ヘルタなんて大嫌い。 作:認めない勇気
グレイスが目を覚ました瞬間、最初に思ったのは、随分と変わっていないという事実だった。
当然、身体の状態は変化している。100年前には少し息をするだけで肩を上下させていた肺は安定して酸素を取り込み、脈拍も許容範囲内へ収まっている。長期睡眠による筋力低下や神経伝達の遅延は残っているものの、数日もあれば日常生活へ戻っていくだろう。かつて誰一人として正体を突き止められなかった病は、既に私の手で構造を解体し、治療可能な段階にまで引き摺り下ろしてある。
そんな事はどうでもよかった。
重い瞼を震わせ、光へ怯えるように顔を顰める癖。自分の身体が動くと分かった途端、信じ切れないものへ触れるように指先を持ち上げる仕草。窓の外に広がる宇宙を見て、呼吸する事さえ忘れた横顔。
どれも記憶の中と変わらない姿だった。
100年という時間は世界から幾つもの文明を奪い、星の配置すら人間の認識から塗り替えた。それなのにグレイスだけがあの日の続きを待っていた。私が最後に見た18歳の少女のまま、何一つ知らない顔で未来へ置かれてしまった掛け替えのない少女。
ひどく満足のいく光景だった。
「無理しない方がいい」
声を掛けると、グレイスは驚いたようにこちらを振り向いた。
その瞳が私を捉える。
見慣れた筈の紫色の瞳を視界に写し、何度も嫌いだと伝えてくれた声を聞いても、まだ私だと気付けないらしい。記憶の中にある姉と、目の前に立つ私の年齢が一致しない。それだけで思考が躓き、最も近い答えを自分から遠ざけている。
可笑しい。
私を見つめる瞳の奥には既に懐かしさが浮かんでいるのに。本人だけがその理由を理解していない。理解出来ないまま、知らない女性へ向けるような警戒と遠慮を取り繕っている。
「病院……ですか?」
敬語だった。
思わず端末を操作していた指が止まる。
グレイスが私へ敬語を使うのは初めての経験だった。100年前、どれほど機嫌が悪くても、どれほど長く離れていても、一度として聞いた覚えのない響きだった。妙な距離が生まれたようで不愉快な筈なのに、その反面、それ以上に興味深いと感じてしまった。
私を他人だと思い込みながら無意識では何かを感じ取っている筈なのに、その曖昧な境界で戸惑う表情が思っていたよりずっと良かったからだろうか。
100年待った再会を、たった数秒の説明で消費する必要はない。彼女が何処で違和感を覚え、どの言葉を切っ掛けに私へ辿り着くのか。最後まで観察したいと思ったのだ。
それに、私を知らない相手として見上げるグレイスの顔は、言葉に言い表せない、滅多に得られないものだった。
「貴女は……お医者様ですか?」
「医者ではないね。この施設の責任者みたいなもの」
嘘は言っていない。
グレイスは納得していない顔をした。それでも追及するだけの余裕はないらしく、眉間へ薄い皺を刻みながらこちらを見上げている。具合が悪い時ほど気丈に振る舞おうとする癖まで昔のままだ。自分が弱っていると悟られるのを嫌い、相手の無神経さを責める事で辛うじて平衡を保とうとする。
少し触れれば崩れる。それを知っているからこそ、余計に触れたくなってしまう。
「筋肉はまだ回復の途中だから、無理に動かない方がいいよ。転ばれでもしたら起こすのが面倒だから、暫くは大人しくしていて」
予想通り、グレイスの眉が寄った。
苛立ちが恐怖を僅かに押し退け、頬へ薄い血色が戻る。私の言葉に腹を立てている間だけは、100年という断絶を直視せずに済むらしい。
この表情を知っている。泣く直前、感情が表へ溢れるのを必死に堪えている時の顔だ。目尻へ僅かに力が入り、唇を結ぶ。自分が傷付いている事を悟られないよう、先に相手を嫌う準備をする時の顔だ。
私の言葉で傷付き、私を嫌いながら、それでも私から目を逸らせない。その矛盾が良い。
彼女の感情の中心には常に私が居る。憧れも嫉妬も、怒りも悲しみも、最後には必ず私へ戻ってくる。100年眠っていてもそれだけは腐らず残っていた。
「……性格が悪いって言われません?」
「よく言われるよ」
わざと満足そうに答えると、グレイスの表情が揺れた。
記憶と現在の輪郭が重なり、けれど現実として受け入れるにはまだ足りない。分からないまま、何かを恐れるように私を見ている。
もう少し、かな。
すぐに答えへ辿り着かれても面白くない。彼女が自分の認識へと疑いを持ち、私の正体を求めながら、それでも真実を拒絶する過程を見ていたかった。
やがてグレイスは、今が何年なのかと尋ねた。
私は暦を変換した結果を端末で確認しながら、言葉を選んだ。正確性のためではない。どの順番で伝えれば、彼女の表情が最も綺麗に崩れるかを考えていた。
「あなたが眠ってから、正確には100年以上経ってる」
グレイスの顔から、とうとう感情が消えた。
理解出来ないのではない。理解したくないのだ。
瞳だけが私を見つめたまま、唇が僅かに開く。呼吸が一度止まり、遅れて浅く再開された。100年という数字が彼女の中へ浸透し、知っていた世界を一つずつ壊していく様子が手に取るように分かる。
両親、知人、生まれ育った街、窓の外にあった雪景色。
グレイスが自分の世界だと思っていたものは、もう記録の中にしか残っていない。
私はそれを知っている。
彼女が眠っている間、それらが朽ちていく過程を一通り見てきた。両親の死も、病院の閉鎖や、故郷が地図から名前を失った日も。
グレイスには、まだ教えない。今はただ、自分が完全に取り残されたと理解させるだけでいい。
彼女の瞳へ、ポツポツと涙が滲み始める。その変化を見逃さないよう、私は端末から視線を上げた。
喜びとは違う。安堵でもない。胸の奥へ温かなものが広がる感覚に近いが、そんな曖昧な言葉で片付けるには鮮明過ぎた。
私の一言で、グレイスの世界が壊れていく。誰にも触れさせず保存してきたものを、目覚めたその日に私自身の手で手を掛ける。
呼吸が浅くなり、機器の警告値が上がり始める。生命に支障はない。まだ許容範囲内だ。
「呼吸が浅いね」
わざわざ指摘すると、グレイスは苦しそうに眉を寄せた。
「分かって……ます」
傷付いている。
怒ってもいる。
それでも助けを求めるように、私の言葉を待っている。
幼い頃、難しい問題を解けず私の机の前で泣いた時と同じだ。自分から教えてほしいとは決して言わず、嫌いだと吐き捨てながら、その場を離れようとしなかった。
私だけを見ている。
それを確認する度、100年待った価値があったと思えた。
病が治るのかと尋ねる声には、隠し切れない希望が混じっていた。私はすぐに答えず、ベッドの傍まで歩み寄る。近くで見た方が、彼女の表情を細部まで観察出来ると思ったからだ。
「完全に、とは言えないかな」
その一言で、グレイスの目が伏せられた。
僅かな失望。期待してしまった自分を恥じるように、唇の端が固くなった顔。
可愛い。
以前なら、そんな評価を口へ出す必要はないと思っていた。外見に対する感想など情報量が乏しく、対象を分類する以上の意味を持たない。けれどグレイスについてだけは、他に適切な表現が見付からない。
「以前のあなたなら、今みたいに起き上がろうとしただけで数日は寝込んでた。今は眩暈と筋力低下だけで済んでるんだから、少なくともあと数年……いや、数日もあれば完治すると思うけど」
わざと途中で訂正する。数年という言葉に無意識下に体が強張り、数日と聞いて力を抜いて安堵する。
予想した通りだった。
グレイスは胸へ手を当て、鼓動を確かめる。涙が溢れたのはその直後だった。
「泣くほど嬉しい?」
当然、違うと分かっていた。
「……違います」
「そう。じゃあ悲しいんだ」
すると緩みかけていた顔が歪む。
私の無神経さに傷付きながら言い返さずにはいられないのだろう。涙を隠す余裕がなくなり、濡れた瞳でこちらを睨み付けてきた。
「貴女には関係ないでしょう」
けれどその言葉は少し不愉快だった。
彼女の病を解き明かしたのは私だ。100年間、一度も管理権限を他人へ渡さず、生命維持装置の僅かな数値変動まで記録してきた。彼女が眠っている間に消えたものを整理し、目覚める日時を決めたのも私だ。
関係がない筈がない。
何かを感じ取ったグレイスはさらに顔を歪めた。
「……悪趣味だ」
皮膚の内側を直接撫でられたような不快感に耐え、私を睨み続けているグレイスが愉快でならなかったのは事実だったから、何も間違ってはいない。
眠っているグレイスは変わらず可愛らしかったが、酷くつまらなかった。
呼び掛けても応えないのは当然として、私へ向ける嫉妬心や苛立ちも、冷却された身体の奥で停止している。ただ生きているだけの存在は保存すべき対象ではあっても、私を満たしはしなかった。
私の言葉一つで頬が強張り、涙が落ちる。私が冷たくすれば傷付き、近付けば怯え、離れ過ぎれば途端に不安になる。
今のグレイスには私しか残っていない。その事実が胸の奥へ沈み、甘い熱へと変わる。
両親は居ない。友人も故郷も既に過去のものだ。彼女が頼れる記憶の中で、現実に触れられる存在は私だけだ。グレイスがそれをまだ知らず、知らない女へ話すような敬語で私を遠ざけている事さえ、いずれ失われる一時的な抵抗に過ぎない。
グレイスは私の名を尋ねかけ、何度も言葉を飲み込んだ。記憶が近付く度に恐怖が勝り、自分から答えを遠ざける。
そして家族について知っているかと尋ねられた時、私は何が聞きたいのかを真っ先に問い返した。両親ではないと分かっていた。グレイスが真っ先に選ぶ名前など、最初から一つしかない。
「ヘルタは……姉は、どうなりましたか」
その声には既に喪失の色が滲んでいた。
私はあえて答えず、沈黙を貫いた。
それだけでグレイスは勝手に私の死を想像し、勝手に傷付いている。まさに今、100年という時間を理由に私がもう居ない世界を頭の中で作り上げている最中だろうか。
「……そう、ですよね」
笑おうとして、失敗する。
泣きたくない。けれど悲しい。嫌っていた姉の死に傷付いていると認めたくない。そんな感情が狭い顔の中で互いを押し退けようとしている。
私が何もせず眺めていると、グレイスは私の悪口を並べ始めた。身体を大切にしない。性格が悪い。死後まで誰かを困らせるだの。
わざわざ口にしなくたってあなたが私を愛している事くらい分かっているのに。
本当に興味がなければ、そんな細部まで覚えている筈がない。嫌いだと言い続けるために100年前の私を丁寧に保存していたのだろう。
その不器用さが可笑しく、同時に酷く心地良かった。
「……本当に、嫌な人だった」
ついに涙が落ちた。頬を伝い、顎の先へ溜まり、白いシーツへ染みを作る。
私を失ったと思い込み、私のために流した涙。それらは私だけが最初から最後まで見届ける権利を持っている。
その原因が自分であると考えるほど、胸の奥へ深い充足感が広がった。罪悪感はない。慰める必要も感じない。
「随分詳しいね」
「姉ですから」
「嫌いなのに?」
「嫌いだからです」
迷いのない返答だった。
私を嫌うために私を知り、私を拒むために誰よりも近くへ居ようとする。その歪んだ執着をグレイス自身だけが理解していない。
「それなら、本人が聞いたら喜ぶかもね」
「喜ぶわけないでしょう。あの人は、私の言う事なんて何一つ気にしてませんでしたから」
そんな事はないんだけどな。
グレイスが私へ吐いた悪意は全て覚えている。どれも捨てずに保存してきた、彼女が私へ向けた言葉だから。
「本人へ確かめたの?」
「死んでいる人に、どうやって聞けと言うんですか」
苛立ちのまま顔を上げたグレイスは、涙で酷い顔をしていた。
睫毛は濡れ、頬には赤みが差し、唇が僅かに震えている。
これ以上続ければ、身体ではなく精神の方が耐えられないかもしれない。
私は白衣のポケットへ手を入れ、何でもないように告げた。
「本人に聞けばいいよ。私はまだ死んでないから」
待ちに待った種明かしをすると、見事にグレイスの表情が凍り付いた。
涙さえ止まった。
次いで困惑が浮かび、否定がそれを押し退ける。信じたい気持ちと信じられない現実がぶつかり、瞳の奥で砕けていく。
私はその全てを眺めながら、静かに悦へ浸っていた。
私を失ったと思って泣き、私が生きていると知ってさらに傷付く。自分の感情を見透かされた羞恥に耐えながら、それでも目を逸らす事が出来ない負けず嫌いの最愛なる妹。
グレイスの涙を眺めていると、病に侵される以前の彼女を思い出す。
まだ私の名を棘のように吐き捨てる事もなく、こちらの姿を見付ければ短い足で駆け寄ってきた幼い時の事だ。
朝から研究室へ忍び込み、私の白衣の裾を握って離さなかった。何処へ行くのかと尋ね、何をしているのかと覗き込み、自分にも出来ると根拠のない自信を振り翳す。邪魔だと言えば少しだけ頬を膨らませ、それでも追い返されたとは考えず、当然のように私の後ろを付いてきた。
私は子供が嫌いだった。
無知で感情的で、説明した傍から同じ疑問を口にする。自分では何一つ出来ない癖に、他者の時間を使う事へ一切の罪悪感を持たない。非効率的で、退屈で、観察する価値も乏しい。
しかしどうした事だろう。不思議な事にグレイスだけは例外だった。
理由を考えた事はない。考える必要もなかった。彼女が私の後ろに居る事は、室内に机があり、窓の外に空があるのと同じ程度に自然だったから。
本を読んでいれば膝へ頭を預け、私の指がページを捲る度、一緒になって視線を動かす。内容など理解出来ていない筈なのに、難しい顔をして黙り込んでいた。私が実験器具を並べれば、自分も手伝うと言い張り、安全な容器だけを渡してやるとそれを両手で抱えて大切そうに運んだ。
一度、足を滑らせて転んだ事がある。
容器は割らなかった。自分の膝を擦り剝きながら両腕の中へ抱え込んで守ったらしい。泣きそうな顔で私を見上げ、最初に言ったのは痛いでも助けてでもなく「壊してない」だった。
呆れたと同時に、ひどく可愛いと思った。
目に入れても痛くない、という表現は非論理的な慣用句だと思っていた。眼球へ異物を入れれば当然痛いし、対象への愛着を示す言葉としては構造が破綻している。それでもグレイスが私の袖を掴み、誇らしげに無傷の容器を差し出した時だけは、その不合理な言葉を理解出来る気がした。
私の後ろを歩き、私の真似をして、私が褒めれば一日中機嫌が良かった。両親に何を贈られるより、私から使い古しの本を渡された時の方が喜んだ。夜になれば勝手に部屋へ入り込み、眠くないと言い張りながら私のベッドの端で目を擦っていた。
追い出そうと思えばいつでも出来たが、鬱陶しいと多少思う事はあっても、目の届く範囲には居てほしかったのだろう。
変わったのは、ある日の発熱からだった。
最初は珍しい症状ではなかった。子供が熱を出す事など幾らでもある事だし、数日もすれば元へ戻り。また私の後ろを煩わしいほど付いてくるのだと思っていた。
しかし熱は下がらなかった。
正確には、一度下がってもすぐにぶり返してしまう。倦怠感や呼吸困難、筋力低下。検査を重ねるほど異常値は増え、それぞれが複雑に干渉し、既存の疾患名から遠ざかっていった。
グレイスは次第に走らなくなった。私を見付けても駆け寄らず、壁へ手を付きながら歩いた。階段では数段ごとに立ち止まり、息を整えるようになった。それでも最初の頃は笑っていた。
「今日はちょっと疲れてるだけ」
「明日には治るよ」
「だから置いていかないで」
私の袖を掴む力は、日に日に弱くなっていく。
それでも手を離さなかった。
私は意識して歩幅を狭めるようになった。
普段なら一分で通り過ぎる廊下を、数倍の時間を掛けて歩いた。グレイスがそれに気付かないよう、途中で窓の外へ目を向けたり、壁へ掲示された価値のない資料を読む振りをした。彼女のために速度を落としたと思われるのは、何故か気に入らなかった。
いいや、違う。気付かれて、感謝されるのが嫌だったのだ。まるで私が彼女を弱い存在として扱っているように思えるから。
グレイスは治る。
私が治す。
それ以外の結末を想定する必要はない。
原因が不明なら新たな症例として研究し、治療法が存在しないなら作ればいい。時間が足りないなら、彼女の時間を一時的に止めるまでだ。
問題は全て解かれるためにある。
人間が病へ敗北してきたのは、知識と能力が足りなかっただけだ。私なら失敗しない。グレイスもそれを疑っていないと思っていた。
けれど、病は彼女の身体だけを変えたのではなかった。
寝台の上で本を読む時間が増え、窓の外ばかり眺めるようになった。私が研究結果を伝えても、もう以前のように身を乗り出して聞こうとはしない。治療法に近付いたと話せば笑ったが、その笑顔は私を安心させるために作られたものだった。
いつからか、彼女は未来の話をしなくなった。
元気になったら何処へ行きたいかと問い掛けても「別に」と答え、欲しいものを聞かれれば「もう充分」と笑う。部屋に置いてあった私からの贈り物を一つずつ整理し、読み終えていない本まで人へ譲ろうとした。
死ぬ準備をしていた。
誰にも告げず、本人だけは悟られていないつもりで。
身の回りを片付け、他者への期待を減らし、自分が居なくなった後に残る痕跡を少しずつ希釈していった。生きたいと叫びながら死へ引き摺られるのではなく、まだ呼吸をしている内から自分の側で世界との結び目を解いていった。
それが酷く気に入らなかった。
身体が壊れる事は現象に過ぎない。原因があり、経路があり、適切に干渉すれば進行を止められるのに、彼女は緩やかに死を受け入れていた。
私が治療法を探している傍で。
私が失敗する事を前提として。
やがて来る終わりへ怯えながら、その恐怖を小さく畳み、もう仕方がないのだと自分を納得させようとしていた。
どうして諦めるの。
私がまだ諦めていないのに。
どうして勝手に、自分の死を受け入れるんだろう。
グレイスの命はグレイスのものだ。論理だけを見れば、その通りなのだろう。本人が疲れ果て、これ以上苦しみたくないと願うなら、その選択は尊重されるべきだと多くの人間は言う。
馬鹿らしい。
そんなものは、選択ではない。
痛みと恐怖に追い詰められ、他の可能性が見えなくなった末の降伏だ。死以外の道を奪われた人間へ、本人が選んだのだからと責任を押し付けているだけに過ぎない。
何より、私が許していない。
グレイスが私の後ろを歩くのをやめた事も、私へ何も期待しなくなった事も、自分の居ない未来を当然のものとして語る事も。
全てが不愉快だった。
「お姉ちゃんは、私が居なくても平気だよね」
ある日、グレイスはそう言った。
窓辺に雪が積もる寒い日だった。彼女は寝台へ横たわり、痩せた指で毛布の端を弄んでいた。こちらを見ようとはせず、天気の話でもするように軽く口にした。
私は答えなかった。何を返しても、彼女の期待する反応になる気がしたからだ。
否定すれば慰めと受け取り、肯定すれば自分が居なくなっても問題ないという身勝手な確信を与えてしまう。
だから沈黙したのに、グレイスは小さく笑った。
「あ、やっぱり」
その笑い方が、気に入らなかった。
納得したような顔だった。自分は最初から必要とされていなかったのだと、随分前から知っていた事を確認したような、この世で最も嫌いな顔。
死なないでほしいのに、それを口にする事は出来なかった。何故出来なかったのかは分からない。認めれば何かを失う気がした。グレイスが私にとって特別であり、失えば傷付く存在だと示す事は、自分の急所を差し出すのと同じだった。
私は、自分が傷付く可能性を嫌っていた。
だから悪意という名の刃は行き場を失い、結果として一番近くの彼女を傷付けるに至った。
「確かにあなたが居なくても、私の研究には何の影響もないのは事実だよ」
グレイスの指が止まった。
顔は見えなかった。
それでも傷付いた事は分かった。
呼吸が僅かに止まり、毛布を掴んだ指先へ力が入る。数秒後、彼女はいつも通りの笑顔を作ってこちらを見た。
「そっか」
ただそれだけだった。
その反応は予想出来ていた筈なのに、いざ目にするといっとう不愉快だった。天才である自分が、柄にもなく間違えたのだと悟った。
以前のグレイスなら酷いと怒鳴っただろう。私を嫌いだと言い、枕を投げ付け、それでも翌日には懲りずにまた部屋へやって来た筈だ。
けれどその日の彼女は多少の引っ掛かりを覚えつつも、静かに受け入れてしまった。まるで、また一つ諦める理由が増えただけだとでも言うように。
身体が機能を停止するより先に余分な期待を捨て、怒りを我慢し、私に愛されたいという願いさえ手放そうとしていた。
なんて許せないのだろう。
私を嫌えばいい。嫉妬すればいい。才能を妬み、無神経な言葉へ傷付き、私など居なくなればいいと泣き叫べばいい。私に何も求めなくなる事など、死ぬ事より不愉快だった。
優しい言葉を掛ければ安心し、そのまま穏やかに終わりを待つかもしれない。希望を語れば、叶わなかった時の痛みを恐れて最初から耳を塞ぐだろう。
ならば怒らせればいい。
傷付けている間だけは私に没頭し、緩やかに向かう死への興味を失ってくれた。死を受け入れかけていた瞳に、僅かでも熱が灯る。
同情する医師や、泣きながら手を握る両親よりも、私の心無い一言の方が彼女を強く現実へ引き戻した。グレイスは私に傷付けられる度、死ぬ事を忘れて怒った。
その顔が好きだった。
痛みに歪んだ顔そのものを好んでいたのか。それともまだ私へ何かを期待している証拠だから好ましかったのか。
今となっても形容し難いこの感情とは折り合いは付いていない。
目の前のグレイスは、100年前と同じ顔で私を睨んでいる。
涙で頬を濡らし、私の無神経さに傷付き、嫌悪を隠そうともせず紫色の瞳を見返して来る。
可愛いな。
私は彼女の痛みを見て悦んでいる悪辣な女だが、その根には恐らく、あの日々と同じものが詰まっている。
それに穏やかに死を受け入れる顔より、私を憎んで生きようとする顔の方が遥かにマシだ。
泣けばいい。
怒ればいい。
私を嫌えばいい。そして傷付いた分だけ私へ縋り付けばいい。
遥か昔の、私の後ろを無条件に付いてきた少女はもう居ない。病によって歪み、私の言葉によってさらに捻じ曲がり、今では愛情と憎悪の境目さえ分からなくなっている。
それでも構わない。私の後ろへ戻らないのなら、私を睨むために正面へ立てばいい。
何も求めず静かに消えるより、その方がずっとグレイスらしい。
私は彼女の濡れた頬へ指を滑らせる。
グレイスは不快そうに眉を寄せたが、振り払おうとする力は弱い。それでも確かに抗っている。
その僅かな抵抗が愛おしかった。
「何するの」
「別に」
「触らないで」
「嫌なら自分で退かせば?」
即座に返すと、グレイスの顔がさらに歪む。
この顔だ。
私を嫌い、傷付き、それでも私が手を離すかどうかを気にしている顔。
あの頃、病室の窓辺で全てを諦めたように笑った少女とは違う。今のグレイスはまだ私へ怒る気力が残っている。
「……本当に、最低」
涙を堪えながら吐き捨てる。私はその言葉を聞き、僅かに目を細めた。
「知ってる」
そう答えながら、私はためらうように指先を伸ばし、その肌へ触れた。
ひやりとした空気の中でそこだけが熱を宿したように、じんわりとした温もりが掌へ滲み込んでくる。確かにそこにある熱は言葉よりも雄弁で、遠い記憶の底に沈んでいた感触を静かに呼び覚ました。
目には見えない鼓動も、耳には届かない呼吸も今は必要なかった。ただこの微かな温度が、失われた筈の時間を繋ぎ止める細い糸のように私の内側へと深く食い込んでくる。
もう触れる事はないと何度も自分に言い聞かせてきた存在が、こうして目の前に居る。その現実はあまりにも静かで、しかし重く、胸の奥で沈殿していた何かを強く刺激する。言葉にすれば壊れてしまいそうなほど脆いその感覚を、私はただ逃がさないように、そっと握りしめていた。
ただ生きていてほしい。
そんな乾いた慰めを胸に収めて静かに頷けるほど、私はまだ何もかもを諦めきれずにいた。胸の奥で燻るものは、夜の底に沈めてもなお赤く息付き、指先に触れる度にじりじりと熱を伝えてくる。諦めるという言葉は私にはまだ遠く、手を伸ばせば届きそうでいて決して掴めない、そんな曖昧な距離にあった。