『逆襲のシャア』の総帥に憑依した元商社マン、アクシズを落とさず地球圏を支配する 〜静かに暮らしたいだけなのに、アナハイムと狂信者に神輿を担がれて逃げられない件〜 作:なやむ
U.C.0151ー宇宙世紀0151年
キャスバル・レム・ダイクンがこの世を去ってから、10年の月日が流れた。
かつて数々の戦火に焼かれ、数多の悲劇を生み出した地球連邦は、今やその姿を大きく変えている。
彼の最大の功績、それは「地球に住む全市民の宇宙移民計画」の完遂である。
人類は少数の維持管理の人員を除いて、地球の地表には住んでいない。
サイド8を中心とした宇宙コロニー群には、高度に自動化された社会と、医療・福祉が完璧に保証された理想的な生活圏が築かれている。
かつて宇宙の民が渇望し、連邦が頑なに拒み続けたスペースノイド参政権も実現している。それも、全人類を宇宙へ移住させる方法で今や誰もが等しく一票を持つ政治的権利の平穏がもたらされていた。
そして経済的にはキャスバルが推進した「建築専用MS」の投入によるインフラ整備の高速化、小惑星採掘の本格化に伴う資源価格の安定、そして新型エンジンによる木星定期便の増加がもたらしたヘリウム3の供給拡大とエネルギーコストの減少が決定打となり、地球圏は歴史上類を見ない好景気に沸き返った。
広大な地球の領土維持コストを廃し、人類の生活圏を宇宙コロニーへ集約したことで、連邦の固定費は激減。そこへエネルギー利権による巨万の富が加わり、この潤沢な財源が、全人類の生活を底上げする手厚い医療・福祉のバックボーンとなったのである。
もちろん、資源配分を巡る行政上の衝突や、旧世代の帰属意識に起因する小規模な反発が、完全に消え去ったわけではない。地表からの立ち退きを拒む過激派による局地的なテロの試みや、地球圏の激変に取り残された火星ジオン軍による反乱画策もあった。
しかし、それらはいずれも戦争に発展する前に、首相直卒のロンド・ベル隊等によって迅速に、かつ最小限の武力で処理された。国家同士が艦隊を並べて殺し合うような大規模な武力衝突は、この何十年間、地球圏のどこにも起きていない。大局的な「平和」の看板は、一度として塗り替えられることはなかったのである。
そして、その頭上で輝く地球は、皮肉なことに、人類が去ったことでかつてないほどの輝きを取り戻していた。
かつて都市があった場所は少しずつ林に飲み込まれ、汚染された海は今でも行われる定期的な清掃により、深い藍色を湛えている。
それは、誰の所有物でもない、人類共通の聖域となった地球だった。
歴史書は、これを「人類最大の英断」と呼ぶ。
そして、ほんの十数年前まで地表で抵抗運動を続け、最終的に強制移住させられた老人たちの苦い記憶や、彼らが故郷を追われた泥臭い記録は、今やメディアの表舞台でたまに目にする程度で、人々の記憶からは急速に風化しつつある。
もっとも、当の反対派の老人たちですら、今では「宇宙に上がってみたら、医療費は安いし、冬の寒さも夏の猛暑もない。おまけに鬱陶しい虫一匹いないんだから、地上より遥かに快適だ」とコロッと態度を変えて余生を謳歌しているのだから、この計画の正しさを何よりも物語っていると言えた。
――――――
キャスバルが居を構えたサイド8の旧首相府。
そこは現在、人類の文明と地球の自然を繋ぐ「記念館」として静かに佇んでいる。
訪れる人々は皆、厳かな面持ちで、かつてこの場所で人類の未来を設計した一人の軌跡を追う。
歴史は彼を重力という呪縛から人類を解き放った最後の希望と呼ぶ。
全人類の宇宙移民に伴う難題は、まさに天文学的な規模であった。
地球上の拠点と利権をすべて奪われる軍部の猛烈な反発、地表に潜伏する不法残留者の退去、通貨統合に伴う巨額の債務処理、地球圏全体のサプライチェーン再構築、そして旧ジオン兵らへの市民権割当て。
およそ人類の事務処理能力の限界を超えると思われたこれらの大事業も、ゴップを筆頭とする優秀な閣僚と官僚機構の手腕によって、まるで精密機械が動くかの如く淡々と処理されていった。
連邦政府の歪んだ支配構造を根底から破壊し、ジオンという敵対概念を共に宇宙を開拓するパートナーへと昇華させたその手腕は、もはや神話の域に達していた。
その神話の中の一つに「木星への公式訪問」があった。
首相退任後、当時の最新鋭かつ、数々の特例措置によって高速開発が進められたミノフスキードライブエンジン搭載艦に自ら乗り込み、議員として、そして元首相としても歴史上初めて木星へと赴いた。そして、片道だけでも数ヶ月を要する過酷な遠征の末、木星の指導者と呼ぶべき立場にいたクラックス・ドゥガチとの直接対談に臨んだ。
当時、地球への深い怨恨を募らせていた老独裁者に対し、キャスバルは「強力な放射線遮蔽を備えた木星圏専用居住コロニーの建設支援」「新鮮な生鮮食品プラントの無償提供」「5年間の木星勤務でサイド8への優先移住権を労働者に付与」という、現場の生存環境と意識を劇的に変える「木星圏での労働環境改善計画」を提示した。
木星労働者の命と未来を救うための圧倒的な実利と、それを対等なパートナーとして差し出してきたキャスバルの姿勢を前に、地球連邦に対して怒りを抱いていたドゥガチも最後には静かに矛を収めた。
地球への嫉妬と怨念に燃えていたドゥガチが、最終的には連邦政府との間に強固な協力体制を敷くことに合意したこの一幕は、すでに地球圏のエネルギー供給を支えてきた木星圏との関係を、これまでにない規模で深化させる転換点となったのである。
そして、キャスバルの死については、こう残されている。
国民的な引き止めの声を押し切り、首相の座を後継者へ譲ってからも、一議員として、そしてその後も名誉職として仕事に携わり続け、宇宙世紀0141年、年齢は82歳。
サイド8の一隅、旧首相邸の一室――退任後も防犯上の理由として住み続けることを許されていたその部屋にて、老衰による安らかな最期であったとだけ、公式記録には記されている。
だが実態は、前世のしがないサラリーマンの精神のまま、地球圏全体の経営再建というブラック案件、そして終わらない相談と陳情、数々の式典参加などをこなし続けたことによる、文字通りの過労死であった。
臨終の場に居合わせた側近によれば、彼は最後の瞬間、うっすらと目を開け、こう呟いたという。
「……ようやく、誰にも見つからずに眠れる」
側近たちはこれを、生涯を人類の平和のために捧げた男の、達観した最期の言葉として涙ながらに書き記し、その言葉は今も記念館の壁に、人類解放のシンボルとして荘厳な金文字で刻まれている。
彼が「これ以上私に仕事を振るな、二度と起こすな」という魂の底からの業務終了宣言を叩きつけたとは夢にも思わずに。
もっとも、彼の私室から発見された一冊の日記――生前、誰にも見せることのなかったそれには、世界を導いた救世主とは到底思えない、あまりにも俗っぽく切実な走り書きがぎっしりと残されていたという。
『仕事が多すぎる』
『今日も無事に生き延びた』
『誰も戦争を起こしませんように』
『本当に仕事が多すぎる』
『早く隠居したい』
この日記は現在、記念館の地下書庫に国家最高機密として厳重に保管され、ごく一部の研究者にのみ、その存在が知られている。神話の裏に隠された「ただ平穏に生きたかっただけのおじさん」の胃痛の記録は、表に出ることはない。
人類は、キャスバル・レム・ダイクンという指導者に出会ったことで、殺し合いという愚行からひとまず卒業したことになっている。
夜空を見上げれば、かつて人類が奪い合い、傷つけ合っていた母なる地球が、ただ静かに、宝石のように美しく輝いている。
地球圏を再生させた偉大な指導者――歴史書にはそう刻まれるであろうキャスバル・レム・ダイクンだが、その本質は、理想に燃える革命家などでは決してなかった。
彼が本当に望んでいたのは、誰の目にも留まらぬ田舎の片隅で、厄介事から遠ざかり、のんびりと湯呑みでも傾けながら縁側で余生を過ごすこと。ただそれだけだったのだ。
「世界を救う」という究極の貧乏くじを引かされ、死ぬまで激務の神輿に担がれ続けた男の、それが歴史に隠された一番の本音であった。
――――――
その日の夜、サイド8のとある一般家庭では、夕食の支度をしながら、ラジオの臨時ニュースがぼんやりと流れていた。
『……本日の連邦議会本会議では、キャスバル・レム・ダイクン元首相の首相就任日を正式な祝日に制定するか否かを巡り、与野党の議論が紛糾しております』
『祝日の名称案として「和解の日」などが提出されておりますが、一部議員からは「キャスバル様の祝日は既に存在し、祝日が増えすぎれば経済を停滞させかねない」との現実的な反対意見も出ており――』
「……また揉めてるわねぇ、議員さん達は」
台所に立つ母親が、苦笑まじりに独りごちた。
ダイニングでは、宿題もそっちのけでラジオに耳を傾けていた息子が、不思議そうに尋ねる。
「ねえ母さん、キャスバル様って、そんなにすごい人だったの?」
「さあ。歴史の教科書でも報道でも、すごく立派な人だったってことになってるけど……」
母親は窓の外、遠く輝く地球を思って視線を向けた。
「母さんは、なんとなく、そんな大層な人には見えなかったわ。もっと、面倒くさがりの、普通の人だった気がするの」
母親の言葉に、これといった根拠はなかった。
ただそれは、地球圏に住む何百億もの人々が、それぞれの生活の中で、それぞれに彼のことを思い出す、ごくありふれた夜の一幕だった。
宇宙世紀は今、争いの記憶をその緑と深い青をたたえた地球の中に閉じ込め、静かに、そして確実に、未来へと進み続けている。