【チラ裏】ムルタ・アズラエルは刻の涙を見る 作:d_chan
エンデュミオン生活職業支援社の買収交渉は、驚くほど短時間で進んだ。
昨日まで自分たちの事業は合法だと主張していた株主たちは、行政委託の停止、警察による捜査、報道機関からの問い合わせが始まると、今度は自分たちは現場の実態を知らなかったと言い始めた。
責任は経営者にある。
責任は現場責任者にある。
責任は行政の監督不足にある。
責任は契約書を作った法務担当者にある。
誰も、自分の受け取った配当だけは返そうとしない。
「当社は長年、低所得者の就労支援へ貢献してきました。確かに、一部の現場で不適切な運用があった可能性は否定しませんが、会社全体を犯罪組織のように扱われるのは不当です」
会議室で、現経営者は汗を拭きながら訴えた。
「不適切な運用ではありません。返済不能な債務を作り、子供を働かせ、逃げれば借金を増やして連れ戻していた。仕組みそのものが問題です」
「しかし、契約は保護者の同意を得ております」
「保護者が文字を読めなかった事例、契約内容を説明されていない事例、金銭と引き換えに署名した事例が見つかっています」
「それは仲介業者の問題です」
「仲介業者へ報酬を支払っていたのは、あなた方でしょう」
経営者は黙った。
「買収条件を提示します」
僕が言うと、相手の表情がわずかに明るくなった。
この状況でも、金を受け取って逃げられると思っているらしい。
「現時点の企業価値から、訴訟、補償、未払賃金、違法債務の取消費用を差し引きます。株主への支払額は、ほぼゼロになるでしょう」
「それでは買収とは呼べません!」
「負債を引き受けてもらえるだけでも、十分に有利な条件です」
「当社には、施設、顧客網、行政との契約、教育設備があります。それらには価値がある!」
「施設は老朽化し、顧客網の多くは違法な債務契約によって作られ、行政契約は停止される見込みです。教育設備についても、実態は低賃金労働へ送り出すための最低限の訓練しか行っていません」
「なら、買わなければよいでしょう!」
「その場合、破産手続きへ進み、資産は競売され、帳簿は捜査機関へ提出されます。株主が受け取れる金額は、さらに減るでしょう」
経営者は歯を食いしばった。
「脅迫だ」
「選択肢を説明しています」
「子供のためと言いながら、結局は会社を安く奪うつもりではありませんか」
「安く買うことは否定しません」
会議室が静かになった。
「違法な事業を行い、社会的信用を失い、行政契約も停止される会社へ、高い値段をつける理由はありません。僕は慈善家ではなく、投資家です」
「やはり、利益が目的か」
「利益も目的です。ただし、子供を売らなければ利益が出ない事業なら、そんな事業は壊します」
僕は、買収後の再建案を画面へ表示した。
「住居支援、身分登録、職業紹介、短期融資という機能は残します。ただし、食費や住居費を無制限に債務へ加える仕組みは廃止し、利率には上限を設け、利用者がいつでも契約を解除できるようにします」
「それでは、利益が出ない」
「長期間働かせ続けることで利益を出すのではなく、就職成功時の紹介料、雇用企業からの手数料、自治政府からの委託費、低利融資の返済で利益を出します」
「無登録者や貧困層に、返済能力があると思うのですか」
「全員が返せるとは考えていません。だから、貸倒れを前提に金利と保証制度を設計します」
「そんな危険を負う企業はない」
「僕が負います」
経営者は、僕を見つめた。
「最低でも自由に十億ドルも使えるから、好きなことを言える」
「最低でも十億ドルしかないから、損失を計算しているのです」
使える金には限りがある。
すべての貧困を、僕一人が支払って消すことはできない。
だからこそ、一度支払った金が次の人間にも使われる仕組みが必要になる。
「もう一つ条件があります」
「まだあるのですか」
「役員報酬と株主配当の過去五年分について、違法行為によって得た利益として返還請求を行います」
経営者の顔色が変わった。
「買収代金がほぼゼロで、さらに金を返せというのか!」
「子供から取った金です」
「合法な報酬だ!」
「それを決めるのは、あなたではありません」
僕は法務担当者を見た。
「合意するなら、刑事捜査へ協力し、帳簿、契約記録、仲介業者の情報をすべて提出してください。協力の程度は、処分を判断する材料になるでしょう」
「合意しなければ?」
「会社は破産し、資産は競売され、捜査はそのまま続きます。僕は必要な施設だけ競売で買います」
沈黙が続いた。最終的に、株主たちは売却へ同意した。
会社は、ほとんど無価値に近い価格で僕の管理下へ入り、経営者と主要株主は、報酬返還と捜査への協力を求められた。
ムウが後でこの話を聞き、呆れたように言った。
「やっぱり、お前が一番悪い奴に見える」
「彼らへ逃げ道を与えただけです」
「金も会社も取って、逃げ道って言うのかよ」
「刑務所へ行く可能性は残っていますが、完全に協力すれば多少は有利になるでしょう」
「全然逃げられてないじゃねえか」
「違法行為から逃げる道は用意していません」
ムウは、しばらく僕を見つめた後、笑った。
「敵じゃなくて、本当によかった」