夫に書類の上で「病死」させられた奥様は、故人の身軽さで生き直します ~縁談も無心も呼び出しも、あいにく死んでおりますので~ 作:kuratn
クリームヒルト大奥様は、買い物客の顔で店先に立っていた。
供をつけず、馬車を離れた辻に待たせて、である。この人が、どこの誰とも知れぬ花市の帳場女のところへ、自分の足で来た。その一事が、もう何よりの白状である。追い詰められていなければ、来ない人なのだ。
心の臓が、ひとつ大きく鳴った。
王都で、わたくしの顔を知りながら、名を呼べない者はふたり。ひとりは墓前で「あ……」と言ったきりだった。もうひとりが、いま、帳場一枚を隔てて立っている。ヴェールもなく、頭巾もない、素顔の間合いである。逃げる手も、一瞬だけ浮かんだ。逃げない。ここは、わたくしの持ち場である。それに――名を呼べば偽装の白状になる縛りは、この人の口をこそ縫っている。縫われているのは、こちらではない。
「白い花を。……見繕ってちょうだい」
「かしこまりました」
私は野の白い花を選り、茎を切り、麻紐をかける。あちらは扇も開かず、手元をじっと見ている。店じまいの花市は人が引いて、水を打った石畳に、冬の夕陽が薄く伸びている。
「野の花ばかりね」
「季節のものですので」
「……あの追悼の会の花も、あなたの見立て?」
「さようでございます」
「いい趣味だこと。あの人の好みを、よくご存じで」
褒め言葉の形をした、探り針である。針の先がどこを刺しているかは、知っている。知っていて、私は針の横を通した。
「ご縁者に伺いましたの。……確かな筋ですわ」
「あなた、お名前は?」
「ヴェラと申しますわ」
「……そう。呼びやすい、いいお名前ね」
どの名前が呼べないかを知り尽くした人の、精いっぱいの毒である。頂戴しておく。
束を渡すとき、老貴婦人は代金と一緒に、声を置く。
「あなたが誰であれ、あの家に関わらぬなら、悪いようには致しません」
続けて、静かに条件が並んだ。良い勤め口。良い縁談。望むなら、王都を離れるだけの路銀も。脅す前に、まず買う。この人の流儀は、雑な息子のそれより、よほど筋が通っている。通っているだけに、断りにも、筋を通さねばならない。
名を、言わない。誰、とも言わない。「あれは妻だ」と言えば偽装の白状になる縛りは、この人の口も縫っている。縫われた口のまま脅しに来る老練と、その滑稽と。四年前、婚礼の日にたった一度だけ交わした目を、私は覚えている。値踏みの目だった。今日の目は、値踏みではない。値の分かっている品を、どう始末するかの目である。
私は前掛けを外し、姿勢を正す。
それから、生涯で二番目に深い礼をした。一番は、叔父に差し上げてある。
「――故人は、敷居をまたぎませんわ」
礼の深さのまま、申し上げた。
「あの家の敷居は、二度と。ご安心なさいませ。……ですけれど、大奥様」
顔を上げる。
「生者は、別ですの」
扇が、止まった。
ロザリンデ嬢の文のとおりである。先の奥様の話になると、この人の扇は止まる。幽霊を信じない人である。倍の花も祈祷師も、あの家では息子の流儀であって、この人の流儀ではない。だからこそ、いま目の前に立っているものが幽霊などではなく、生きて、忘れず、動く女だということを――この王都で、この人だけが正確に理解したのである。
「……そう」
「はい。ご忠告は、頂戴いたしましたわ。――お花代と、ご一緒に」
老貴婦人はそれだけ聞くと、束を抱え直し、踵を返す。その背中が、来たときより少しだけ、薄く見えた。冬の夕陽のせいかもしれない。夕陽のせいでは、ないのかもしれない。
帳場の隅では、ペトロネラが素知らぬ顔で花桶を洗っていた。
「……えらく上等な客だったね」
「ええ。上等な、お客でしたわ」
それ以上は、聞かないでいてくれる雇い主である。
◇
同じ夜、伯爵邸の奥の間で、クリームヒルトは周旋屋の主人を呼びつけ、店の帳面を焼くよう申しつけた。金貨が三枚、卓の上を滑る。主人は揉み手で請け合い、翌朝、裏庭で古い綴りが燃えた。――だが、その帳面の写しなら、評定官の名で差し出しを命ぜられて、燃える十日も前に評定所の棚へ納まっている。燃えたのは紙で、残ったのは支払いの記録である。帳面を焼く手間賃まで、几帳面に。
◇
店じまいのあと、私たちは無言で歩き出した。
いつもより、長く歩く。橋を渡り、遠回りの川沿いを行き、山査子の生垣が見えるまで、どちらも口を開かなかった。二人ぶんの白い息だけが、交互に夜へ浮かんで消える。歩幅は、いつの間にか揃っている。言葉にすると、あの宣戦布告が本当になる。もう本当なのだけれど、夜道の分だけ、先延ばしにしたかったのである。この夜道の長さを、私はたぶん、後から何度も思い出す。木戸の前で、彼が言う。
「……春には、終わります」
「ええ。春には」
――数日ののち、二枚続きの触れが届いた。
一枚は、亡き伯爵夫人の一周忌法要の報せ。一枚は、その明けに執り行う婚礼の報せ。同じ紙に、喪と祝いが刷られている。悪趣味、と言うのは易い。易いけれど、おかげで時計は完成した。わたくしの一周忌が、すべての刻限である。