俺が死ぬたび世界を巻き戻す聖女は、七百一回目に俺を監禁した 作:朝を数えない人
初夏月六日の夕方、俺は車椅子で大聖堂へ戻った。
歩ける、とニナへ言った。
十歩で胸が開く、と返された。
反論の材料がない。
昨日、施療院の廊下を十二歩歩いて傷口から血が出た。経験済みの失敗を根性で繰り返すほど、今の俺は若くない。
十七歳だけど。
押しているのは市議会長の補佐、リオだ。ミレーユではない。
彼女は三歩後ろ。灰色の作業着、杖なし、両手が見える位置。距離は俺が指定した。
嫌だからではない。
彼女に押してもらうと安心する。安心しすぎる自分を、白冠へ入る直前に扱いたくない。だから別の人へ頼んだ。
ミレーユにも理由を伝えた。
彼女は《はい》とだけ答えた。
落ち込んだかもしれない。納得したかもしれない。顔からは両方に見える。
決めつけない。
大聖堂の上には、七つの王都が重なっている。
目で見ると気分が悪い。
尖塔が七方向へずれ、鐘窓が同じ場所で開閉し、橋のある川とない川が交差する。人影も重なる。今の市民の肩から、別層の腕が生えているように見える。
「吐き気は」
ニナが横から訊く。
「六。胸痛四。右手の痺れ七」
「吐いたら中止」
「一回まで」
「一回で中止」
交渉の余地なし。
俺の役割は名前を呼ぶこと。
戦うことではない。
七層へ入る観測者は二人一組。今の王都側で帰還索を持つ者が一人。医療担当一人。生活記録担当一人。
一つの名前に最低六人。
非効率だ。
だから安全だ。
効率は人を一つの機能へ重ねる。白冠はそれを極限までやった。
大聖堂前の広場へ、長い机が置かれている。
白い名札が四千二百六十三枚。
白冠に消された可能性がある人の数だ。
多い。
七百より多い。
数字を見た瞬間、全部を今夜中に呼ぶ計算を始める。一人一秒でも一時間以上。確認まで入れれば無理。
違う。
俺一人が呼ぶ必要はない。
机の向こうに人が並んでいる。
家族。隣人。同僚。喧嘩相手。名前しか知らない人。名前も知らず、生活痕だけ持ってきた人。
一人につき一人ではない。
一人を複数の関係から呼ぶ。
名前が不明なら、無理につけない。
《南市場の左利きの魚売り。赤い長靴。値引きをしない》
《西門外で白い犬へ餌をやった人。名前不明》
不明のまま呼ぶ。
名を戻す行為が、新しい間違った名を押しつけることにならないように。
「始めます」
市議会長が言う。
鐘は使わない。
各区の人が、自分の声で始める。
広場が名前で満ちる。
サラ。
ハロルド。
イヴァン。
セラ。
エマ。
マルク。
マルクの白い輪郭が大聖堂の階段に立つ。
以前より顔がある。
娘のエマが前へ出る。
「お父さん」
呼び方だけ。
名前ではない。
それでもマルクが反応する。
関係の中で使われた呼び名も、生活記録だ。
「私は輸血した」
エマが言う。
「あなたの借りを返すためじゃない。私が、レイに生きてほしいと思ったから」
俺が勝手に作りかけた物語を、本人が壊す。
マルクは娘を見る。
「そうか」
声がある。
白い身体へ色が少し戻る。
完全ではない。指先は骨のまま。生き返ったわけでもない。
記録人格が、自分の名と関係を選べる程度に戻った。
「戻りたいですか」
市議会の記録係が訊く。
「どこへ」
「現在の生活記録へ。一時的な身体を作る案があります」
マルクはエマを見る。
「戻らない」
エマの顔が歪む。
「理由を記録しますか」
「娘が私の借りで生きるのを、また邪魔しそうだ」
「そんなこと」
エマが言いかけ、止まる。
父の選択を否定しない。
「話せる間に、話していい?」
「ああ」
二人は広場の端へ行く。
戻らない選択も成功に含める。
白冠は一つ弱くなる。
大聖堂の尖塔が一つ、現在の位置へ戻った。
六人の白骸が順に名乗る。
リュカ。
アンネ。
セドリック。
ハンナ。
ヨエル。
それぞれに呼ぶ人がいる。
誰もいない者もいる。
ヨエルの前には、鐘楼の掃除道具だけが置かれた。持ち手に削った三本線。本人が毎朝、仕事の終わりにつけた印。
「ヨエル。鐘楼掃除。三本線」
エドガーが呼ぶ。
「お前の後任は、仕事が雑だ」
ヨエルが笑う。
「お前がやれ」
「肩が上がらん」
「なら口を出すな」
二人の喧嘩で色が戻る。
美しい別れだけが人を作るわけではない。
俺は名札を一枚取る。
ユアン・ベル。
ニナが隣にいる。
三本脚の椅子を押してきた。
「呼ぶ?」
俺が訊く。
「呼ぶ」
「俺も」
「最初は私」
姉妹でも恋人でもない。兄妹だ。優先権がある、という意味ではない。ニナが最初に話したいと希望した。
俺は譲る。
「ユアン・ベル」
ニナは名札を椅子へ置く。
「薬師。私の兄。青錆止めを多く入れすぎる。椅子の脚を直すと言って、三本のまま七年放置した」
椅子が軋む。
「死痕へ勝手に仕事を残した。私へ説明しなかった。戻ったら殴る」
白冠層の一つで、工房の窓が光る。
俺の右手が冷える。
死痕の扉が開いた。
《殴るのは一回まで》
ユアンの文字。
ニナが笑う。
泣いているかは見ない。
「一回で済むと思うな」
《暴力反対》
「生体へ使う薬を無断で死痕へ入れた件」
《緊急避難》
文字が椅子の座面へ増える。
生活していた会話だ。
俺も呼ぶ。
「ユアン・ベル。俺の幼なじみ。証拠を本人より先に置く。説明を後回しにする。死んでも人使いが荒い」
《お前に言われたくない》
正論。
「戻りたいか」
文字が止まる。
しばらくして、一文字ずつ出る。
《身体はいらない》
ニナの指が椅子を掴む。
《拒否鍵として残る。記録を開く時だけ呼べ》
「会えないの」
《今も会話してる》
「そういう意味じゃない」
《知ってる》
ニナが黙る。
ユアンの輪郭が椅子の後ろへ出る。
顔は白い。
大きな前掛け。片方だけ曲がった眼鏡。俺が思い出せなかった姿。
全部は戻らない。
ニナが失った兄の時間も戻らない。
それでも輪郭は、自分で残り方を選んだ。
「一回だけ」
ニナが拳を上げる。
輪郭の肩を殴る。
拳は少し透け、当たった。
《痛い》
「生きてた時に言え」
輪郭が笑う。
白冠の第二尖塔が戻る。
名前を呼ぶ作業は夜まで続く。
呼ばれた人だけが選ぶのではない。
呼ぶ側も途中で止められる。
東区の男は、妻の名札を握ったまま列を外れた。
「呼べません」
記録係が理由を求めず、《保留》の箱を出す。
男は名札を入れない。
「保留にもしたくない。今日、決めたくない」
新しい箱を作る。
《未決定》
保留は後で呼ぶ予定を含む。未決定は、予定そのものを決めない。
言葉を一つ増やすだけで、人が逃げられる場所ができる。
別の女は、姉の名を三度呼んだ。反応がない。四度目を止められて怒る。
「声が届いていないだけ」
「反応なしを失敗にしないため、一度記録を照合します」
「私の声が足りないの」
「足りないとは言っていません」
記録係は同じ説明を繰り返す。女は泣きながら名札を渡す。
一時間後、姉の生活痕は別の層で見つかった。名前の綴りが一文字違った。
反応は戻る。
女は喜び、姉の輪郭は戻らないことを告げられる。
喜びと落胆が同じ顔にある。
白冠なら、どちらかへ分類する。
俺たちは両方を記録する。
西区の鍛冶師は、消えた弟の名を呼ばないと決めた。
「あいつは白冠へ自分から入った。戻すなと言われた」
本人拒否の証拠は古い手紙。筆跡を三人が照合する。
弟が操作されていた可能性もある。それでも、今ある意思表示を無視して救出しない。記録扉だけ残し、白冠破壊後も開けない封印を選ぶ。
呼ぶことが善ではない。
忘れないことと、引き戻すことは違う。
四千二百六十三人、全員は戻らない。
呼んでも反応のない名。
同じ名が三人いて、誰の生活痕か分からないもの。
本人が白冠側へ残ることを選ぶ例。
戻りたいのに、現在へ接続できない人。
成功、失敗で分けない。
《反応なし》《照合不足》《本人拒否》《接続不能》と別に記録する。
照合不足の人は、後で新しい証拠が出るかもしれない。
接続不能の人は、存在しなかったことにならない。
「休憩」
ニナが俺の車椅子を止める。
「まだ」
「吐き気」
「七」
「中止」
「吐いてない」
「七は吐く前」
俺の役割を別の人へ渡す。
名札はまだ三千以上。
俺が呼べるのは、俺と関係があった人だけ。他の名を口にしても、ただ読み上げる音になる。
リオが俺を施療天幕へ運ぶ。
ミレーユは三歩後ろのまま。
「近くへ来てくれ」
俺が言う。
彼女は足を止める。
「どこまで」
「車椅子の右。一歩」
来る。
「手を」
言ってから、曖昧だと気づく。
「右手を握ってほしい。今から、俺が離してと言うまで」
「はい」
彼女の手が俺の右手を包む。
感覚が鈍い。
温度は少し分かる。
安心する。
それを認める。
「吐き気は」
ニナ。
「六」
「恋愛で治すな」
「休んだからだ」
「なら離しても同じ」
腹が立つ。
実験する気はない。
「今は必要」
ミレーユの手がわずかに強くなる。
「強さは」
「そのまま」
言えば調整される。
命令ではなく、共同作業に近い。
天幕の外で名前が続く。
グレゴール・ヴァイス。
誰かが大司教の名を呼んだ。
広場が静かになる。
拘束された本人が、市議会の護衛に連れられて来る。
鎖は手首と足首。口は塞がれていない。
顔色が悪い。白冠との接続を切られ、自分の記憶が戻り始めている。
「誰が呼んだ」
グレゴールが訊く。
一人の老女が前へ出る。
「私です」
「知り合いか」
「あなたは覚えていないでしょう。神学校で食事を作っていました」
老女は名札を置く。
《グレゴール・ヴァイス。豆を残す。試験の前夜だけ厨房へ来る》
大司教の顔が歪む。
「そんな記録に意味はない」
「白冠片の提供条件に、自分の記録を戻すことを入れたのはあなたです」
「失敗記録だ」
「豆を残したことが?」
「違う!」
大聖堂の七層が揺れる。
グレゴールの背から、切ったはずの第七索が出る。
自分の失敗記憶。
白冠の中心へ繋がっている。
彼は白冠を操っているのではない。
失敗を見ないために白冠へ食わせ、白冠はその恐怖を判断基準にしている。
失敗しない結果。
誰も死なない王都。
誰も選ばない王都。
「あなたが最初に失敗したのは何ですか」
老女が訊く。
グレゴールは答えない。
第七索が太くなる。
白冠が彼の沈黙を守ろうとする。
俺はミレーユへ言う。
「離して」
彼女の手が離れる。
車椅子を自分で動かす。二回転で胸が痛む。リオが押そうとする。
「俺が行く」
三回転目。
グレゴールの前へ。
「俺を殺した百十二回か」
「違う」
即答。
「白冠実験か」
「違う」
「神学校」
老女が持っていた古い出席簿を開く。
一頁だけ白い。
「同室の学生がいた。名前は」
グレゴールの喉が動く。
言わない。
白冠が代わりに、頁を消そうとする。
ユアンの椅子が軋む。
拒否鍵が白い光を止める。
《本人以外の記録まで消すな》
ニナが椅子を第七索の下へ置く。
俺の右手の死痕が反応する。
出席簿の白い頁に、薄い字。
アーロン。
「アーロン」
俺は読む。
グレゴールが鎖を鳴らす。
「呼ぶな」
「本人の同意がない」
俺は止める。
名を知ったからといって、皆で叫べばいいわけではない。
「アーロンの記録を呼ぶかは、アーロン側の反応を確認する。お前の失敗は、お前が話せ」
「話せば白冠が完成する」
「隠しても完成する。三日後だ」
「私が失敗を認めれば、白冠は私を失敗として切り捨てる」
ようやく出た。
恐れている。
死ではない。
自分が誤った人間だと確定すること。
白冠から正しさを借りられなくなること。
「それでいい」
俺は言いかける。
簡単に言うな。
俺も過去の自分を一つにまとめ、被害者という正しさを借りかけた。グレゴールと同じではない。けれど、似た逃げ道を知っている。
「失敗を認めても、お前の全部が失敗になるわけじゃない」
「慰めか」
「違う。裁判は受けろ。被害は記録する。許すとは言ってない」
「なら何が残る」
老女が答える。
「豆を残したこと。試験前に厨房へ来たこと。アーロンと同室だったこと。その後に何をしたか」
善人だった過去で免責しない。
悪人になった後で、過去の人間まで消さない。
グレゴールの第七索が震える。
「アーロンを、救えなかった」
大司教が言う。
大聖堂の中心で、白冠が割れた。
「病だった。治癒対象の順位を決めた。私は成績と回復率を見て、別の学生を先にした」
老女が出席簿を閉じる。
「その学生は」
「助かった」
グレゴールの返事。
誰か一人を見殺しにして、全員が死んだ話ではない。
選んだ先には、助かった人がいる。
だから余計に苦しい。
アーロンを先にすれば、別の学生が死んだかもしれない。両方を救える治癒師はいなかった。時間も薬も足りなかった。
正しい結果が最初からない。
グレゴールは、その状況に耐えられなかった。
自分が選んだという事実を、規則が選んだへ変えた。次はもっと正しい規則を作った。白冠なら損失を比較し、悔やまない答えを出すと信じた。
その白冠も、結局はグレゴールの恐怖を比較基準にした。
失敗したくない人間が、失敗しない神を作った。
神は人間を選べない部品へ変えた。
「助かった学生の名は」
俺が訊く。
グレゴールは顔を上げる。
「ベルトラン・オル」
「記録は」
老女が別の頁を開く。
卒業後、北部の村で治癒師になった。三十二年働き、流行病で百人以上を治療した。死者もいた。全員は救えなかった。
アーロンの死が百人を救った、と結論にしたくなる。
違う。
ベルトランが生きて選んだ仕事だ。アーロンの死へ成果を帰属させれば、また死者を結果の材料にする。
「二人は別に記録する」
俺が言う。
グレゴールの目から、借りていた正しさが一つ剥がれる。
声が続く。
「アーロンは死んだ。選択は規則どおりだった。正しかった。それでも、私が選んだ」
第七索から白い顔が出る。
若い男。
名前を呼ぶ前に、本人が口を開いた。
「アーロン・セイス」
自分で名乗る。
「お前の判断で死んだ。だが、私の死後をお前の正しさへ使うな」
グレゴールが膝をつく。
白冠の七層すべてに亀裂が入る。
中心が見える。
王冠でも神でもない。
試験用紙を握った少年が、失敗と書かれるのを恐れている。
その恐怖へ、千人分の死が重ねられていた。