【チラ裏】ムルタ・アズラエルは刻の涙を見る   作:d_chan

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第58話 名前と決意②(裏:ムウ・ラ・フラガ)

 翌朝、食堂で朝食を食べていたムルタを見つけると、俺は向かいの席へ座り、何も説明せずに言った。

 

「五十点」

 

 ムルタはパンへ何かを塗る手を止め、怪訝そうにこちらを見た。

 

「何が五十点なのです?」

 

「お前の信用点。最初に会った時は零点だったけど、昨日までに二十点くらいまで上がって、今朝になって五十点になった」

 

「ずいぶん低い評価から始まっていたのですね。それに、評価基準が開示されていませんので、何を根拠に三十点も上昇したのか分かりません」

 

「俺が決めるんだからいいんだよ。嫌なら減らすぞ」

 

「恣意的な評価制度ですね。少なくとも、評価項目と配点を事前に示した方が公平ではありませんか」

 

 朝から面倒な奴だ。

 

「ところで、昨夜は船内の避難経路を確認していたそうですね」

 

 俺は、口へ入れようとしていたパンを止めた。

 

「……知ってたのか」

 

「護衛から報告を受けています。立入禁止区画へ近づく様子もなく、船室周辺の経路を確認しているだけだったので、そのまま観察させました」

 

「だったら最初から止めろよ」

 

「なぜです? 危険がなく、本人が必要だと考えているなら、無理に止める理由はありません。ただ、実際に事故が起きた場合は勝手に逃げるより、船員の指示へ従う方が安全です」

 

「船員が悪い奴だったらどうするんだよ。ここに乗ってる奴が全員お前の味方だって、俺はまだ分からないんだから、ラウとレイを連れて逃げる道くらい自分で知っておいた方がいいだろ」

 

「そこまで考えていたのですか」

 

「当たり前だろ。逃げ道を知らないで寝る方がおかしい」

 

 ムルタは一瞬何か言いかけたが、説教する代わりに少し考えてから頷いた。

 

「では、後ほど船員から正式に避難経路と船内構造を説明してもらいましょう。知っている方が安心できるのであれば、その方がよいでしょうし、勝手に保守区画へ入られるより安全です」

 

「いいのかよ」

 

「覚えて困るものではありません。ただし、立入禁止区画へ入れば、今度は僕からムウへの信用点を減らします」

 

「俺の真似すんなよ!」

 

 横でラウが笑い、その理由がよく分かっていないらしいレイも少し遅れて笑ったので、俺も怒る気が失せた。

 

 五十点。

 

 まだ全部は信用しない。

 でも、半分くらいなら信用してみてもいい。

 

 

 

 

 その日の午前中、俺はムルタが本気で船の中でも勉強をさせるつもりだったことを思い知らされた。

 

「お前、あれ冗談じゃなかったのかよ。サイド3まで船に乗ってるんだから、少しくらい休んだっていいだろ!」

 

「旅行中だから教育を止める理由はありません。少なくとも文字、算術、歴史、社会制度、基礎科学については現在の理解度を確認し、足りない部分を補った方がよいでしょう」

 

「俺、文字は読めるぞ。看板だって求人だって、ちゃんと読んでた」

 

「年齢相応の文章をどの程度理解できるかは別問題ですから、まず簡単な確認をしましょう。できる部分まで最初から教える必要はありませんし、できない部分だけ学べば効率もよくなります」

 

「その言い方だと、逃げられねえじゃん」

 

「逃げる必要がありませんので」

 

 ハワードはすでに教材を用意しており、完全に計画されていたらしい。

 午前中いっぱい文字と計算をやらされて分かったのは、俺は旧居住区で物を買ったり、値引きされた金額を計算したり、日雇い仕事の賃金から家賃と食費を引いたりする暗算ならかなり速いのに、紙の上へ数字だけ並べられると、途端に何を聞かれているのか分からなくなることがあるということだった。

 

「おかしいだろ。三割引でいくらになるかはすぐ分かるのに、こっちの問題になると何で分からなくなるんだよ」

 

 俺が不満を言うと、教師役として船へ乗っていた男は怒ることもなく、俺の回答を見ながら説明した。

 

「ムウは生活の中で必要な計算を覚えているので、数そのものを扱う抽象的な訓練が不足しているだけでしょう。能力がないわけではありませんし、今まで使っていた知識と学校の数学を結びつければ、かなり早く進めると思います」

 

「だったら、最初は全部値段とか給料の問題にしてくれよ。その方が分かる」

 

「構いません。最終的には別の問題へも広げますが、目的は問題集の形式へ慣れることではなく、数学の仕組みを理解することですから」

 

「学校の先生って、もっと『やり方が違う』とか言って怒るもんだと思ってた」

 

「間違った方法で正しい答えが出ているなら、なぜ出たのかを確認する方が先です」

 

 ムルタが雇った奴らは、どうも普通の大人とは少し違うらしい。

 午後になると、前日に俺が宇宙船を操縦してみたいと言ったことをムルタが覚えていて、船内の設備見学へ加えて簡易操縦シミュレーターを触らせてもらえることになり、午前中の勉強で減っていた俺の機嫌は一気に戻った。

 

「本当に俺が触っていいのか。壊して怒られたりしない?」

 

「実機ではありませんし、訓練用ですから壊れるような操作はできません。ただし、操作方法を聞かずに全部触るのはやめてください」

 

 担当の船員に座席へ座らされ、正面の画面や左右の操作装置を見ているだけで、何となく胸が高鳴った。

 

「まず覚えてほしいのは、宇宙船は地上の車と違って、進行方向を変えただけでは、それまで持っていた速度が消えないということだ。例えば右へ動きたいなら――」

 

「左側の噴射装置を使って、右へ押し出すの?」

 

 船員が、少し驚いた顔で俺を見た。

 

「……そうだ。どこかで習ったのか?」

 

「習ってないけど、押したら反対へ動くだろ」

 

「まあ、理屈としてはそうだが、最初からそこへ気づく子供はあまり多くない」

 

 説明を聞きながら画面の中の小型船を動かしてみると、最初は思ったより難しく、右へ機首を向けたのに船体そのものは横へ流れ続けたり、止まりたいのにすぐには速度が落ちなかったりして、路地を走る時とはまるで勝手が違った。

 

 ただ、十数分も触っていると、今どちらへ動いているのか、どこで速度を落とせばよいのか、次にどちらへ噴射すれば進路を変えられるのかが少しずつ感覚として分かるようになり、船員に言われた操作を考えてから行うより、先に身体が動くことも増えていった。

 

「次は、同じ空域へ三機の無人艇を出すから、相対速度を見ながら接触しないよう回避してみよう。最初はぶつかっても構わないし、全部避けようとして無理な操作をする必要もない」

 

 画面へ三つの光点が現れた。

 

 一機目は正面から来る。

 二機目は下から上へ抜けていく。

 三機目は少し遠い。

 

 でも、それとは別に、何となく後ろが気になった。

 

「後ろにも一機いるだろ」

 

「後ろ? いや、今回は三機設定だ」

 

「でも、いる気がする」

 

「表示には何も――」

 

 俺は視点を後方へ切り替えたが、その瞬間にはまだ何も映っていなかった。

 

「じゃあ、これから出てくる」

 

「ムウ、設定上は追加機体なんて――」

 

 船員が言い終える前に、後方の障害物の陰から新しい光点が現れた。

 俺より先に驚いたのは船員だった。

 

「何で四機いるんだ?」

 

「ランダムイベントか何かでは?」

 

 後ろで見ていたムルタが言う。

 

「可能性はありますが、問題はそこではなくて、ムウが表示される前に気づいたことです。画面にも警告にも何も出ていませんでした」

 

「俺の勝ちってこと?」

 

「勝ち負けの問題じゃない」

 

 四機目が近づいてきたので、俺は考えるより先に操縦装置を動かした。

 正面の機体を上へ避け、下から来る機体をそのまま通し、遠くの三機目と進路が重ならない程度に速度を落としたところで、後ろから来る四機目が急に近づく感じがして、反射的に右へ船を滑らせると、直後に光点が画面の端をすり抜けていった。

 

「よし、全部避けた!」

 

 俺は嬉しくて振り返ったのだが、船員は喜ぶよりも画面と俺を何度も見比べていた。

 

「ムウ、最後の機体が来る方向は、どこで分かった?」

 

「どこって、来る前に分かった」

 

「何を見て?」

 

「何も見てないよ」

 

「音は?」

 

「宇宙なんだから、音で分かるわけないだろ。シミュレーターの効果音だって、鳴ったのは後だったし」

 

「では、どうして分かったんだ?」

 

 そんなことを聞かれても、俺の方が困る。

 

「分かったから分かったんだよ。街でもそういう時あるだろ。曲がり角の向こうから誰か来るとか、追っ手が別の道を回ってこっちへ来るとか、何となく分かる時」

 

 船員は少し黙った後、ゆっくり首を振った。

 

「普通は、そこまで分からない」

 

「嘘だろ。みんな多少はあるだろ」

 

 俺はムルタを見た。

 こいつなら、いつものように何か屁理屈を言うだろうと思ったが、珍しくすぐには答えず、少し考え込んだ後で船員へ言った。

 

「もう一度試しましょう。今度は、出現する機体数も方向もムウへ知らせずに設定してください。僕にも教えなくて構いません」

 

「坊ちゃま、これは子供向けの適性確認としては負荷が高くなりますが」

 

「無理をさせる必要はありません。遊びの範囲なのか、本当に特徴があるのかを確認するだけです」

 

「俺はやるぞ。今度は全部避けるからな」

 

「接触しないことより、どう感じたかを後で説明してください」

 

「だから、分かったから分かったって説明しかできねえよ」

 

 その後、出現数を変えたり、障害物を増やしたり、視界条件を悪くしたりしながら何度か試したが、全部成功したわけではなく、普通に接触したこともあったし、予想を外すこともあった。

 

 それでも、画面へ現れる前の機体へ反応したり、視界の外から近づいてくるものへ先に操作を始めたりすることが何度かあり、船員は訓練記録を見ながら、少なくとも初めて宇宙船の操縦装置へ触った八歳の子供としては相当珍しいと言った。

 

「ムウ、何か特別な感覚はありますか。例えば頭痛がする、人の声が聞こえる、光が見える、耳鳴りがする、あるいは誰かに見られているように感じるなど、普段と違うことがあれば教えてください」

 

 ムルタが妙に真面目な声で尋ねてきたので、俺は眉をしかめた。

 

「何で病気みたいな聞き方するんだよ。そんなの何もないし、ただ来るって分かるだけだよ。昔から街でも、危ない奴が近づいてくる時とか、追ってくる奴が先回りした時とか、何となく分かることはあったけど、みんなそういうものだと思ってた」

 

「ずっと以前から?」

 

「知らねえよ。いつからなんて考えたことないし、普通だと思ってたんだから覚えてない」

 

 ムルタはまた少し考え、隣にいたハワードが小声で何かを尋ねると、首を横へ振った。

 

「急いで何か決める必要はありません。健康上の問題がないかだけ医師へ確認し、今日の記録を残しておきましょう。本人へ変な先入観を与える方がよくありません」

 

「結局、俺ってすごいのか?」

 

「少なくとも、空間認識能力や操縦適性が高い可能性はあります」

 

「じゃあ、ちゃんと勉強すればパイロットになれる?」

 

「勉強すれば、その可能性は上がります」

 

「また勉強かよ!」

 

 結局どの話をしても、最後には勉強へ戻るらしい。

 それでも今回は、午前中より少しだけ勉強してもいいと思った。

 船を自分で動かせるようになれば、誰かに追われて逃げるためではなく、自分が行きたい場所を選んで飛ぶことができるし、ラウやレイを乗せて、俺が決めた場所へ連れていくことだってできる。

 旧居住区にいた頃は、明日どこで食べ物を手に入れるか、誰に見つからずに寝るか、ラウの薬をどうするかということしか考えられなかったのに、今は自分が何年も先に何をしているかを想像している。

 

 それが妙に不思議だった。

 

          

 

 その夜、俺はもう一度、新しい身分証を手に取った。

 ムウ・ラ・フラガという名前には、まだ完全には慣れていなかったが、前日ほど他人の名前には見えなくなっていた。

 

 ラメーという名前を捨てたからといって、父さんがしたことが消えるわけでも、俺が盗みをしていたことや、ラウを半ば無理やり連れて逃げたことや、レイと三人で倉庫暮らしをしていたことまで消えるわけでもない。

 が、これから先に俺が何になるのかまでは、父さんにも、借金取りにも、職業紹介会社にも、役人にも、そしてムルタにも決められていない。

 

 おそらく、新しい名前を持つというのは、過去を捨てることではなく、これから先を誰かに決めさせないということなのだろう。

 

「ムウ、まだ起きてる?」

 

 隣のベッドからラウが声をかけてきたので、俺は身分証を枕元へ置きながら答えた。

 

「起きてるよ。お前こそ、もう寝たと思ってた」

 

「明日も、操縦の練習するの?」

 

「たぶんな。俺、結構すごいらしいぞ。教えてくれた奴も驚いてたし、ムルタまで変な顔してたから、もしかしたら本当に才能あるかもしれない」

 

「知ってるよ」

 

「何でお前が知ってるんだよ」

 

「ムウは昔から逃げ道を見つけるの得意だったし、誰かが来る前に急に場所を変えたりしたこともあったから、僕はムウがそういうこと分かる人なんだと思ってた」

 

「逃げるのが得意なだけみたいに言うなよ。そのうち、ちゃんと自分から飛ぶんだからな。俺が船を操縦できるようになったら、お前とレイを乗せて、今まで行ったことないところへ連れていってやる」

 

「どこへ?」

 

「まだ決めてないけど、エンデュミオンよりずっと遠いところ。地球も見たいし、月にも行ってみたいし、木星はさすがに遠すぎるから、もっと後になってからでいい」

 

「ムルタみたい」

 

「どこがだよ!」

 

「行きたいところが、どんどん増えるところ。ムルタも、一つの場所へ行くと、そこからまた次のことを見つけるでしょ」

 

「俺はあいつみたいに、行く先々で会社を買ったり学校を作ったりしねえよ。そんな金もないし」

 

「でも、困ってる人がいたら助けると思う」

 

「金があったらな」

 

「なくても、ムウなら助けるよ」

 

 ラウは何の迷いもなくそう言うと、満足したように目を閉じた。

 勝手に決めるなと思う。

 俺は、自分がそんな立派な人間だと思っていないし、ラウを連れて逃げた時だって、人を助けるのは正しいことだからとか、兄として責任を果たそうとか、そんな格好のいいことを考えていたわけではない。

 

 父さんと職業紹介会社の奴らが、ラウを物みたいに売る話をしているのを聞いて、どうしても許せなくなったから、後先を考えずに連れて逃げただけだった。

 

 それでも、もしあの夜へ戻ることができて、ラウが本当は俺の弟ではないと最初から分かっていたとしても、父さんたちが病気の子供を売る話をしているのを聞けば、おそらく俺は同じように連れて逃げただろう。

 

 そう考えると、ラウの言っていることも完全には間違っていないのかもしれない。

 

 俺が守るのは、これまでと同じようにラウとレイであり、そのことだけは何があっても変えるつもりはなかったが、もしこれから先、あの変な十二歳の金持ちが本当に困るようなことが起きたなら、そいつも守る側へ一人くらい加えてやってもいいかもしれないと思いながら、俺は身体をベッドへ沈めた。

 

 旧居住区で暮らしていた頃なら、眠る前には必ず出口までの距離と逃げ道を確認し、誰かが踏み込んできた場合にラウとレイをどちらから逃がすかまで頭の中で決め、それでも不安だから手の届く場所へ食べ物を隠してからでなければ眠れなかったが、船内の避難経路をすでに覚えた今夜は、枕の下へ隠していたパンへ手を伸ばすことなく、そのまま目を閉じた。

 

 朝になれば今日と同じように食事が用意され、ラウには薬が渡され、レイが何を食べるか迷っても誰かが急かさずに待ってくれるのだと考えることは、旧居住区で身につけた感覚からすれば危険なくらい無防備なことだったが、それでも今夜だけは、そのくらいムルタたちを信用してみてもいいような気がした。

 

 明日の朝にも飯があると、誰かの約束を信じたまま眠ることができたという事実の方が、名字が変わったことや宇宙船へ乗ったことよりも、俺にとってはずっと大きな変化だったのだと思う。

 

 ムウ・ラ・フラガとして最初に手に入れたものは、新しい身分証でも、操縦士になれるかもしれないという才能でもなく、明日を心配せずに眠ってもいい夜だった。

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