公爵家を二十年回した女中頭、本日付で辞めさせていただきます ~お隣の貧乏伯爵家を立て直していたら、元の職場が静かに崩れていくようです~ 作:aquali
婚礼の朝、バジルの庭は満開だった。
薔薇ではない。薬草の白い花と、果樹の若い実と、蜂の羽音の庭である。働く庭は、晴れの日も働きながら咲く。二十年門を磨いた庭師は、今朝は門でなく、庭の真ん中に立っていた。一番よい場所に一番よい花が来るよう、鉢の位置を朝から三度直している。
式は小さく、宴は庭で開いた。
招いたのは身内と、市場と、組合だけである。女将たちが花より賑やかに笑い、粉屋と親方が早くも杯を交わし、ブノワ殿は開始前から涙腺が危うい。オルタンス様は「身内席はこちらよ」と自分で椅子を並べ替えている。ロクサーヌ様は臙脂ではなく、今日は薄い若草色の装いで来られた。目利きは、主役の日を
塀の向こうからも、三人来た。
ロズは新しいお仕着せで、門をくぐるなり駆け寄ってきて、頭――と言いかけ、言い直した。
「……奥様。お綺麗です」
「ロズ。屋敷は?」
「回しております。……回して、みせます」
目の下に薄い
バティスト様は、折り目正しい古い礼服で、門の前に長いこと立ってから入ってきた。
「……良い日和です」
それだけ言って、目尻を拭う。
若公爵は、来なかった。代わりに祝いの品が届いた。蜂蜜色の葡萄酒がひと箱、品書きは一行きり。「取引先より」。距離の取り方に、あの家なりの筋が通っている。この葡萄酒は、乾杯に使うことにした。筋には、筋で返すのが礼儀である。
宴の主役は、台所だった。
コリンヌが袖をまくって宣言する。
「今日は十八通り目をおろすよ。婚礼のための、新作さ」
芋を蜂蜜と焼き上げた、香ばしくて甘い菓子である。ひと口で女将たちが静かになり、次のひと口で、前より騒がしくなった。コリンヌは私の隣へ来て、皿をひとつ、押し付けるように寄越した。
「嫁入り道具ってのは、手に付いた工夫のことだって言ったろ。……こいつの拵え方は、あんたに持たせるよ。あたしの道具箱から、嫁入り道具の分けまえさ」
「あ、ありがとう……。こ、これは湯気でございます」
私は慌てて手巾で目をぬぐう。
「はいはい、湯気だね」
鍋の湯気で通る涙の量には、限度というものがある。今日ばかりは、限度を検めないでおいた。
私は今日から、家政長ではない。
家の者は雇えない、が私の規定である。だから肩書は返上して、同じ台所に女主人として立つ。給金はなくなり、成功報酬の条文も役目を終えた。家の実入りの全部が、そのまま私の帳面になったのだから、考えてみればこれは、生涯最大の昇給である。
「肩書が変わっただけで、献立は変わりません」
そう宣言すると、コリンヌが笑った。この屋敷の台所は、これからも湯気と笑い声で回るのだ。
◇
塀の向こうの屋敷では、新しい女中頭が廊下を歩いていた。腰の鍵束が鳴り、兼任で宙に浮いていた職分がひとつずつ、名札を付けて地面に降りていく。若い当主は口を出さず、月に一度だけ帳面を検める。すれ違った古参の女中が、小さく言った。「……前の頭に、似てきたね」。その晩、執務室で帳面を閉じた若公爵は、誰にともなく呟いた。
「……女中頭は、誰でも務まらん」
窓の外、塀の向こうの庭に、温かい灯りが揺れている。
◇
客が帰り、家中が寝静まって、食堂に蝋燭が一本残った。
最初の食卓である。当主と、女主人の。皿の上には十八通り目の残りと、蜂蜜色の葡萄酒が指二本分。窓の外で、夏の虫が鳴き始めている。
「今週から、給金日はありませんね」
「代わりに、家計がございます。週に一度、二人で検めましょう。……儀式は名前を変えて、続くものでございます」
「では、最初の家計に」
杯を合わせてから、私は布の包みをひとつ、卓の上に置いた。開くと、銀貨が三枚。
「……使わなかったのですか?」
「使えませんでした」
最初の給金日の、最初の三枚である。あの夜、掌で受け取った温度のまま、二十年物の癖で、仕舞い込んで取ってあった。使い道なら、いくらでもあった。使える銀貨では、なかっただけである。
旦那様――いいえ、旦那様のままでいい。呼び方の様式も、きっともう抜けない。旦那様は三枚を見つめ、それから私を見た。
「それは、取っておいた理由が、あるのですか?」
「ございます。本日、分かりました」
三枚を掌に載せ、灯りにかざす。小さな銀の目方が、掌の上で、二十年ぶんの重さをしている。
「これはわたくしの、生涯でいちばん高い買い物の――手付けでございました」
値札を剥がすと約束してくれた人が、湯気の向こうで笑っている。
残りの代金は、生涯をかけて、この食卓で受け取っていく。