炭治郎たちが潜入捜査を続けていた遊郭には、今まさに、地獄のような光景が広がっていた。
轟音が激しく鳴り響き、建物が次々と崩れ落ちていく。夜の闇の中を大量の帯が、そして赤黒い刃が飛び交い、あらゆるものを斬り裂いていく。
いったい何が起きたのかを理解する間もなく、その身体を斬り裂かれた者がいた。
瓦礫に潰され、血を流しながら苦痛に呻く者がいた。
夜の遊郭に響きわたる避難誘導の声に従い、這々の体で逃げ出す者たちも多くいた。
この地獄絵図を作り出したのは、鬼舞辻無惨の最強の配下、上弦に名を連ねる鬼――『上弦の陸』である。
奇しくも上弦の陸は、炭治郎・禰豆子と同じく、一組の兄妹だった。
兄の妓夫太郎と、妹の堕姫。この二体一組の鬼を打倒すべく、鬼狩りたちもまた、この戦場で二手に分かれて戦っていた。
◇ ◇ ◇
土煙と悲鳴、建物の崩れる轟音が鳴り響くなかで。
その者たちは、超常的な戦いを繰り広げていた。
「なんでお前等は飛び血鎌の毒で死なねえんだぁ!! なぁ! おい!」
「俺ら鬼殺隊はなあ、ド派手に成長してんだよ! 江戸時代から脳みそが止まってるお前等と違ってなあ!」
不健康にやせ細り、前屈みになった姿勢で、両手に禍々しい鎌を構えた鬼――妓夫太郎と対峙するは、音柱・宇髄天元。
彼は全身至る所に裂傷を受け、すでに血にまみれていた。それでもなお、縦横無尽に飛びかう猛毒の血鬼術『飛び血鎌』を防ぎ、躱し、斬り裂きながら、執拗に妓夫太郎に接敵し、凄まじい密度の剣戟のなかで鬼の頸を狙い続けている。
一方、焦りを見せているのは妓夫太郎だ。
妓夫太郎の血鎌には、通常の人間ならば数秒もたず絶命するほどの毒が含まれている。だというのに、身体中に血鎌の猛毒を受けているはずの天元は、毒で弱るそぶりを一切見せはしないのだ。
それどころか今なお目にも留まらぬ速度で、鎖でつながれた一対の日輪刀を振るい続けているのである。
そして。
妓夫太郎の焦りの原因は、天元一人ではなかった。
『水の呼吸 拾壱ノ型・凪』
瞬間、天元の周囲を飛び交う血鎌が消失した。
否。
天元の背後に構えていたもう一人の隊士を中心とした一定範囲の飛び血鎌が全て、"斬り落とされた"。
どのような事態にも対応できる水の呼吸。それを使いこなすのは、甲隊士・冨岡義勇。彼が繰り出した拾壱ノ型・凪とは、今でこそ真菰や錆兎といった同門の柱たちも使いこなす技となっているが、元々は過去に義勇が編み出した水の呼吸の型である。
そのように、柱への昇進資格を得ている彼は、すでに並の『柱』と同等か、あるいはそれ以上の力を持つ剣士であった。
「ああああぁぁぁ! どうして、どうして! なんでお前等は毒で苦しまない! 倒れない! その首をかきむしって無様に死なねえんだよぉ!!」
妓夫太郎は距離を取ろうとするが、それは天元が許さない。
避けられぬはずの広範囲に飛び血鎌を飛ばすも、それは義勇が一瞬で斬り落とす。
二人の『柱級』の剣士が交互に奥義を繰り返し、妓夫太郎は防戦一方だった。
しかし、なぜ。
どうして、目の前の柱には飛び血鎌の毒が効いていないのか。その焦りは、妓夫太郎の心の中でどんどん広がっていく。
曲がりなりにも、妓夫太郎は上弦だ。どれだけ鬼を研究しようが、知恵を絞ろうが、上弦の使う毒をたかだか人間の力で対処などできる訳がないのだ。
――そう。『人間の力』だけならば。
「しかしこりゃあ、角姫さまさまだぜ! あの薬は上弦の毒にすら効果がある、それがいま、俺の身体で証明された!」
「音柱、無理はするな。あの薬は完成品ではない」
義勇は、端的にそれだけを天元へと伝えると、再び妓夫太郎へと向き直る。
彼らの語る『薬』。
それは、胡蝶カナエが、トキジクの実の成分をもとに開発したものだった。
鬼の呪いを『浄化』する薬。
この薬が鬼の力の源である呪いを直接浄化することで、身体に影響を及ぼす毒や異形化といった血鬼術の効果を打ち消してくれるのだ。
未だ研究中であり、どのような副作用があるやもしれぬ薬だが、音柱である宇髄天元は迷いもせずに、この薬を己の身体に打ち込んでいた。
「はっはっは、俺はいま絶好調だぜ! あとで禰豆子に、祝杯の炎をド派手に上げてもらうとするかぁ!!」
宇髄天元と、冨岡義勇。
二人の柱級の剣士は、着実に。
上弦の陸――妓夫太郎を、圧倒的な相性差で追いつめていた。
◇ ◇ ◇
「伊之、助! いくよ!」
「うらららぁ! 来いやあああっ! 伍ノ牙・炎の狂い裂きぃっ!!」
連なる屋根の上では、伊之助が『燃えさかる二つの刀』を縦横無尽に振り回し、空を支配すべく広がる数多の『帯』を切り裂いていた。
燃えさかる炎。それは、伊之助を援護している禰豆子の力である。彼女は覚醒させた血鬼術『爆血』を伊之助の二本の刀に纏わせていた。炎に熱された刃は赫く色を変えている。
呪いを浄化する力を持つ炎の刃。その狂い裂きは、夜空を彩る帯を、次々と煤へと変えていく。
「きゃあああ!? くそっ、鬼のくせに、鬼のくせにぃぃいい!」
その帯を操る、美しく妖艶な鬼。それは、上弦の陸――堕姫である。
この鬼と戦うのは、炭治郎たち、若き鬼殺隊士である。
兄である妓夫太郎よりも力が劣るとはいえ、それでも彼女は間違いなく上弦の鬼であり、炭治郎たちが以前戦ったことのある下弦の鬼たちとは強さの格が明らかに違っていた。
けれど、炭治郎たちは傷を負い、身体中から血を流しながらも、なお。堕姫を相手に善戦することができていた。
堕姫は、炎の刀を振り回す伊之助ではなく、裏切り者の鬼である禰豆子へと向け、いくつもの帯を飛ばす。
だが――。
「ち、畜生っ! 禰豆子ちゃんに手を出させるかぁぁぁあっ! 霹靂……一閃っ!」
瞬間。
恐怖の涙で顔をグシャグシャにしたままの善逸が、雷と化した。
それと同時に、禰豆子へと向けられた堕姫の帯は、全てが一瞬にして斬り落とされる。
「あぁぁぁぁあ!! 金髪のガキが、さっきからちょろちょろしやがってえええ!」
「ひぃいぃ!! だめだめ、次は俺が睨まれてる!! 死んじゃう、死んじゃうよおおお!!」
禰豆子を守ったが、お陰で次に狙われるのは善逸だ。
善逸は堕姫に睨まれ、いくつもの帯に追いかけられたまま屋根の上を駆けていく。
もう一人の仲間のいる方へと。
そこには、善逸を追いかけてきた堕姫を待ち構える存在があった。
竈門炭治郎。彼はいま全集中の呼吸と共に、無数の帯、そしてそれを操る堕姫本人へと向けて日輪刀を構えている。彼が使っている呼吸は、水の呼吸だ。
「水の呼吸――日ノ壱・円舞!!」
水の呼吸でのヒノカミ神楽。
これは、炭治郎の新たな武器である。
ヒノカミ神楽は、十二の型で出来ている。そしてきっと、日の呼吸で十二の型を繰り出せるようになったその時に、この神楽は真の完成を見せるのだと炭治郎も薄々気がついている。
だが、残念ながら、今の炭治郎はそこまでは至っていないのだ。
日の呼吸でのヒノカミ神楽は絶大な力を誇るが、今の炭治郎の心肺能力では繰り出せる技の数に限界があった。日の呼吸を使えないわけではない。けれど決して、特別な適正があるわけでもないのだ。
だからこその、水の呼吸でのヒノカミ神楽である。水の呼吸で、円舞、碧羅の天、烈日紅鏡と、炭治郎は神楽を舞い続ける。
これは、水と炎の二つの呼吸を臨機応変に使い分ける兄弟子、
炭治郎は錆兎の教えを受け、水と日を組み合わせる戦い方を会得した。これが現時点での、炭治郎の最善の戦い方である。
橙色に光る水の幻が、次々と帯もろとも堕姫を斬り裂いていく。
惜しくもその頸までは刃が届いていなかったものの、地面へと落下した堕姫は大幅に弱っているはずだ。
息を切らす炭治郎の背後には、がくがくと泣き崩れる善逸の姿があった。
「はぁ、はぁ……頑張れ、善逸! あんな鬼、槇寿郎さんの地獄修行よりマシだろう!」
「そうだ紋逸、なに泣いてやがる! くそ雑魚か!!」
「善逸、さん! がんば!」
「くそぉ、死にたくないけど、禰豆子ちゃんが応援してくれるなら、俺は百人力だよおぉぉぉ!!!」
炭治郎、伊之助、禰豆子。
三人の応援のうち、禰豆子の応援しか善逸の脳には届いていないけれど、善逸はがくがくと震えながらも立ち上がる。
「その意気だ善逸! お前の兄貴の人も頑張ってるんだから、お前もその意気だぞ!」
「い、今は兄貴は関係ねえだろおおおぉ!」
仲間を応援しながら。応援に絶叫を返しながら。
善逸は。
炭治郎は。
禰豆子は。
伊之助は。
その身を血で濡らしながら。身体中の痛みを堪えながら。歯を、食いしばりながら。
上弦の陸――堕姫へととどめを刺すべく、駆けだした。
◆ ◆ ◆
『――俺はろくに技を覚えられなかった出来損ないだし、自分でも情けなくなるほど弱虫で、真面目に修行していた兄貴が俺を嫌ってたのも当たり前だって思う。
だけど今は、大切な人を守るために、強くなりたいって本気で思ってる。
そしていつか、胸を張って兄貴の横で戦えるように、せめて俺が使える壱ノ型だけでも磨いていくつもりだ。
強くなった兄貴に、ついていけるように。
弟弟子の俺のせいで、兄貴に恥をかかせないために。
次は音柱に連れられて鬼がいる遊郭に潜入することになったよ。そこでの戦いで生き残れたら、また手紙を送るよ。
でも、もし俺が死んでたら。
桑島先生のことは、兄貴に頼みます。
尊敬する兄貴へ 善逸』
「またそれを読んでるんですか?
永遠に黄昏が続く世界。
獪岳は、少し前に鎹鴉から届けられた一通の手紙に目を通していた。
「カスらしく弱々しい字だ。いっちょ前にやる気を出して、今頃はどうせ遊郭とやらでくたばってんだろ」
「もう、またそんなことを」
これは、彼の弟弟子である善逸が、この
これは、遺書である。
善逸は、獪岳が藤襲山へと入ったことを知り、何を思ったのか獪岳にこのような手紙を送るようになったのだ。
それはもしかしたら、事情を聞いてしまった炭治郎が考えたことなのかもしれない。あるいは、花枝の力をよく知っている胡蝶カナエによる入れ知恵かもしれない。
なんにせよ、善逸は獪岳へと歩み寄ることを決めたのだ。
「手紙を読み直すのはいいですけど、またいきなり破り捨てようとしないでくださいね? 筆鬼に治してもらわないといけないんですから」
「わかってるさ。カスの手紙なんぞのために、爺さんに力を使わせるのも悪いしな」
「本当に頑なですね、獪岳は」
最初のうち、獪岳は善逸からの手紙は読まずに破り捨ててしまったのだ。
紙と文字を操る力をもつ筆鬼がどうにかして修復したものの、そのときばかりは花枝も獪岳を叱りつけたものだ。
果たして七歳時姿の花枝の説教がどれほどの効果を持っていたのかはわからないが、獪岳はそれ以降、いきなり手紙を破り捨てることはなくなった。
もっとも、彼が返事の手紙を出すことはないし、手紙を読んでも口から出てくる言葉は善逸を貶す言葉ばかりである。
けれど、それでも。
最近の獪岳は、手紙を最後まで読むようになった。
そんな獪岳に声をかけてきた住民がいた。
それは、花畑の横に作られている小さな果樹園で果物をもぎ取っていた、隠れ里の料理番。包丁鬼だ。
「獪岳。食ベタイモノハアルカ? オ前ノ昇進祝イニ、何デモ作ッテヤロウ」
昇進祝い。
それは文字通り、獪岳の階級があがったお祝いだ。獪岳は少し前に、柱に続く最上位、甲へと昇格した。
どうやらこの藤襲山で修行を始めてからというもの、獪岳は本当に実力を伸ばしてきたらしい。
他の隊士が何人も行方不明になった山へ行き、あっさりと鬼を狩り。
村人が大勢失踪した谷へ行き、あっさりと鬼を狩り。
その活躍は、鬼殺隊の中でもじわりじわりと広まりつつあった。きっと、獪岳の活躍は弟弟子の善逸にも伝わっていることだろう。
そんなわけで料理の希望を聞いたのだが、獪岳はいつの間にもぎ取っていた桃の実を齧りながら、しばし考える。
「……なあ、料理長。この里では肉は食えないのか?」
「わあ、お肉ですか、いいですね、いいですね」
獪岳の言葉に反応したのは、包丁鬼ではなく花枝である。
花枝とて、鬼とはなったが人の子だ。人の子というのは何はともあれ肉が好きなのだ。甘いものは好きだけれど、以前食べたステーキやハンバーグといった洋食も、好きか嫌いかで言えば大好きなのだ。
なので花枝はさっそく、巫女の権限で獪岳に指令を出した。
「じゃあ獪岳、人里までちょっと美味しいお肉を買いに行って下さいよ」
「あ?」
「どうしました?」
獪岳の眉間にしわが寄る。
これは、獪岳が何かしらを不満に思っているときの顔だ。
「俺の昇進祝いって話だっただろ」
「はい」
花枝は、にこにこ笑顔で頷いた。
「俺が買いに行くのか?」
「はい」
花枝はやっぱり、にこにこ笑顔で頷いた。
「……なあ、角姫よ。言ってることがおかしいとは思わねえか? 俺の祝いに、なんで俺が労力を払うことになるってんだ?」
「むう、でもですよ? 人里のお肉屋さんに行けるのなんて、あなただけなんですから。仕方ないじゃないですか」
「開き直るじゃねえか」
花枝はとうとう開き直った。
なんと言われようが、花枝は今、とてもハンバーグが食べたいのだ。ハンバーグではなくステーキでもいい。あるいは、まだ見ぬ肉料理でもいい。
とにかく、また地上の肉料理を食べてみたいのだ。
獪岳は小さくため息をつくと、そんな花枝の様子を見下ろし、口元を歪めるような笑みを浮かべている。
その眉間には、しわは寄っていない。
「はん、角姫。角姫よぉ、お前の顔には『自分が肉を食べたいから買ってきて欲しい』って書いてあるぜ」
「ぎくっ! だって、仕方ないじゃないですか! 産屋敷が悪いんですよ、産屋敷が!」
「……やれやれだぜ。まあ、次の任務の帰りにでも適当に買ってきてやるさ。俺に感謝しな」
そのようにして、楽しげに花枝をからかう獪岳と、お肉のために無茶苦茶を言い出した花枝のやりとりを。
かごに果物を詰め込んだ包丁鬼だけが、目を細めて見守っていた。
◆ ◆ ◆
――戦い終わり、崩れ落ちた遊郭に、兄妹のわめき声が響いていた。
「信じられない! なんで、なんで助けてくれなかったの!!」
「ふ……ざけんなッ!! 俺は柱級を二人同時に相手取ったんだぞ! お前こそ、あんなガキどもに負けやがって!!」
これは、それぞれが鬼殺隊に敗北し、頸だけになった妹・堕姫と、兄・妓夫太郎の罵り合いだった。
炭治郎は、そんな二人の鬼たちの姿を、ただ、ただ。悲しげに見下ろしていた。
「馬鹿言わないでよ! あの変な神楽と、血鬼術を焼く鬼! あんな連中を一人で相手取るなんて――」
だが、炭治郎は堕姫の口をその手でふさいで。
堕姫の残された首筋に、一つの小さな注射針を打ち込んだ。これは、戦いの前に宇髄天元が己に打ち込んだものと同様のものである。
薬液を注入された堕姫は、目を見開いて。言葉を失っている。
「てめえ、妹に何を――」
そして同じく、妓夫太郎の首筋にもその薬液を打ち込んだ。それはとても少ない、もしかしたらたった数滴かもしれない薬液だ。
けれど。
今にも消えようとする兄妹にとって、それは自分たちの存在が裏返るほどに、大きな、大きな変化を及ぼすものだった。
「これは、鬼の呪いを浄化する薬だよ。残念ながら、君たちを生きながらえさせる程の力はないけれど」
炭治郎は、悲しげに。
ぽつり、ぽつりと語っていく。
「最後くらいは、鬼舞辻無惨の呪いになんかに縛られずに。せめて人間として、逝こうよ」
◇ ◇ ◇
「あ、ああ……梅……梅……?」
妓夫太郎の頸は、はるか昔の記憶と共に、正気の光を取り戻していた。
残念ながら、彼は人間だった時にはもう既に、人の道からは逸脱していた。血と暴力にまみれていた。
彼が正気に戻ったとして、決して善人となるわけではない。
けれど、それでも。
妓夫太郎の瞳にはもう、鬼舞辻無惨が刻んだ文字はない。彼の視線の先にあるのは、妹の顔だけだ。
そして、堕姫――いや、"梅"の瞳からもまた、呪いの文字は消えていた。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん……うわああぁああ、ごめんなさい、私の、私のせいで、あの日……あの日……」
「違う! 俺が、俺がお前を守ってやれなくて、ちゃんと……幸せにしてやれなくて……あぁ……梅……梅ぇ……」
炭治郎は、彼らの過去を知らない。
どのような悲劇があったのか、それを知らない。
けれど――。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん……ありがとう、お兄ちゃ……」
「梅……兄ちゃんが、ずっと、一緒に……」
最後は、最後だけは。
消えゆく彼らは、紛れもない、人間の兄妹だったのだと。
信じたかった。
◇ ◇ ◇
「宇髄さん、義勇さん。彼らは、少しは救われたんでしょうか」
上弦の陸は、消え去った。
けれど、炭治郎の心の中には、喜びは訪れない。
炭治郎がいま感じているもの。それはきっと、悲しみという感情だ。
全身が傷だらけで包帯まみれとなった天元が炭治郎の横に立ち、何もなくなったその地面に視線を落とす。
「悪いが俺は、鬼を救いたいなんて言う胡蝶カナエの考えには今も共感できない。こいつらのやったことを考えりゃ、今更、救われる権利なんてあるわけがない」
天元のそんな言葉に、炭治郎は寂しげに目を伏せる。
彼らは上弦の鬼だ。これまでに、この兄妹によってどれほどの人々が食われ、どれほどの幸せが踏みにじられてきたか。
それを考えれば、彼らだけが最後に救いを得るなど、許されるわけがないのだから。
それくらい、炭治郎にも理解できることである。
理解できるからこそ、優しすぎる炭治郎の感情を、軋ませる。
「だが――まあ、兄妹で仲直りはできたんじゃねえか」
「宇髄さん……」
天元は、それだけを言い残して、すぐに背中を向けて立ち去ってしまう。
あとには、何もなくなった地面と。炭治郎、そして冨岡義勇だけが残された。
「……全ては、鬼舞辻無惨だ」
そして、義勇もそれだけを言い残すと、その場から立ち去ってしまう。
全ては、鬼舞辻無惨。
言葉足らずなはずのその台詞は、しかし。
炭治郎の心に去来する、悲しみも、怒りも、やるせなさも。
その全てを、間違いなく表している言葉だった。
次話は9月21日(月)23時公開予定です