国を背負う巨獣が、俺にだけ「痛い」と言う 作:三打して待つ人
ミラまで、三歩だった。
三歩の間へ、死んだ骨が落ちた。
食堂と王城をつなぐ圧抜き口が潰れ、白い破断面が上下から噛み合う。ミラの赤紐だけが隙間を抜け、こちら側へ残った。
引けば届く。
そんな太さじゃない。
紐は圧板の留めへ結ばれている。人一人を引く索ではない。俺が焦って引けば、向こうの測定板を奪うだけだ。
「ミラ!」
返事は骨越しに来た。
短い一打。
生存。
二打。
負傷なし。
三打目はない。
移動可能か未確認。
声は通らない。隙間は指二本。透明板一枚も抜けない。
骨伝板なら、短文を送れる。
ソラネが同寸板を隙間の左右へ押し当てる。こちらから試験三打。向こうから同じ形が返る。途中の死骨で二打目が少し長くなるが、名前と数字、白赤、短い文までは使える。
俺は板を取ろうとして止めた。
先に心室だ。
卵十六。温度一低下が三つ。旧調整外板は指二本上がったまま。回収隊六人、こちら四人。背籠は動いている。
ミラだけを助ける工程で、卵と十人を落とせば救助じゃない。
「ジオ、外板を戻す条件」
「回収隊全員が内板へ移動。捕獲輪を全解放。卵位置十六。水流を三十呼吸ごと」
「トレア、乾燥索を保持できる?」
「二百呼吸。左肩が先に赤」
「キエラ、背籠停止」
「いま切れば受け輪三番が落ちる」
帝国鍵を握ったまま答える。
起動前なら止めろで済んだ。
もう旧都市荷重が浮力槽へ移っている。途中で切れば、王城側が先に落ちる。ミラがいる側だ。
腹が立つ。
キエラが始めた。本人に最後まで支払わせればいい、と言いたくなる。
でも、支払うのは王城側のミラと、心室の卵と、旧区画の中にいるかもしれない人だ。
責任と緊急作業を同じ順番にしない。
「停止じゃなく保持。現在出力と次に落ちる輪」
「浮力三槽、各四。黄槽一は二。受け輪三番が荷重七、次が九番六。八で破断域」
「鍵をソラネに見せたまま。勝手に上げない」
「命令か」
「共同停止の提案。拒否するなら記録して、俺たちは卵側を先に逃がす」
キエラは鍵を抜かない。
一段も回さず、ソラネから見える位置へ手を置いた。
黄。
信用じゃない。現在動作だけ固定する。
「起動責任は、あとで全部あなたの欄へ置く」
ジオが言う。
「あとがあればな」
「だから今は、あとを作る」
回収隊のうち、さっき膝をついた二人が立つ。一人は右膝に擦れ、もう一人は左前腕に索跡。可動は白。戦闘が終わったから仲間、にはしない。捕獲函を閉じ、衝撃杖と索銃を回収穴側へ置き、黄封する。
キエラは武器封へ署名しなかった。
部下二人がした。
隊長の判断と六人全員を同じ色にしない。
彼らが外板から内板へ移る。ジオは一人ずつ武器、負傷、役割を読む。卵水流を見る者二人、浮力槽管を保持する者一人、穿孔穴の逆流止め一人。残る二人は待機。
拘束でも共闘でもない。
現在の事故作業だ。
*
ミラへ最初の板を送る。
『負傷』
『なし。圧管側。床傾斜六』
『人数』
『一。王城側に別反応なし』
見えていないだけかもしれないので、無人とは書かない。
『出口候補』
返りが遅れた。
二十呼吸。
『三。圧管を戻る。王城上昇井。水番外管』
こちらでも旧図を開く。
圧管を戻る案。
いま挟まった骨を外す。最短。ただし、噛み合いが王城荷重を受けている。一本抜けば上の破断七が心室へ走る。卵側の栄養管も切れる。
王城上昇井。
背籠中核の上受け輪へ続く。広いが、浮上荷重の中心。受け輪三番が赤になる前に通過する必要がある。途中で背籠出力が変われば、井戸そのものが潰れる。
水番外管。
人一人幅。王城西橋の水路へ抜け、都市区画の外から食堂上へ回れる。遠い。崩落位置は未確認。けれど、浮力槽の中心から外れる。
三つを同じ板にする。
こちらが選んで、最短路へ来いとは送らない。
『圧管。最短。卵栄養管と同じ骨。解放で破断予測』
『上昇井。七十歩。輪三、現在七、八で赤』
『水番外管。二百十歩。外周。崩落未確認』
『こちらから出せる支援』
圧管は骨栓二、荷重逃し一人。
上昇井は背籠出力固定、上端から索。
水番外管は外艇の骨伝浮標、オドの観測棚、食堂上外輪から迎え索。
ミラの返りは、水番外管だった。
遠い道。
俺の頭は反対する理由を並べる。
二百十歩。
一人。
深霧濾過は向こう側に予備一つ。床傾斜六。崩落未確認。
上昇井なら七十歩だ。
三倍も近い。
ただし、近いのは平常時の長さだけ。いま荷重七で、八が赤。キエラが指一つ間違えれば潰れる道を、俺の「早く戻ってほしい」で選ばせるな。
『水番外管を選択で確定?』
『確定。私の判断』
白を返す。
俺たちの工程を、彼女の道へ合わせる。
ネネと潜航士へ外浮標から水番外管の出口探索。オドへ西橋外輪の粉落ちと索固定。トレアは心室外板を保持。ジオと回収員二人は捕獲輪解放。ソラネはミラ板、卵、キエラ鍵の三記録。
俺は全体の荷重と、ミラの途中報告。
自分で迎えに行かない。
行けないからじゃない。
行けたとしても、水番外管は一人幅だ。迎えが入れば二人とも詰まる。
『開始』
ミラから三打。
一つ目の報告は四十歩。
床傾斜七。濾過白。外管に水あり、膝下。
二つ目は九十歩。
崩落一。上を越える、下を潜る、戻る。
俺は高さを訊く。
上隙間、胸半分。下、水深腰、管幅肩一つ。戻り五十歩。
ミラは上を選んだ。
赤紐を先へ通し、身体を横にして越える。俺が上を選べと言ったわけじゃない。こちらは崩落骨の動きを板で受け、粉落ちが三本なら戻れとだけ送る。
粉落ち一。
通過。
百二十歩で、外管の水音が変わる。
膝下だった水が一度引き、次に腰へ上がる。背籠が傾くたび、割れた旧水槽から管へ入っている。
『前進、退避棚、弁閉鎖』
ミラから三候補。
前進は出口まで九十歩、上がる水と競争。
退避棚は十歩戻り、胸上の横穴。水は避けられるが、浮上中に天井側へ回れば出口を失う。
弁閉鎖は二十歩先、王家水番鍵が必要。ミラの印で開く可能性はある。ただし閉じれば心室側へ水圧が返る。
「前進させる」
口に出してから赤を置く。
俺が怖いから早く来い、を工程判断へ混ぜた。
水位上昇は十呼吸で指一本。九十歩に必要な時間は、現在の足場で百二十呼吸。腰から胸へ届く前に出られる予測だが、崩落が一つあれば外れる。
退避棚なら、次の測定まで時間を買える。
弁は心室卵へ代価を送る。
値をそのまま返す。
ミラは退避棚を選んだ。
『水位の二回目を測る。上昇が同じなら前進』
待つ。
十呼吸。
水位は指半分。さっきの半分。
さらに十呼吸、指半分。
ミラが前進へ白を置く。
俺の急げとは違う。二回測って、自分で出した白だ。
心室では、回収員が捕獲輪の最後一本を外した。
卵位置、十五。
一つ足りない。
最小の卵が、外板上昇でできた陰へ入っている。帆糸の返りはある。温度は開始値。見えないだけだ。
十六と書き直す。
見えない一つを失ったことにしない。
外板を戻す。
一歯。
水流、右から左へ一。
二歯。
外板指一本。卵三つの温度が開始値へ戻る。
三歯目で、死骨の奥が鳴った。
王城側の受け輪三番、荷重七から七と半分。
背籠が都市区画を均等に持ち上げていない。三つの白槽に近い区画だけが先に浮き、遠い王城が古索で引かれている。
キエラが黄槽へ手をかける。
「上げるな」
「三番を六へ落とすには黄槽が要る」
「卵側の栄養流は?」
「一段起動で一割低下」
「現在温度が戻ったばかりだ」
「三番が八なら王城が落ちる」
卵の栄養一割。
王城受け輪の破断。
どちらを払うか、キエラと俺だけで決めない。
ソラネが外へ全値を送る。ネネ、オド、潜航士。心室のトレア、ジオ、回収員六。ミラにも送る。
黄槽一段を三十呼吸。三番荷重予測六。卵栄養流九割。温度一低下で即戻し。ただし戻せば三番再上昇。
別案は水番外管の旧水槽を空にし、王城側荷重を半分下へ逃がす。ミラの進路上。排水に六十呼吸、外管水位腰から胸の危険。本人が弁を操作する必要がある。
もう一つ、王城区画の古索を切る。王城だけ落とす。論外に見えても、ミラと未確認反応を先に退出できるなら選択肢から消せない。
『黄槽』
ミラが返す。
『水槽は私の退路を水で塞ぐ。古索切断は退出後に再検討。黄槽一段、温度停止つき』
全員白ではない。
トレアは黄。回収員一人は赤。ネネは条件白。赤の理由は、黄槽が十五年未試験で出力誤差四割。
なら試験を半段にする。
キエラは「規格外」と言ったが、古い歯止めを一つ外せば半段で留まる。ジオが歯止め、トレアが卵温度、回収員の赤一人が浮力槽の異音停止を担当する。
半段。
卵栄養流、九割半。
温度変化なし。
受け輪三番、七。
もう半段。
栄養九割。
温度変化なし。
三番、六。
黄槽は白へ変わらない。
黄のまま、必要な荷だけ受けた。
ミラの報告、百六十歩。
外管出口まで五十。濾過黄。水位膝。
外からネネの帆糸が届く。
出口位置を見つけた。骨栓三、外側から一つ外せる。残り二つは内側。迎え索は通せるが、引くと骨栓が噛む。索は道だけ示し、身体荷重には使わない。
あと五十歩。
俺は板へ『了解』と書く。
それだけでいい。
救助工程の言葉なら、いくらでも出る。
濾過を替えろ。
水位を測れ。
粉三本で戻れ。
帰ってきて、次の操路をしてくれ。
卵の移動図を見てくれ。
父王の記録へ署名してくれ。
全部、ミラが役に立つ理由だ。
エリュンへ滑空した時も、索を二本にする理由へ「落ちたら困る」を混ぜた。後から個人的な理由だったと話した。
あの時は、それで分けたつもりだった。
まだ仕事の言葉を借りている。
落ちたら困る。
操路士が減る。
地図を読める人がいなくなる。
契約相手を失う。
全部本当で、全部だけではない。
役に立つから帰ってきてほしいのか。
違う。
じゃあ、罪を償うためか。
それも違う。
償いが終わるまで死ぬな、と言えば立派に聞こえる。でも、それでは彼女を責任の仕事へ縛る。何も償えない日、何も決められない日には帰る理由がなくなる。
守らなきゃいけないからか。
その言葉も、俺が選んだ道へ来いと続きやすい。
残るのは、俺の都合だ。
ミラに帰ってきてほしい。
役に立たない日でも。
切断の責任が消えなくても。
トレアが許さなくても。
俺が許す役でもなくても。
帰ってきてほしい。
言えば、救助中の相手へ返事を迫るかもしれない。
だから、条件をつける。
『返事不要。道の選択は変えなくていい』
先に送る。
続けて、自分の名で書く。
『役に立つからじゃない。償いが終わるからでもない。終わってなくても、帰ってきてほしい。俺が、帰ってきてほしい』
板をソラネへ渡す。
彼女は言葉を直さない。
送信時刻と、救助三経路を出した後であることだけを添えた。
十呼吸。
二十。
返事はいらないと書いた。
待っている自分がいる。
三十呼吸目、骨伝板が鳴る。
『帰る』
一度、間。
『私が決めた』
恋愛の返事じゃない。
俺の欲を受け入れたとも書かない。
ミラが、自分の帰路を確定した。
それで十分だ。
出口の骨栓が一つ外れる。
ネネの帆糸が二本、白い隙間へ入る。
内側からミラが一つ目の栓を半周。二つ目は腐食して動かない。戻る、割る、外骨を削る。
外骨を削れば、出口上の旧水路へ亀裂が伸びる。
戻りは二百歩。
割るなら、栓だけを内向きに三片。破片がミラ側へ飛ぶ。
ミラは割るを選ぶ。
赤紐を栓へ三角に回し、内殻布を身体との間へ張る。ネネが外から帆糸を張り、割れの方向を三つ読む。潜航士が透明骨楔を一欠けずつ打つ。
俺は心室から、その振れを数える。
一。
二。
三。
骨栓が内側へ三片に割れた。
内殻布が受ける。
人一人ぶんの穴。
最初に赤紐が出た。
次にミラの左手。
外艇の灯りへ、本人が自分の腕で身体を引き出す。
ネネと潜航士は抱き上げない。腰索を固定し、足場だけを出す。ミラは一度座り、呼吸値を測り、負傷なしへ白を置いた。
深霧眠なし。濾過嚢は残り四分の一。手の擦過が二か所、皮膚は破れていない。赤紐一本は骨栓へ残し、二本を回収。王家印、地図板、透明板も本人所持。
俺たちのいる心室へは、まだ戻れない。
骨伝板で外艇とつながる。
『さっきの文』
ミラから来る。
喉が固くなる。
『返事不要と書いた。取り消さない』
『分かりました。帰るは私の進路回答です』
『分けて受け取る』
それで終える。
好意を伝えた勢いで、意味を確かめる質問を重ねない。いま彼女は救助されたばかりで、都市全体が浮いている。
帰ってきた。
俺のところへ、とは決めない。
選んだ出口へ戻った。
その直後、背籠の受け輪が十二個すべて鳴った。
浮力槽は白三、黄一のまま。
旧索が一斉に張り、ばらばらだった王城、下層食堂、避難艇港、住居区画を中央の籠へ寄せる。
背籠が直したわけではない。
崩れた区画の位置を、十二の受け輪で昔の都市図へ近づけている。割れた橋は割れたまま。家の床は縦のまま。生活管はつながらず、濾過も水もない。
受け輪三番六、九番五。黄槽は一段。卵栄養流九割、十六の温度は開始値。破断七は増えない。
安全ではない。
けれど形は戻る。
深霧の上で、オドが警鐘を鳴らす。
白い塔が霧面を破った。
次に屋根。
橋。
食堂の長い窓。
窓の内側には長卓二十六、椅子百八十二、持ち主のいる保存食が残っている。
王城側には未確認反応なしとミラは書いた。外輪のトレア班、生存者会、所在不明の二十五人。誰がこの形を国と呼ぶかは、まだ聞いていない。
それでも、霧の下へ沈んでいた故郷が塔と橋の輪郭を取り戻せば、旗を立てたい人は出る。
持ち帰れる、と考える人もいる。
俺だって一瞬、これをラグナへ持っていけば町を降ろせると思った。
卵の栄養流が九割へ落ちている板を見ながら。
死んだリュータの背に残った旧王都が、区画ごとではなく、一つの都市の形で浮かび上がった。
国旗を立てれば、復国したように見える形で。