杏寿郎のもとへ
――大正四年、冬。
「炭治郎くんの話では、煉獄さんは二百人の乗客を守りながら、最後まで戦い抜いたそうです」
「わあ、さすがは杏寿郎じゃないですか。そんなにも、沢山の命を守ってくれたんですね」
煉獄家の奥まった一室。
十年前に
杏寿郎の寝顔をのぞき込む花枝へと、いったい『無限列車』の任務で何が起きていたのかを説明してくれているのは、元・百合柱である胡蝶カナエである。
カナエは、一輪の百合の切り花を懐に抱いたまま、様々な器具を使い杏寿郎の身体を調べている。
彼女はいま、医療に携わる蝶屋敷の主として、杏寿郎の元へとやってきていた。
カナエが杏寿郎の脈拍を測り、何かしらを紙に記録している間。花枝はそっと、眠り続ける杏寿郎の髪を撫でる。
「杏寿郎、よくがんばりましたね。すごいです、えらいです」
横たわる杏寿郎は。無限列車での戦いで死の瀬戸際にいたというのが、まるで嘘だったかのように。
とても、穏やかな寝顔をしていた。
◆ ◆ ◆
あの日。
鎹鴉から連絡を受けた花枝は、すぐにその鎹鴉に手紙を持たせ、産屋敷耀哉へと送った。
内容は、花枝が煉獄家へ向かうために、人をよこして欲しい。それだけだ。
そしてすぐ、一日もせずに産屋敷の命を受けてやってきた隠――狐の子に背負われ、花枝はこの煉獄家へとやってきたのだった。
千寿郎に案内されて花枝がこの部屋へとやってきた時に、ちょうどそこで杏寿郎の診察をしていたのがカナエだった。
花枝の事情も把握している相手だったので、これ幸いと、花枝はあの夜に何があったのかをカナエに聞いていたのだ。
「煉獄さんはお母様の形見として……トキジクの実を、肌身離さず隊服に忍ばせていたそうです」
「なるほど。それで禰豆子が、杏寿郎にトキジクの実を?」
「はい。とは言っても、煉獄さんは自分の意志で実を飲み込んでくれたと、炭治郎くんが教えてくれました」
「そうですか。杏寿郎は、自分の意志でトキジクの実を食べたのですね……」
トキジクの実を人間が食べた例は、杏寿郎が初めてだ。
会話をしながらも。カナエは注射器を取り出し、やや申し訳なさげにしつつも杏寿郎の腕から血液を採取している。
カナエ曰く、人間と『あやかし』の中間点にいるであろう杏寿郎の血が、人を救う新たな薬の――もしくは鬼に対する致命的な毒の、重要な決め手となる可能性が高いのだそうだ。
杏寿郎の血をもらう許可を槇寿郎に願い出たところ、槇寿郎は優しく笑い「息子は血の気が多い。大いに役に立ててやってくれ」と言ってくれたらしい。
一通り検査をすませると、カナエは白い百合の切り花を両手で包み込むように持ち、不安を隠すようにそれを抱き寄せる。
「巫女鬼様。煉獄さんは、起きると思いますか?」
「わたしや禰豆子は、二年眠り続けました。なので、もしかしたら杏寿郎も、それくらい眠り続けるのかもしれませんが――」
杏寿郎の髪から手を離し、花枝はカナエに向き直った。
「それでも、起きますよ。杏寿郎の命の輝きが、今も煌々と輝いていますから」
これは決して、花枝の目にそう映っているわけではない。さすがの花枝でも、命の輝きなどというものは目視できない。
ただ、触ればなんとなく、それがわかるのだ。
だから花枝は、あれから慌ててこの煉獄家へと駆けつけはしたものの、今ではそこまで杏寿郎のことは心配せずに、落ち着き払っていられるのだ。
花枝の返答を聞き、カナエもどこか安堵したように、柔らかく息を吐く。
両手で、ずっと白百合の切り花を包み込んだまま。
「ところでカナエ、その……」
花枝は、実は先ほどからずっと言うかどうか迷っていたことを、今ここで伝えることにした。
「はい? どうなさいましたか?」
「あのですね、先ほどからカナエが両手で包み込んでいる、その百合なのですが」
カナエは、花枝の言葉を聞いてから数秒ほど固まった。
おそらく、カナエ自身も無意識だったのかもしれない。
実はカナエは先ほどからずっと、両手で包み込んだ白百合の切り花を、大切そうに抱きしめていたのだ。
「あ、すみません! 私ったら、つい……」
カナエの頬が赤く染まっていく。
というのも、彼女が先ほどから両手で包み込んでいたこの白百合の切り花は、花枝と隠れ里の貴重な連絡手段なのだ。
正しく言うならば、これは百合鬼の血鬼術である。
血鬼術『命花ノ契』の応用。
この切り花は、百合鬼の分身体だ。
あくまで簡易的な応用であり、カナエを上弦の弐から守り切ったときのように、所持者の身体を代わりに動かし、守護するほどの力はない。
けれど今頃、百合鬼はこの百合の切り花を通じて、花枝の周囲で何が起きているのかをある程度把握できているはずだ。
もっとも、いつのまにかカナエが切り花を抱き寄せていたりもしたので、今頃は百合鬼にはカナエの体温だけが伝わっているかもしれないが。
「まあ、それはそれで百合鬼も喜びそうですけどね」
ふふふと笑いながら。花枝は百合の切り花をカナエから受け取ると、自分の巫女服の胸元に、さくっと挿しておくのだった。
◇ ◇ ◇
日が暮れて。
蝶屋敷へと帰るカナエを見送ったあと、花枝は勝手知ったる我が家のように、煉獄家をひとり自由に歩き回っていた。
主にこの家の管理をしているのはまだ若い千寿郎だが、彼はいまは台所で皆の夕食を作っているはずだ。
この日の煉獄家には甘露寺蜜璃が訪れているので、夕食の必要量も生半可なものではない。なので千寿郎は、当分の間は台所での作業に釘付けだろう。
そして、花枝が足を運んだ先に、まさにその蜜璃がいたのだが――。
「わあ。相変わらずここの住民たちは元気いっぱいですね」
蜜璃は。
滅茶苦茶に、いたぶられていた。
「甘いぞ蜜璃! そんな軟弱な太刀筋で柱がつとまると思うな! 飯が食いたければ俺に有効打を入れてみろ!」
「ひいいん! ね、猫足恋風!!」
「いい太刀筋だが、へなちょこだ!!」
広い中庭では、蜜璃が半泣きになりながら、激しくダメ出しを受けていた。
もとい、槇寿郎に実戦稽古を付けられていた。
蜜璃の使う武器は、まるで長布のように薄く長い刃である。果たしてあれを刀と呼ぶのかどうかはよくわからないが、蜜璃はその武器を手足のように使いこなしていた。
とはいえ、いま使用されているのはあくまで模擬用として別に作られた、刃が潰されているものらしい。あれだけ薄いのでは刃の有無など関係ないのではないかと花枝は疑問に思うが、とにかくあれは模擬戦用らしい。
「はぁ……それにしても、鬼殺隊の『恋柱』ですか。本当に、蜜璃は色々驚かせてくれますね」
花枝は、蜜璃と槇寿郎の修行風景を見ながら、縁側にちょこんと腰を下ろしていた。
足は地面につかないので、ぶらぶらと揺らしている。
目の前で槇寿郎にいたぶられている蜜璃はもともと杏寿郎の継子なので、この煉獄家とも関係が深い。そしてこの日の彼女は杏寿郎の見舞いだけでなく、自身の昇進の報告にやってきていたらしい。
鬼殺隊・甲隊士から改め、鬼殺隊・恋柱。
それが蜜璃の新たな役職だ。
杏寿郎が一時的とはいえ脱落してしまった今、鬼殺隊の柱が一人欠けることになる。
そこで白羽の矢が向けられたのが、甲隊士であり、柱への昇進条件を達成していた冨岡義勇と甘露寺蜜璃の二名だった。
ところが、冨岡義勇は水の呼吸の使い手であり、現水柱には彼の姉弟子である真菰が就任しているので、新たな柱にはなり得ない。
なので、今回は杏寿郎の継子でもある甘露寺蜜璃が、炎柱の穴をうめる新たな柱――恋柱として就任したらしい。
最初に『恋柱』という名称を聞いたときには花枝は二度ほど聞き返してしまったのだが、実際に彼女が使う呼吸は『恋の呼吸』なのだそうだ。
花枝は少しだけ恋とはなんぞやと考えてみて、けれどすぐに考えるのをやめた。
◇ ◇ ◇
そうして。
花枝が思考を停止させていると、どうやら稽古は一段落したようだった。
さすがに寄る年波には勝てないのか槇寿郎も大きく肩で息をしているが、蜜璃はへろへろな状態になっていた。
「お疲れさまでした、蜜璃。大変な修行でしたね」
「うわぁぁん! 巫女鬼ちゃあん!」
へろへろだった蜜璃が、花枝の姿を見つけるなりすごい早さで抱きついてきた。
その目には涙が浮かんでいるが、それも仕方ないことだろう。
彼女にとっては師である煉獄杏寿郎が生死不明となり、眠り続けているのだ。
さらには、炎柱の抜けた穴を補充するという、とてもではないが喜べない形での柱就任。そして、煉獄家にそれを報告にきたら、槇寿郎の実戦稽古に引きずり込まれたのだから運が悪い。
もちろん槇寿郎のことなので、蜜璃の任務に支障が出ない程度にうまく力を加減しているはずだが、それでも厳しいことには変わらない。
「よしよし、おなかが空きましたね。千寿郎がご飯を作ってくれていますから、汗を流してくるといいですよ」
「やった! 槇寿郎師範、内風呂いただきます! 巫女鬼ちゃん、またあとでね!」
「わあ、復活がはやい」
存分に花枝に抱きついて頭を撫でてもらっていた蜜璃は、『ご飯』と聞いた途端に元気に復活し、溌剌とした様子で屋敷の中へと駆け込んでいってしまうのだった。
◇ ◇ ◇
「花枝。今回は済まなかったな。そして、来てくれて……ありがとう」
「いいんですよ、槇寿郎。わたしはあなたの姉なんですからね」
「さすがに年齢を感じるな。蜜璃との修行後は、俺も身体中が痛いんだ」
「そういうのは、きちんとお風呂に入るといいって聞きましたよ」
蜜璃がいなくなると、この場には花枝と槇寿郎だけが残される。
季節はもう初冬だ。雪が降るほどではないけれど、直前まで修行していた槇寿郎の白い息が、大気へと消えていく
槇寿郎はそんな雑談を交わしながらも、花枝の横に腰を下ろした。いや、崩れ落ちた。
「ふう……しんどいな」
「こんなときに、無理しすぎですよ」
二人きりになると、自然と会話が少なくなってしまう。二人の脳裏にあるのはやはり、杏寿郎のことだ。
「……どうだ」
しばらく静かに二人並んで座っていたが、先に口を開いたのは槇寿郎だ。彼は話の前後も省略して端的に切り出した。端的すぎて、明らかに言葉が足りていない。
とはいえ、花枝と槇寿郎はもう数十年の付き合いだ。多少言葉が足りなかろうが、何の弊害もなく会話は続いていく。
「いつかは目覚めるとは思いますよ。でも、それがいつかはまだ、わかんないです」
「そうか……そうだな」
槇寿郎が聞いたのは杏寿郎についてであり、花枝も当然、杏寿郎について答えていく。
わからない。けれど、いつかは目覚める。
槇寿郎は花枝のその言葉を聞いて、ほっと息をつく。息が白い湯気となる。
「聞いたか? 杏寿郎は二百人を超える人々を、たった一人で上弦から守りきったのだそうだ。自慢の息子だよ。俺なんかよりもよっぽど理想的で、素晴らしい柱に育った」
「もう。あなただって、多くの人を助けてきたじゃないですか」
自虐的な言い方をする槇寿郎を、頬を膨らませた花枝が窘める。
花枝の知る限りでは、煉獄槇寿郎という男はもっとも強く、もっとも多くの人々を救ってきた鬼殺隊士だ。息子の杏寿郎はもちろん立派だが、彼が父の背を追い掛け、追い越すのはまだまだこれからの話だ。
花枝がそのような気持ちを込めて抗議をすると、胸元に挿した百合の切り花が、同意するように頷いた気がした。
「ところで、槇寿郎は今後どうするんです? 家で杏寿郎が眠り続けている以上、また野良の鬼狩りで家を空けるだなんて言いませんよね? そんなことを言い出したら怒りますよ?」
「はは、花枝に怒られるのは怖いな。……いや、実は何も考えていないのだ。なにぶん、急な話すぎてな」
「なるほど。じゃあ、また弟子でも育てますか? あなたもこの期に及んで、鬼殺隊がどうとか言わないでしょう?」
花枝が何の気なしにいった言葉に、槇寿郎は静かに目を閉じて考える。思えば、彼の弟子となった錆兎も、元々は花枝と手鬼の思いつきによる紹介だったのだ。
槇寿郎が、ふ、と息をついた。白い息が宙に消えていく。
「そうだな、それもいいかもしれんな。竈門少年に猪頭少年、我妻少年だったか? 杏寿郎と共に戦ってくれた礼に、俺がボコボコにして鍛えてやるのも悪くはない」
「わあ、手鬼が乗り移ってる。鍛えるのはいいですけど、やり過ぎないでくださいよ? 修行で大怪我をさせては本末転倒ですからね」
「そこは少年たちの根性を信じるさ」
「手加減というものを覚えてくださいね」
すでに顔にしわも出てきた槇寿郎と、未だ七歳の姿をした花枝は、父と娘、あるいはそろそろ祖父と孫と言われてもおかしくないほどの年齢差になりつつある。
それでも二人は、この日も仲の良い姉弟として、冗談を言い合いながら、笑い合う。
互いに、言いたいことも、伝えたいことも、両手では足りないくらいにあるけれど。こうして過ごしていると、そんなことは全て、些細なものに思えてくる。
――なお。
「父上! 伯母上! カレーができましたが、お腹を空かせた蜜璃さんがすでにお食事を始めているので、早く来ないと残っていませんよー!」
という千寿郎の声が届いたので。
二人は一瞬、顔を見合わせてから。揃って立ち上がり、慌てて食卓へと駆け込むのだった。