【チラ裏】ムルタ・アズラエルは刻の涙を見る 作:d_chan
自治政府との交渉は、人身売買業者との交渉より難しかった。
企業は利益と損失を示せば動くことがあるが、行政組織は責任を認めること自体を避けようとする。
「旧居住区に問題があることは認識しております。しかし、行政全体が人身売買へ関与していたかのような表現は、ルウムの信用を著しく損ないます」
自治政府の責任者は、会議の冒頭から防御的だった。
「行政全体が関与したとは言っていません。福祉局から委託費が支払われ、警察が児童の連れ戻しへ協力し、監査で問題が見過ごされていたと言っています」
「現場の一部職員による判断です」
「複数年にわたり、複数の部署が関わっています。一部という言葉で片づけるには、範囲が広すぎます」
「アズラエル様は、ルウムへ投資するために来られたのではありませんか。自治政府を批判し、社会問題を報道へ広げれば、投資環境まで悪化します」
「問題が存在することより、問題を隠すことの方が投資環境を悪化させます。違法な児童労働が後から明らかになれば、関連企業まで信用を失います」
「公表すれば、旧居住区への偏見が強まる可能性もあります」
「だから、改善策と同時に公表します」
今度こそ彼らは狼狽えた。何せ行政の失敗を認めるようなものだ。
「行政だけではありません。僕が買収した会社の責任、企業側の責任、利用した家庭の事情も含めて説明します」
「あなたは、簡単に責任を認めると言いますが、政治には影響があります」
「責任を認めなければ、事実が消えるのですか」
相手は黙った。
あともう一手必要か。
「共同で再建計画を作りましょう。自治政府は身分登録と福祉制度を見直し、僕は住宅、職業紹介、医療、教育へ投資する。住民代表も意思決定へ参加させます」
「行政の意思決定に、無登録住民を入れるのですか」
「登録できないから無登録なのです。制度の問題を最も知っている人間を、制度の外へ置いたままでは改善できません」
「治安上の懸念があります」
「旧居住区の住民全員を、犯罪者のように扱うことの方が治安を悪化させます」
長い交渉の末、自治政府は共同調査と試験事業へ同意した。
全面的な改革ではない。
まずは旧居住区の一部で、住宅、身分登録、医療、就労支援を一体化した窓口を作り、半年間の成果を確認する。
行政は、それなら失敗しても限定的な実験だったと言える。
僕は、それでも構わなかった。
最初から街全体を変えようとすれば、抵抗が大きすぎる。
小さく始め、結果を数字へ示し、拡大する方がよい。
「坊ちゃま」
会議を終えた後、ハワードが言った。
「また予定が増えました」
必要なことである。
「サイド3への出発予定は、どうなさいますか」
忘れてはいない。
アーサーとメアリーが新しい生活を始めた場所。
地球連邦政府への不満と独立運動が強まりつつある地域。
今回の旅で、最も政治的に重要な目的地である。
「予定どおり向かいます。事業の実務は、現地へ責任者を置きます」
「ムウ様たちは?」
「サイド3まで同行させます」
ハワードは、一瞬だけ目を細めた。
「お引き取りになるのですか」
「一時的な保護です」
「その説明は、カーディアス様の時にも聞いた気がいたします」
「カーディアスは引き取っていません。勝手についてきただけです」
「今回は、三名でございます」
「分かっています」
「船室、教育担当者、医療設備、保護契約、渡航許可が必要になります」
「手配してください」
「すでに始めております」
やはり仕事が早い。
ラウの退院が決まった日、僕は三人へ今後の予定を説明した。
病院の小さな談話室には、ムウ、ラウ、レイが並んで座り、僕の隣にはハワードと児童保護担当者がいる。
「サイド5の保護施設へ入る方法もありますが、現在の制度を完全には信用できません。そこで、僕たちと一緒にサイド3へ向かってもらうことを提案します」
「サイド3?」
ムウが身を乗り出した。
「ここから、また別のコロニーへ行くのか」
「ええ。その後は地球へ戻る予定ですが、君たちが地球へ行きたくないなら、サイド3か、ほかの場所に住む選択肢も考えます」
「俺たちを、どこかへ売るんじゃないだろうな」
「まだ疑っているのですか」
「疑うのは大事だって、お前も言ってただろ」
自分の言葉を使われると反論しにくい。
「売りません。契約書にも書きます。君たちは僕の所有物ではなく、保護対象です」
「保護って、何をするんだ」
「住居、食事、医療、教育を用意します。船内でも勉強してもらいます」
「やっぱり売られるよりひどいじゃねえか」
「義務教育です」
「俺は、旧居住区で生きる方法なら知ってる。学校で役に立つことなんて教えない」
「盗みの技術だけでは、将来の選択肢が狭すぎます」
「俺、盗みだけじゃないぞ。道も知ってるし、物の値段も分かるし、危ない奴も見分けられる」
「それらも立派な能力です。しかし、文字、計算、法律、機械を学べば、さらに使える範囲が広がります」
「嫌だって言ったら?」
「話し合います」
「行かないって言ったら?」
「サイド5で安全な保護先を探します。ただし、三人一緒であることは保証できません」
ムウは、ラウとレイを見た。
「一緒に行けるんだな」
「僕は、そのつもりです」
「ラウの病気は?」
「船には医師が乗ります。薬も用意します」
「レイも?」
「もちろんです」
レイが僕を見た。
「命令?」
「提案です。レイが嫌なら、別の方法を考えます」
「ムウとラウは行く?」
「俺は、まだ決めてない」
ムウが答え、ラウは少し考えた後で口を開いた。
「僕は行きたい」
ムウが驚いて振り返った。
「ラウ?」
「ここにいたら、また父さんや借金取りのような悪い連中に見つかるかもしれない。ムルタが本当に約束を守るかは、まだ分からない。でも、少なくとも病院へ連れてきて、俺たちを別々にしなかった」
「地球まで行くかもしれないんだぞ」
「宇宙船に乗ったこと、ないから」
ラウは、ほんの少し笑った。
「それに、学校も行ってみたい。前は病気で休んでばかりだったから」
ムウは言葉に詰まった。
「レイは?」
レイはしばらく考えた。
「ムウとラウと一緒なら、行く」
「自分で決めたのですか」
「うん。一緒がいい」
以前なら、ムウの命令に従っただけだったかもしれない。
今は、同じ選択でも、自分の言葉で言っている。
小さな変化だった。
「ムウは、どうしますか」
「二人が行くなら、俺も行く」
「君自身は?」
「二人を守るためだ」
「それだけですか」
「宇宙船も、ちょっと見たい」
素直ではない。
「分かりました。では、三人一緒にサイド3へ向かいます」
「その代わり、俺たちへ勝手なことをするな」
「契約へ書きましょう」
「また契約かよ」
「君は、口約束を信用しないのでしょう」
「もう少しは信用してる」
ムウは、小さな声で言った。
「少しだけな」
「十分です。信用は、最初から全額投資するものではありません」
「友情まで投資にするなよ」
「友人価格は審査が厳しくなります」
「誰に教わったんだ、それ」
「僕です」
「最悪だな」
ラウが小さく笑い、レイも二人を見ながら口元をわずかに緩めた。
船へ乗る前、新しい身分証が三人へ渡された。
ムウ・ラ・フラガ。
ラウ・ル・クルーゼ。
レイ。
僕の趣味で名前を決めたことに、多少の罪悪感がないわけではない。
だが、本人たちも最終的には同意した。
それに、似合っている。
「本当に、この名前で登録したんだな」
ムウは身分証を裏返しながら言った。
「気に入らなければ、今からでも変更手続きを始められます」
「また面倒な書類を書くんだろ」
「当然です」
「じゃあ、これでいい」
「これがよい、ではなく?」
「もう、それはいい!」
ラウは、自分の身分証を静かに眺めていた。
「ラウ・ル・クルーゼ」
「気に入りましたか」
「前の名前も嫌いじゃない。でも、この名前なら、前とは違うところへ行ける気がする」
よい言葉だった。
レイには、姓がない。
法務担当者は仮の姓を用意しようとしたが、本人がまだ決めたくないと言ったので、その意思を尊重した。
「姓がないと、困る?」
レイが尋ねた。
「手続き上、不便な場合はありますが、今すぐ決めなくても構いません」
「ムルタと同じは?」
「アズラエルですか」
「うん」
ムウとラウが、同時にこちらを見た。
僕も少し驚いた。
「僕と家族になりたいという意味ですか」
「分からない」
「では、分かってから決めましょう。名前は、誰かへ気に入られるために選ぶものではありません」
「ムウとラウは、違う名前でも家族?」
「俺たちは最初から家族だ」
ムウが即答した。
「なら、レイも違う名前でいい」
レイは、そう言って身分証を握った。
「レイがいい」
それは、誰かから与えられた仮の名前ではなく、少しずつ本人の名前へ変わり始めていた。
その後、彼の正式な姓名が決まった——レイ・ザ・バレル。
結局、レイの名前も半ばごり押しでレイ・ザ・バレルにしてしまった。
ムウとラウからはあきれられたが、レイはまんざらでもなさそうだったのが救いか。