長江の古狼 ―― 孫呉異聞   作:無いなら作ればええねん

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境目

 公瑾どのは、翌日には気づいた。正確には、俺が城へ入って三歩目で気づいた。廊下ですれ違いざまに立ち止まって、こちらを一瞥して、それだけで終わった。

 

「――ほう」

 

「……何か」

 

「いえ。……ようやくですか、と思っただけ」

 

「何のことだ」

 

「まだ言うのね」

 

 この人は深く息を吐いた。

 

「楚航どの。あなた、今朝、右足から城の門をくぐりましたね」

 

「――そうだったか」

 

「そうです。あなたは十年、左足からくぐっている。脚が悪いので、先に左を出して重心を確かめる癖がある。……それが今朝は逆だった」

 

 俺は返す言葉を失った。この人は、そういうところを見ている。

 

「それだけではありません。雪蓮が今朝、鼻歌を歌っていました。……あれが鼻歌を歌うのは、年に二度あるかどうかです」

 

 公瑾どのはそう言って歩き出した。三歩ほど行って、振り返った。

 

「一つだけ、申し上げます」

 

 表情が、そこで少し変わった。

 

「私は、この件について賛成も反対もしません。あの子が決めたことです。私が口を出すことではない。……ですが、一つだけ覚えておいてください。あの子は、王です」

 

 この人はまっすぐこちらを見た。

 

「王が私事で判断を誤ると、死ぬのは兵です。……あなたが、あの子の判断を鈍らせる日が来たら、私はあなたを切ります」

 

「――わかった」

 

「即答なさいますね」

 

「当然のことだ」

 

「……そうですか」

 

 公瑾どのはそこで少し表情を緩めた。

 

「では、結構です。おめでとうございます、と言うべきなのでしょうね」

 

「言わなくていい」

 

「言いません。柄ではないので」

 

 この人はそう言って歩いていった。少し行ったところで、また止まった。

 

「……ああ、それと。蓮華のことです」

 

 俺はそこで足を止めた。

 

「あの子に、まだ会っていないのなら、今日は会わないほうがいい」

 

「――なぜだ」

 

「察してください」

 

「……察せん」

 

「でしょうね」

 

 この人はそれだけ言って、今度こそ行ってしまった。俺が蓮華さまに会ったのは、その三日後だった。

 

 三日、この人は俺を避けていた。避けているのは明らかだった。帳面を持って部屋へ行くと、いない。廊下ですれ違いそうになると、別の道へ折れる。軍議では、俺の斜め向かいではなく、一番遠い席に座る。

 

 十八年の付き合いで、初めてのことだった。三日目の夕方、俺は諦めて、この人の部屋の前に立った。戸を叩くと、中で何かが落ちる音がした。しばらく返事がなかった。

 

「――蓮華さま」

 

「……います」

 

「入っていいか」

 

「……よくないです」

 

 俺はそこで少し困った。

 

「では、ここで話す。廊下でだ。……人が通るが」

 

「待ってください」

 

 慌てた足音がして、戸が開いた。

 

 蓮華さまが立っていた。目が赤かった。隠そうともしていない。隠す気力がなかったのだと思う。

 

 部屋はいつも通り片づいていた。ただ、机の上の帳面が、いつもより乱雑に積まれていた。この人は俺に座るように示して、自分は少し離れたところに座った。しばらく、二人とも何も言わなかった。

 

「……お姉様から、聞きました。三日前に。……わざわざ私のところに来て、正面から言いました」

 

「そうか」

 

「『あなたに嘘をつくのは嫌だから』と言って」

 

 この人はそこで少し笑った。笑ったのに、目からまた涙がこぼれた。

 

「……ずるいですよね、あの人。正直だから、怒れない」

 

 俺は何も言えなかった。

 

「子渡。私、あなたに言ったことがあります。……去年です。あなたが、いつか誰かを傷つけるって。あなたは来る者を断らない、断られた側は期待する、期待して、あなたが何も気づいていないと知ったとき、それはけっこう痛いって」

 

「……覚えている」

 

「あのとき、私、忠告のつもりで言ってたんです」

 

 この人はそこで顔を上げた。

 

「本当は、忠告じゃありませんでした。……あれ、たぶん、私の話でした」

 

 俺はその言葉を聞いて、しばらく動けなかった。

 

 去年だ。あの日、この人は月に六度と数えて、俺のところへ来た。妙な噂が立つと言い、いろいろですと言葉を濁し、机に額を打ちつけた。そして最後に、たまに行っていいですかと聞いた。

 

 俺は即答した。来い、と。

 

「……蓮華さま」

 

「言わないでください」

 

「――」

 

「謝らないでください。お願いします」

 

 この人は両手で顔を覆った。

 

「謝られたら、私、あなたが悪いことになります。……あなた、悪くないんです。私が言わなかっただけです」

 

「……」

 

「言えばよかったんです。去年に。あのとき、『私も好きです』って言えばよかった」

 

 その声は震えていた。

 

「でも、言えませんでした。……だって、お姉様が先に、月に六度も通ってたんですから」

 

 俺はそこで初めて、この人が一年間何を数えていたかを理解した。この人は、姉の回数を数えていた。数えるのが仕事だと言って、あの一年、自分を傷つける数を毎月書き足していた。

 

「――蓮華さま。一つ、言わせてくれ」

 

「……はい」

 

 俺は少し言葉を選んだ。

 

「俺は、鈍い。それは事実だ。……だが、あんたが去年言っていたら、俺は困っていたと思う」

 

「……困る、ですか」

 

「困る。俺は、あんたと雪蓮さまを比べることができん」

 

 俺は正直に言った。

 

「あんたは九つのときから知っている。夜中に椀を運んできて、帳面を読んでくれた。俺のことも数えてくれと頼んだのは、俺だ。……あんたが、俺にとって何なのかを、俺は言葉にできん」

 

「……」

 

「だから、去年言われていたら、俺はたぶん、決められなかった。決められないまま、あんたを何年も待たせていた」

 

 俺は机の上の帳面を見た。

 

「――それは、今よりひどい。今なら、あんたは怒れる。俺を恨むこともできる。……待たされていたら、それもできん」

 

 しばらく、この人は動かなかった。やがて、手を下ろした。顔がぐしゃぐしゃになっていた。

 

「……子渡。あなた、そういうこと言うから」

 

「……」

 

「そういうこと言うから、私、諦められないんです」

 

 俺はその言葉に、返す言葉を持たなかった。持たないまま、こう聞いた。

 

「……諦めるつもりだったのか」

 

「昨日まで、そのつもりでした」

 

 蓮華さまはそう答えて、袖で顔を拭いた。

 

「三日考えました。……私は数える人です。数える人が、あなたの隣に立つ必要はありません。あなたが数え忘れるものを数えていれば、それでいい。それは、隣じゃなくてもできます」

 

「……」

 

「そう思っていました。昨日まで」

 

 この人はそこで顔を上げた。目が赤かったが、視線は逸らさなかった。

 

「今日、あなたが来ました。……三日避けたのに、来ました」

 

「来た」

 

「なぜですか」

 

「話していないからだ」

 

 俺は正直に答えた。

 

「話していないことがあると、落ち着かん。……帳面と同じだ。書いていない行があると、気になって眠れん」

 

 蓮華さまは、その答えにしばらく黙っていた。黙ってから、小さく笑った。笑って、それからこう言った。

 

「……私、諦めません」

 

 俺はその一言を、すぐには飲み込めなかった。

 

「あんたの姉上と、俺は」

 

「知っています。全部知っています」

 

 この人は遮った。

 

「知った上で言っています。……私は、あなたの隣に立ちたいわけではないんです。あなたが数え忘れるものを数える人でいたい。それは、たぶん、隣じゃなくてもできます」

 

 蓮華さまはそう言って、少し目を伏せた。

 

「……でも、隣のほうが早いです」

 

 その言い方が、いかにもこの人らしかった。感情ではなく、効率で押してくる。そして、最後に効率ではない一言を足した。

 

「……嘘です。隣がいいです」

 

 祭どのが俺の家に来たのは、その翌日だった。瓶を二本提げていた。久しぶりに二本だった。

 

「――二本か」

 

「二本じゃ。今日は飲む日じゃからな」

 

 この人はそう言って上がり込んだ。上がり込んで、竈の前にどかりと座った。

 

「若いの。逃げんかったな」

 

「……逃げなかった」

 

「上出来じゃ」

 

 祭どのは瓶の栓を抜いた。抜いて、一口飲んでから、こう言った。

 

「わしはな、あの子が言うと思うとった。去年から思うとった」

 

「――去年から」

 

「去年からじゃ。……あの子が、あんたの家に通い始めた頃からな」

 

 この人は瓶を膝に置いた。

 

「じゃが、思うたより早かった。……わしの見立てでは、あと一年かかると思うとった」

 

「一年か」

 

「一年じゃ。あの子は、欲しいものを言うのが下手じゃからな」

 

 俺はその言い方に、少し引っかかった。

 

「……あんた、雪蓮さまの話をしているのか」

 

「しとらん」

 

 祭どのは即答した。

 

「蓮華さまの話じゃ」

 

 俺はその答えに、しばらく黙った。黙ってから、こう聞いた。

 

「……知っていたのか」

 

「知っとった。二年前からな」

 

 この人はあっさりと答えた。

 

「あの子は、あんたの帳面の写しを取っとるじゃろう。十のときから。……十八年じゃぞ。十八年、同じ男の言うことを書き溜めとる娘が、何も思うとらんわけがなかろう」

 

 俺は返す言葉を持たなかった。

 

「……なぜ、言わなかった」

 

「言うてどうする」

 

 祭どのは瓶を傾けた。

 

「わしが言うたら、あんたは困るじゃろう。困って、あの子を避ける。避けられたら、あの子はもっと言えんようになる」

 

 この人はそう言って、少し声を落とした。

 

「それに、わしが言う話ではない」

 

 俺はその言葉を、しばらく考えていた。考えてから、思い切って聞いた。

 

「――祭どの。一つ、聞いていいか」

 

「言え」

 

「あんたは、何とも思わんのか」

 

 その言葉が自分の口から出たことに、俺は自分で驚いた。祭どのは、瓶を持つ手を止めた。しばらく、こちらを見ていた。

 

「……ほう」

 

「――いや、今のは」

 

「言い直さんでよい」

 

 この人はそう言って、瓶を置いた。

 

「若いの。あんた、鈍いくせに、時々えらく鋭いのう」

 

「……」

 

「思うとるよ」

 

 祭どのはあっさりと言った。

 

「思うとる。じゃがな、わしは五十四じゃ。あんたは三十八じゃ。……十六違う」

 

「――それは」

 

「聞け」

 

 この人は遮った。

 

「わしはな、四十年、文台さまの隣におった。あの方が死んで十一年じゃ。……その十一年で、わしが何を考えとったと思う」

 

 俺は答えられなかった。

 

「あとどれくらい戦えるか、じゃ」

 

 祭どのは川のほうを見た。戸は閉まっていたが、そちらを見た。

 

「膝が悪い。腰も悪い。目も落ちてきた。……あと五年、いや、三年かのう。三年経ったら、わしは前に出られん」

 

「……」

 

「そういう者がな、三十八の男に何かを望むのは、ちと図々しかろう」

 

 俺はその言葉に、腹の底が熱くなるのを感じた。

 

「――それは、あんたが決めることではない」

 

「わしが決めることじゃ」

 

「違う」

 

 俺は思ったより強い声で言った。

 

「あんたは、南で俺に言った。文台さまが同じことを言ったら殴ると。……自分は殴られんのか」

 

 祭どのは、そこでこちらを見た。しばらく、二人とも黙っていた。

 

「……言うようになったのう、若いの」

 

「三十八だ」

 

「三十八でも若いわ」

 

 この人はそう言って、瓶を取り上げた。それから、少し笑った。

 

「――若いの。わしはな、あんたに一つ、勘違いしてほしくないことがある」

 

「言え」

 

「わしは、あの子を祝いに来たんじゃ」

 

 祭どのははっきりと言った。

 

「雪蓮さまはな、母親を亡くして、軍を取られて、二年檻に入れられて、それでも王をやってきた。……あの子が『欲しい』と言えたのは、たぶん生まれて初めてじゃ」

 

「……」

 

「それを祝わんで、何が四十年の家臣か」

 

 俺は返す言葉を持たなかった。

 

「じゃからな、わしのことは、今は考えんでよい」

 

 この人はそう言って杯を干した。

 

「わしは、まだ死なん。三年は戦える。……三年経って、まだあんたが生きとって、まだ何か思うとるなら、そのときに言うわ」

 

「――祭どの」

 

「なんじゃ」

 

「……三年だぞ」

 

「三年じゃ」

 

 祭どのは笑った。

 

「あんた、待つのが下手じゃったが、最近ようやく覚えたじゃろう。……南で、六日座っとったそうじゃな」

 

「座っていた」

 

「なら、三年くらい待て」

 

 この人はそう言って立ち上がった。戸口で振り返った。

 

「……若いの」

 

「なんだ」

 

「わしはな、あんたが四十人助けに行った夜のことを、まだ覚えとる」

 

 俺は顔を上げた。

 

「あんたが幕に来て、非番の男は止められんと言うたときじゃ。……文台さまが剣を渡された。わしは外におった」

 

「……」

 

「あのとき、わしは思うたよ。ああ、この男は長生きせんな、とな」

 

 祭どのはそう言って笑った。

 

「十五年経ったわ。しぶといのう、あんたは」

 

「……あんたもだ」

 

「そうじゃな」

 

 この人はそう言って帰っていった。その三日後、雪蓮さまが俺を呼んだ。場所は、この人の部屋だった。入るなり釘を刺された。

 

「灘。あなたは座ってなさい。口を挟まないで。……一言もよ」

 

「――なぜだ」

 

「あなたが喋ると、たぶん、両方に良い顔をするから」

 

 俺は返す言葉を持たなかった。実際、そのつもりでいた。祭どのが正面に座った。座り方が少し傾いている。左肩を庇っているのだと、あとで気づいた。

 

「――雪蓮さま」

 

「祭。前置きはいいわ」

 

「では、申し上げます」

 

 この人は頭を下げた。

 

「わしは、この男の隣に置いていただきたい」

 

 雪蓮さまはしばらく黙っていた。

 

「……妻としてってこと?」

 

「そうは申しません」

 

「じゃあ何よ」

 

「隣に、と申し上げております」

 

 祭どのは顔を上げた。

 

「わしはな、雪蓮さま。あと三年で前に立てんようになります。鉄棍が持てんようになったら、戦にも出られん。……役に立たん者になり申す」

 

「そんなことないわよ」

 

「ございます」

 

 この人ははっきりと言った。

 

「わしは四十年、役に立つことで生きてきました。……役に立たんようになったわしを、必要とする者はおりません」

 

「私は必要よ」

 

「ありがたいことでございます。……じゃが、それは主君としてのお言葉でしょう」

 

 雪蓮さまがそこで口を閉じた。

 

「わしが欲しいのは、そちらではありません。……役に立たんわしを、それでもよいと言うてくれる者が、一人欲しいだけでございます」

 

 部屋が静かになった。俺は口を挟まないと言われていたので黙っていた。黙っているのが、これほど苦しいとは思わなかった。

 

「……祭。あなた、ずるいわよ」

 

「ずるうございます」

 

「即答するのね」

 

「自覚しておりますので」

 

 雪蓮さまはそこで少し笑った。だが、目は笑っていなかった。

 

「あなた、そういう言い方をしたら、私が断れないってわかってるでしょ」

 

「わかっております」

 

「わかっててやってるのね」

 

「やっております」

 

「――ふざけないでよ」

 

 その声が初めて鋭くなった。祭どのは動じなかった。

 

「ふざけてはおりません。……わしは、四十年で初めて、人に何かを頼んでおります。頼み方が下手なのは、お許しください」

 

 雪蓮さまはしばらく黙っていた。それから立ち上がって、窓のほうへ歩いた。

 

「……祭。私、正直に言うわ。今、すごく腹が立ってる」

 

 背を向けたままだった。

 

「あなたのことは好きよ。子供の頃から知ってるし、育ててもらったし、母様のことを話せる相手は、あなたと灘しかいないもの。……でも、今は腹が立ってる。あなたが四十年我慢してきたことも、あと三年しかないことも、全部わかってる。わかってるのに、腹が立つの」

 

「もっともでございます」

 

「もっともって言わないでよ」

 

 雪蓮さまは振り返った。

 

「そうやって、全部受け入れる顔をするから、私が悪者みたいになるじゃない」

 

 祭どのはそこで初めて少し困った顔をした。

 

「……そういうつもりでは」

 

「わかってる。つもりじゃないのよね。あなた、本当にそう思ってるのよね」

 

 この人はそう言って、また座った。

 

「それが一番、腹が立つの」

 

 しばらく、二人とも黙っていた。やがて、雪蓮さまが口を開いた。

 

「……祭。一つ聞いていい? あなた、母様のことは、どう思ってたの」

 

 祭どのの表情が、そこで変わった。

 

「……なぜ、それを」

 

「答えて」

 

 この人はしばらく答えなかった。長いこと、答えなかった。

 

「……好いておりました」

 

「そういう意味で?」

 

「そういう意味で」

 

 俺はその答えに、少し息を呑んだ。知らなかった。いや、たぶん、どこかで気づいていた。だが、この人の口から聞くのは初めてだった。

 

「……言ったの?」

 

「申しておりません」

 

「一度も?」

 

「一度も。四十年、一度もでございます」

 

 祭どのはそう答えて、膝の上で手を組んだ。

 

「言えば、隣におれんようになると思うたからでございます。……あの方は、そういうことを言われても困る方でした。困らせたら、わしを遠ざけられる。遠ざけられたら、隣におれん」

 

「……」

 

「じゃから、言いませんでした。四十年」

 

 雪蓮さまはしばらく動かなかった。

 

「……それで、母様が死んで」

 

「はい」

 

「十一年、誰にも言わなかった」

 

「はい」

 

「……で、今、灘に言ってるの」

 

「はい」

 

 祭どのはそう答えた。

 

「同じ間違いは、二度いたしません」

 

 その一言で、部屋の空気が変わった。俺はそのとき、この人が何を言っているのかを、初めて正確に理解した。この人は、四十年黙って、そのまま相手を失った。二度目は、黙らないと決めたのだ。

 

 雪蓮さまは両手で顔を覆った。しばらく、そのままでいた。

 

「……ずるいわよ。本当にずるい。……そんなの、私、止められるわけないじゃない」

 

「……」

 

「母様に言えなかったから、今度は言うって、そんなの……」

 

 この人は顔を覆ったまま、しばらく肩を震わせていた。やがて手を下ろした。目が赤かった。

 

「……祭。一つだけ、条件を出すわ」

 

「なんなりと」

 

「私と、境目を決めて」

 

 祭どのは少し驚いた顔をした。

 

「……境目、でございますか」

 

「そう。あなたと私で決めるの。どこまでが私で、どこからがあなたか。それを、今ここで決める」

 

「なぜ、そのようなことを」

 

「決めないと、私が壊れるからよ」

 

 雪蓮さまははっきりと言った。

 

「私、王よ。……嫉妬で判断を誤ったら、死ぬのは兵なの。冥琳にそう言われたわ」

 

「……」

 

「だから、決めておきたいの。決めておけば、境目の中にいるあいだは、私は怒らずに済むわ」

 

 祭どのはしばらく黙っていた。それから、深く頭を下げた。

 

「――承知いたしました」

 

 二人が決めたことを、俺はその場で聞いていた。口は挟まなかった。挟むなと言われていたからだ。だが、内容は、正直に言えば俺には少し辛かった。辛かったのは、二人が俺のことを一つずつ数え上げていったからだ。

 

 夜のこと。飯のこと。誰がどの日に来るか。誰が病んだときにどちらが看るか。人前でどう振る舞うか。

 

 二人は、それを淡々と決めていった。途中で、雪蓮さまが一度言った。

 

「……ねえ、祭。私たち、なんか、荷物の分け方みたいな話をしてるわね」

 

「しておりますな」

 

「……灘、聞いてる?」

 

 俺は口を挟むなと言われていた。だが、名指しされたので答えた。

 

「……聞いている」

 

「どう思う」

 

「――口を挟むなと言われた」

 

「今は許可するわ」

 

 俺は少し考えてから言った。

 

「……荷物のほうが、まだ気楽だ」

 

「そうよね」

 

「だが、一つわかったことがある」

 

 俺は卓の上を見た。

 

「二人とも、俺を取り合っていない」

 

 二人が顔を見合わせた。

 

「取り合っているなら、相手の分を減らそうとするはずだ。……あんたたちは、さっきから互いに譲り合っている」

 

「……そう?」

 

「そうだ。雪蓮さまは、病んだときは祭どのが看ればいいと言った。祭どのは、それは雪蓮さまの役だと言い返した」

 

「……言うたな」

 

「言ったわね」

 

「その譲り合いを、俺は聞いていた。……だから、今、そんなに辛くない」

 

 しばらく、二人とも何も言わなかった。やがて、雪蓮さまが吹き出した。

 

「……あなた、本当に変な人ね。祭、聞いた? この人、こういう人よ」

 

「知っております。……十六年、見ておりますので」

 

 境目の話が終わったあと、雪蓮さまが最後に一つ言った。

 

「……ねえ、祭。もう一つだけ、聞かせて」

 

「なんなりと」

 

 この人はしばらく言葉を選んでいた。

 

「……蓮華のことは、どう思う?」

 

 部屋が静かになった。俺はそこで背筋が冷えた。祭どのはしばらく答えなかった。

 

「……気づいておられましたか」

 

「気づくわよ。妹だもの。……去年から気づいてたわ」

 

「……」

 

「あの子、何も言わなかったのよ。私が灘のところに通ってるのも知ってて、それでも何も言わなかった。……そのくせ、私の回数を数えてたの」

 

 その声が少し震えた。

 

「私、それを聞いたとき、自分が最低だと思ったわ。……でも、譲らなかったの。知ってて、譲らなかった」

 

 雪蓮さまはそう言って、顔を上げた。

 

「祭。私、あなたには境目を作れるわ。あなたが四十年黙ってたって聞いたら、止められないもの。……でも、蓮華はどうなるの」

 

「……」

 

「あの子は、一年黙ってるのよ。私が言うのを見て、あなたが言うのを見て、それでも黙ってるの」

 

 祭どのはしばらく黙っていた。やがて、こう答えた。

 

「……雪蓮さま。それは、わしが答えることではございません」

 

「じゃあ誰が答えるのよ」

 

「蓮華さまでございます」

 

 この人ははっきりと言った。

 

「あの方が、ご自分で言われるべきことです。……わしらが代わりに決めることではない」

 

「でも、あの子は言わないわよ」

 

「言われんのなら、それも、あの方が決めたことでございます」

 

 祭どのはそう答えた。

 

「わしは、四十年黙って、後悔いたしました。……ですが、黙ることを選ぶのも、その者の権利でございます」

 

「……」

 

「わしが言うたのは、わしが後悔したからでございます。……蓮華さまが黙られるなら、それはあの方のお選びです」

 

 雪蓮さまはしばらく黙っていた。

 

「……そうね」

 

 やがて、そう言った。

 

「そうよね。……私、また、あの子のぶんまで決めようとしてたわ」

 

 この人はそう言って、少し笑った。

 

「昔から、そうなのよ。私、あの子のことになると、すぐ決めてあげようとするの」

 

 そのとき、戸が開いた。誰も、叩く音を聞いていなかった。蓮華さまが立っていた。手ぶらだった。帳面を持っていない。この人が帳面を持たずに部屋へ来るのを、俺は初めて見た。

 

「――蓮華」

 

「……失礼します」

 

 この人はそう言って、中へ入ってきた。入ってきて、卓の前に立った。

 

「聞いていました。……廊下で」

 

 雪蓮さまが、明らかに動揺した。

 

「あなた、いつから」

 

「祭どのが、母様のことを話された頃からです」

 

 蓮華さまはそう答えて、その場に座った。座ってから、姉を見た。

 

「お姉様。一つ、申し上げます」

 

「……なによ」

 

「私も数に入れてください」

 

 部屋が、しんとした。雪蓮さまが絶句した。祭どのが、少し笑った。笑ってから、慌てて口を押さえた。

 

「……蓮華。あなた、何言ってるの」

 

「言葉の通りです」

 

 この人ははっきりと言った。

 

「お姉様は、祭どのと境目を決めました。……それは、祭どのが四十年黙っていたからです。黙っていた人が言ったから、お姉様は止められなかった」

 

「……」

 

「では、私はどうなりますか。私は一年黙っていました。……一年では足りませんか」

 

 雪蓮さまは、その問いに答えられなかった。

 

「そういう問題じゃないでしょ」

 

「同じ問題です」

 

 蓮華さまは即答した。

 

「黙っていた年数で決めるなら、私は一年です。祭どのは四十年です。……でも、黙っていた理由は同じです。言ったら、隣にいられなくなると思ったからです」

 

 この人はそこで少し声を落とした。

 

「私は、あなたの妹です。……言ったら、お姉様に嫌われると思いました」

 

 雪蓮さまが、そこで顔を上げた。

 

「嫌わないわよ」

 

「今なら、そう言えます。……去年は、言えなかったでしょう」

 

 この人はそう言って、姉の目を見た。

 

「去年、私が言っていたら、お姉様は譲ったと思います。……お姉様は、そういう人ですから」

 

「……」

 

「譲られるのは、嫌です」

 

 雪蓮さまは、しばらく何も言わなかった。言わないまま、俺のほうを見た。俺は口を挟むなと言われていたので、黙っていた。やがて、この人は溜め息をついた。

 

「……わかったわ」

 

「いいんですか」

 

「よくないわよ」

 

 雪蓮さまは即答した。

 

「よくないけど、あなたを外して決めたら、私は一生あなたに謝ることになるもの」

 

 この人はそう言って、卓の上に手を置いた。

 

「……じゃあ、もう一度やり直しね。三人で決めるわ」

 

 三人での取り決めは、最初のときより長くかかった。二人のときは半刻で済んだものが、三人になると二刻かかった。日が暮れて、灯りを入れて、それでも終わらなかった。途中で、蓮華さまが帳面を取りに行った。

 

「――書くのか」

 

 俺が思わず聞くと、この人は真顔で答えた。

 

「書きます。書かないと、忘れます」

 

「……それは、書くようなことか」

 

「書くようなことです」

 

 蓮華さまはそう答えて、筆を取った。

 

「口約束は、必ず食い違います。……半年経つと、言った言わないになります」

 

「……そうだな」

 

「それに」

 

 この人はそこで少し目を伏せた。

 

「書いておけば、破られたときにわかります」

 

 その一言で、部屋の空気が少し変わった。雪蓮さまが、少し笑った。

 

「……あなた、そういうところ、容赦ないわね」

 

「数える人ですから」

 

 結局、決まった中身は、二人のときとそう変わらなかった。

 

 変わったのは、日の数え方だけだ。月を三つに割るのではなく、日ごとに決めた。祭どのが「わしは月に四日でよい」と言い出して、二人がそれに反対した。反対されて、この人が渋々増やした。

 

 最後に、雪蓮さまが一つ付け加えた。

 

「――一つ、約束して。三人とも」

 

「なんじゃ」

 

「嘘をつかないで」

 

 この人はそう言った。

 

「私にも、祭にも、蓮華にも。……誰にも、本当のことを言って。それだけでいいわ」

 

 祭どのが頷いた。蓮華さまも頷いた。俺も頷いた。俺が頷いたところで、雪蓮さまがこちらを見た。

 

「……灘。あなた、一つも喋らなかったわね」

 

「喋るなと言われた」

 

「言ったわ。でも、最後くらい何か言いなさいよ」

 

 俺はしばらく考えた。考えて、こう言った。

 

「……悪かった」

 

 三人が、同時にこちらを見た。

 

「――何がですか」

 

 蓮華さまが聞いた。

 

「気づかなかったことだ」

 

「三人とも、俺が気づかなかったせいで、言えずにいた。……雪蓮さまは二年、蓮華さまは一年、祭どのは四十年だ」

 

「……」

 

「四十年のうち、俺が関わったのは十六年だけだが、その十六年は俺が気づかなかった」

 

 俺は卓の上を見た。

 

「気づく人間なら、もっと早く片がついていた。……俺が鈍かったぶん、三人に待たせた。それは、悪かった」

 

 しばらく、誰も何も言わなかった。最初に口を開いたのは、祭どのだった。

 

「……若いの」

 

「なんだ」

 

「それはな、謝ることではないわ」

 

 この人はそう言って、少し笑った。

 

「あんたが鈍かったから、三人とも言えんかった。……それは本当じゃ。じゃがな、あんたが鈍かったから、三人ともここにおるんじゃ」

 

「――どういう意味だ」

 

「あんたが鋭かったら、とっくに誰か一人を選んどるじゃろう」

 

 祭どのはそう言って、瓶を持ち上げた。持ち上げたが、飲まなかった。

 

「選ばれんかった二人は、とっくにおらんようになっとる。……鈍いのも、役に立つということじゃ」

 

 俺はその理屈に、返す言葉を持たなかった。その夜、全員が帰ったあと、俺は一人で家の前に座っていた。三人が決めた取り決めの写しを、蓮華さまが置いていった。読めと言われたので、読んだ。

 

 読んで、少し途方に暮れた。日の割り振りと、病んだときの役と、人前での振る舞い。全部が書いてある。書いてあるのに、俺はこれをどう扱えばいいかがわからなかった。

 

 足音がして、公瑾どのが来た。この人は、俺の手元の紙を見て、それから少し笑った。

 

「……決まったそうですね」

 

「決まった」

 

「読みましたか」

 

「読んだ」

 

「感想は」

 

「……わからん」

 

 俺は正直に答えた。公瑾どのは、その答えに少し目を細めた。それから、俺の隣に腰を下ろした。

 

「楚航どの。一つ、申し上げてよろしいですか」

 

「言え」

 

「これは、いつか誰かが泣きます」

 

 この人ははっきりと言った。

 

「今は、三人とも納得しています。決めたことですから。……ですが、決めたことは破られます」

 

「……破られるか」

 

「破られます。必ず」

 

 公瑾どのはそう言って、川のほうを見た。

 

「誰かが病んだとき。誰かが戦に出たとき。誰かが先に死ぬとわかったとき。……そういうときに、境目は意味をなさなくなります」

 

「……」

 

「そのときに、あなたがどうするかを、私は見ています」

 

 俺はその言葉を、しばらく胸の中で転がしていた。転がして、こう答えた。

 

「――わからん」

 

「わからん、では困ります」

 

「困る。……だが、今わかったことにすると、そのときに嘘になる」

 

 俺は紙を畳んだ。

 

「今は、わからん。……そのときに、考える」

 

 公瑾どのは、その答えにしばらく黙っていた。黙ってから、少し笑った。

 

「……それでよろしい」

 

「――いいのか」

 

「いいです。……『大丈夫だ』と即答されるほうが、よほど信用できません」

 

 この人はそう言って立ち上がった。

 

「一つだけ、覚えておいてください。三人とも、あなたのために黙っていたのではありません。……自分のために黙っていたのです」

 

「……」

 

「ですから、あなたが背負うことではない。……背負うと、三人が困ります」

 

 公瑾どのはそう言って歩き出した。少し行ったところで、振り返った。

 

「それと、楚航どの」

 

「なんだ」

 

「北で、動きがありました」

 

 俺はその言葉に、少し身構えた。

 

「……いつだ」

 

「三日前です。……曹操どのが、河北を平定されました」

 

 この人はそう言って、川の北のほうを見た。

 

「袁紹どのが敗れました。……これで、北は一つになります」

 

「――一つか」

 

「一つです。……そして、一つになった北は、必ず南を向きます」

 

 公瑾どのはそう言って、少し声を落とした。

 

「三年、いや、五年でしょうか。……それまでに、こちらが形を作らねばなりません」

 

 俺はその言葉を聞いて、手元の紙を見た。三人で決めた取り決めが書いてある。日の割り振りと、病んだときの役と、人前での振る舞い。五年後、この紙がまだ意味を持っているかどうかは、わからなかった。

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