――Hoshino side
朝六時。
私は、カナタ君の手首をつかんだまま目を覚ました。
最初に指の下の脈を数える。
一、二、三。
十まで確かめてから、ようやく顔を上げた。
カナタ君は起きていた。
「おはよう」
「……おはよ~」
私は寝台の端へ額を預けた姿勢のまま返す。
「いつから起きてたの?」
「少し前」
「起こしてくれればよかったのに」
「よく寝てた」
「おじさん、椅子で寝ちゃったんだねぇ。いやぁ、よくないなぁ。ちゃんと長椅子で寝る約束だったのに」
「椅子へ呼んだのは俺だ」
「共犯?」
「そうなる」
「じゃあ、ノノミちゃんには内緒だね」
「全部見られてる」
私がゆっくり顔を横へ向ける。
記録端末の前では、ノノミではなくセリカが頬杖をついていた。
「おはようございます、ホシノ先輩」
「お、おはよ~、セリカちゃん」
「ちなみにノノミ先輩から全部引き継いでます。シロコ先輩も見ました」
「うへぇ。おじさんの寝顔がみんなに公開されちゃった」
「いつも見てるから今さらです」
「冷たいなぁ」
セリカは記録端末を閉じる。
「カナタ。体温は平熱。出血なし。痺れなし。痛みは?」
「昨日より弱い」
「数字で」
「十段階で二」
「指は動く?」
左手の指を曲げ伸ばしする。
「動く」
「じゃあ記録する。ホシノ先輩は、まず手を離してください」
私は私の右手を見る。
まだ二本の指がカナタ君の脈へ乗っていた。
「医療確認中だよ?」
「今、私が確認しました」
「二重確認は大事でしょ」
「朝ご飯の準備があります」
「おじさん、今日は看病当番で」
「そんな当番はありません」
セリカが毛布を畳み始める。
私は名残惜しそうに指を離した。
一晩触れていた場所へ、朝の空気が当たる。
「カナタ君」
「何だ」
「あとで、ちゃんと朝ご飯持ってくるからねぇ」
「自分で行ける」
「安静」
「歩くのは禁止されてない」
「病人は病人らしく、おじさんにお世話されてください」
「左腕以外は動く」
「あ~んもしてあげようか?」
「右手で食べる」
「残念」
「何がだ」
私は笑って、保健室を出た。
扉が閉まる直前、もう一度振り返る。
カナタ君が寝台にいることを見てから、今度こそ廊下へ消えた。
セリカはその一連の動きを見ていた。
「ホシノ先輩、あんたのことになると変よね」
「前から変わってるだろ」
「そういう意味じゃなくて」
セリカは言いかけ、首を振った。
「何でもない。今はあんたの話じゃないし」
「先生か」
セリカの眉が上がる。
「どうして分かったの」
「夜の間も何度か委員会室を見てた」
「見回りよ」
「先生がいるから?」
「悪い?」
「悪くない。俺も信用してない」
セリカの表情が少しだけ緩む。
「でしょ。普通、会ったばかりの学校にあそこまで関わる?」
「仕事なら関わる」
「何の得があるのよ」
「それが分からないから信用できない」
「そうなの!」
声が大きくなり、廊下を歩く足音が止まった。
保健室の扉が開く。
「何を信用できないんですか?」
先生が立っていた。
片手に、朝食の盆を持っている。
セリカが固まる。
「い、いつからいたのよ!」
「『何の得があるの』のあたりから」
「ほとんど全部じゃない!」
「立ち聞きするつもりはありませんでした。入る時機を失って」
「だったら最初から声かけなさいよ!」
「すみません」
先生は素直に頭を下げた。
セリカは怒りの行き場を失う。
「もういい! 私は朝の巡回に行くから!」
「昨日襲撃があったので、一人では――」
「シロコ先輩と行くわよ!」
扉を大きく開け、廊下へ出る。
数秒後、また顔だけ戻ってきた。
「カナタ! 薬、朝食の後だから。忘れないで!」
「分かった」
「先生も、勝手に外へ出ないでよ!」
「はい」
今度こそセリカはいなくなった。
先生は盆を寝台横へ置く。
豆のスープ、パン、切った果物。
スプーンの隣には、朝の薬が並べられていた。
「ホシノが持ってくるのでは」
「台所でアヤネに捕まりました。昨日の報告書があるそうです」
「それで先生が?」
「私は朝食を運ぶくらいしかできませんから」
盆を置いただけで、椅子へ座ろうとはしない。
「右手で食べられますか」
「食べられます」
「何かあれば呼んでください」
先生が扉へ戻る。
「先生」
「はい」
「何の得があるんですか」
セリカと同じ質問をした。
先生は少し考える。
「得があるから助ける、では駄目ですか」
「得の中身による」
「私が、生徒を助けたいと思えることです」
「俺は生徒じゃない」
「学校へ通っていた十七歳で、今は帰れない。私にとっては十分です」
「それを信じろと?」
「いいえ」
昨日と同じ答えだった。
「まだ信じなくて構いません。代わりに、私が何をするか見ていてください」
「見た後で、信用しないかもしれない」
「それもあなたが決めることです」
先生は本当にそれだけ言って、保健室を出た。
カナタ君は朝食を見る。
スープから湯気が上がっている。
右手でスプーンを取った。
*
――Kanata side
午前九時。
対策委員会室の長机へ、アビドスの借金資料が広げられた。
俺も保健室を出る許可を得て、端の椅子に座っている。
左腕は吊ったまま。工具巻きは旧進路指導室へ置いてきた。
ホシノは隣の椅子に座り、五分ごとに俺の指の色を見ていた。
「痺れてない?」
「ない」
「痛みは?」
「二」
「熱は?」
「ない」
「お腹は?」
「朝食は全部食べた」
「誰に運んでもらったの?」
「先生」
ホシノが先生を見る。
先生はアヤネの資料を読んでいた。
「ふうん」
「何だ」
「べつに~。おじさんが持っていこうと思ってたのになぁ、って」
「報告書に捕まったんだろ」
「アヤネちゃんが離してくれなくてねぇ」
「先輩が処置記録を提出しないからです」
アヤネが即座に返す。
「はい。では、本題に入ります」
端末の画面へ、九桁の数字が映された。
「現在の債務残高は、九億六千二百三十五万円です」
先生が無言になる。
俺は桁を数えた。
数え直した。
変わらなかった。
「校舎を新しく建てたのか」
「違います」
「自治区全体の発電所?」
「違います」
「じゃあ、何に使った」
アヤネは次の資料を出す。
「砂漠化への対策費、避難した住民への補償、インフラの維持、過去の利息と借り換えです。元は学校と自治区を守るための借入でした」
「返しても減っていません」とシロコ。
「高い利息と、維持費がありますから」
「毎月の返済日は待ってくれないしねぇ」
ホシノが机へ頬杖をつく。
「おじさんたち五人で、こつこつ返してるってわけ」
「五人で?」と先生。
「委員会の活動費、校内の再利用品、各自のアルバイト代。支出を抑え、返済へ回しています」
「食費と水、弾薬、設備維持も必要です」とアヤネ。
「だから、設備の修理を先延ばしにしていたのか」
俺は補助ポンプを思い出す。
使える限り使う。
壊れきってから、応急処置をする。
それが怠慢ではなく、数字に追われた選択だった。
「カナタ君の食費が増えても大丈夫だよ」
ホシノが先に言った。
「まだ何も言ってない」
「言いそうな顔だったからねぇ」
「その金額を見て、何も考えるなという方が無理だ」
「君一人分のご飯を減らして返せる額じゃないよ」
「だからといって」
「だから、出ていく?」
声から笑いが消えかける。
「出ていかない」
俺はすぐ答えた。
ホシノの目がわずかに大きくなる。
「昨日、約束した」
「そっか」
頬杖のまま、顔を伏せる。
「ちゃんと覚えてたんだねぇ」
「一日で忘れない」
「うん。えらいえらい」
右手が動きかける。
頭を撫でようとしたのかもしれない。
ほかの全員がいることに気づき、途中で水筒へ向きを変えた。
鯨の蓋を開ける。
「飲む?」
「自分で飲める」
「右手は資料を持ってるでしょ」
「置けばいい」
「はい」
水筒を口元へ差し出される。
断れば、この場でしばらく押し問答になる。
俺は一口だけ飲んだ。
向かいで、ノノミがにこにこしている。
セリカは露骨に顔をしかめた。
「会議中なんだけど」
「医療行為だよ~」
「蓋くらい自分で開けられるでしょ!」
「左腕が使えないからねぇ」
「右手がある!」
「セリカちゃんも飲む?」
「いらない!」
シロコが手を上げる。
「私は飲む」
「シロコ先輩まで話を逸らさないでください!」
アヤネの声で、会議が戻る。
先生は資料のページを一枚ずつ確認した。
「返済契約、土地の権利、過去の借り換え記録を、シャーレでも調べさせてください」
「ほら。すぐそうやって入ってくる」とセリカ。
「セリカちゃん」とノノミ。
「だって本当でしょ。契約書は学校の情報よ」
先生は資料から手を離した。
「原本を預かる必要はありません。アヤネが許可した範囲で、契約先と公開登記を照会します」
「それで、何か見つけたらどうするの」
「皆さんへ伝えます」
「見つからなかったら?」
「見つからなかったと伝えます」
「失敗しました、で終わり?」
「終わらせません。別の方法を一緒に考えます」
「どうして、そこまでするのよ」
セリカの問いは、朝と同じだった。
「先生だからです」
答えも同じだった。
「そんなの、理由になってない」
「そうかもしれません」
「認めるの!?」
「セリカが納得できる理由には、まだなっていないという意味です」
「だったら――」
「セリカちゃん」
ホシノが呼んだ。
柔らかいが、止める声だった。
「先生を信用して、なんて言わないよ」
「ホシノ先輩まで何よ」
「おじさんだって、会ったばかりの大人に学校の全部を預けるつもりはないもん」
ホシノは先生を見る。
「でも、昨日みんなが助かったのも本当。先生が何をする人なのか、もう少し見てから決めても遅くないんじゃない?」
「……知らない」
「うん。今はそれでいいよ」
セリカは椅子へ深く座る。
腕を組み、顔を窓へ向けた。
否定はしなかった。
*
昼からは、校舎の応急補修が始まった。
割れた窓を板で塞ぎ、校門の倒れた支柱を起こし、銃弾で傷んだ配線を分ける。
俺は作業を禁じられている。
そのため、廊下の椅子に座り、先生が窓へ板を打ちつけるのを見ていた。
「釘が斜めです」
「分かっています」
「分かっていて、その角度なんですか」
「真っ直ぐ打つつもりでした」
「金槌を短く持ってください。力を入れすぎない」
先生が持ち直す。
釘を打つ。
今度は途中で曲がった。
「悪化しました」
「すみません」
「俺がやります」
立とうとすると、先生が金槌を背中へ隠した。
「駄目です」
「右手なら使える」
「工具は三日禁止」
「金槌は工具じゃないとでも」
「工具だから渡しません」
俺は先生を見る。
「俺に教わる方が時間がかかる」
「そうですね」
「効率が悪い」
「それでも、あなたが傷を開くよりいい」
「ほかの窓もある」
「午後中に終わらなければ、明日続きをします」
「その間、砂が入る」
「掃除します」
「誰が」
「私が」
即答だった。
俺は言葉を失う。
先生は曲がった釘を抜き始めた。
その手つきも危なっかしい。
「……釘抜きの支点に板を一枚挟んで。窓枠が傷む」
「こうですか」
「もう少し右」
「ここ?」
「そこです」
先生が釘を抜く。
今度は窓枠を傷めなかった。
作業するのは先生。
俺は見て、口を出すだけ。
落ち着かなかった。
だが先生は、金槌を渡さない。
「先生」
「はい」
「俺が何もできなくても、食事を運ぶんですか」
「必要なら」
「怪我が治っても?」
「食事当番なら」
「何か返せと言わない?」
「学校の生活当番は守ってください」
「それだけ?」
「それ以上は、アビドスとあなたが決めることです」
先生は新しい釘を板へ当てる。
「私は、あなたを働かせる権利を持っていません」
「助ける権利はあるんですか」
「ないかもしれません」
金槌を一度打つ。
釘は真っ直ぐ入った。
「だから、嫌な時は嫌だと言ってください」
「言ったら止める?」
「あなたの命に関わらないことなら」
「関わるなら」
「止めません」
俺は、朝から二度目の沈黙を返した。
廊下の角に、ホシノが立っていた。
補修用の板を抱え、二人を見ている。
「いつからいた」
「『金槌を短く』のあたりから」
「ほとんど最初からだな」
「今日はみんな立ち聞きの日なのかなぁ」
ホシノは板を壁へ立てかける。
「先生、上手になった?」
「三本目は真っ直ぐです」
「カナタ君先生のおかげだねぇ」
「ややこしい呼び方をするな」
「じゃあカナタ先生?」
「もっとややこしい」
ホシノはくすくす笑う。
その目が、先生の手元から俺へ移る。
「痛みは?」
「二」
「痺れは?」
「ない」
「帰りたい?」
質問の形が、一つだけ変わった。
俺は答える前に、ホシノを見る。
先生の照会。
連邦生徒会の機能が戻れば、見つかるかもしれない記録。
九億を超える借金。
自分一人分の食費。
「帰る方法は探したい」
ホシノの指が、抱えた板の端をつかむ。
「うん」
「でも、今すぐここから出たいとは思ってない」
指から力が抜ける。
「そっかぁ」
「昨日も言った」
「聞いたよ。でも、今日は今日で聞きたかったの」
「明日も聞くのか」
「聞くかも」
「毎回答えは変わらない」
「それでもいいよ」
ホシノは板を一枚持ち上げ、先生へ渡す。
「じゃあ、今日の分は安心したから。続き、やろっか」
*
夕方、セリカは制服から白いシャツへ着替えた。
腰へエプロンを巻き、鞄を持つ。
「どこへ行く」と口にした。
「バイト」
「昨日襲撃があったのに?」
「だからって返済日は延びないの」
朝、アヤネが見せた数字を思い出す。
「何時に戻る」
「九時くらい」
「一人で?」
「街まではシロコ先輩が送ってくれる。帰りは店の人と途中まで一緒」
「先生には」
「関係ないでしょ」
強い返事だった。
「あんたも、先生に何でも話すつもり?」
「まだ信用してない」
「じゃあ、どうして一緒に作業してたの」
「見ていた」
「何を?」
「何をする人か」
朝、先生に言われたままを返す。
セリカは鞄の紐を握った。
「それで?」
「分からない」
「何よ、それ」
「一日で決めなくていいと思った」
「……ふん」
セリカは校門へ向かう。
「薬、夕食の後も忘れないでよ」
「分かってる」
「あと、ホシノ先輩をちゃんと寝かせなさい」
「俺の仕事なのか」
「あんたの隣じゃないと寝ないんだから、あんたの仕事でしょ!」
言い逃げるように外へ出た。
校門ではシロコが待っていた。
二人が夕日の中を歩いていく。
俺は玄関に立ち、その背中が見えなくなるまで見送った。
「心配?」
後ろからホシノが来る。
「昨日襲われたばかりだ」
「シロコちゃんが途中まで一緒だよ」
「帰りは一人になる」
「店長さんが送ってくれることもあるから」
「毎日、働いてるのか」
「うん。セリカちゃん、頑張り屋さんだからねぇ」
誇らしさと、心配が同じ声に入っていた。
「止めないのか」
「止めたら、隠れて働くよ」
「ホシノは迎えに行かない?」
「毎回は行かない。セリカちゃんが自分でできることまで、おじさんが取っちゃ駄目でしょ」
俺は左腕の包帯を見る。
「俺には、すぐ止めるのに」
「君は自分でできないことまでやろうとするから」
「違いがあるのか」
「あるよ」
ホシノが隣に並ぶ。
「でも、本当に危なくなったら、迎えに行く。セリカちゃんでも、カナタ君でも」
「先生でも?」
「先生は大人だからねぇ。自分で帰ってきてもらおっか」
「信用してない?」
「まだね」
ホシノは笑う。
「でも、信用してみたいとは思ってるよ」
「どうして」
「カナタ君が金槌を取り上げられてるのを見て、ちょっと好きになったから」
「そこか」
「大事なところだよ~。おじさん一人だと、君はすぐ抜け道を探すからねぇ」
「二人で見張るつもりか」
「安心でしょ?」
「どこが」
言いながら、俺は少し笑った。
ホシノはその横顔を見る。
「今、笑った?」
「笑ってない」
「笑ったよね」
「気のせいだ」
「もう一回やって」
「無理だ」
「うへぇ、けちだなぁ」
ホシノは俺の右袖をつまむ。
左腕には触れないように。
二人で、セリカが帰る方角を見た。
夜九時になれば、玄関で「おかえり」と言うために。
*
――Hoshino side
先生を信用しているわけではない。
大人が正しいとも思っていない。
正しい顔で近づいてきた人が、最後に何を持っていくのか。
私は、知らないわけではなかった。
それでも先生は、カナタ君から金槌を取り上げた。
役に立てるなら働かせるのではなく、怪我をしているから休ませた。
カナタ君が嫌だと言える余地を残しながら、命に関わることだけは譲らないと言った。
それは、私がしたくても上手にできなかったことだった。
カナタ君を守りたい。
けれど守ろうとするほど、カナタ君の選択まで奪いそうになる。
先生なら、その境界を知っているのかもしれない。
だから、もう少し見てみたい。
カナタ君が先生を見ているように。
セリカちゃんが先生を見張っているように。
信用は、一度の戦いで生まれない。
約束も、一度言えば終わりではない。
「帰る方法は探したい。でも、今すぐここから出たいとは思ってない」
カナタ君の言葉を、胸の中でもう一度繰り返す。
帰りたい。
ここにいたい。
二つが同時にあってもよいのだと、カナタ君は少しずつ教えてくれる。
なら私も、帰還を助けたい気持ちと、帰ってほしくない気持ちを、すぐどちらかへ決めなくてもよいのかもしれない。
少なくとも、今日のカナタ君はここにいる。
右袖をつまめば、温度がある。
「ホシノ」
「何?」
「痛みは二。痺れはない。熱もない」
先に報告された。
私は目を丸くする。
「聞こうとしてた?」
「顔に書いてある」
「おじさん、そんなに分かりやすいかなぁ」
「俺のことを見る時だけ」
胸の奥が、急に熱くなる。
カナタ君は気づかず、セリカちゃんの帰る道を見ている。
「……そっか」
袖をつまむ指へ、少しだけ力を入れる。
信用したい人に、私の顔を読まれる。
それは怖いはずなのに。
なぜか、少し嬉しかった。