寿郎と、そして杏寿郎に会いに来た炭治郎たちを待ちかまえていたのは、下弦の壱・魘夢。
それは人々を眠らせ、己に忠誠を誓う少年少女を操り、夢の中で対象の精神の核を砕くという悪辣な手段をとる鬼だった。
乗客二百人を人質として、炎柱である煉獄杏寿郎と、そこに居合わせた炭治郎、善逸、伊之助、そして禰豆子の全員を相手取るという、下弦の壱の位に相応しい、強き鬼でもあった。
だが、明治最強と呼ばれた煉獄槇寿郎の血を引く杏寿郎は、魘夢の想定よりも遙かに強い柱だった。
彼は一人で何両もの車両を守りきり、彼の出す的確な指示に従い、炭治郎たちもまた決死の覚悟で魘夢と戦った。
雷の呼吸、獣の呼吸、ヒノカミ神楽。そして『あやかし』としての力を存分に振るう禰豆子の活躍もあり、早々に、犠牲者を誰一人として出さずに下弦の壱という難敵を屠ることができた。
炭治郎たちは全力を出し切り、皆で十二鬼月を倒すことができた。できたのだ。
――だというのに。
魘夢は消えゆく寸前。苦し紛れに、最後の力で列車を脱線させた。ボイラーを爆発させ、機関車へ炎を振りまいた。こうして何もできずに敗北を喫するくらいなら、せめて、隊士の一人でも炎に巻かれて死んでしまえばいいと。
悪夢のような憎しみを残しながら。
そうして、眼前に広がる広大な森と荒れ地は、紅蓮の炎に照らされた。
その直後だった。
爆発的な衝撃とともにその場に現れたのが、上弦の参――猗窩座である。
徒手空拳ながらも圧倒的な力を持つその鬼は、手始めに炭治郎をはじめとした動くこともままならぬ弱者を屠ろうとする。だが、そこに立ち塞がったのが、炎柱・煉獄杏寿郎その人だ。
そして今、炭治郎の目の前で。
圧倒的な力を持つ『上弦』と、鬼殺隊最高峰に位置する『柱』が。
常人では耐えられぬほどの、激しく、燃え上がるような闘気をぶつけ合っていた。
「杏寿郎! 鬼になりさえすれば、その至高の領域へ至りつつある力を更に練り上げることが出来るのだぞ!」
「そうだな。寿命という枷から解き放たれ、悠久の日々を研鑽に使う。それもまた、武人にとっては夢のひとつかもしれん」
「ならば――!」
猗窩座と杏寿郎は、その拳を叩きつけ、あるいは日輪刀を煌めかせながら。まるで討論をするかのように、互いの言葉を投げかけ合っている。
それは炭治郎の目ではとてもではないが追いきれぬ、もはや次元の違う戦いだった。
「だが、それはとても悲しい生き方なのだと、俺は知っている。彼らとて……彼らとて、人間として生きたかったはずなのだ。限られた命の中でも、大切なものたちと共に、刹那の時間を生きたかったはずなのだ」
「何を、言っている……?」
血しぶきとともに猗窩座の腕が弾け飛び、そして即座に再生される。
そこで一度距離を置いた猗窩座は吹き飛ばされた腕を一瞥もせず、ただ杏寿郎の言葉に疑問符を浮かべていた。
彼ら。
杏寿郎はまるで、人間ではない誰かについて話しているようだった。
「猗窩座。君は、自分が人間として生きていたときに何を望み、何を愛していたか、覚えているか?」
「……っ! くだらん、くだらん、くだらん!! 何を言い出すかと思えば、そんなものは俺に何の必要もないことだ! 杏寿郎、貴様は先ほどから何を言っている!」
猗窩座が怒りの表情を浮かべ、再び連撃の体勢に入る。
『破壊殺』。それが猗窩座の術式である。羅針盤のような紋様が地面に浮かび上がると同時に、幾つもの破壊の力が杏寿郎へと向かい飛び交うが、しかし杏寿郎はそれらを全て、燃え上がるような炎の型により迎撃していく。
「そうか猗窩座、君は人間だった頃の願いすら覚えていないのか。ならば、話にならないな! 君の言葉は、俺が思考を割くに値しない!」
杏寿郎は強く断言し、猗窩座の腕を、脚を、瞬時にして切り刻む。
「もはや君は人でも、武人でもない! ただそこにいるだけの、哀れな存在だ!」
「貴、様ァ! 言わせておけばァ……!!」
けれど、炭治郎は知っている。
目にも留まらぬ刃と拳の応酬。一秒が数分にも思えるほどの時間の密度。それらは、至高へと至る武人の領域だったかもしれない。
だが。
どれほど疾くとも、どれほど強くとも。
煉獄杏寿郎は――限られた命しかもたない、人間なのだ。
◆ ◆ ◆
「ああ、ああ! くそ、身体が……動かない……! 煉獄さん、煉獄さん……!」
「……俺たちが動けたところで、何もできねえ……!」
ヒノカミ神楽の反動は大きく、炭治郎は未だに立ち上がることも叶わない。
横に立つ伊之助もまた、その肌で感じ取っている。今もし自分たちが動けたとして、自分たちでは何もできないだけだと。
むしろ、足手まといである自分たちがここでじっと動かずにいることが、杏寿郎にとって一番ありがたい状況なのだと。
「くそっ、くそっ……!!」
背後では、列車が紅蓮の炎をあげている。
禰豆子ははたして、乗客たちを救えただろうか。下弦の壱との戦いで気絶していた善逸は無事だろうか。自分には、何もできないのだろうか。
炭治郎は何もできない自分への悔しさに、ただ、強く。その拳を握りしめることしかできなかった。
戦いは続いている。
猗窩座の四肢や腹が幾度も切り裂かれる。だが、猗窩座は己の身体の損傷など意にもせず、杏寿郎へと無限の暴力を振るっていく。
杏寿郎は暴力に曝される度に、傷を負っていく。焔の羽織が赤黒く染まっていく。
「杏寿郎! 何故本気で戦わない! 貴様ならば、もしかしたら俺の頸に届いたかもしれんというのに!」
「すまないが……俺は、本気だ。本気で列車の乗客を守り、竈門少年らを守り、そして君を倒すために、戦っている」
「ふざけるな! 列車だと? 少年だと? 貴様は、その至高の力をそんな弱者どもの為に失おうとしているのだぞ!」
杏寿郎は、一歩たりとも引こうとはしなかった。
彼の背後には炭治郎がいる。伊之助がいる。多くの怪我人たちがいる。
だからこそ、杏寿郎は全ての攻撃を躱すことなく、受けきっていた。
杏寿郎は、二百を超える命を背負って戦っていた。
「鬼舞辻無惨の呪いに囚われ、人間としての心をなくした君にはわからないのだろうな。君もきっと、人間の頃は大切な人がいただろうに」
「っ……! 戯れ言をやめろ! 弱者とは、強者を妬み、卑怯な手を使わねば居場所も主張できぬ屑どもだ! そんな、そんな連中のことなど捨て置けば良いものを!」
猗窩座は怒りを覚えていた。
弱者を殲滅すべく炎を上げる列車へと向けて攻撃を放とうとも、そこには必ず杏寿郎がいる。
己の身を顧みず、弱者たちを護るべく、杏寿郎は自ら死へと近づいていく。
猗窩座にとって、それは――許されざる行為だった。
弱者は、殺すべきなのだ。
卑怯者たちは、殺すべきだ。
奴らは、もっと早くに死すべきだったのだ。
なぜこの男は、弱者を守り切れるのだ。認められない。認められない。認めてはいけない。
そんな、己でも制御できぬほどの強い憎しみが、猗窩座から冷静さを奪っていく。
「ああ、俺たちが、俺たちが足手まといなんだ……」
「くそがっ……!!」
炭治郎たちはそんな戦いを見ながら、悔やみ続けていた。
どうして自分はこの場所で倒れてしまったのか。
どうして自分は戦いが始まる前に、邪魔にならぬ場所に逃げられなかったのか。
どうして自分は――弱いのか。
炭治郎は、そして伊之助は。
動くことも許されず、ただ目の前で、自分たちを護ってくれている炎柱が傷つき、命を燃やしていく姿を眺めることしかできなかった。
「鬼になれ! 認めろ! 杏寿郎、本当に死んでしまうぞ!」
「……人間であることを忘れた君の言葉など、聞くつもりはない!」
もう、炭治郎の目から見ても、杏寿郎が立っていられることが奇跡のように思えた。
杏寿郎の刀は戦いの中で、猗窩座に幾つもの深手を負わせている。頸こそ斬れていないものの、猗窩座の腕も、脚も、胸も、腹も。その全てが杏寿郎の刀に切り刻まれている。
だというのに、猗窩座は腕が千切れかけたとしても、腹が裂けたとしても。痛みなどないかのように戦い続けているのだ。
「煉獄さん……」
炭治郎の瞳には、杏寿郎の日輪刀が燃え上がる炎の光を反射し、まるで赫く染まって見えた。
そして、最後の時が来る。
『破壊殺・滅式』
全てを破壊すべく、猗窩座の破壊殺が光を放ち、杏寿郎へと、そしてその背後の弱者たちへと向かい放たれる。
『玖ノ型・煉獄』
それを、杏寿郎は迎え撃つ。
誰一人として、その大切な命を失わせはしない。何があろうと、最後の瞬間までこの魂を燃やし尽くす。
そんな想いとともに放たれたのは、杏寿郎の全てを――今までの積み重ねを、様々な想いを、人間としての命を全て重ね合わせた一撃だった。
技と技のぶつかる最中、杏寿郎の心は不思議なことに、とても静かだった。
杏寿郎の心の中には、懐かしき母の声が響いていた。
――強く優しい子の母になれて幸せでした。
「母上……」
その瞬間の攻防で。杏寿郎の胸は、猗窩座の腕に貫かれていた。これはもう助からないなと、杏寿郎自身でも驚くほどに冷静に考えることができた。
だからこそ。
空が明け始める黎明のなかで。
杏寿郎は最期の瞬間まで、穏やかに、そして激しく。
その命の篝火を、燃やし尽くすことができたのだ。
◇ ◇ ◇
「卑怯者ォっ! 煉獄さんは、俺たちを、傷ついた人々をっ! 最後まで、その手で守り抜いたんだ! 最後まで誰一人見捨てずに、戦ったんだ!」
もう間もなく、山間から太陽の光が射し込むだろう。
そんな夜明けの森に、竈門炭治郎の声が響きわたった。
「なのにお前は、そうやって逃げるのか! 猗窩座ァ!! 卑怯者、卑怯者おおおォォ!!!」
炭治郎が動けるようになったときには、もう。勝負はついていた。
煉獄杏寿郎はその胸を貫かれ、血だまりに崩れ落ちている。猗窩座はその身体中に深手を負いながらも、這々の体で日の射さぬ森の中へと逃げ込んだ。
炭治郎がその怒りのままに、逃げゆく猗窩座へ向けて叫び声をあげるけれど。
その声が、鬼の心に響くことは、ない。
無情にも、時は進んでいく。
太陽はまもなく姿を現すだろう。
けれど、それは遅すぎた。
杏寿郎はもう、助からない。
「思い出したんだ、竈門少年。『日の呼吸』なら……伯母上が……
「煉獄さん、今はいいですから、呼吸で止血を! どうか、どうか……!」
うつろな瞳で、杏寿郎は炭治郎に語りかける。日の呼吸について。ヒノカミ神楽について。それはこの夜が始まる前に、列車のなかで炭治郎が杏寿郎に聞いた質問の答えである。
杏寿郎と小芭内が『あやかし』たちと出会い、隠れ里にて手鬼の試験を受けた際に。花枝が間違いなく『日の呼吸』という名称を口にしていたことを、杏寿郎は思い出したのだ。
だが炭治郎にとって、今はもう日の呼吸など二の次だった。今はどうにかして、杏寿郎の命を救いたかった。
「……伯母上。もう一度、お会いしたかった」
「煉獄さん、煉獄さん! 何か、何か、傷をふさぐ方法はないんですか!!」
炭治郎が叫ぶが、杏寿郎の瞳はうつろだった。
まるで、懐かしい人を見つめるような瞳で、どこか遠くを見つめていた。
いや、実際に杏寿郎には見えていたのだ。
今際の際。
真っ直ぐな、強い瞳で、杏寿郎を見つめている母――煉獄瑠火の姿が。
母が、自分に何かを伝えようとしている姿が。
「ああ、そうか……母上」
「煉獄さん! 煉獄さん!! お願い、お願いだから、意識を強くもって!」
「少年……俺の傷をふさぐ方法は、存在する」
杏寿郎の言葉に、炭治郎は一瞬だけ、唖然としてしまう。
傷をふさぐ方法がある。それならば、それならば、それを実行すればいいだけなのだから。
「え……な、なら、それを教えてください! すぐに、すぐに傷をふさがないと!」
「だが、俺は……怖いのだ。果たして、本当に俺は……俺で、いられるのか……と」
杏寿郎の言葉は途切れ途切れで、炭治郎はすぐに反応できなかった。
傷をふさぐ方法はあるという。けれど、杏寿郎の意識は朦朧としており、その意図が炭治郎には伝わらない。
だが、そこに駆けつけた影がある。
「お兄、ちゃん! あやかしの私には、わかるから! 服の中に……! これ、早く!!」
「禰豆子!?」
黎明の、今すぐにでも太陽が山間から姿を現そうというこのギリギリの状況で、太陽を浴びてはいけないはずの禰豆子が、駆けつけた。
駆けつけて、必死の形相で。禰豆子は力ずくで杏寿郎の上着をめくり上げ。その内側に隠されていたポケットへと手を入れる。
山間から朝の日差しが差し込み、禰豆子を照らす。禰豆子の腕が、焦げる。
「これ……! これを、この人……に!!」
慌てて追いすがってきた善逸が禰豆子にコートを被せ、あわやというところで禰豆子が日の光に焼かれるのを防ぐ。だが、そんなことを意にも介さずに禰豆子が差し出したそれは、ひとつの果実だった。
それは、過去に
死に瀕した人間を『あやかし』へと変貌させる、最期の手段。
艶やかな橙色をした『トキジクの実』が、そこにあった。
次話は明日12日(土)23時
短めの閑話を投稿予定です。