「俺を忘れろ」と婚約者に言われましたので記憶を消しました――ところで、あなたはどちら様ですか? ~記憶消去スキルで好きも嫌いも選び直します~ 作:aquali
「今日の結末は、逃げですわ」
私がそう申し上げたのは、王立歌劇場の秋、新しい演目の初日の幕間――果実水の売り場の脇、決まった柱の下でのことである。
順を追って、お話しいたしましょう。……と申しましても、今年は、破棄も魔法も出てまいりませんけれど。
◇
演目替わりの初日は、上等の秋晴れだった。
今度の演目も、再演の多い当たり狂言である。結末なら、王都の芝居好きがみんな知っている類だ。つまり口論の支度は、幕が上がる前から万端なのである。
公爵家の桟敷は、勝手が分かってみれば、実家の桟敷と壁一枚の隣だった。後ろの席がふたつ。天鵞絨の壁に音が湯のように溜まる、あの席である。開幕前のざわめきを、私は今夜、隣の気配と一緒に聴いている。一年前は、ひとりで埃を拭いた桟敷である。壁一枚向こうでは今夜、妹が母と並んで、扇を揺らしている。
幕の上がる直前、隣のあの方が懐から例の帳面を出し、膝の上で何か一行、書き付けた。
「……何をお書きになりまして?」
「秘密だ」
「まあ。夫婦になるのですわよ、わたくしたち」
「夫婦にも、秘密はある。……むしろ、要る」
仕舞われた帳面の厚みが、心なしか、春より増している。中身を知る権利は、まだ私のものではない。ないけれど――あの厚みのぶんだけ、私の一年が誰かの手で書き留められているのだと思うと、暗がりの中、頬のあたりが勝手にゆるむのである。
三幕の山場で、場内がどっと沸いた。
私も、遠慮なく笑う。隣の無愛想は笑わない。笑わないかわりに、山場の間じゅう、機嫌のいい重心で座っている。
そして、幕間の鐘である。
◇
柱の下の果実水は、今年も皮ごと搾りである。
ほろ苦い一口で舌を湿らせて、私は口火を切った。この一年で覚えた、王都でいちばん贅沢な無駄話の時間である。
「今日の結末は、逃げですわ」
「ほう」
「主役ときたら、あれだけ引っかき回して、最後はぜんぶ時の流れ任せですのよ。作者の筆が、山場で怖じ気づいたんですわ」
「逃げではない」
無愛想が、断定した。
「あれは、選び直しだ」
「……あら」
「主役は、初めの望みを捨てたのではない。並べ直して、別の一つを取った。捨てると選ぶは、外から見れば同じ形だがな。……幕の内側では、まるで別のことだ」
「では伺いますけれど、初めの望みは、どこへ参りましたの?」
「捨てていない。棚にある。……棚の物は、いつでも下ろせる」
棚、である。この方の棚の使い方なら、私がいちばんよく知っている。七年、開けずに守り通した棚の持ち主は、こういう評を言うのだ。
言い合ってから、二人とも、一拍黙った。
――どこかで聞いた応酬である。
一年前のこの柱の下で、同じ演目評を、ちょうど裏返しに言い合った。逃げだと断じたのはあちらで、選び直しだと返したのは私である。口論の相手を七年と一年もやると、相手の得物まで使えるようになるらしい。
「……いま、わたくしの台詞をお使いになりまして?」
「君こそ、俺のを使ったな」
「先にお使いになったのは、どちらでしたかしら?」
「……さて、な」
どちらも譲らないまま、鐘が鳴る。決着は、次の幕間へ持ち越しである。次の幕間は、来週もある。再来週もある。この決着のつかなさが一生ぶん続くのだと思うと、我ながら、ずいぶん豪勢な買い物をしたものである。
桟敷へ戻る廊下で、ふと、壁一枚向こうの気配に目をやった。
妹が、扇の陰から向かいの桟敷を盗み見ては、慌てて目を伏せている。向かいの桟敷では、若い方がひとり、同じ拍子で目を泳がせている。……おやおや。あちらの演目も、どうやら開幕らしい。姉として申し上げたいことは山ほどあるけれど、今夜のところは、知らない顔をしておく。恋の口火は、本人が切るものである。
◇
王都の外れ、〈糸の家〉。夜更けの戸を、遠慮がちに叩く音がする。アウグステが灯りを提げて開けると、外套の頭巾を目深にかぶった訪ね人が、夜露の匂いと一緒に立っていた。顔は、見えない。事情も、まだ何も語らない。ただその両手が胸の前で、固く固く、何かを握り締めている。老婆は戸を大きく開け、いつもの通りに言った。「――まず、お茶をどうぞ」
◇
幕間の終わりの鐘が鳴って、私たちは後ろの席へ戻った。
場内の灯りが落ちて、ざわめきが、糸を巻き取るように細くなっていく。暗がりの中、隣の気配がひとつ息をついて、椅子に深く沈む。七年、顔を使わずに済む場所だったこの暗闇は、今では二人ぶんの、誰にも値踏みのできない席である。
膝の上で、手袋の指を軽く組む。
解いた糸を、結び直すことは誰にもできない。それは、あの夜明けから変わらない。けれど新しい糸を、好きな色で、好きな織り目で織っていくことなら――それはこれからの私の、毎日の仕事である。織り手はもう、間違いを怖がらない。間違えても、それごと選んだ柄にしてしまえばいいことも、覚えた。
幕が、上がる。
舞台の光が、暗がりの私たちの膝まで届く。物語は山場へ。王都でいちばん贅沢な無駄話は、次の幕間へ。私の新しい記憶は――明日へ。
山場で、私は今夜も、声を立てて笑う。