12月も中旬に入り、放課後の麻帆良学園はすっかり夕暮れのオレンジ色に染まっていた。
並木道を歩いて下校しているのは、散歩部の元気な双子姉妹――鳴滝風香と鳴滝文香だ。髪を左側で結んでいるのが姉の風香、右側で結んでいるのが妹の文香である。
「ねぇねぇ文香! 昨日の夜貸したあの少女漫画、もう読んだ!?」
風香がカバンを揺らしながら、弾むような声で隣の文香に話しかける。
「読んだ、読んだよ風香。すっごく胸がキュンキュンしちゃった……!」
文香はおっとりとした笑みを浮かべ、両手を頬に当ててうっとりとした声を漏らした。
「でしょでしょー!? 危機一髪のヒロインの前に、白馬に乗った王子様がパカパカって現れてさぁ! 『僕のハニー、迎えに来たよ』なんて言って手を差し伸べてくれるの! 憧れちゃうよねー!」
「うん、お姫様抱っこされて白馬の後ろに乗せてもらうの、ちょっと夢見ちゃうかも……」
二人「「いつか私たちにも、あんな素敵な王子様が現れないかなぁ……!」」
双子らしく息ぴったりに声を揃え、夕暮れの空を見上げて恋バナに花を咲かせる散歩部コンビ。
だが、そんな平和で乙女な妄想の時間は、前方から響いてきた不穏な爆音によって一瞬で打ち砕かれた。
ドパパパパパパパッ!!!
「ヒヒィィィーーーーン!!!」
「「え……?」」
二人が同時に前方へ目を向けると、並木道の向こうから、凄まじい勢いで土煙を上げながら突進してくる「巨大な影」があった。
それは、馬術部の厩舎から脱走し、完全に興奮して暴走している一頭の大きくて茶色い馬だった。
「ひゃああああっ!? 馬、馬がこっちに走ってくるよー!?」
「風香、危ないっ……!」
あまりの恐怖に、風香は慌てて避けるようとして足をもつれさせ、並木道の土の上に派手にすっ転んでしまった。
「いったたた……! 大丈夫、文香っ!?」
風香が慌てて振り返った、その瞬間。
「ふぇ……? わ、わわっ!?」
おっとりした性格ゆえに逃げ遅れてしまった文香の目の前に、暴走する茶色い馬が迫る。
そして次の瞬間、信じられないことが起きた。
興奮した茶色い馬は、文香が肩にかけていたスクールバッグの紐と、セーラー服の大きな襟を、大きな口でガブッ!! とまとめて力任せに咥え込んだのだ。
「え……ひゃあああっ!? つ、連れてかれちゃうよ〜〜!?」
そのまま馬は速度を落とすことなく、文香の身体をぶら下げた状態で、凄まじい猛スピードで並木道の奥へと走り去ってしまった。
「文香ーーーっ!!?」
あまりの急展開に、地面に倒れたままの風香は完全に呆然と立ち尽くす……いや、座り込んでしまった。
たった今、最愛の双子の妹が、暴走する野生の(正確には馬術部の)馬に拉致されてしまったのだ。
「ど、どうしよう……! どうしたらいいの!? 誰か、誰か助けてーーーっ!!」
夕暮れの並木道には誰もいない。文香を連れ去った馬の足音は、どんどん遠ざかっていく。
風香が恐怖と絶望で涙目を浮かべ、パニックになりながら天を仰いだ、その時だった。
パカパカパカパカッ……!!!
遠ざかる茶色い馬の足音とは別に、別の方向から、力強く地面を蹴る新たな蹄の音が聞こえてきた。
「え……?」
風香が涙を拭いながら振り返ると、燃えるような西日の向こうから、一頭の美しい「白馬」が猛スピードで駆けてくるのが見えた。
その白馬の背には、一人の人影が乗っている。
強烈な夕暮れの逆光を背負っているため、その人物の顔は影になっていて全く見えない。
だが、風香の目には、風になびくそのシルエットが、昨日漫画で見た『白馬の王子様』そのものに見えた。
(あ……、白馬の、王子様……?)
風香の脳内で、一瞬にして特大の「王子様フィルター」が起動した。背景には幻の薔薇が咲き乱れ、キラキラとしたエフェクトが周囲を包み込む。
白馬の手綱を華麗に操り、風香のすぐ目の前でピタリと馬を停止させた謎の騎士。
彼は逆光に照らされながら、地面に座り込む風香に向かって、上からすっと優しく、大きな右手を差し伸べたのだった。
夕暮れの強烈な逆光の中、差し出された大きな右手。
地面に座り込んでいた風香は、まるで吸い寄せられるようにその手を掴んだ。
グイッ、と力強い腕力で引き上げられ、風香の身体は一瞬で宙を舞う。気づいた時には、美しい白馬の背の上――謎の王子のすぐ後ろに跨がっていた。
「おい! 振り落とされんじゃねぇぞ! 落ちたら痛ぇから、俺の腰にギュッと密着してろ!」
前を向いたままの王子が、ぶっきらぼうに叫ぶ。
だが、現在の風香の脳内は、特大の「王子様フィルター」が完全にフル稼働している状態だった。
彼のガサツな物言いは、風香の耳の中で甘く、気高いイケメンボイスへと自動変換されていた。
『……僕のハニー。振り落とされないよう、僕の腰にしっかり掴まるんだ。もっと僕の近くへ……そう、僕に密着して、決して離れてはいけないよ?』
「は、はい……っ!」
風香は顔を真っ赤に染めながら、言われた通り王子のツナギ……ではなく、気高い乗馬服(に見えている)の腰へ、両腕を回してがっしりとしがみついた。
そして、恥ずかしさのあまり真っ赤な顔を彼の背中へぴったりと押し当てる。
背中から伝わってくる、男の子らしい温かくて大きな体温。すぐ目の前にある広い?背中に、風香の心臓は今にも破裂しそうなほどバクバクと激しく脈打ち始めた。
「よし、あいつを追うぞ! ハッ!!」
王子が手綱を引くと、白馬は「ヒヒィーン!」と高らかにいななき、文香を連れ去った茶色い馬を追って猛スピードで地を駆けた。
「ふぇぇぇ〜〜ん! 降ろしてよ〜〜! 助けて風香ぁぁ〜〜!」
前方を走る茶色い馬の口にセーラー服の襟を咥えられ、ぶら下がった状態で涙目を流している文香。
そこへ、トータの駆る白馬が恐るべき速度で追いつき、真横へと並走した。
「文香、今助けるぜ!!」
トータは白馬の上でぐっと身を乗り出すと、暴走する茶色い馬の首元へと手を伸ばした。
トータは野生児並みの並外れた腕力を発揮し、暴走する馬の『手綱』をガシッ!! と素手で掴み取った。
「うおおおおおっ! 止まれぇぇぇーーーっ!!」
純粋な、圧倒的な肉体のパワー。
トータが手綱をグググッと力任せに引き絞ると、その規格外の怪力に圧倒されたのか、興奮していた茶色い馬は「ブルルッ!」と怯えた声を上げ、その場でズザザザザッ! と急ブレーキをかけて停止した。
「ぷはっ! た、助かったよぅ〜〜」
咥えられていた襟が離され、文香は並木道の芝生の上へと無事にストンと着地した。
一方の風香はというと、無事に事件が解決したというのに、いまだにトータの腰にがっしりとしがみついたまま、真っ赤な顔を彼の背中にぴったりと押し当て続けていた。
「おい、風香? もう大丈夫だぞ。ほら、降りろよ」
前を向いたままトータが声をかけるが、風香は王子様の世界に完全に浸りきっており、その声が耳に入らない。
「しょうがねぇな」
トータは苦笑すると、白馬の上でくるりと後ろを振り返り、風香の身体をひょいと両腕で抱き上げた。
そして、そのままお姫様抱っこの体勢で、馬の上から地面へと優しく降ろしてあげたのだ。
「ひゃあうっ……!?」
突然の甘すぎるエスコート(に見えている)に、風香の脳内メーターは完全に限界を突破する。
地面に降ろされた風香の元へ、文香がトコトコと駆け寄ってきた。
「風香! 大丈夫だった!?」
風香はなんとか我に返ると、双子の妹の肩を抱いた。
「あ…うん…。じゃなかった!文香、大丈夫!? どこも怪我してない!?」
「うん……お洋服がちょっとヨレヨレになっちゃったけど、平気だよ。ありがとう風香……ううん、助けてくれたトータくん」
文香がそう言って、白馬の上を見上げる。
風香もまた、自分たちを救ってくれた『白馬の王子様』へと、ゆっくりと視線を向けた。
ちょうどその時、沈みかけた夕日が完全にビルの陰へと隠れ、二人を遮っていた激しい逆光がサーッと消え去っていった。
ようやく、その王子の顔がハッキリと露わになる。
風香の視線の先――そこにいたのは、少し乱れた黒髪を夕風になびかせ、白馬の手綱を片手で握るトータの姿だった。
だが、風香の「王子様フィルター」はまだ解けていない。
彼女の目には、いつものガサツなツナギ姿のトータが、まるで少女漫画の美麗なタッチで描かれたキラキラの超絶イケメン王子様に見えていた。
トータは馬の上から風香を見下ろし、ニカッと白い歯を見せて笑った。
「大丈夫か? 文香もケガはねぇみたいだな。二人とも無事でよかったぜ」
その笑顔と言葉が、風香の脳内で再び美化される。
『怪我はないかい? 麗しき我が姫君たち。君たちが無事で、本当に良かった……』
ドクン、と風香の胸が大きく跳ね上がった。
頭の芯がカッと熱くなり、顔中から湯気が出そうなほど赤くなっていく。
(と、トータくん……? うそ……トータくんって、こんなに、こんなにかっこよかったんだ……!?)
完全にハートを射抜かれ、胸キュンの飽和状態で呆然と立ち尽くす風香。
しかし、当のトータは至っていつも通りの野生児だった。
遠くから「おーい! 馬術部の馬を捕まえてくれたのかー!」と走ってくる部員たちの姿が見えると、トータは爽やかに手を振った。
「おう! じゃあ俺、この馬たちを馬術部に返してくるからな! 二人とも、帰り道は気をつけて帰れよ! ありがとな、楽しかったぜー!」
パカパカパカパカ……!
トータは華麗に白馬を操り、もう一頭の茶色い馬の手綱を引きながら、夕暮れの並木道を颯爽と去っていった。
その引き締まった後ろ姿の背後には、やはり風香の目にだけ、満開の薔薇と純白の王子の幻影が見え続けていた。
風香は両手を胸の前でギュッと握りしめ、去っていったトータの残像を見つめながら、完全にポワポワとした乙女モードでその場に佇んでいる。目が完全にハートマークだ。
そんな姉の様子を見て、妹の文香は不思議そうに小首を傾げ、その袖をツンツンと引っ張った。
「ねぇ、風香? さっきの、いつも用務員室にいるトータくんだよ? ……お姉ちゃん、聞いてる?」
「…………はわわわぁ」
「お姉ちゃん? ……ねぇ、お姉ちゃんってば! おねえちゃーーん!!」
文香がどれだけ大声で呼びかけようとも、最愛の王子様に出会ってしまった風香の耳には一切届かない。
オレンジ色から夜へと移り変わる学園の並木道で、風香はただ一人、恋するお姫様のようにポワポワとした甘い吐息を漏らし続けるのだった。