「不出来な妻はいらない」と離縁されたので、幽霊城でお化けファミリーと暮らします ~家賃なし、家族つきのモンスター☆コメディ~ 作:aquali
唄に気づいたのは、風のない夜だった。
遠く、高く、細い声である。廊下の突き当たり、長く開けていなかった音楽室の扉の向こうから、それは聞こえてくる。城の夜の音には、だいぶ詳しくなったつもりでいた。ガレンの巡回の足音、燭台の芯の鳴り、壁のご老人の寝言めいた唸り。その、どれでもない音である。
――ねむれ、ねむれ、もりのこは。こずえのゆりかご、かぜがおす――。
やわらかい、良い唄である。けれど唄は、そこで途切れる。少しの沈黙。それからまた、最初へ戻る。ねむれ、ねむれ。……そして、また同じところで途切れるのだ。夜通し、際限なく。同じ頁の間で栞が迷子になった本のような反復で、聞いているうち、こちらの胸まで苦しくなってくる。唄は、途切れた場所から冷えていくらしい。続きを失くした子守唄は、夜の廊下で、行き場のない毛布のように所在なげだった。
寝台の中で三夜、私はその唄に眠り損ねた。うるさいからではない。途切れるからである。続きを待って、耳が眠らないのだ。そして三夜目には、気づいてしまった。あれは誰かを寝かしつける唄なのに、歌っている当人が、いちばん眠れずにいる。
三夜目に、私は音楽室の扉を開けた。
埃と白布の部屋である。布の下からは、弦の緩んだリュートと譜面台と、小ぶりの竪琴が出てきた。白布を外すたび、埃が月光の帯の中で渦を巻く。古い椅子の座面は楽器を抱く形にくぼみ、譜面台の高さは、そこに座る誰かのために整えられたままである。部屋ごと百年、誰かを待っていたような部屋だった。誰も来ない部屋の匂いなら、知っている。あの屋敷の私の私室が、ちょうどこんな匂いだった。譜面台に、楽譜はない。月明かりの窓辺に、声だけが揺れている。
「素敵な唄ですね。子守唄ですか?」
声が、ひゅっと止まった。長い沈黙のあと、消え入りそうな返事がある。
「……お聞かせするつもりは、なかったのです。ただ、途中までしか思い出せなくて。この先の節が、どうしても、霧の向こうなの」
「では、覚えているところまでを聞かせてください。わたし、聞くのは得意です」
その晩から、音楽室に人が――正しくは人でないものが、集まるようになった。
オズワルド様は「聞き覚えがあるぞ」と腕を組み、リゼは「厨房まで、よく流れてきました」と目を細める。ガレンは「詰め所でも、聞こえた」と兜を傾け、ピオに至っては「ぼく、うたえるよ!」と胸を張って、前半を最後まで歌い切った。誰もが、この唄を知っている。そして誰もが、前半しか知らない。城じゅうの記憶を寄せ集めても、唄は同じ崖の縁で足を止めるのである。
「無理に先を手繰るのは、やめましょう」
私は皆に提案した。思い出せない後半を数えるより、覚えている前半を磨く。繕い物と同じで、記憶も、引っ張れば破れる気がしたからである。
声の主は長いこと黙り、それから小さく、ありがとう、と言った。思い出せ、と急かされてばかりの百年だったのではないか――その声の安堵に、胸のどこかが軋む。できないことを数えられ続ける気持ちには、私も多少の年季がある。だからこの唄の会は、できることだけを数える場所にする。
夜ごと、音楽室で唄の会が開かれた。声の主が歌い、ピオが重なり、リゼが低いところを支え、オズワルド様が意外の美声で唸り、私は膝で拍子を取る。ガレンは音程という概念と交戦中である。何十回目かの「ねむれ、ねむれ」の頃には、途切れる崖の手前まで、唄はずいぶん豊かになっていた。節回しの綾、息継ぎの位置、言葉の抱き方。磨けば磨くほど、唄は確かになっていく。寒い音楽室で、白い息はひとつきりである。それがなぜだか、今夜は少しも寂しくない。
それから、発見がひとつ。唄が佳境に入ると、ピオが必ず、こくり、こくりと舟を漕ぎ始めるのである。百年前の子供にきちんと効くのだから、これは相当に腕のいい子守唄だ。
「これは……手拍子の唄でも、お祭りの唄でもありませんね。毎晩、同じ方のために、膝の上で使われた唄です。とても大事に、とても近くで」
私がそう言うと、声は、震えた。
「ええ……ええ、そうなの。毎晩、毎晩、わたくしの膝で……ああ、思い出しますわ。あのお方は寝つきが悪くて……眠るのが、こわい、と仰って……だからわたくしが、朝までも、いくらでも……」
窓辺の白布が、すう、と滑り落ちる。
リュートが宙に浮き、緩んだ弦の上に、指が現れた。白く、しなやかで、弦だこのある、楽士の指である。指は迷いなく糸巻きを締め、調弦し、ひとつ、澄んだ和音を鳴らした。その一音で、音楽室の空気が目を覚ます。リゼが両手で口を押さえ、オズワルド様の髭が止まり、舟を漕いでいたピオまで目を開けた。指から手首まで、月明かりにはっきりと見える。その先は、まだ夕靄のような淡い輪郭である。
「まあ……わたくしの手。手が、戻りましたのね。……オデット。わたくし、オデットと申します。この城の楽士に、ございました」
「オデットさん。良いお声だと、最初の夜から思っていました」
名乗りの受け取り方が、少し分かってきた。大げさにしない。当たり前の挨拶として受け取る。名前とは本来、そういうふうに扱われるものなのだ。
彼女は淡い輪郭のままリュートを抱きしめ、それから、ぽつりと言った。
「姿はまだ霧の向こうですけれど、手が戻れば、伴奏ができます。……でも奥様、この唄の続きは、わたくしの霧よりも確かな場所にありますわ。あの唄を誰より近くで聞いていたお方が、きっと覚えていてくださる」
「どなたです?」
「若様が」
――若様。
オズワルド様が言い、リゼが言い、ガレンが言い、ピオが言った。若様。若様なら、きっと知っている。四人は顔を見合わせ、それから同時に、寸分違わぬ角度で首をかしげたのである。扉の外では、聞き耳を立てていたらしいトバイアスの麦藁帽子まで、同じ角度に傾いでいた。
若様とは、どなたなのか。
暖炉もない音楽室の冷気が、足元からゆっくり上がってくる。名前を消された人たちの城で――名前どころか、居たことごと霧に沈んでいる誰かが、いる。冷気のせいだけではない震えが、背中を這い上がってくる。忘れたのではない。忘れさせられている――その疑いが、この夜、初めてはっきりと輪郭を持った。
唄の続きを知るただひとりを、この城の全員が、顔も、名前も、思い出せない――。