俺が死ぬたび世界を巻き戻す聖女は、七百一回目に俺を監禁した 作:朝を数えない人
レイの心臓が止まった。
止まる直前の脈を、私は指で数えていた。
四十二。
三十八。
三十一。
途切れた。
数字にすれば短い。
彼の胸へ白冠片が刺さってから心停止まで、二分四十七秒。第一結節の切断から一分十二秒。第二結節から十九秒。
時間を記録する。
記録していれば、手を伸ばさずに済む。
違う。
記録は我慢の道具ではない。ニナへ渡す医療情報であり、後から手順を検証する証拠だ。
自分へ言い直す。
私は青血糸の切断端を両手で持つ。右手が第一結節、左手が第二結節。どちらかを離せば、レイの死痕へ戻ろうとする。
聖女治癒は使わない。
暁鐘は鳴らさない。
レイへ触れない。
三つ。
どれも、私が彼を救う時に最初にすることだった。
「心停止。時刻」
ニナの声。
市議会長が記録する。
「通常蘇生を開始」
ニナの両手がレイの胸へ置かれる。
一回目の圧迫で、白冠片の周囲から血が溢れた。
私は動かなかった。
正確には、右膝が半歩ぶん前へ滑った。青血糸を握る手は離していない。身体が勝手に救命距離へ入ろうとしただけだ。
だけ、ではない。
一歩は一歩だ。
床の拘束線へ爪先を戻す。
「ミレーユ」
ニナが私を見ずに呼ぶ。
「はい」
「糸の色」
「右、濃青。左、青白。拍動なし。再結合兆候なし」
「レイの顔色は」
見てよい。
観察は役割だ。
「蒼白。唇に白化。瞳孔は確認できません」
「十分」
ニナは私を慰めない。
レイは戻るとも言わない。
だから信用できる。
暁鐘の鐘槌が一度、前へ進む。
エドガーが索で引き戻す。
彼の肩が外れかける。市議会長の補佐が後ろから索へ加わる。さらに二人。鐘槌一つを四人で止める。
私なら、聖女権限で止められる。
そう考えた瞬間、青血糸が熱を持つ。
使うな。
聖女権限を暁鐘へ接続すれば、白冠は私の救命意思を拾う。レイの心停止を失敗と判定し、朝へ戻す。
分かっている。
分かっていることと、したいことは別だ。
私は七百回、したいことを正しいことへ書き換えた。
彼を失いたくない。
だから世界を戻す。
彼が苦しまないようにしたい。
だから彼の記憶を閉じる。
彼と離れたくない。
だから鍵を奪う。
言い換えれば、欲望が使命に見えた。
今は言い換えない。
私はレイを失いたくない。
それでも、鳴らさない。
一分。
ニナが時刻を告げる。
墓守オスカーが生活記録を読む。
「十一枚目。雨の日に、濡れた犬を礼拝堂へ入れた。司祭へ叱られ、犬のせいではないと言った」
知らないレイだ。
私は覚えていない。
十一回目に失ったのは、父の顔だった。犬の記憶ではないはずだ。なら、彼が一人でいた時間の選択だろう。
七百回をすべて知っていると思っていた。
知っていたのは、死んだ時刻と傷と、戻すために必要な条件が中心だった。
彼が雨の日に何をしたか。苦い薬をどう飲んだか。誰へ嘘をついたか。
知らない。
私は死を見すぎて、生を見落とした。
オスカーは続ける。
一枚につき一文。
長く語らない。レイの身体を囲む七百一枚が、それぞれ別の青い光を出す。
糸の切断端が引かれる。
右手は過去へ。
左手は暁鐘へ。
両方とも、離せば楽になる。
握力が落ちる前に、指へ巻きつける。
それは拘束ではないか。
自分の手を糸へ縛る。レイを縛ってはいない。
だが、私が気絶した場合に誰も外せなくなる。
「ニナ。固定具を」
「使わない。あんたが意識を失ったら切断端を捨てる」
「再結合します」
「その危険より、あんたの判断を糸へ固定する危険が上」
正しい。
私は指へ巻きかけた糸を戻す。
自分を縛れば安全だと思った。
安全ではない。現在の判断を更新できなくする。
「握力を報告して」
「右、七割。左、八割」
「五割で交代」
「誰と」
「私」
ニナは胸骨圧迫を続けている。
「圧迫は」
「市議会長が代わる。私は糸を持てる」
聖女でなくても、持てる。
青血糸は私とレイの血からできた。それでも所有権は私だけにない。
二分。
ニナが告げる。
私はレイの顔を見る。
目を閉じている。
眠っているようには見えない。
死んでいる。
その事実を薄めない。
七百回、私は死を途中の状態へ変えた。鐘を鳴らせば戻る。なら、本当の終わりではない。そう考えなければ鳴らせなかった。
だが彼にとっては毎回、終わりだった。
今も終わりである可能性がある。
胸の内側が狭くなる。息を吸う。吐く。私が過呼吸になれば糸を落とす。
呼吸数を下げる。
四秒吸う。六秒吐く。
三回。
レイの脈は数えない。
ない脈を探す行為は、治癒へ向かう引き金になる。
代わりにニナの腕を見る。圧迫の深さ、戻り、速度。彼女の額の汗。交代時刻。
医学を知らない私にも、彼女が手順を守っていることは分かる。
信頼は、成功を確信することではない。
失敗する可能性ごと役割を渡すことだ。
私はニナが失敗する可能性を知っている。
それでも渡す。
三分。
レイの右手から黒い文字が消えた。
死痕へ意識が落ちた合図。
「意識記録、移行」
私が報告する。
「呼びかけは」
「まだ」
ニナが答える。
「三分三十秒で一度」
事前手順どおり。
すぐに呼びたい。
名前を呼び続けたい。
しかし外からの声が多ければ、死痕領域で白冠の声と区別できなくなる。呼びかけは時刻と質問だけ。
私は待つ。
三分三十秒。
「レイ。あなたは生きたいですか」
返事はない。
想定内。
死痕側と繋がる保証はない。
想定内という言葉で恐怖は減らない。減らすための言葉ではない。次の行動を決めるための分類だ。
呼びかけを止める。
一度だけ。
四分。
ニナが圧迫を市議会長へ交代する。
市議会長は人を治した経験がない。だが昨日から何度も練習した。手の位置をニナが直す。深さが足りない。もう一度。今度は十分。
私は口を出さない。
治癒の知識と通常蘇生の知識は違う。聖女だからという理由で指揮を奪わない。
ニナが白冠片へ手をかける。
「抜く。出血を押さえる準備」
補佐二人が布と鉗子を持つ。
「三、二、一」
白い刃が抜けた。
血が噴く。
視界が赤くなる。
気づけば、右手をレイへ伸ばしていた。
青血糸はまだ握っている。腕だけが動いた。
指先から治癒光が一粒出る。
「消して!」
ニナの声。
私は拳を握る。
光を潰す。
一粒はレイへ届かなかった。
「申し訳ありません」
「謝罪は後。糸」
「右、濃青。左、青白。再結合なし」
役割へ戻る。
身体が震える。
失敗した。
完全には失敗していない。光は届かなかった。だから問題ない、と自分を許しそうになる。
違う。
手を伸ばした。治癒を出した。止めたのはニナの声があったからだ。
一人なら使っていた。
その事実を記録する。
「四分十二秒、私が治癒光を発生。ニナの制止で消去。対象への到達なし」
市議会長の補佐が書く。
隠さない。
後でレイへ伝える。
彼が目を覚ませば。
目を覚ましたら、ではない。覚ませば。
条件文へ希望を混ぜない。
苦しい。
五分。
薬剤が投与される。
ニナは効能を声に出す。量、経路、時刻。彼女の兄ユアンが作った蘇生薬。聖力ではなく、心筋を刺激する薬。
ユアンの椅子は消えたままだ。
彼の名前は白い。
それでも薬は残っている。
人が消えても、仕事が誰かの手へ残る。レイの身体へ入った薬が、ニナの知らない兄の続きをする。
私は少し羨ましい。
私が消えたあとにも、レイを生かすものを残したい。
すぐ訂正する。
消えることを前提に贈り物を作るな。生きて、距離を保ち、必要な時に渡せばよい。
私は死別を美しくする癖がある。
七百回、死別をなかったことにした反動かもしれない。
理由が分かっても、癖が安全になるわけではない。
「握力」
ニナが訊く。
「右、六割。左、六割」
「次で交代」
「まだ持てます」
口から出た。
持てることと、持ち続けるべきことは違う。
「訂正。五割で交代します」
ニナは返事をしない。
聞いたという意味だ。
五分三十秒。
暁鐘の索が一本切れた。
鐘槌が前へ動く。
エドガーが二本目へ体重をかける。肩が完全に外れる音。彼は声を出さず、鐘鍵を足で押し込む。
私なら治せる。
今は治さない。
「エドガー、交代を」
「鐘守の役だ」
「肩を失う役ではありません」
オスカーが生活記録を読むのを止めず、片手で索を取る。補佐がエドガーを下げる。
役割は人へ固定しない。
エドガーは壁際へ座らされ、外れた肩を押さえる。私の視線に気づき、笑おうとした。
「これは戻さなくていい傷だ」
冗談の形をしているが、私への確認だ。
肩は戻せる。時間は戻さない。
「後で治療します」
「聖女様が?」
「まずニナが診察し、通常の整復を選びます。治癒が必要なら、説明して許可を得ます」
エドガーは少し驚き、頷いた。
私は、人を治せることを善だと思っていた。傷を消せば喜ばれる。痛みを短くすれば正しい。
けれど治癒は、傷と一緒に経過を消すことがある。誰に傷つけられたか。なぜ負ったか。治るまで誰が支えたか。身体に残るはずだった警告まで。
だから使わない、ではない。
使うかどうかを私一人で決めない。
これも、レイを待つ七分間に覚えておく。
鐘守でなくても鐘を止められる。墓守でなくても記録を読める。聖女でなくてもレイを救える。
私でなくても。
その言葉が胸へ刺さる。
必要とされないことが怖い。
レイが私なしで生きられるなら、私は何になる。
恋人ではない。聖女でもなくなる。守る相手も、戻す使命もない。
空になる。
それは誤った自己解釈だ。
私は彼を救う機能ではない。
機能を使わなくても、私の時間は残る。何をするかはまだ知らない。知らないことを空白ではなく、未定と呼ぶ。
未定は怖い。
それでも、白冠の正解よりましだ。
六分。
死痕から声がした気がする。
言葉にはならない。
右手の糸が一度だけ脈打つ。
「反応あり」
私は報告する。
「呼びかけ」
ニナの許可。
質問を二つ準備している。
本人認証のため、現在の選択を問う。過去のレイが答えられないもの。
だが、何を訊けば過去と違うのか。
私は七百回を知っているつもりで、生活を知らなかった。
過去に一度も訊いていない質問を選ぶ。
「レイ。あなたは生きたいですか」
同じ質問をした。
失敗かもしれない。
返事が来る。
遠い。
「生きたい。ただし、俺の生存を理由に暁鐘を鳴らすな」
胸が痛む。
彼だ。
断定するな。
白冠も言える。過去のレイも言える。
内容を照合する。現在の手順と一致。生存意思あり。還暁拒否。
「第二質問」
ニナ。
私は訊く。
「私をどうしますか」
ひどい質問だ。
蘇生中の彼へ、私との関係を決めさせようとしている。
言ってから気づく。
取り消す時間はない。
返事。
「何もしない。お前のことは、お前と相談して決める」
予想していなかった。
殺すでも許すでも、愛すでも逃げるでもない。
相談。
現在の彼らしい。
それでも、もう一つ必要だ。
私は何を訊きたい。
愛しているか。
私を捨てないか。
戻ってくるか。
どれも、私が安心するための質問だ。
本人認証へ私の飢えを混ぜるな。
けれど完全に切り離すこともできない。私は中立な器械ではない。
なら、利害を隠さず訊く。
「私は、あなたを愛してよいですか」
一秒。
二秒。
返事がない。
拒絶を想像する。
当然だと思う私と、耐えられない私が同時にいる。
三秒。
「愛すのはお前が決めろ。俺へ何をするかは、その都度聞け」
息が抜ける。
許可ではない。
禁止でもない。
私の感情を、私へ返された。
その都度、聞く。
七百回ぶん、一度の約束で彼を所有しない。
「本人反応、三項目」
ニナが記録させる。
「帰還経路、接続」
青血糸の左右が同時に熱くなる。
私は離さない。
六分三十秒。
大聖堂の外で歓声が上がりかけ、すぐ止まった。
誰かがレイの返事を聞いたのだろう。返事は回復ではない。市議会長が扉の外へ手を上げ、静かに待つよう示す。
二十八万人の夜が、この場の七分へ繋がっている。
以前の私なら、全員を遠ざけた。彼の死に顔を見せたくない。蘇生を邪魔されたくない。二人きりの方が集中できる。
本当は、彼を失う瞬間を誰とも共有したくなかった。
共有すれば、私だけの喪失ではなくなる。私だけが戻す理由を持つのではなくなる。
今は扉が開いている。
外の人々は入ってこない。指示された距離で待ち、自分の名前と今夜の時刻を書いている。レイの生死を見世物にせず、秘密にもせず、証人になる。
私は彼を囲う最後の壁を、自分の手で作らずに済んでいる。
レイの瞼が動いた。
脈はない。
身体反射の可能性。
希望を診断へ変えない。
ニナが胸骨圧迫を再開する。
「帰ってきてる。押す」
市議会長と交代し、深く、速く。
レイの肋骨が一つ折れる。
治したい。
今は折れてよい。
生きてから治す。本人へ説明し、同意を得て、通常医療で可能な範囲から。
七分。
ニナが告げる。
胸の奥で、何かが一度動く。
「止めない」
ニナは圧迫を続ける。
一度の拍動を回復と誤認しない。
二度目。
間が長い。
三度目。
ニナの手の下で、レイの身体が自分のリズムを探している。
「自発脈」
まだ。
四度目。
五度目。
「圧迫停止」
手が離れる。
私は数える。
一。
二。
三。
レイの心臓が、自分で続ける。
「自発脈、再開。七分二十秒」
記録の声。
私は青血糸を握ったまま、目を閉じる。
泣かないためではない。
視覚を切って、糸の状態を確認するためだ。
右、濃青から透明へ。
左、青白から透明へ。
再結合兆候なし。
錨は切れている。
暁鐘は鳴っていない。
世界は戻っていない。
レイだけが戻った。
「糸を離していい」
ニナが言う。
私はすぐに離さない。
三秒待った。
執着ではない、と言い訳しそうになる。
違う。
離すのが怖かった。
そう記録する。
「七分二十三秒、切断端を解放」
両手を開く。
青い糸は光にならず、ただの乾いた血へ変わって床へ落ちた。
レイへ触れたい。
ニナを見る。
「手を握ってよいですか」
「本人は返事できない。医療上は邪魔」
「では、しません」
私は両手を自分の膝へ置く。
彼の脈を確かめない。
ニナの記録を信じる。
一度。
二度。
三度。
数えかけ、やめる。
彼の心臓は、私が数えなくても動いていた。