【チラ裏】ムルタ・アズラエルは刻の涙を見る 作:d_chan
第61話 アーサーとの再会とサザーランド少尉の登場
月の裏側へ回り込むにつれて、つい先ほどまで窓いっぱいに広がっていた青と白の地球は少しずつ月の稜線へ沈み、最後には細い光の縁だけを残して完全に見えなくなった。
もちろん地球そのものが消滅したわけではなく、僕たちの船と地球との間に月が割り込んだだけなのだが。数時間前まであれほど大きく見えていた故郷が視界から消え、代わりに星空へ浮かぶ無数の円筒と採光鏡が正面を占めるようになると、知識としてしか理解していなかった距離が急に現実味を帯び、単なる物理的な遠さだけでなく、政治的にも地球から切り離されつつある場所へ来たのだという感覚が、足元から静かに這い上がってきた。
「本当に見えなくなるんだな。地球なんて、どこへ行っても空を見上げればあるものだと思ってたけど、ここじゃ振り返っても月しかないぞ」
展望窓へ額を押しつけたムウが、驚きを隠そうともせずに言うと、隣に立つラウは窓の外から目を離さないまま、「月が遮っているだけだ。位置を変えればまた見えるし、見えなくなったからといって、地球そのものがなくなったわけじゃない」と冷静に答えたものの、その指先は窓枠をつかんだままで、彼もまた視界から故郷が消えるという感覚を確かめているようだった。
「地球、なくなったの?」
レイが僕の袖をつまみ、心配そうに背後を振り返ったので、僕は「なくなってはいませんよ。今は見えない場所にあるだけですし、見えないものが存在しないことになるなら、世の中の借金は帳簿を閉じた瞬間にすべて消えてくれるでしょう」と説明した。
「ムルタ、それは子どもを安心させる説明じゃなくて、借金を踏み倒そうとしている大人を脅す説明だろ」
「内容としては正確です」
「正確なら何を言ってもいいわけじゃないと思うぞ」
ムウの突っ込みにレイが小さく笑い、ラウまで口元を緩めたので、僕は肩をすくめながら、もう一度地球のあった方向へ目を向けた。
姿は見えなくても、ここで暮らす人々が支払う税も、工場を動かすための認可も、船が使う航路も、すべてはあの見えない星から伸びてきた規則に縛られており、サイド3の住民にとって地球とは、見えないからこそ余計に重く感じられる存在なのかもしれなかった。
僕たちの船が接近したのは、サイド3外縁にある工業コロニーだった。誘導灯が暗い宇宙に規則正しく点滅し、その間を鉱材や機械部品を積んだ貨物船が列を作って進んでおり、船体に記された鉱石会社、輸送会社、生命維持設備メーカーの社名を眺めていると、三隻に一隻ほどの割合で僕の会社か、その系列企業の印が見つかった。
金を流した結果が実物となって動いているのを見るのは悪くない気分だったが、港へ近づくにつれて、貨物船の待機時間が長すぎること、曳船の数が足りないこと、荷役区画の拡張工事が終わらず臨時配管が壁を這っていることが目につき、達成感を味わうより先に、どこへいくら投資すれば滞留を解消できるかという計算が始まってしまった。
接岸すると、船外の低い振動が床を通して伝わり、何重にも閉じられていた気密扉が開いた瞬間、乾いた金属臭とわずかに油を含んだ空気が流れ込んできた。
港の天井は決して低くないのに、地球の空を知っている身には、白い人工照明に照らされた空間全体が巨大な箱の中のように感じられ、入港ゲートの上に酸素、水、電力の標準供給価格が大きく表示されているのを見ると、空気にまで値札がついているという宇宙生活の現実を、改めて突きつけられたような気分になった。
「酸素も水も、先月より値上がりしていますね。宇宙では空気が無料でないことくらい承知していますが、三項目そろって赤い上向き矢印というのは、あまり感心できる表示ではありません」
「輸送税の改定分です。現地政府は補助金で相殺しようとしていますが、増加分に追いついておらず、このままでは来月も価格を上げることになるでしょう」
背後から落ち着いた声がしたので振り返ると、濃紺の制服を着た男が、軍人にしては妙に目立たない立ち方でこちらを見ていた。人目を集めないことそのものを職能にしているような男は、姿勢を正してから、「サザーランド少尉です。ゴップ大佐より、アズラエル様ご一行の滞在中の案内と警護を命じられています」と名乗った。
「ご苦労さまです。ただ、僕は工場と街を見に来ただけですから、警護が必要になるようなことはしませんよ」
「あなたが何かをするかどうかだけが問題ではありません。この街では、あなたが誰と会い、誰の隣を歩き、誰と握手したかまで政治になりますから、観光客のつもりで行動なさらないほうがよろしいでしょう」
「それなら両手をポケットに入れて、誰とも握手せずに歩くことにします」
「誰とも手を結ばないという意思表示に見えます」
「面倒な土地ですね」
「皆、面倒になるだけの理由を抱えて暮らしています」
サザーランド少尉は冗談を言う顔ではなく、その言葉どおり、入港ロビーにはすでに政治が日常の一部として入り込んでいた。作業服の袖をまくった男たち、買い物袋を抱えた母親、学校帰りらしい子ども、工具箱を足元へ置いて貨物列車の時刻表示をにらむ女性が忙しく行き交う壁際では、「自治権拡大を求める署名」と書かれた簡素な机を二人の学生が守り、その隣には自治派、労働組合、ダイクン派が主催する演説会や討論会の予定表が貼られ、
主催者が違っても、代表権、税、自治、独立という四つの言葉だけは、どの紙にも繰り返し現れていた。
反対側の壁には、乱暴な字体で「地球はサイド3から手を離せ」と書かれた落書きがあり、清掃員が溶剤を塗って消そうとしていたものの、黒い文字はまだはっきり読めた。
そのすぐ下では、売店の主人が署名用紙を差し出そうとした学生に向かって、「店の前で政治をするのはやめてくれ、あんたたちは署名を一枚集めれば満足かもしれないが、こっちは客が一人帰れば今日の売上が減るんだ」と言い、学生も負けじと「騒いでいるわけではありませんし、あなたが安心して商売できる街にするための署名です」と食い下がっている。
「署名も演説も、客にとっちゃ同じなんだよ。俺は地球が好きなわけでも、連邦の役人に感謝してるわけでもないが、独立より今日の売上が大事なんだ」
「今日の売上を誰に吸い上げられているか、考えたことはないんですか」
「考えてるさ。考えたうえで、考えている間にも腹は減ると言ってるんだ」
学生は不満そうに署名台を数歩移動させ、主人は僕たちと目が合うと、どちらに対してともつかない気まずそうな顔で肩をすくめた。
「なあ、サイド3の人間はみんな独立したがってるのかと思ってたけど、そうでもないんだな」
「当然です。十人いれば十一通りの損得があり、昨日と今日で意見を変える者まで勘定へ入れれば、さらに増えます」
「だから一つ多かったのか。間違えたのかと思ったぞ」
「僕を何だと思っているのです」
「十二歳のくせに金勘定ばかりしてる変なやつ」
「おおむね正解なのが腹立たしいですね」
サザーランド少尉がわずかに口元を緩めた、その直後だった。
「ムルタ!」
人混みの向こうから、聞き覚えのある声が遠慮なく僕の名を呼んだ。僕を呼び捨てにする人間はそれほど多くなく、ましてや別れてから数か月しかたっていないというのに、何年も待ち続けていたような声で呼びかけられる相手となれば、一人しか思いつかない。作業着姿の少年が通行人の間を縫って駆けてきたので、僕が「アーサー」と呼び返すと、アーサー・ワイズマンは握手をするより先に僕の肩を勢いよく叩いた。
「やっと来たな、ムルタ! 手紙を書くって約束したくせに一通も寄越さないから、地球の金持ちは約束まで金庫に入れて忘れるのかと思ってたぞ!」
「数か月ぶりに再会した友人へ、まず契約不履行を訴え、握手より先に肩を叩くとは、サイド3では礼儀まで地球から独立しているのですか」
「細かいこと言うなよ。それに、名前を呼んだら友達なんだから、友達同士の挨拶に順番なんかないだろ」
「その理屈をまだ使うつもりですか」
「まだじゃない、一生使うんだ。俺たちは、その理屈で友達になったんだから、勝手に条件を変えるなよ」
「契約を結んだ覚えはありませんが、長期継続取引と考えれば、仕方ありませんね」
僕が手を差し出すと、アーサーは待ち構えていたようにそれを握り、必要以上の力で上下に振った。静止軌道ステーションで別れた日のことは今もよく覚えており、あのときは僕が彼の名前を尋ね、アーサーが友達だと言い切ったのだが、今度は彼のほうが先に僕の名前を呼び、それだけで離れていた数か月が不思議なほど短くなった。
「それで、手紙を書かなかった言い訳は何だ。大学と会社と宇宙旅行が忙しくて、友達のことなんか忘れてたのか?」
「本人が先に到着する可能性が高かったので、訪問を返事の代わりにしただけです。結果として、手紙より僕のほうが先に届いたのですから、郵便より優秀でしょう」
「書き忘れたんだろ」
「合理的に省略したのです」
「書き忘れたんだな」
「同じ質問を繰り返しても、答えは変わりませんよ」
たったそれだけのやり取りで、ステーションで別れたときと同じ調子が戻ってきた。
「ところで、そちらの少年は誰ですか。あなたの背後で工具鞄を持ちながら、先ほどから僕たちを値踏みしていますが」
アーサーの後ろには、濃い色の短い髪をした十歳ほどの少年が立っており、小柄な身体には少々重そうな工具鞄を両手で持ちながら、誰の通行も邪魔しない位置を選び、それでもアーサーから目を離していなかった。
「スベロア・ジンネマンです。兄貴が、地球から変な友達が来ると言うから、一緒に迎えに来ました」
「誰が兄貴だ。あと、ムルタは変だけど、俺はそこまで悪く言ってないぞ」
「昨日は、十二歳のくせに大人を金で動かして、困っている人を見ると勝手に助けて、本人は投資だと言い張る変なやつだと言ってた」
「ほとんど悪口ではありませんか」
「最後に友達だって言っただろ」
「悪口の後ろに友達を付ければ、すべて許されると思わないでください」
「でも、だいたい合ってるんだろ?」
ムウが横から割り込んだので、僕は無視することにした。
「それより、十二歳で舎弟がいるのかよ。ムルタと同い年なのに、ずいぶん生意気だな」
「舎弟じゃないって言ってるだろ。こいつが勝手に兄貴と呼んで、勝手についてくるんだ」
「兄貴は、俺を舎弟じゃないことにしておきたいらしい」
「では、どうして兄貴と呼ぶようになったのです。まさか、アーサーが腕力で従わせたわけではないでしょうね」
「俺がそんなことするかよ」
「兄貴は、腕力で従わせられるほど強くない」
「ジンネマン、お前はどっちの味方なんだ」
「兄貴の味方だけど、事実は事実だ」
ムウが面白そうに身を乗り出した。