【チラ裏】ムルタ・アズラエルは刻の涙を見る   作:d_chan

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第56話 平和なルウム

 船がエンデュミオンを離れる時、僕は展望室からコロニーを見ていた。

 銀色の円筒は、距離が開くにつれて小さくなり、その周囲を行き交う旅客船や貨物船の光も、やがて一つの明るい点へまとまっていく。

 

 ムウ、ラウ、レイは別の窓で、初めて見るコロニー外部の景色へ夢中になっていた。

 ムウは船の種類をハワードへ尋ね続け、ラウは光の数を数え、レイはどこまでが街で、どこからが宇宙なのかを確かめている。

 

「坊ちゃま」

 

 ハワードが隣へ立った。

 

「エンデュミオン再建事業について、現地責任者から最初の報告が届いております」

 

「もうですか」

 

「身分登録窓口の予定地が決まり、旧職業紹介会社の施設を一部改修して利用するとのことです。また、旧居住区の住民から二十一名が職員候補として応募しております」

 

「ムウの案ですね」

 

「はい。行政側は当初難色を示しましたが、現地事情を知る人員が必要であることを認めました」

 

「児童の未払賃金は?」

 

「帳簿の照合を進めております。対象者が多いため、支払いには時間がかかる見込みです」

 

「時間がかかることを、本人たちへ説明してください。調査中という言葉だけでは、また約束を破られたと思われます」

 

「承知しました」

 

 僕は、遠ざかるエンデュミオンを見た。

 今回の滞在で、僕は三人の子供を保護し、人身売買会社を買収し、旧居住区へ新しい事業を作った。

 それでも、スラムは残る。借金に苦しむ家庭も、明日の仕事を探す人間も、学校へ行けない子供もいる。

 すべてを救えたわけではない。

 むしろ、問題の大きさを知っただけかもしれない。

 

「ハワード」

 

「何でしょう」

 

「僕たちは、役に立ったのでしょうか」

 

 自分でも、珍しい質問だと思った。

 ハワードはすぐには答えなかった。

 

「少なくとも、ムウ様、ラウ様、レイ様の三名にとっては、大きな変化だったでしょう」

 

「三人だけです」

 

「三人を少ないと考えられるのですか」

 

「街には、ほかにも子供がいました」

 

「坊ちゃま一人が、全員を直接引き取ることはできません」

 

「分かっています」

 

「そのために、制度と事業を残されたのでしょう」

 

 僕は頷いた。

 一人を救うだけなら、その場で金を払えばよい。

 だが、次の一人も救うには、僕がいなくても動く仕組みが必要になる。

 その仕組みが本当に動くかは、これから確認しなければならない。

 

「利益は出るでしょうか」

 

「初年度は赤字になる可能性が高いと存じます」

 

「困りますね」

 

「撤退されますか」

 

「しません」

 

 ハワードは、わずかに微笑んだ。

 

「それなら、問題ございません」

 

「問題はあります。赤字を減らす方法を考えます」

 

「承知しました」

 

 エンデュミオンの光が、遠くなっていく。

 この頃のルウムは、本当に平和だった。

 貧困も、犯罪も、格差もあったが、人々は街が明日も存在すると信じ、子供たちは大人になれば働き、結婚し、家族を作る未来を思い描いていた。

 僕もまた、ここが巨大な戦場になり、数え切れない船と人間が失われる日が来るなど、少しも考えていなかった。

 だからこそ、僕がエンデュミオンへ残したものは、戦争への備えではなかった。

 

 低所得者向け住宅。

 身分登録制度。

 児童保護の名簿。

 地下区画を結ぶ物流路。

 医療施設。

 住民が参加する自治組織。

 

 すべて、貧困を減らし、利益を生み、街を少しだけ暮らしやすくするために作ったものだった。

 それらが後に、避難民の名簿となり、物資輸送路となり、人々を守る地下施設となることを、この時の僕は知らない。

 

「ムルタ!」

 

 ムウの声がした。

 

「サイド3って、どんなところなんだ?」

 

「地球連邦政府への不満と、独立を求める動きが強まっている地域です」

 

「危ないのか?」

 

「今のところ、戦争が起きているわけではありません。ただし、政治の話へ不用意に口を出すと、面倒なことになるかもしれません」

 

「お前、絶対口を出すだろ」

 

「僕は観察するだけです」

 

「嘘だな」

 

 否定しきれない。

 

「サイド3にも、金の流れる音がするのか」

 

「当然です」

 

「じゃあ、また予定が増えるな」

 

「増やすつもりはありません」

 

「ハワード、お前はどう思う」

 

「増えるものと考えて、すでに余裕のある日程を組んでおります」

 

「さすがだな!」

 

「二人とも、僕を何だと思っているのです」

 

 ムウが笑い、ラウも静かに笑った。

 レイは、まだ冗談の意味を完全には理解していないようだったが、二人が笑っているので、少し遅れて笑顔を作った。

 

 ルウムへ来た時、僕の旅の仲間はハワードと護衛たちだけだった。

 去る時には、ムウ・ラ・フラガ、ラウ・ル・クルーゼ、レイという三人の子供が増えている。

 彼らが何者になるのか、僕にはまだ分からない。

 単なる偶然で、前世の作品に似た名前を与えた。

 成長すれば、その作品の人物と同じ容姿になることも知らない。

 僕はただ、宇宙の片隅で出会った、少し変わった三人へ投資しただけである。

 

 ムウは、僕が困った時には助けると言った。

 ラウは、新しい名前なら、これからを変えられる気がすると言った。

 レイは、嫌だと言っても売られないのかと尋ねた。

 

 その三つの言葉を、僕は忘れなかった。

 ルウムは、遠ざかっていく。

 人工の月に愛された街と、そこで出会った三人の子供を乗せて、僕たちの船はサイド3へ向かう。

 この時、ルウムとの因縁が始まった。

 僕が街を救ったからではない。

 街が僕へ、守りたい人間と、果たすべき約束を与えたからである。

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