【チラ裏】ムルタ・アズラエルは刻の涙を見る 作:d_chan
船がエンデュミオンを離れる時、僕は展望室からコロニーを見ていた。
銀色の円筒は、距離が開くにつれて小さくなり、その周囲を行き交う旅客船や貨物船の光も、やがて一つの明るい点へまとまっていく。
ムウ、ラウ、レイは別の窓で、初めて見るコロニー外部の景色へ夢中になっていた。
ムウは船の種類をハワードへ尋ね続け、ラウは光の数を数え、レイはどこまでが街で、どこからが宇宙なのかを確かめている。
「坊ちゃま」
ハワードが隣へ立った。
「エンデュミオン再建事業について、現地責任者から最初の報告が届いております」
「もうですか」
「身分登録窓口の予定地が決まり、旧職業紹介会社の施設を一部改修して利用するとのことです。また、旧居住区の住民から二十一名が職員候補として応募しております」
「ムウの案ですね」
「はい。行政側は当初難色を示しましたが、現地事情を知る人員が必要であることを認めました」
「児童の未払賃金は?」
「帳簿の照合を進めております。対象者が多いため、支払いには時間がかかる見込みです」
「時間がかかることを、本人たちへ説明してください。調査中という言葉だけでは、また約束を破られたと思われます」
「承知しました」
僕は、遠ざかるエンデュミオンを見た。
今回の滞在で、僕は三人の子供を保護し、人身売買会社を買収し、旧居住区へ新しい事業を作った。
それでも、スラムは残る。借金に苦しむ家庭も、明日の仕事を探す人間も、学校へ行けない子供もいる。
すべてを救えたわけではない。
むしろ、問題の大きさを知っただけかもしれない。
「ハワード」
「何でしょう」
「僕たちは、役に立ったのでしょうか」
自分でも、珍しい質問だと思った。
ハワードはすぐには答えなかった。
「少なくとも、ムウ様、ラウ様、レイ様の三名にとっては、大きな変化だったでしょう」
「三人だけです」
「三人を少ないと考えられるのですか」
「街には、ほかにも子供がいました」
「坊ちゃま一人が、全員を直接引き取ることはできません」
「分かっています」
「そのために、制度と事業を残されたのでしょう」
僕は頷いた。
一人を救うだけなら、その場で金を払えばよい。
だが、次の一人も救うには、僕がいなくても動く仕組みが必要になる。
その仕組みが本当に動くかは、これから確認しなければならない。
「利益は出るでしょうか」
「初年度は赤字になる可能性が高いと存じます」
「困りますね」
「撤退されますか」
「しません」
ハワードは、わずかに微笑んだ。
「それなら、問題ございません」
「問題はあります。赤字を減らす方法を考えます」
「承知しました」
エンデュミオンの光が、遠くなっていく。
この頃のルウムは、本当に平和だった。
貧困も、犯罪も、格差もあったが、人々は街が明日も存在すると信じ、子供たちは大人になれば働き、結婚し、家族を作る未来を思い描いていた。
僕もまた、ここが巨大な戦場になり、数え切れない船と人間が失われる日が来るなど、少しも考えていなかった。
だからこそ、僕がエンデュミオンへ残したものは、戦争への備えではなかった。
低所得者向け住宅。
身分登録制度。
児童保護の名簿。
地下区画を結ぶ物流路。
医療施設。
住民が参加する自治組織。
すべて、貧困を減らし、利益を生み、街を少しだけ暮らしやすくするために作ったものだった。
それらが後に、避難民の名簿となり、物資輸送路となり、人々を守る地下施設となることを、この時の僕は知らない。
「ムルタ!」
ムウの声がした。
「サイド3って、どんなところなんだ?」
「地球連邦政府への不満と、独立を求める動きが強まっている地域です」
「危ないのか?」
「今のところ、戦争が起きているわけではありません。ただし、政治の話へ不用意に口を出すと、面倒なことになるかもしれません」
「お前、絶対口を出すだろ」
「僕は観察するだけです」
「嘘だな」
否定しきれない。
「サイド3にも、金の流れる音がするのか」
「当然です」
「じゃあ、また予定が増えるな」
「増やすつもりはありません」
「ハワード、お前はどう思う」
「増えるものと考えて、すでに余裕のある日程を組んでおります」
「さすがだな!」
「二人とも、僕を何だと思っているのです」
ムウが笑い、ラウも静かに笑った。
レイは、まだ冗談の意味を完全には理解していないようだったが、二人が笑っているので、少し遅れて笑顔を作った。
ルウムへ来た時、僕の旅の仲間はハワードと護衛たちだけだった。
去る時には、ムウ・ラ・フラガ、ラウ・ル・クルーゼ、レイという三人の子供が増えている。
彼らが何者になるのか、僕にはまだ分からない。
単なる偶然で、前世の作品に似た名前を与えた。
成長すれば、その作品の人物と同じ容姿になることも知らない。
僕はただ、宇宙の片隅で出会った、少し変わった三人へ投資しただけである。
ムウは、僕が困った時には助けると言った。
ラウは、新しい名前なら、これからを変えられる気がすると言った。
レイは、嫌だと言っても売られないのかと尋ねた。
その三つの言葉を、僕は忘れなかった。
ルウムは、遠ざかっていく。
人工の月に愛された街と、そこで出会った三人の子供を乗せて、僕たちの船はサイド3へ向かう。
この時、ルウムとの因縁が始まった。
僕が街を救ったからではない。
街が僕へ、守りたい人間と、果たすべき約束を与えたからである。