Fate/Grand Order ――反逆の堕天使と最後のマスター―― 作:MIDNIGHT
昼を過ぎた頃。
立香たちは、古砦へ到着していた。
百年戦争の頃に使われていたというその砦は、長い年月に晒され、石壁の多くが崩れている。
門は片方が失われ、見張り台には大きな亀裂が走っていた。
それでも、宿場町よりは遥かに安全だった。
分厚い外壁。
水の残る井戸。
地下には食料庫として使われていた部屋もある。
避難民たちは壊れた扉へ板を打ち付け、風雨を防ぐための布を張り、すでにここを新たな生活の場へ変え始めていた。
「王妃!」
マリーの姿を見つけた子どもたちが、一斉に駆け寄ってくる。
「無事だったんだ!」
「怪我してない?」
「竜はどうなったの?」
次々に投げかけられる声。
マリーは一人一人へ笑顔を向けた。
「心配を掛けてしまったわね、でも、この通り元気よ」
肩にはまだ傷が残っている。
衣装も裂け、煤に汚れていた。
それでも彼女が笑うだけで、子どもたちの表情は明るくなった。
少し離れた場所でその様子を見ていたルシファーが、小さく息を吐く。
「無理をしているな」
立香は隣へ並ぶ。
「マリーが?」
「ああ」
「傷のこと?」
「それだけではない」
ルシファーは子どもたちに囲まれる王妃を見つめる。
「あの女は、自分が恐れていることを見せない。笑うことで、他人の不安を引き受けている」
「強いんだね」
「脆いとも言える」
「脆い?」
「ああいう者は、誰も見ていない場所で壊れる」
淡々とした声だった。
だが、そこには僅かな懸念が含まれている。
「気にしてるの?」
「勘違いするな」
「まだ何も言ってないけど」
「貴様は顔に出る」
立香が苦笑する。
その時、マリーがこちらへ振り返った。
「立香!」
子どもたちへ手を振りながら、駆け寄ってくる。
「どうしたの?」
「この子たちが、昨夜のお話を聞きたいんですって」
「昨夜?」
「黒い翼のお姉さんが、大きな槍を止めたお話」
子どもたちの視線が、一斉にルシファーへ向く。
「本当に素手で止めたの?」
「竜より強い?」
「空を飛べるの?」
「翼、触っていい?」
ルシファーの表情が固まった。
「……面倒だ」
「人気者ね」
マリーが楽しそうに笑う。
「立香」
「何?」
「私は森へ行く準備をする」
ルシファーは逃げるように立ち去ろうとする。
しかし、子どもの一人がその衣装の裾を掴んだ。
「お話して」
「断る」
「少しだけ」
「断る」
「どうして?」
「面倒だからだ」
幼い少女は不思議そうに首を傾げる。
「でも、お姉さんは助けてくれたんでしょう?」
「それと話をすることは関係ない」
「ありがとうって言いたいの」
ルシファーの足が止まる。
子どもたちは彼女を恐れていなかった。
黒い翼も。
冷たい金色の瞳も。
飛竜を容易く倒す力も。
彼らにとってルシファーは、自分たちを守ってくれた存在だった。
「ありがとう、黒いお姉さん」
一人が言う。
「ありがとう!」
「村も守ってくれたんでしょう?」
「すごいね!」
ルシファーは困ったように立香を見る。
「何とかしろ」
「私には無理かな」
「マスターだろう」
「こういう時だけ頼るの?」
「こういう時こそだ」
マリーが口元へ手を当てて笑う。
「なら、少しだけお話してあげたら?」
「王妃」
「何?」
「後で覚えていろ」
「楽しみにしているわ」
ルシファーは深く溜息をついた。
そして、子どもたちの前へ腰を下ろす。
「何が聞きたい」
途端に子どもたちが集まった。
「空はどこまで飛べるの?」
「天使様なの?」
「神様の使い?」
最後の質問に、ルシファーの表情が一瞬だけ曇る。
立香は声を掛けようとした。
だが、彼女は自分で答えた。
「違う、私は神の使いではない」
「じゃあ、悪い人?」
「……そうかもしれない」
「でも、助けてくれたよ」
少女は迷いなく言った。
「悪い人は、助けてくれないよ」
ルシファーは何も返さなかった。
ただ、その少女の頭へ不器用に手を置いた。
「随分と懐かれているようですね」
砦の内側にある小部屋で、ジャンヌが微笑んだ。
石で造られた簡素な部屋。
中央の机には地図が広げられている。
その場に立香、マシュ、ジャンヌ、マリー、デオン。
そして、ようやく子どもたちから解放されたルシファーが集まっていた。
「その話はするな」
ルシファーは、不機嫌そうに腕を組む。
「素敵でしたよ」
「聖女」
「はい」
「黙れ」
「褒めているのですが」
「それが面倒だ」
デオンが僅かに眉を上げる。
「王妃に対しても同じ態度なのですか」
「相手によって態度を変える必要があるのか?」
「礼節というものがあります」
「礼節で竜が倒せるなら考える」
デオンのこめかみが僅かに動く。
「あなたは――」
「デオン」
マリーが優しく制する。
「ルシファーはこういう人なの」
「出会って半日も経っていないだろう」
「でも、何となく分かってきたわ」
「分かったつもりになるな」
「照れているのね」
「違う」
立香は笑いを堪えながら、地図へ視線を落とす。
「そろそろ本題にしよう」
「先輩のおっしゃる通りです」
マシュが姿勢を正す。
デオンは咳払いをして、地図の東側を指差した。
「猟師の証言では、異変が起きているのはこの一帯です」
古砦から東へ数時間。
地図には大きな森が描かれている。
正式な名は、記されていない。
周辺の人々は、ただ古い森と呼んでいるらしい。
「元々は、狩猟と木材のために使われていた場所です」
デオンが続ける。
「ですが数日前から、森へ入った者が戻らなくなった。同時期に、周辺で飛竜の目撃が急増しています」
「飛竜が森から出てくるのを見た人は?」
立香が尋ねる。
「複数います。夜になると、森の上空を竜の群れが旋回するそうです」
「やはり巣か」
「親とかいるの?」
ルシファーが小さく頭を振り、呟く。
「違う。正確には、竜を生み出す魔力の集積地だろう」
「はい、森そのものが召喚陣になっている可能性があります」
マシュが端末へ視線を落とす。
「カルデアからも、同じ地点に高濃度の魔力反応が確認されています」
「聖杯ですか?」
ジャンヌの問いに、マシュは首を振った。
「聖杯そのものほどではありません。ですが、通常のサーヴァント一騎を遥かに上回る反応です」
「誰か、敵が守っているでしょうね」
マリーが静かに言う。
「アタランテが戻っている可能性もあります」
デオンの表情が、険しくなる。
「王妃を狙う者を逃がしたのですか?」
「その、逃げられて…」
立香がバツが悪そうに答えるが、ルシファーが訂正する。
「止められなかったわけではない」
「ならば、なぜ」
「デオン」
マリーが再び制する。
「彼女には、まだ心が残っているわ」
「王妃」
「敵だからといって、心まで消えているとは限らないわ」
「ですが、次に会えばあなたを殺すと言ったのでしょう」
「ええ」
「それでも?」
「それでもよ」
マリーは迷わず答える。
「私は、あの子ともう一度話したい」
デオンは納得できない様子だった。
だが、それ以上反対はしなかった。
忠誠を誓う王妃の意志を、彼は誰よりも理解している。
「森へは、全員で向かうのですか?」
ジャンヌが問う。
「いや」
立香は考えを口にする。
「デオンには、砦へ残ってほしい」
「私が?」
「避難民の護衛が必要です」
「昨日の戦いで、敵にここを知られた可能性もある」
デオンはすぐに首を振った。
「王妃を危険な森へ向かわせ、私だけが残るなど――」
「デオン」
マリーが彼の手へ触れる。
「ここを守って」
「しかし」
「今、私が一番安心して任せられるのは、あなただけなの」
デオンは唇を結ぶ。
「承知しました。ですが、必ず戻ってください」
マリーは微笑む。
「立香たちもいるわ」
「それが心配なのです」
デオンの視線が、ルシファーへ向く。
「特に、あの堕天使は信用できません」
「聞こえているぞ」
「聞かせています」
空気が僅かに尖る。
「ルシファー」
立香が呼ぶ。
「何だ」
「喧嘩しない」
「私は何もしていない」
「これからしそうな顔をしてる」
「便利な目だな」
マリーが二人の間へ入る。
「デオン」
「はい」
「私はルシファーを信じているわ」
「出会って間もない者を?」
「時間の長さだけで、人を信じるわけではないでしょう?」
マリーは、ルシファーの右手を見る。
そこにはまだ、避難民の少年が巻いた古い布が残されていた。
「彼女は、何度も私たちの前へ立ってくれた。それで十分よ」
デオンはしばらく沈黙した。
そして深く頭を下げる。
「御意。ですが王妃…必ず、お戻りください」
「約束するわ」
そこで会議を終え、休息を終えた一行は、砦を出発した。
森へ向かうのは五人。
立香。
マシュ。
ジャンヌ。
マリー。
ルシファー。
デオンは門の前に立ち、姿が見えなくなるまで見送っていた。
「本当に心配性ね」
マリーが振り返りながら、笑う。
「王妃が無茶をするからでは?」
マシュが控えめに指摘する。
「私、そんなに無茶をしているかしら」
「矢を受けても下がらなかった」
ルシファーが即答する。
「魔力が尽きても笑っていた、敵へ自分から近づいた…数えれば、まだあるぞ」
「よく見ていてくれたのね」
「反省しろという意味だ」
「心配してくれてありがとう」
「なぜそうなる」
立香は二人の会話を聞きながら、少しだけ笑う。
だが森が近づくにつれ、その表情は自然と引き締まっていった。
最初に異変を感じたのは、音だった。
鳥の鳴き声がしない。
獣の気配もない。
風が枝を揺らす音さえ、森の入口を境に途切れている。
まるで、巨大な何かが息を潜めている。
「静かすぎます」
マシュが、盾へ手を掛ける。
「ええ」
ジャンヌも白旗を握り直す。
「森全体から、嫌な気配を感じます」
木々は黒く変色していた。
幹には血管のような赤い筋が走り、根元の土からは薄い煙が立ち上っている。
葉はある。
だが全て枯れたように色を失い、僅かに触れただけで灰となって崩れた。
「これも、聖杯の影響?」
立香が尋ねる。
「それだけではない」
ルシファーは木の幹へ手を触れる。
黒い魔力が、指先へ絡みつこうとする。
彼女は眉をひそめ、それを握り潰した。
「竜の魔力が土地へ根を張っている。森そのものが侵食されている」
「戻せますか?」
マシュの問いに、ルシファーは首を振る。
「核を壊せば、時間とともに戻る可能性はある。だが、すでに死んでいる部分も多い」
マリーは枯れた木々を見上げる。
「森も苦しんでいるのね」
「森に心があると?」
ルシファーが問う。
「あるかもしれないでしょう? 少なくとも、ここで生きていたものは苦しんだわ」
ルシファーは答えなかった。
代わりに、森の奥へ視線を向ける。
「来る」
立香たちは一斉に構えた。
暗がりの中で、枝が折れる。
一つ。
二つ。
四つ。
やがて無数の赤い目が灯った。
「飛竜……っ」
マシュが息を呑む。
しかし現れたものは、これまでの飛竜とは異なっていた。
身体が小さい。
人間ほどの大きさ。
翼は退化し、代わりに四肢が異様に発達している。
黒い鱗の隙間から、赤黒い魔力が漏れていた。
「竜牙兵ではありません」
マシュが端末を確認する。
「生体反応があります!」
「飛竜が、森に適応した姿か」
ルシファーの翼が広がる。
獣じみた竜たちは地面へ伏せ、喉を鳴らした。
数は二十を超えている。
木々の上にも。
岩陰にも。
立香たちは、完全に囲まれていた。
「マシュ、前方! ジャンヌは後ろを!」
「はい!」
「分かりました!」
立香の指示に、マシュとジャンヌは即座に臨戦態勢になる。
「マリーは中央で支援!」
「わかったわ」
「ルシファーは――」
「木の上だ」
立香の指示を待たず、ルシファーが上を見た。
直後、頭上から三体が飛び掛かってくる。
黒い羽根が閃いた。
一体の喉を貫き、二体目の胴体を切り裂く。
三体目は翼を掻い潜り、立香へ爪を伸ばした。
「先輩!」
マシュの盾が割り込む。
竜の爪が盾を引っ掻き、甲高い音を響かせた。
マシュは身体を回転させ、その勢いのまま竜を木へ叩きつける。
「はあっ!」
骨の砕ける音。
だが、敵は止まらない。
周囲から一斉に飛び掛かってくる。
「皆さん、離れないでください!」
ジャンヌが、旗を円を描くように振るう。
白い魔力が波となって広がり、竜たちを押し返した。
「今よ!」
マリーの杖から、色鮮やかな光弾が放たれる。
光は一体ずつ敵を追尾し、黒い鱗の隙間で爆発した。
「ギャアアッ!」
悲鳴が重なる。
しかし倒れた竜の身体から、黒い煙が立ち上る。
煙は地面へ吸い込まれ、森の奥へ流れていった。
「魔力が回収されています!」
マシュが叫ぶ。
「倒した個体の魔力が、森の核へ戻っているようです!」
「倒すほど、核が強くなる?」
立香の問いに、ルシファーが一体の頭を踏み砕きながら答える。
「一時的にはな。だが放置しても、こいつらは増える」
横から襲い掛かって来る飛竜を殴り飛ばし、視線を前方へ向ける。
「進みながら倒すしかない」
「大変な森ね」
マリーが苦笑する。
「気に入ったか?」
「いいえ」
「珍しく意見が合ったな」
飛竜たちが再び襲い掛かる。
立香たちは互いの背中を守りながら、森の奥へ進んだ。
戦闘は途切れることなく続いた。
敵を倒しても、すぐに新たな気配が現れる。
地面から。
木の洞から。
時には腐った幹を破って。
森そのものが立香たちを排除しようとしているようだった。
「先輩、右から三体!」
「ジャンヌ!」
「はい!」
白旗が、飛来する竜の爪を受け止める。
一体を押し返し、もう一体の腹部へ柄を突き込む。
三体目は、地面を這うようにマリーへ迫った。
「悪い子ね」
マリーは杖の先端を地面へ向ける。
足元から硝子の薔薇が咲き、竜の四肢を包み込んだ。
動きを封じられた敵へ、黒い羽根が突き刺さる。
「ありがとう、ルシファー」
「私が倒しやすかっただけだ」
「そういうことにしておくわ」
ルシファーは返事をせず、立香のもとへ戻る。
「息が上がっている」
「私?」
「他に誰がいる」
「走りながら戦ってるからね」
「後ろへ下がれ」
「でも、指示が出しにくくなる」
「貴様が倒れれば、指示そのものがなくなる」
正論だった。
立香は素直に、マリーの隣へ下がる。
「珍しく、聞き分けがいいな」
「珍しくって、何?」
「普段の行動を思い出せ」
「――思い出したくないかも」
「なら、私が話してやろうか」
「遠慮する」
「仲がいいのね」
そのやり取りに、マリーが笑う。
「どこを見ればそう見える」
「会話が途切れないもの、仲良しさんなのね」
ルシファーは、深い溜息をついた。
その直後、森の奥から、巨大な咆哮が響く。
これまでの飛竜とは、比べものにならない空気そのものを震わせる低音。
木々から灰が落ち、地面が脈打つように揺れた。
周囲の竜たちが、一斉に動きを止める。
そして立香たちへ背を向け、森の奥へ逃げていった。
「逃げた……?」
マシュが警戒を解かずに、呟く。
「違います」
ジャンヌの表情が、険しくなる。
「道を開けたのです」
正面の木々が、左右へ押し倒される。
土煙の中から現れたのは、巨大な飛竜だった。
今まで戦った個体よりも、さらに大きい。
翼を広げれば、森の一角を覆い尽くすほどの巨体。全身の鱗は赤黒く、胸部には巨大な結晶が埋め込まれている。
その結晶が脈打つたび、森全体の魔力が揺れた。
「核の一部です!」
マシュが端末を確認する。
「あの個体が、周辺の竜へ魔力を供給しています!」
「なら、倒せば森の侵食も弱まる?」
「少なくとも、この一帯は」
立香は、巨大竜を見上げる。
その頭部には、古い槍や剣が突き刺さっていた。
これまで森へ入り、戻らなかった者たちの武器。
竜の足元には、砕けた鎧と白骨が散らばっている。
「ここで、何人も……」
マリーの笑顔が消える。
巨大竜は口を開き、熱を溜め始めた。
炎ではない――赤黒い、魔力そのもの。
「散って!」
立香が叫ぶ。
刹那、竜の口から光が放たれた。
閃光が、一直線に森を薙ぎ払う。
ジャンヌが立香とマリーの前へ立ち、旗を掲げる。
「主よ、御照覧あれ!」
白い防壁が展開される。
熱線が激突した。
「くっ……!」
防壁の表面に、亀裂が走る。
その威力に押され、ジャンヌの足元が後退する。
「マシュ、ジャンヌを!」
「はい!」
マシュがジャンヌに、盾を重ねる。
二人の防御が重なり、光の威力を押し返していく。
「ルシファー!」
「分かっている!」
彼女はすでに、空へ上がっていた。
竜の死角へ回り込み、胸部の結晶へ黒い羽根を放つ。
だが、羽根が届く直前、竜の翼が大きく振るわれた。
暴風が発生し、羽根の軌道が逸らされる。
それだけに留まらず、ルシファーの身体もその風に吹き飛ばされ、木々へ叩きつけられた。
「っ……!」
木々を薙ぎ倒しながら吹き飛ぶルシファーに、立香が叫ぶ。
「ルシファー!」
「見るな!」
苦悶に歯噛みしながら、彼女は翼を広げ、なんとか体勢を立て直す。
「前を見ろ!」
巨大竜の尾が、立香たちへ薙ぎ払われていた。
「マシュ!」
「はい!」
マシュの振り上げた盾が、尾を受け止める。
だが、質量が違いすぎる。
抑え切れず、マシュの身体が盾ごと吹き飛ばされる。
ジャンヌも巻き込まれ、地面を転がった。
防御を失った立香とマリーへ、竜の爪が振り下ろされる。
「立香!」
マリーが、彼女を突き飛ばした。
巨大な爪が大地を抉る。
マリーは間一髪で避けたが、衝撃で身体を投げ出された。
「マリー!」
「平気……!」
起き上がろうとする。
だが、先ほど傷ついた肩を地面へ打ちつけ、顔を歪めた。
巨大竜が、再び口を開く。
狙いはマリーだ。
「また王妃か」
ルシファーの声が低くなる。
翼が黒い光を纏う。
「竜の分際で」
彼女の姿が消えた。
次の瞬間、巨大竜の顔面へ拳が叩き込まれる。
鈍い衝撃音。
巨体の頭部が横へ大きく逸れ、放たれた光線が空を貫いた。
「ギャアアアアッ!」
竜が怒り狂い、爪を振るう。
ルシファーは翼で受ける。
黒い羽根が砕け、彼女の身体が後方へ飛ぶ。
だが、すぐに空中で姿勢を戻す。
「硬いな」
「胸の結晶です!」
マシュが立ち上がりながら、叫ぶ。
「あれが鱗を強化しています!」
「なら、先に結晶を壊す!」
立香は戦場を見渡す。
正面からでは、翼で防がれる。
上空も同じ。
狙うなら、竜が攻撃する瞬間。
翼を開き、胸部が露出する僅かな時間しかない。
「マシュ、ジャンヌ! 正面から引きつけて!」
「はい!」
二人が同時に駆ける。
巨大竜は迫る二人を見て、両翼を広げた。
再び、暴風を起こすつもりだ。
「マリー!」
「分かったわ!」
マリーが杖を掲げる。
竜の足元に無数の硝子の蔦が生まれ、四肢へ絡みつく。
「ダメ……長くは持たないわ!」
「十分!」
竜が翼を振るう。
だが足を固定されたことで、身体の均衡が崩れる。
暴風の軌道が、僅かに上へ逸れた。
マシュは盾を構えたまま、懐へ滑り込む。
「はああっ!」
盾の縁を、竜の右脚へ叩きつける。
ジャンヌは反対側から旗を振るい、左脚を払った。
巨体が前方へ傾く。
胸部の結晶が、完全に露出した。
「ルシファー!」
「遅い」
すでに、彼女は結晶の前にいた。
右手を引く。
黒い魔力が拳へ集まる。
だが、結晶の中で何かが動いた。
人の顔。
苦痛に歪んだ、無数の人間の顔。
それは、立香の目にも見えた。
「待って!」
思わず叫ぶ。
ルシファーの拳が、結晶の直前で止まる。
「何だ」
「あの中に……人がいる」
マシュも端末を確認する。
「複数の人間の、魂魄反応があります!」
「森で死んだ者たちの魂が、核に取り込まれています!」
ジャンヌの顔色が変わる。
「壊せば、魂まで消える可能性が……」
巨大竜が、身を起こそうとする。
マリーの蔦が次々と砕けていく。
「時間がないぞ」
ルシファーは拳を構えたまま立香を見る。
「壊すか…それとも、あれに殺されるか」
立香は結晶を見つめる。
中にいる人々は、すでに肉体を失っている。
助けられる保証はない。
だが、何も考えずに壊すこともできない。
「魂だけを切り離せる?」
「簡単ではない」
「できるか、できないか」
ルシファーの目が細くなる。
「可能性はある」
「なら、やって」
「また面倒な命令だな」
「お願い」
「……いいだろう」
彼女は拳を開く。
代わりに、五本の指を結晶へ突き立てた。
黒い魔力が表面を覆う。
「マシュ、ジャンヌ!」
立香が叫ぶ。
「あと少しだけ止めて!」
「はい!」
二人は再び、竜の脚へ取りつく。
巨大竜が咆哮し、全身を暴れさせる。
尻尾が木々を薙ぎ倒し、爪が地面を砕く。
マリーも、砕けた蔦を再生させる。
「急いで、ルシファー!」
「騒ぐな」
彼女は目を閉じる。
結晶の内部へ意識を沈めていく。
深く暗い闇の奥底に、意識を同調させていく。
冷たい。
痛い。
無数の声が泣いている。
助けて。
帰りたい。
死にたくない。
家族に会いたい。
どうして。
なぜ。
声は重なり、輪郭を失い、巨大な憎悪へ変わろうとしていた。
ルシファーはその中心へ立つ。
「黙れ」
声が、一瞬だけ止まる。
暗闇の中で、幾つもの光が彼女を見た。
人の魂。
森で竜に殺され、逃げ場を失い、核へ閉じ込められた者たち。
「ここから出たいか」
返事はない。
ただ、光が僅かに震える。
「ならば、憎しみに呑まれるな」
ルシファーは手を伸ばす。
「貴様らを利用した者へ、心まで渡すな」
黒い鎖が、魂へ絡みついている。
竜の魔力。
聖杯の汚染。
死者の恐怖を、燃料へ変える呪い。
ルシファーは鎖を掴んだ。
その瞬間――暗闇の奥から、別の声が響く。
『神に背いた者が、人を救うのですか』
冷たい女の声。
ジャンヌと同じ声――だが、そこに慈悲はない。
「黒き聖女か」
『滑稽ですね』
返答はなく、変わりに聞こえたのは嘲笑。
『あなたは人を見下しながら、結局は人のために傷つく。それとも、マスターに従っているだけなのかしら?』
「姿も見せずによく喋る」
『答えられないのですか』
「答える必要がない」
『ならば、教えて差し上げましょう』
暗闇の中に、黒い炎が灯る。
『人は必ず裏切る』
『救った者も、守った者も、最後にはあなたを恐れる』
『神があなたを捨てたように』
響く嘲りに、ルシファーの瞳が鋭くなる。
「私を怒らせたいなら、言葉を選べ」
『事実でしょう? あなたは反逆し、堕ちた。そして今は、人間の小娘に繋がれた使い魔』
「違う」
『何が?』
「私は、繋がれてなどいない」
ルシファーは、鎖を握り締める。
「自分で選んで、ここにいる」
い炎が揺れた。
『選んだ?』
「ああ」
ルシファーの脳裏に、無茶ばかりする立香が過ぎる。
「面倒なマスターを守ることも、人間の願いへ付き合うことも――全て、私が選んだ」
彼女の背後に、黒い翼が広がる。
「神に命じられたことではない。だから――価値がある!」
黒い鎖へ、亀裂が走った。
『……そうですか』
興醒めとばかりに、黒き聖女の声が、遠ざかる。
『では、その選択がどこまで続くか…見届けてあげましょう』
最後に、笑い声だけが残る。
ルシファーは構わず、鎖を引き千切った。
魂を縛っていた呪いが崩れる。
無数の光が、暗闇から解き放たれていく。
「帰る場所がある者は帰れ。ない者は、静かに眠れ。もう、竜の餌になる必要はない」
光は、彼女の周囲を一度だけ巡った。
感謝を伝えるように。
そして、一つずつ空へ昇っていった。
巨大竜の胸部に埋め込まれた結晶へ、無数の亀裂が走る。
「離れろ!」
ルシファーの叫びに、マシュとジャンヌが同時に飛び退く。
マリーも、魔力の蔦を解いた。
立香も身構えた。
次の瞬間――結晶が、内側から砕けた。
爆発は起きなかった。
代わりに、無数の白い光が森の空へ舞い上がっていく。
男。
女。
老人。
子ども。
光の中に、一瞬だけ人々の姿が浮かぶ。
ジャンヌは旗を胸元へ引き寄せ、静かに祈った。
「どうか、安らかに」
マリーも目を閉じる。
巨大竜は力を失い、地面へ倒れた。
森全体が大きく揺れる。
木々を走っていた赤い筋が消え始め、黒く染まった土から魔力が抜けていく。
巨大竜の身体も灰となり、風に崩れていった。
その中心に、ルシファーが立っている。
立香は、彼女のもとへ走った。
「大丈夫?」
「問題ない」
「本当に?」
「今回は嘘ではない」
「今回はって……」
立香は思わず、笑いそうになる。
だが、ルシファーの表情は険しいままだった。
「何かあった?」
「黒き聖女が、現われた」
「話したの?」
「一方的にな」
「何を言われたの?」
ルシファーは少しだけ沈黙する。
「くだらない挑発だ」
「それだけ?」
「それだけだ」
これ以上、話すつもりはないらしい。
立香は、追及しなかった。代わりに、砕けた結晶の跡を見る。
「みんなの魂を、助けてくれたんだね」
「完全に救えたかは分からない」
「でも、苦しみからは解放できた」
「ああ」
「ありがとう」
「礼を言う相手が違う」
「私は何もしてないよ」
「貴様が命じた」
ルシファーは立香を見る。
「私は、壊すつもりだった。貴様が止めなければ、魂ごと砕いていた」
「でも、最終的に助けたのはルシファーだよ」
「……本当に面倒だな」
彼女は、顔を逸らした。
マリーが二人へ近づく。
「素敵だったわ」
「何がだ」
「自分で選んだことには価値がある、というところ」
ルシファーの瞳が鋭くなる。
「聞いていたのか」
「少しだけ」
「覗き見とは、王妃の趣味は悪いな」
「聞こえてしまったの、だから不可抗力だわ。でも、あなたらしい言葉だと思ったわ」
「忘れろ」
「忘れないわ」
「聖女といい、王妃といい……」
ルシファーは、心底疲れたように息を吐く。
その時――森のさらに奥から、乾いた拍手が聞こえた。
立香たちは、一斉に振り返る。
黒く変色した木々の間に、一人の男が立っていた。
長い髪。
細身の身体。
手には、一冊の大きな魔導書。
笑顔を浮かべている。
だが、その目には狂気しかなかった。
「お見事でございます」
男は、大仰に両腕を広げる。
「まさか、死者の魂まで解放してしまうとは――実に美しい…実に忌々しい!」
声に苛立ちが混じり、その姿にジャンヌの顔色が変わった。
「あなたは……」
男の笑みが深くなる。
「お久しゅうございます」
彼は恭しく、頭を下げた。
「我が聖女よ」
その呼び方には、歪んだ崇拝と憎悪が込められている。
「――ジル・ド・レェ」
ジャンヌの声が震えた。
「どうして、あなたが……」
「どうして?」
男――ジルは不思議そうに首を傾げる。
「あなたが蘇られた。ならば、このジル・ド・レェが馳せ参じるのは当然でしょう」
「私は、あなたが待つ聖女ではありません」
「ええ」
ジルは即座に答えた。
「あなたは偽物だ」
狂気に歪んだ目が、ジャンヌを射抜く。
「神に縋り、祖国に裏切られ、炎へ焼かれながら、それでも赦しを口にした―――愚かな少女」
マシュが盾を構える。
「それ以上、ジャンヌさんを侮辱しないでください」
「侮辱?」
ジルは笑った。
「私は嘆いているのですよ。彼女があまりにも無知であったことを……神などいないと気づくには、あの炎は遅すぎた!」
ジャンヌは黙って彼を見つめる。だが、顔には苦痛が浮かんでいた。
生前の仲間。
自分を信じ、共に戦った騎士。
その彼が、目の前で狂気に染まっている。
「ジル」
「はい」
「あなたは、何を望んでいるのですか」
男は妖しく、微笑む。
「復讐です。あなたを殺した国へ、あなたを見捨てた民へ、何もしなかった神へ――全てを焼き尽くす」
ジルは、魔導書を開く。
紙面から、黒い触手が溢れ出した。
「それこそが、真なる聖女の願い」
「違います!」
ジャンヌの声が森へ響く。
「私は、そのようなことを望んでなどいません!」
「ええ…だから、あなたは偽物なのです」
地面が割れる。
巨大な触手が次々と這い出し、立香たちを囲んでいく。
森の魔力が、再び濁り始める。
砕いた竜の核とは別の力――ジルの魔術だ。
「今度は、話し合いで済みそうにないな」
ルシファーの翼が広がる。
「待ってください」
ジャンヌが彼女の前へ出る。
「私が話します」
「話が通じる顔に見えるか?」
「それでもです」
ジャンヌはジルを見つめた。
「彼は、私の仲間でした。だからこそ――」
白い旗を、強く握る。
「私が、止めなければなりません」
ジルは、歓喜に満ちた笑みを浮かべる。
「おお! ならば見せてください、ジャンヌ!」
彼の持つ魔術書が妖しく光り、魔術の光が迸る。
「あなたが神へ捧げた信仰が! 私の絶望より強いというのなら!」
触手が一斉に襲い掛かる。
「マシュ、ジャンヌを援護!」
「はい!」
「マリーは後方!」
「わかったわ!」
「ルシファー、ジルを――」
「殺すな、だろう?」
ルシファーが呆れた口調で、先に言う。立香は一瞬だけ、彼女を見る。
「できる限りは」
「予想通りだ」
黒い羽根が放たれ、迫る触手を切り裂く。
「本当に、面倒なマスターだな」
その間にも、ジャンヌは白旗を掲げた。
かつての盟友。
狂気へ堕ちた騎士。
そして、黒き聖女へ続く道。
竜の森での本当の戦いが、始まろうとしていた。