冬休みの京都での凄まじい騒動は、平和な麻帆良学園で暮らしていた少女たちの心に、決して小さくない変化をもたらしていた。
三学期が始まってすぐの、ある日の放課後。
木枯らしが吹き抜ける学園の並木道を、のんびりとした足取りで歩く「さんぽ部」の三人の姿があった。
「ねえねえ、楓姉ぇ! お願い、私たちに忍術を教えてよ!」
歩きながら、鳴滝風香が長瀬楓の前に回り込み、両手を合わせて必死に頼み込んでいた。
その背後では、妹の文香も少しオロオロしながら風香に付き従っている。
「……幾度も言っているでござるが、ダメでござるよ」
楓は腕を組み、いつもの飄々とした態度の中に、確かな厳しさを滲ませて首を横に振った。
「京都で見た通り、裏の世界は危険がいっぱいでござる。
忍術や気の修行は、決して遊びではない。生半可な気持ちで首を突っ込めば、痛い目を見るだけでは済まないでござるよ」
ピシャリと断る楓。だが、風香は決して諦めなかった。
次の日、裏山の小道を散歩している時も。
「お願い! 京都で刀太くんたちが戦ってるのを見て、私たちも自分の身くらい自分で守れるようになりたいって思ったんだよ!」
「ならぬものはならぬでござる」
さらにその次の日、購買で買った肉まんをかじりながら歩いている時も。
「楓姉ぇ〜! 絶対に無茶はしないから! 言うことちゃんと聞くからさ!」
「……風香殿、お主は少し危なっかしいところがあるゆえ、なおさら教えられないでござるよ」
お願いしては断られ、お願いしては断られ。
それでも風香は、さんぽ部の活動のたびに、真剣な瞳で楓に食い下がり続けた。
決して「カッコいいから」というような遊び半分の理由ではない。
あの日、手も足も出ずにただ守られることしかできなかった自分への不甲斐なさと、大切な妹を守りたいという真っ直ぐな意志が、風香の言葉には宿っていた。
数日間にわたる風香の熱意と、その瞳の奥にある真剣さをじっと見つめ続けていた楓は、やがて「はぁ……」と深く、深くため息をついた。
(あの一件で裏の世界に触れてしまった以上、完全に無関係でいられる保証はない……。
何も知らずに再び危険に巻き込まれるよりは、最低限の自衛と逃走の手段を持たせておいた方が、かえって安全かもしれんでござるな……)
「……全く、風香殿の頑固さには根負けしたでござるよ。分かったでござる」
「えっ!? ほんと!?」
「ただし、あくまで自分の身を守るための護身用として教えるだけでござる。
絶対に無理はしないこと。……風香殿も、文香殿も、約束できるでござるか?」
「やったーーーっ! 約束する! ありがとう楓姉ぇ!」
風香は弾けるような笑顔でバンザイをし、隣の文香の手をギュッと握りしめた。
「やったね、文香! これで私たちも強くなれるよ!」
「う、うん……! 頑張ろうね、お姉ちゃん!」
文香も風香の笑顔につられるように、両手で小さなガッツポーズを作って微笑み返した。
だが、その笑顔の裏で、文香の胸の奥には小さな、けれど重たい不安の塊が居座っていた。
(本当は……すごく怖い、のです……)
文香は元々、とても怖がりで優しい性格だ。
姉の風香と一緒にイタズラをして走り回るのは大好きだけれど、誰かと争ったり、痛い思いをしたりするのは大の苦手だった。
京都で見た、あの巨大で恐ろしい鬼の姿。
それが夢に出てきて、夜中に目を覚ましてしまうことだってある。
それでも、目を輝かせる大好きな姉に水を差したくなくて、文香は必死に不安を隠して同調していたのだった。
こうして、放課後や休日を利用した「秘密の修行」がスタートした。
場所は、雪広あやかが管理する学園内の道場や、その裏手に広がる鬱蒼とした裏山である。
あやかも自身の気を練り上げるために、この場所で日々修行に励んでいた。
「まずは基本中の基本、『気』を見つけるための瞑想。
そして、忍者としての体捌きを身につけるための体術の訓練でござる!」
楓の指導のもと、冷たい滝の飛沫を浴びるような水行の真似事から、険しい裏山の木々や岩場をパルクールのように駆け抜ける訓練が始まった。
「よっと! ほいっ!」
風香は元々の活発さと運動神経の良さを遺憾なく発揮し、木の枝から枝へ、岩から岩へと、まるで猿のように身軽に飛び移っていく。
「うひゃー! なにこれ、すっごく楽しい! 忍者みたい!」
一方で、文香の足取りは重かった。
「ひゃうっ!」
足元の見えにくい蔦に足を取られ、文香は勢いよく落ち葉の積もる地面に転がってしまった。
「い、痛いのです……」
「文香ッ!?」
文香のくぐもった声を聞きつけるや否や、風香は顔色を変えて木の上から飛び降りてきた。
「文香、大丈夫!? どこか痛い!? 怪我してない!?」
風香は自分の服が泥で汚れるのも構わず地面に膝をつき、文香の腕や足をペタペタと触って真剣な顔で確認する。
「だ、大丈夫なのです、お姉ちゃん。ちょっとすりむいただけだから……」
「ほんとに? 無理しちゃダメだからね! 痛かったらすぐ楓姉ぇに言うんだよ!」
心配そうに眉を下げる風香に、文香は申し訳なさそうに頷いた。
文香を助け起こした風香は、ふと山の麓の道場の方を見下ろし、頬をプクッと膨らませた。
風香の視線の先――道場の縁側では、雪広あやかが美しい姿勢で正座をし、静かに目を閉じて深い呼吸を繰り返している。
時折、体を動かし型を確認するその姿は、泥や擦り傷とは無縁の優雅さだった。
「あーっ、もう! ずるいずるいずるいーーーっ!
なんで委員長はあんな綺麗で静かなところで座ってるだけなの!? 私たちだけ泥だらけで山の中を走るなんて、ずるいよ楓姉ぇ!」
文句を言う風香に、楓は苦笑しながら首を振った。
「委員長殿は忍者というよりも『武道家』でござるからな。我々のように隠密行動や地形を利用した機動力を高める修行とは、根本的にアプローチが違うのでござるよ。
あちらはあちらで、己の内側と向き合う凄絶な戦いをしているのでござる」
「むー、そういうもんかなぁ……」
風香は少し納得いかない様子だったが、すぐに文香の手を引っ張って「よーし、もう一本行こう文香!」と再び森の奥へと駆け出していった。
だが、修行が始まって数日が経つ頃には、姉妹の間に明確な「差」が生まれ始めていた。
風香は持ち前のセンスで、あっという間に自身の中にある「気」の存在に気がつき始めていた。
「なんか、おへその下あたりがポカポカする感じがする!」と目を輝かせ、体術のキレも日を追うごとに増していく。
対照的に、文香は全くといっていいほど「気」を掴むことができなかった。
瞑想をしても何も感じられず、森の中を走ればすぐに息が上がり、何度も転んで生傷を作ってしまう。
(どうしよう……全然、集中できないのです……)
文香は擦りむいた膝をさすりながら、うつむいた。
集中できていない理由は、文香自身が一番よく分かっていた。
そもそも、文香は風香に比べて、この種のエネルギーを操る素養が少しだけ不得手だった。
だがそれ以上に、彼女の心に巣食う「恐怖」が、前に進むための歩みを決定的に重くしていたのだ。
(気を覚えて、もし強くなっちゃったら……京都の時みたいな、あんな怖い怪物と戦わなきゃいけなくなるの……?
誰かを叩いたり、痛い思いをさせたり……私が痛い目に遭ったりするの……?)
想像するだけで足がすくみ、呼吸が浅くなる。
優しい文香の心は、暴力の予感に対して本能的な拒絶反応を示していた。
「文香! 大丈夫?」
上の方から、風香が心配そうにひょっこりと顔を出した。
「お姉ちゃんは知ってるよ! 文香は本当はすっごく才能があるんだから、すぐにできるようになるよ! 一緒に頑張ろう!」
「う、うん……。頑張るね、お姉ちゃん……」
満面の笑みで励ましてくれる姉に、文香は無理に口角を上げて頷くことしかできなかった。
どんどん先へ進み、自信をつけてキラキラと輝き始める風香。
そんな姉を見ていると、今度は別の恐ろしい想像が文香を襲う。
(このままじゃ……私だけ、置いていかれちゃう……)
将来、お姉ちゃんは強くてかっこいい忍者になって、自分はずっと後ろで守られるだけの存在になってしまうのではないか。
足手まといになって、いつか大好きな姉が自分の元から離れていってしまうのではないか。
戦うことへの『恐怖』と、姉に置いていかれることへの『焦り』。
二つの感情の板挟みになり、文香の心は限界を迎える寸前だった。
そんな文香の危うい状態を、師匠である楓が見逃すはずもなかった。
ある日の修行の合間、楓は温かいお茶を入れた水筒を差し出しながら、文香の隣にそっと腰を下ろした。
「……文香殿。少し、焦っているでござるな?」
「え……」
図星を突かれ、文香はビクッと肩を震わせた。
楓は遠くで木登りの練習をしている風香を見つめたまま、静かな、とても優しい声で語りかけた。
「拙者が教えたいのは、あくまで何かあった時に『自分や大切な人を守るための力』でござる。敵を倒すための力ではない。……戦わなければならないと、苦悶する必要は全くないでござるよ」
戦いや暴力へのマイナスイメージ。そして、前に進めないことへの不安。
楓の言葉は、文香の抱える悩みの核心を優しく解きほぐそうとするものだった。
「はい……ありがとうございます、楓姉ぇ……」
文香は小さく頭を下げた。
頭では分かっている。楓が自分を思い遣ってくれていることも、無理に戦う必要がないことも。
けれど、一度心に根付いてしまった得体の知れない不安や、姉への劣等感は、言葉だけで簡単に消え去ってくれるものではなかった。
文香の顔に落ちた暗い影は、どうしても拭い去ることができなかった。
それを見た楓は、ふぅと小さく息を吐き、ポンと文香の頭に手を乗せた。
「……無理に今、焦って気の修行をする必要はないでござるよ」
「え……?」
「普段、のほほんと散歩している時のように、日々の中で自然を感じて、リラックスして体を動かす。そんな何気ない時間の中で、ふと自身の気の流れを知ることもあるでござる。
風香殿には風香殿の、文香殿には文香殿の、それぞれに合ったやり方やペースがあると思うでござるよ」
楓の提案は、「一度、この厳しい修行から離れてみなさい」という優しさに満ちたものだった。
文香は自分の膝をぎゅっと握りしめ、やがて、小さく、こくりと頷いた。
その日の帰り道。
事情を察した風香は、いつものように文香の手をギュッと力強く握って歩いていた。
だが、その横顔はいつもと違い、どこか寂しげで、心細そうだった。
「ねえ、文香……」
夕日に照らされる通学路で、風香がぽつりとこぼす。
「私もじゃあ、修行やめようかな……」
「え……!?」
驚いて見上げる文香に、風香は握った手に少しだけ力を込めて、俯きがちに言った。
「だって……文香がいないのはやっぱり寂しいし。
一人で忍者になっても、ちっとも面白くないもん。だから、私もやめる!」
文香の不安を敏感に察知し、自分だけが先へ進むことで妹を追い詰めてしまっていたのではないかと、風香なりに深く心配していたのだ。
その真っ直ぐな姉の優しさに触れ、文香の胸の奥がじんわりと温かくなった。
けれど、大好きな姉が自分のせいでやりたいことを我慢するなんて、絶対に嫌だった。
「ダメなのです、お姉ちゃん!」
文香は立ち止まり、風香の手を両手でギュッと握り返した。
「辞めちゃダメなのです!
私、絶対にすぐ戻ってくるですので……だから、お姉ちゃんは修行を続けておいて下さいなのです!」
涙目になりながらも必死に訴える文香を見て、風香は少しだけ目を丸くし、それから、ホッとしたようにいつもの明るい笑顔を咲かせた。
「……うん! 分かった!
文香がすっごく優しくて、本当はすごいんだってこと、お姉ちゃんは世界で一番よく分かってるからね! ずっと待ってるから!」
「……うんっ! ありがとう、お姉ちゃん」
夕日に照らされる姉の屈託のない笑顔に救われながらも、文香の胸の奥には、自分自身の弱さに対する小さな悔しさが、チクリと残り続けていたのだった。
次の日の朝。
まだ登校時間にはほど遠い、空が薄暗い群青色に染まる時刻。
「……ふぁぁ」
文香は小さなあくびをこぼしながら、ベッドの中で寝返りを打った。
隣のベッドからは、風香の「むにゃ……刀太くん……」という呑気な寝言が聞こえてくる。
(結局、あんまり眠れなかったのです……)
昨日の風香の言葉が胸に温かく残っていた分、自分の不甲斐なさが浮き彫りになり、文香の頭の中はぐるぐると堂々巡りを繰り返していたのだ。
もう一度目を閉じようとしたが、どうにも眠れそうにない。
文香はそっとベッドから抜け出すと、風香を起こさないように音を立てずに制服へ着替え、寮の部屋をそっと抜け出した。
寮の外に出ると、普段なら学生たちで溢れかえって賑やかな並木道も、今は閑散としていて完全に静まり返っていた。
冬特有のピンと張り詰めた冷たい空気が、肺の奥深くまで行き渡る。
「……少しだけ、スッとするのです」
ひんやりとした静けさが、ごちゃごちゃになっていた文香の頭を少しだけ冷ましてくれた気がした。
けれど、ふと昨日の修行のことを思い出すと、どうしても気分が沈んでしまう。
「はぁ〜……」
文香はマフラーに口元をうずめ、白く濁ったため息を長く吐き出した。
ふらふらと、あてもなく学園の敷地を歩き続ける。
やがて、広い広場の入り口に差し掛かった時だった。
「……あれ?」
広場の片隅に停められている、屋台式キッチンカー『超包子』。
その高い屋根の上に、人影があるのが見えた。
目を凝らすと、それは作業用ツナギを着た刀太だった。
彼はあぐらをかいて座禅を組み、静かに目を閉じて精神統一をしているようだった。
(あんなところで、刀太君……何をしているのですか?)
不思議に思って少し近づいてみる。
すると、刀太の周囲だけ、風が微かに渦を巻くように回っていることに気がついた。
その光景を見て、文香の脳裏に京都での戦闘の記憶がフラッシュバックした。
(あれは……京都で、刀太君が一番大きな鬼を倒した時に出ていたものと同じなのです……!)
あの時、刀太の足元から円環状の風が巻き起こり、巨大な怪物を一瞬で光の粒子に変えてしまった。あの時の不思議な現象と、今の風の動きが全く同じだった。
(気の修行でもしているのですか……。邪魔をしちゃ悪いのです、離れるですよ)
文香は踵を返そうとした。
――だが、なぜだろう。
どうしても、その場から立ち去ることができなかった。
風が渦巻く中、ただ座っているようにしか見えない刀太。
しかし、お姉ちゃんや楓姉ぇが座禅をしている時には全く感じなかった『何か』が、文香の肌をチリチリと撫でていたのだ。
(刀太君の体の中で……何かが、すごい勢いで巡っているような気がするのです……)
好奇心と、得体の知れない引力に導かれるように。
文香はキッチンカーの横に立てかけられていたハシゴをこっそりと登り、音を立てないようにして、屋根の上で刀太のすぐ隣に腰を下ろした。
至近距離で見ても、刀太は深く集中しており、文香の存在に気づいている様子はない。
彼の右手が、あぐらをかいた膝の上に上向きで力なく置かれている。
文香はゴクリと唾を飲み込むと、惹きつけられるようにして、その大きな右手の上に、自分の小さな両手をそっと重ね合わせた。
そして、刀太に倣うように静かに目を瞑った。
スッ……。
目を閉じた瞬間、周囲の風の音も、刺すような冬の寒さも、すべてがすーっと遠のいて消えた。
文香の意識は、重ねた手を通して、刀太の体内の深い深い奥底へと沈み込んでいく。
(――あ)
真っ暗闇の空間。
その中に、淡く発光する『小さな糸』が見えた。
楓に教わった瞑想では、いくら探しても見つからなかったもの。今まで生きてきて、一度も感じたことのない、不思議で温かい、けれど底知れない力強さを持ったエネルギー。
その糸は、刀太の体内を綺麗な円を描くようにして、静かに、けれどすさまじい速度で回っていた。
一度その存在を認識してしまえば、あとは早かった。
小さな糸は、文香の知覚の中で次第に太く、大きくなっていく。
やがてそれは、大河の激流のように、水のように形を変えながら刀太の体内を力強く巡っていることがはっきりと理解できた。
(これが……そうなのですか……! これが、みんなの言っていた力なのです……!)
圧倒的な奔流。
その流れの美しさと力強さに触れた瞬間、文香の意識は、まるで共鳴するように自分自身の内側へと反転した。
(なら……私の中にも……!)
自分の身体の奥底を探る。
あった。
刀太の巨大な流れに比べれば、まだ弱々しく細い糸のようなものだけれど。確かに、自分の体内にも同じように巡っている『それ』を見つけることができた。
「――ッ!」
文香はパッと目を開けた。
広場の冷たい空気、冬の薄暗い空、隣で座禅を組む刀太。
先ほどまでと同じ風景だ。
けれど、見える世界はさっきとは明確に違っていた。
文香にははっきりと分かった。
隣にいる刀太の体の中を、とてつもないエネルギーが渦を巻いて巡っていることが。
そして何より、自分自身の体の中にも、あの糸が確かに存在しているということが。
「やった……っ! やっと……お姉ちゃんに、追いつくことができたのです……!」
文香の瞳から、ポロリと一粒の涙がこぼれ落ちた。
ずっと感じていた重苦しい焦りと劣等感が、スッと溶けて消えていく。
安心したように、文香は刀太の手から自分の手を離し、屋根の上でへなへなと力が抜けて座り込んだ。
「よかった……これで、私もお姉ちゃんと一緒に……」
安堵の息を吐きながら、文香は体内に見つけたばかりのその糸を、ほんの少しだけ動かしてみようと意識を向けた。
――その時だった。
ふと、視界の端に違和感を覚えた。
広場の端にある生垣。その裏側の陰から、じっとこちらを見つめている『人影』があることに気づいたのだ。
「……?」
よく目を凝らして見てみる。
薄暗い中、銀色で特徴的な左右の前髪を伸ばしたショートヘアの髪型と、褐色がかった肌。
「……ザジさん?」
クラスメイトのザジ・レイニーデイだった。
普段から物静かで、クラスでもあまり目立たない彼女が、こんな早朝からなぜこんなところにいるのだろう。
生垣の陰に隠れていたザジは、文香がこちらに気づいたことを察すると、いつもの無表情のまま、少し何かを考えるように動きを止めた。
数秒の沈黙の後。
ザジはスッ、と手を出して、文香に向かって『ちょいちょい』とおいでおいでするように手を動かした。
「へ……?」
文香はハッとして、自分の手と隣で眠るように瞑想している刀太を交互に見た。
(も、もしかして……刀太君とこっそり手を重ねちゃってたから、何か変ないけないことをしてるって誤解されちゃったのですか!?)
ドッと冷や汗が噴き出す。
刀太に迷惑をかけるわけにはいかない。
文香は「あわわ」と小声で焦りながら、刀太を起こさないようにそーっとハシゴを使ってキッチンカーの屋根から降りた。
そして、制服のスカートの裾を払いながら、小走りで生垣の陰にいるザジの元へと向かうのだった。
生垣の陰に辿り着いた文香は、そっと息を整えてから小声で挨拶をした。
「お、おはようございますなのです」
文香がペコリと頭を下げると、ザジも無表情のまま、少しだけ首を傾けてペコッと頭を下げ返してくれた。
「あのー……別に変なことをしてたわけじゃないですよ?
少し気になることがあっただけで……決して、その、刀太君にイタズラしようとかそういうのじゃないのです!」
慌てて弁明する文香に対し、ザジは「?」と頭の上に小さなクエスチョンマークを浮かべたような顔をした。どうやら、文香が心配していたような誤解は全く受けていないようだ。
(よかった……変な子だと思われなかったみたいなのです)
ホッと胸を撫で下ろした文香は、早朝の冷たい空気の中で、ふと不思議に思っていたことを口にした。
「ザジさんは、こんなに早くからどうしてここへ来たですか?」
ザジは少しの間、無言でグラウンドの奥や、屋根の上で瞑想を続ける刀太の方を見つめていた。
その横顔は、普段教室で見せる物静かな表情と同じだけれど、どこか遠くを見透かしているような気がした。
やがて、ザジは淡々とした声で答えた。
「少し、懐かしいような力を感じまして……」
「懐かしい力、ですか……?」
文香は首をかしげた。
刀太君の周りで渦巻いていた、あのエネルギーのことだろうか。文香には「すごい力」としか分からなかったけれど、ザジにとってはそれが「懐かしい」ものだという。
深く追求するのも悪い気がして、文香はとりあえずコクリと頷いた。
すると、ザジがすっと手を伸ばし、文香のお腹の辺りを指さした。
「……文香さん。それ」
「え?」
「それ、何か分かっていますか?」
最初は何のことか分からず自分の制服のお腹のあたりを見下ろした文香だったが、すぐにピンときた。
先ほど、刀太の体内に触れてようやく見つけることができた、自分の中のエネルギーのことだ。
「もしかして、さっき私が見つけたもののことですか?」
文香は少し照れくさそうに、でも嬉しそうに微笑んだ。
「とある人から教えてもらって、ずっと修行していたのです。
『気』と呼ばれるものらしいのですけど、さっき刀太君の隣に座って、やっと見つけることができたところなのです」
誇らしげに語った後、文香はハッとしてザジを見た。
「あのー、もしかして……ザジさんも、裏の世界のことを知っているのですか?」
ザジは無言のまま、コクッと一度だけ首を縦に振った。
そして、そのまま少しの沈黙が流れた。
冷たい風が二人の間を吹き抜ける。
ザジは元々クラスで話す様子を見たことがなく、文香も話すのはこれが初めてであった。
文香が「えとえと……」と次の言葉を探してわたわたしていると、ザジが静かに口を開いた。
「……お腹のそれは、気ではないんです」
「えっ……? 気じゃない?」
文香は目を丸くした。
「でも、体の中にあって、温かい糸みたいなもので……これって、気以外に何かあるのですか?」
困惑する文香に、ザジは淡々と、けれど丁寧に教え諭した。
「それは気じゃなくて、『魔力』と呼ばれているものです」
「まりょく……?」
ザジはそこから、気と魔力の違いについて静かに説明を始めた。
気は自らの生命エネルギーを燃やして身体能力を高めたりする体術的な力であること。
対して魔力は、自然界の力と自身の内なる力を結びつけ、事象を改変する『魔法』の源となるエネルギーであること。
「そ、そうなのですか……。これは気では無かったのですね……」
文香は肩を落とし、少しがっかりしたようにうつむいた。
そんな文香を見て、ザジは不思議そうに小首を傾げた。
「自分で体内の魔力を見つけられただけでも凄いのですよ。
どうして、ガッカリされているのですか?」
「だって……」
文香は自分の靴のつま先を見つめながら、ぽつりとこぼした。
「私、お姉ちゃんと一緒に楓姉ぇに『気』の修行を教えてもらっていたのです。
でも、お姉ちゃんはすぐに気を見つけて、どんどん先に進んでいっちゃって……。
私、やっと気を見つけられたと思ったのに……これじゃ、また最初からやり直しなのです」
しゅんと落ち込む文香。
しかし、ザジはその様子をじっと観察し、あることを見抜いていた。
「……文香さん。ガッカリしていると言いながら、あなたはどこか、少しホッとしているようにも見えます」
「えっ!?」
図星を突かれ、文香は勢いよく顔を上げた。
ザジの鋭くも静かな瞳に見透かされ、文香は慌てて目を泳がせたが、嘘をつき通すことはできなかった。やがて観念したように、小さく息を吐き出す。
「……バレちゃったのですね。実は、そうなのです」
文香はぎゅっと自分の両手を握りしめ、ずっと抱えていた胸の内を、ぽつり、ぽつりと吐露し始めた。
「私、力を得て、誰かを傷つけてしまうのが怖いのです。
……京都に行った時に、すごく怖い戦いに巻き込まれてしまったことがあって。
自分も気を鍛えて強くなったら、あの時の刀太君や委員長みたいに前に立って、あんなに大きな鬼や敵と戦うことになるのかと思うと……少し足がすくんでしまうのです」
(お姉ちゃんはどんどん前に行っちゃうし、私も追いつかなきゃいけないって分かってるのに……怖い気持ちがどうしても消えないのです……)
優しく怖がりな性格の文香にとって、暴力で何かを傷つけることは耐え難い恐怖だった。
それを聞いて、ザジは静かに「なるほど」と呟いた。
文香の悩みの根本を理解したザジは、少しの沈黙の後、彼女の目を見てストレートに告げた。
「文香さん。おそらくですが、あなたに気は向いていません」
「ガガーーーンッ……!!」
あまりにもド直球な宣告に、文香は目に見えてショックを受け、その場に固まってしまった。
「そ、そうですよね……。私なんかじゃ、お姉ちゃんみたいにカッコよく戦えないのです……」
完全にいじけてしゃがみ込んでしまった文香を見て、ザジは「あっ」とわずかに目を丸くした。
どうやら、自分でも少し言いすぎた(言葉が足りなかった)ことに気づいたようだ。
「あ、いえ。違うんです。あの、すみません。普段あまり人と話さないので、言葉が足りませんでした」
珍しく少しだけ慌てたように弁解するザジ。
彼女は文香の目線に合わせてしゃがみ込むと、静かで、落ち着いた声で語りかけた。
「今から話すのは、あなたを否定するものではないんです。
……あなたは気について最初に学んだことで、少し裏の世界を暴力的で怖いものと捉え過ぎているかもしれませんが、実はそれは、裏の世界のごく一部のことなんです」
「一部……?」
「例えば……」
ザジがポンと自分の肩を叩くと、そこに小さな魔法陣が浮かび上がり、ポンッと音を立てて『真っ黒な小さな小鳥』が現れた。
「チチッ!」
小鳥は元気よくザジの周囲を飛び回り、それから文香の周りをくるくると旋回すると、お椀の形にした文香の両手の中にすっぽりと収まり、コロンと体を丸めた。
「わあ……! 可愛いのです……!」
手のひらから伝わる温かい感触に、文香の顔がパッとほころぶ。
微笑ましいその様子を見て、ザジの口元がほんのわずかに、優しく緩んだ。
「文香さん、この小鳥は怖いと思いますか?」
「いえ、そんなことないのです。とっても可愛らしいのです」
「はい。これも、裏の一面です。私の使役している魔物を出させていただきました」
ザジが「ありがとうございました」と呟くと、小鳥はザジの方を向いて可愛らしく鳴き、ポンッと煙になって姿を消した。
「わっ! 消えちゃったのです」と驚く文香に、ザジは淡々と説明を続ける。
「魔法や気は、使い方によっては人を傷つけたり、暴力的なことにも使われます。
それに、おそらくこのまま裏の世界を知っていけば、そういったことに巻き込まれる可能性も大いにあるでしょう」
ザジの言葉は真剣で、現実の厳しさを含んでいた。文香はゴクリと唾を飲み込む。
しかし、ザジはすぐに言葉を継いだ。
「ですが、それ以上に。魔法でしたら箒で空を飛んだり、自分の見た目を変えてみたりすることができますし、気は魔法に比べると汎用性が下がることもありますが、式神を使って人と連絡を取ったり、情報を得たりなど、怖くない使い方もたくさんあるんです」
(怖くない、使い方……)
魔法の持つ、無限の可能性と優しさ。
ザジの言葉は、文香の心にこびりついていた恐怖の塊を、少しずつ溶かしてくれていた。
「……すみません。長く話してしまって」
ザジは立ち上がり、文香を見下ろして結論を告げた。
「結論から言うとですね。
私が教えますので、戦わない魔法を一緒に学びませんか?」
「戦わない、魔法……?」
文香は目を丸くしてオウム返しに呟いた。
「はい。例えば隠れる魔法。逃げる魔法。守る魔法。そして、人を楽しませる魔法です。
戦う必要なんてないんです。もし戦いに巻き込まれても、皆んなで逃げられたならそれは大きな戦果になるんです。」
ザジは、文香には気よりも魔力を扱う魔法の方が向いていること、そして長瀬さんは気のエキスパートだが魔法の体系についてはあまり詳しくないと思われることなどを静かに伝えた。
(隠れる、逃げる、守る……そして、楽しませる魔法)
文香の胸の奥で、小さな灯りがぽっと点るような気がした。
それなら、私にもできるかもしれない。
痛い思いをしなくても、誰かを傷つけなくても、お姉ちゃんに置いていかれないように前に進めるかもしれない。
まさに、今の文香が一番求めていた、文香のためだけの道だった。
「でも……どうして、そんなことをしてくれるのですか?」
文香が不思議そうに見上げると、ザジは少し視線を落とし、淡々と答えた。
「本当は、誰かに魔法を教える気なんてありませんでした。
でも、普段のクラスでのあなたの様子や、今話を聞いていて、教えてあげたいなと思ったこと」
そして、ザジは文香の目をまっすぐに見つめ、静かに、けれど確かな温度を持った声で言った。
「それに。
クラスメイトが悲しい顔をしているのは、私も悲しいですから」
(――あ)
その言葉の奥にある、ザジの本当の優しさに触れて、文香の胸の奥がじんわりと温かくなった。
いつも無表情で、何を考えているか分からなかったクラスメイト。
でも、彼女は文香のことをちゃんと見てくれていて、心配してくれていたのだ。
怖くて、焦って、一人でずっと苦しかった心が、ふわりと軽くなっていく。
文香はパァッと満面の笑みを浮かべ、ザジに向かって深く頭を下げた。
「お願いしますなのです、ザジさん!」
新たな師弟関係が結ばれた、美しい早朝の瞬間。
――きゅるるるるぅぅぅぅぅぅ……。
静まり返った広場に、文香のお腹の虫の音が、これ以上ないほど盛大に鳴り響いた。
「あわわわわっ!?」
文香は顔をりんごのように真っ赤にして、慌ててお腹を押さえた。
ザジは無表情のまま、スッと文香の方へ向き直った。
「……朝ごはん、食べにいきましょうか。近くに美味しいモーニングのお店がありますので」
言うが早いか、ザジはスタスタと歩き出してしまった。
「ま、待って下さいなのです〜〜〜っ!」
顔から火を出しながら、文香は慌てて新しい師匠の背中を追いかけて走り出した。
こうして、敬語で話す優しい二人の、秘密の特訓が幕を開けたのだった。
その日の昼休み。
冬の柔らかな日差しが降り注ぐ中庭の芝生の上で、楓、風香、文香の三人は、いつものようにお弁当を広げていた。
「んぐんぐ……ぷはぁ!」
竹の皮に包まれた大きなおにぎりを一口頬張った楓は、水筒のお茶を飲んで一息つくと、向かいに座る文香の顔をじっと見つめた。
「……文香殿。なんだか昨日よりも、ずっと表情が明るい気がするでござるな」
「あっ、私もそう思ってた! なになに文香、何かいいことでもあったの?」
風香も卵焼きをかじりながら、身を乗り出して聞いてくる。
文香は少し照れくさそうに笑い、
「えへへ……ちょっとだけ、いいことがあったのです」
と、嬉しそうに答えた。
楓は、文香の顔から昨日までの暗い影や思い詰めたような重さがすっかり消え去っているのを見て、安堵の息を吐いた。
そして、気になっていた修行の話題をそっと切り出した。
「文香殿。昨日の修行の件でござるが……」
「あ……あのね、お姉ちゃん、楓姉ぇ」
文香はお箸をそっとお弁当箱に置くと、少し申し訳なさそうな様子で、両手を膝の上で合わせた。
「ちょっと今は、他にやりたいことができたから……そっちを頑張りたいなって思ってるのです」
その言葉を聞いて、風香と楓は顔を見合わせ、心底ホッとしたような、温かい表情を浮かべた。
文香が無理をして思い悩み続けることが、二人にとって何よりも一番心配だったからだ。
「そっか! 文香がやりたいこと見つけたなら、それが一番だよ!」
風香がパーッと明るい笑顔を咲かせる。
「うむ。急ぐ必要など全くないでござる。
文香殿が思い悩んでいたようで心配していたゆえ、自分の道を見つけられたのなら、拙者たちも安心したでござるよ」
温かい二人の言葉と気遣いに、文香は胸がいっぱいになりながら「うん、ありがとうなのです」と深く頷いた。
「で、そのやりたいことって何なの?」
風香が目を輝かせて尋ねると、文香は芝生から立ち上がり、くるりと後ろを振り返った。
そして、冬の青空を背にして、いたずらっ子のような満面の笑顔を浮かべると、人差し指を口元にそっと当てた。
「……秘密なのです!」
「えーーーっ! なにそれ、教えてよー!」
「むむっ、拙者も気になるでござるよー! 水臭いでござるー!」
「あははは、ダメなのです! まだ内緒なのです!」
笑いながら逃げようとする文香と、「待てー!」と飛びかかっていく風香。楓も「逃がさんでござるよー」と楽しげに加わり、三人は芝生の上でもみくちゃになって笑い転げた。
少し離れた校舎の三階。
中庭を見下ろす窓際で、その様子をじっと静かに見つめている人影があった。
ザジである。
彼女は、風香と楓にじゃれつかれながら、文香が心の底から楽しそうに笑っているのを確認した。
朝に見せていた、迷いや恐怖に縛られた表情はもうどこにもない。
「…………」
ザジは無表情のまま、小さく、満足そうに一つ頷いた。
大丈夫そうだ。
そう確信すると、彼女はくるりと踵を返し、誰に気づかれることもなく静かに窓辺から離れていった。
隠れる魔法。逃げる魔法。守る魔法。
そして、人を楽しませる魔法。
戦うためじゃない、優しくて怖がりな彼女だけの、特別な魔法の道。
かくして、静かで物腰柔らかな二人の、秘密の魔法特訓の日々が始まりだしたのだった。
師弟A 師匠:長瀬楓 弟子:雪広あやか、鳴滝風香
師弟B 師匠:ザジ・レイニーデイ 弟子:鳴滝文香、???
師弟C 師匠:⁇? 弟子⁇?
師弟D 師匠:⁇? 弟子⁇?
師弟E 師匠:⁇? 弟子⁇?