長江の古狼 ―― 孫呉異聞 作:無いなら作ればええねん
公瑾どのは、翌日には気づいた。正確には、俺が城へ入って三歩目で気づいた。廊下ですれ違いざまに立ち止まって、こちらを一瞥して、それだけで終わった。
「――ほう」
「……何か」
「いえ。……ようやくですか、と思っただけ」
「何のことだ」
「まだ言うのね」
この人は深く息を吐いた。
「楚航どの。あなた、今朝、右足から城の門をくぐりましたね」
「――そうだったか」
「そうです。あなたは十年、左足からくぐっている。脚が悪いので、先に左を出して重心を確かめる癖がある。……それが今朝は逆だった」
俺は返す言葉を失った。この人は、そういうところを見ている。
「それだけではありません。雪蓮が今朝、鼻歌を歌っていました。……あれが鼻歌を歌うのは、年に二度あるかどうかです」
公瑾どのはそう言って歩き出した。三歩ほど行って、振り返った。
「一つだけ、申し上げます」
表情が、そこで少し変わった。
「私は、この件について賛成も反対もしません。あの子が決めたことです。私が口を出すことではない。……ですが、一つだけ覚えておいてください。あの子は、王です」
この人はまっすぐこちらを見た。
「王が私事で判断を誤ると、死ぬのは兵です。……あなたが、あの子の判断を鈍らせる日が来たら、私はあなたを切ります」
「――わかった」
「即答なさいますね」
「当然のことだ」
「……そうですか」
公瑾どのはそこで少し表情を緩めた。
「では、結構です。おめでとうございます、と言うべきなのでしょうね」
「言わなくていい」
「言いません。柄ではないので」
この人はそう言って歩いていった。少し行ったところで、また止まった。
「……ああ、それと。蓮華のことです」
俺はそこで足を止めた。
「あの子に、まだ会っていないのなら、今日は会わないほうがいい」
「――なぜだ」
「察してください」
「……察せん」
「でしょうね」
この人はそれだけ言って、今度こそ行ってしまった。俺が蓮華さまに会ったのは、その三日後だった。
三日、この人は俺を避けていた。避けているのは明らかだった。帳面を持って部屋へ行くと、いない。廊下ですれ違いそうになると、別の道へ折れる。軍議では、俺の斜め向かいではなく、一番遠い席に座る。
十八年の付き合いで、初めてのことだった。三日目の夕方、俺は諦めて、この人の部屋の前に立った。戸を叩くと、中で何かが落ちる音がした。しばらく返事がなかった。
「――蓮華さま」
「……います」
「入っていいか」
「……よくないです」
俺はそこで少し困った。
「では、ここで話す。廊下でだ。……人が通るが」
「待ってください」
慌てた足音がして、戸が開いた。
蓮華さまが立っていた。目が赤かった。隠そうともしていない。隠す気力がなかったのだと思う。
部屋はいつも通り片づいていた。ただ、机の上の帳面が、いつもより乱雑に積まれていた。この人は俺に座るように示して、自分は少し離れたところに座った。しばらく、二人とも何も言わなかった。
「……お姉様から、聞きました。三日前に。……わざわざ私のところに来て、正面から言いました」
「そうか」
「『あなたに嘘をつくのは嫌だから』と言って」
この人はそこで少し笑った。笑ったのに、目からまた涙がこぼれた。
「……ずるいですよね、あの人。正直だから、怒れない」
俺は何も言えなかった。
「子渡。私、あなたに言ったことがあります。……去年です。あなたが、いつか誰かを傷つけるって。あなたは来る者を断らない、断られた側は期待する、期待して、あなたが何も気づいていないと知ったとき、それはけっこう痛いって」
「……覚えている」
「あのとき、私、忠告のつもりで言ってたんです」
この人はそこで顔を上げた。
「本当は、忠告じゃありませんでした。……あれ、たぶん、私の話でした」
俺はその言葉を聞いて、しばらく動けなかった。
去年だ。あの日、この人は月に六度と数えて、俺のところへ来た。妙な噂が立つと言い、いろいろですと言葉を濁し、机に額を打ちつけた。そして最後に、たまに行っていいですかと聞いた。
俺は即答した。来い、と。
「……蓮華さま」
「言わないでください」
「――」
「謝らないでください。お願いします」
この人は両手で顔を覆った。
「謝られたら、私、あなたが悪いことになります。……あなた、悪くないんです。私が言わなかっただけです」
「……」
「言えばよかったんです。去年に。あのとき、『私も好きです』って言えばよかった」
その声は震えていた。
「でも、言えませんでした。……だって、お姉様が先に、月に六度も通ってたんですから」
俺はそこで初めて、この人が一年間何を数えていたかを理解した。この人は、姉の回数を数えていた。数えるのが仕事だと言って、あの一年、自分を傷つける数を毎月書き足していた。
「――蓮華さま。一つ、言わせてくれ」
「……はい」
俺は少し言葉を選んだ。
「俺は、鈍い。それは事実だ。……だが、あんたが去年言っていたら、俺は困っていたと思う」
「……困る、ですか」
「困る。俺は、あんたと雪蓮さまを比べることができん」
俺は正直に言った。
「あんたは九つのときから知っている。夜中に椀を運んできて、帳面を読んでくれた。俺のことも数えてくれと頼んだのは、俺だ。……あんたが、俺にとって何なのかを、俺は言葉にできん」
「……」
「だから、去年言われていたら、俺はたぶん、決められなかった。決められないまま、あんたを何年も待たせていた」
俺は机の上の帳面を見た。
「――それは、今よりひどい。今なら、あんたは怒れる。俺を恨むこともできる。……待たされていたら、それもできん」
しばらく、この人は動かなかった。やがて、手を下ろした。顔がぐしゃぐしゃになっていた。
「……子渡。あなた、そういうこと言うから」
「……」
「そういうこと言うから、私、諦められないんです」
俺はその言葉に、返す言葉を持たなかった。持たないまま、こう聞いた。
「……諦めるつもりだったのか」
「昨日まで、そのつもりでした」
蓮華さまはそう答えて、袖で顔を拭いた。
「三日考えました。……私は数える人です。数える人が、あなたの隣に立つ必要はありません。あなたが数え忘れるものを数えていれば、それでいい。それは、隣じゃなくてもできます」
「……」
「そう思っていました。昨日まで」
この人はそこで顔を上げた。目が赤かったが、視線は逸らさなかった。
「今日、あなたが来ました。……三日避けたのに、来ました」
「来た」
「なぜですか」
「話していないからだ」
俺は正直に答えた。
「話していないことがあると、落ち着かん。……帳面と同じだ。書いていない行があると、気になって眠れん」
蓮華さまは、その答えにしばらく黙っていた。黙ってから、小さく笑った。笑って、それからこう言った。
「……私、諦めません」
俺はその一言を、すぐには飲み込めなかった。
「あんたの姉上と、俺は」
「知っています。全部知っています」
この人は遮った。
「知った上で言っています。……私は、あなたの隣に立ちたいわけではないんです。あなたが数え忘れるものを数える人でいたい。それは、たぶん、隣じゃなくてもできます」
蓮華さまはそう言って、少し目を伏せた。
「……でも、隣のほうが早いです」
その言い方が、いかにもこの人らしかった。感情ではなく、効率で押してくる。そして、最後に効率ではない一言を足した。
「……嘘です。隣がいいです」
祭どのが俺の家に来たのは、その翌日だった。瓶を二本提げていた。久しぶりに二本だった。
「――二本か」
「二本じゃ。今日は飲む日じゃからな」
この人はそう言って上がり込んだ。上がり込んで、竈の前にどかりと座った。
「若いの。逃げんかったな」
「……逃げなかった」
「上出来じゃ」
祭どのは瓶の栓を抜いた。抜いて、一口飲んでから、こう言った。
「わしはな、あの子が言うと思うとった。去年から思うとった」
「――去年から」
「去年からじゃ。……あの子が、あんたの家に通い始めた頃からな」
この人は瓶を膝に置いた。
「じゃが、思うたより早かった。……わしの見立てでは、あと一年かかると思うとった」
「一年か」
「一年じゃ。あの子は、欲しいものを言うのが下手じゃからな」
俺はその言い方に、少し引っかかった。
「……あんた、雪蓮さまの話をしているのか」
「しとらん」
祭どのは即答した。
「蓮華さまの話じゃ」
俺はその答えに、しばらく黙った。黙ってから、こう聞いた。
「……知っていたのか」
「知っとった。二年前からな」
この人はあっさりと答えた。
「あの子は、あんたの帳面の写しを取っとるじゃろう。十のときから。……十八年じゃぞ。十八年、同じ男の言うことを書き溜めとる娘が、何も思うとらんわけがなかろう」
俺は返す言葉を持たなかった。
「……なぜ、言わなかった」
「言うてどうする」
祭どのは瓶を傾けた。
「わしが言うたら、あんたは困るじゃろう。困って、あの子を避ける。避けられたら、あの子はもっと言えんようになる」
この人はそう言って、少し声を落とした。
「それに、わしが言う話ではない」
俺はその言葉を、しばらく考えていた。考えてから、思い切って聞いた。
「――祭どの。一つ、聞いていいか」
「言え」
「あんたは、何とも思わんのか」
その言葉が自分の口から出たことに、俺は自分で驚いた。祭どのは、瓶を持つ手を止めた。しばらく、こちらを見ていた。
「……ほう」
「――いや、今のは」
「言い直さんでよい」
この人はそう言って、瓶を置いた。
「若いの。あんた、鈍いくせに、時々えらく鋭いのう」
「……」
「思うとるよ」
祭どのはあっさりと言った。
「思うとる。じゃがな、わしは五十四じゃ。あんたは三十八じゃ。……十六違う」
「――それは」
「聞け」
この人は遮った。
「わしはな、四十年、文台さまの隣におった。あの方が死んで十一年じゃ。……その十一年で、わしが何を考えとったと思う」
俺は答えられなかった。
「あとどれくらい戦えるか、じゃ」
祭どのは川のほうを見た。戸は閉まっていたが、そちらを見た。
「膝が悪い。腰も悪い。目も落ちてきた。……あと五年、いや、三年かのう。三年経ったら、わしは前に出られん」
「……」
「そういう者がな、三十八の男に何かを望むのは、ちと図々しかろう」
俺はその言葉に、腹の底が熱くなるのを感じた。
「――それは、あんたが決めることではない」
「わしが決めることじゃ」
「違う」
俺は思ったより強い声で言った。
「あんたは、南で俺に言った。文台さまが同じことを言ったら殴ると。……自分は殴られんのか」
祭どのは、そこでこちらを見た。しばらく、二人とも黙っていた。
「……言うようになったのう、若いの」
「三十八だ」
「三十八でも若いわ」
この人はそう言って、瓶を取り上げた。それから、少し笑った。
「――若いの。わしはな、あんたに一つ、勘違いしてほしくないことがある」
「言え」
「わしは、あの子を祝いに来たんじゃ」
祭どのははっきりと言った。
「雪蓮さまはな、母親を亡くして、軍を取られて、二年檻に入れられて、それでも王をやってきた。……あの子が『欲しい』と言えたのは、たぶん生まれて初めてじゃ」
「……」
「それを祝わんで、何が四十年の家臣か」
俺は返す言葉を持たなかった。
「じゃからな、わしのことは、今は考えんでよい」
この人はそう言って杯を干した。
「わしは、まだ死なん。三年は戦える。……三年経って、まだあんたが生きとって、まだ何か思うとるなら、そのときに言うわ」
「――祭どの」
「なんじゃ」
「……三年だぞ」
「三年じゃ」
祭どのは笑った。
「あんた、待つのが下手じゃったが、最近ようやく覚えたじゃろう。……南で、六日座っとったそうじゃな」
「座っていた」
「なら、三年くらい待て」
この人はそう言って立ち上がった。戸口で振り返った。
「……若いの」
「なんだ」
「わしはな、あんたが四十人助けに行った夜のことを、まだ覚えとる」
俺は顔を上げた。
「あんたが幕に来て、非番の男は止められんと言うたときじゃ。……文台さまが剣を渡された。わしは外におった」
「……」
「あのとき、わしは思うたよ。ああ、この男は長生きせんな、とな」
祭どのはそう言って笑った。
「十五年経ったわ。しぶといのう、あんたは」
「……あんたもだ」
「そうじゃな」
この人はそう言って帰っていった。その三日後、雪蓮さまが俺を呼んだ。場所は、この人の部屋だった。入るなり釘を刺された。
「灘。あなたは座ってなさい。口を挟まないで。……一言もよ」
「――なぜだ」
「あなたが喋ると、たぶん、両方に良い顔をするから」
俺は返す言葉を持たなかった。実際、そのつもりでいた。祭どのが正面に座った。座り方が少し傾いている。左肩を庇っているのだと、あとで気づいた。
「――雪蓮さま」
「祭。前置きはいいわ」
「では、申し上げます」
この人は頭を下げた。
「わしは、この男の隣に置いていただきたい」
雪蓮さまはしばらく黙っていた。
「……妻としてってこと?」
「そうは申しません」
「じゃあ何よ」
「隣に、と申し上げております」
祭どのは顔を上げた。
「わしはな、雪蓮さま。あと三年で前に立てんようになります。鉄棍が持てんようになったら、戦にも出られん。……役に立たん者になり申す」
「そんなことないわよ」
「ございます」
この人ははっきりと言った。
「わしは四十年、役に立つことで生きてきました。……役に立たんようになったわしを、必要とする者はおりません」
「私は必要よ」
「ありがたいことでございます。……じゃが、それは主君としてのお言葉でしょう」
雪蓮さまがそこで口を閉じた。
「わしが欲しいのは、そちらではありません。……役に立たんわしを、それでもよいと言うてくれる者が、一人欲しいだけでございます」
部屋が静かになった。俺は口を挟まないと言われていたので黙っていた。黙っているのが、これほど苦しいとは思わなかった。
「……祭。あなた、ずるいわよ」
「ずるうございます」
「即答するのね」
「自覚しておりますので」
雪蓮さまはそこで少し笑った。だが、目は笑っていなかった。
「あなた、そういう言い方をしたら、私が断れないってわかってるでしょ」
「わかっております」
「わかっててやってるのね」
「やっております」
「――ふざけないでよ」
その声が初めて鋭くなった。祭どのは動じなかった。
「ふざけてはおりません。……わしは、四十年で初めて、人に何かを頼んでおります。頼み方が下手なのは、お許しください」
雪蓮さまはしばらく黙っていた。それから立ち上がって、窓のほうへ歩いた。
「……祭。私、正直に言うわ。今、すごく腹が立ってる」
背を向けたままだった。
「あなたのことは好きよ。子供の頃から知ってるし、育ててもらったし、母様のことを話せる相手は、あなたと灘しかいないもの。……でも、今は腹が立ってる。あなたが四十年我慢してきたことも、あと三年しかないことも、全部わかってる。わかってるのに、腹が立つの」
「もっともでございます」
「もっともって言わないでよ」
雪蓮さまは振り返った。
「そうやって、全部受け入れる顔をするから、私が悪者みたいになるじゃない」
祭どのはそこで初めて少し困った顔をした。
「……そういうつもりでは」
「わかってる。つもりじゃないのよね。あなた、本当にそう思ってるのよね」
この人はそう言って、また座った。
「それが一番、腹が立つの」
しばらく、二人とも黙っていた。やがて、雪蓮さまが口を開いた。
「……祭。一つ聞いていい? あなた、母様のことは、どう思ってたの」
祭どのの表情が、そこで変わった。
「……なぜ、それを」
「答えて」
この人はしばらく答えなかった。長いこと、答えなかった。
「……好いておりました」
「そういう意味で?」
「そういう意味で」
俺はその答えに、少し息を呑んだ。知らなかった。いや、たぶん、どこかで気づいていた。だが、この人の口から聞くのは初めてだった。
「……言ったの?」
「申しておりません」
「一度も?」
「一度も。四十年、一度もでございます」
祭どのはそう答えて、膝の上で手を組んだ。
「言えば、隣におれんようになると思うたからでございます。……あの方は、そういうことを言われても困る方でした。困らせたら、わしを遠ざけられる。遠ざけられたら、隣におれん」
「……」
「じゃから、言いませんでした。四十年」
雪蓮さまはしばらく動かなかった。
「……それで、母様が死んで」
「はい」
「十一年、誰にも言わなかった」
「はい」
「……で、今、灘に言ってるの」
「はい」
祭どのはそう答えた。
「同じ間違いは、二度いたしません」
その一言で、部屋の空気が変わった。俺はそのとき、この人が何を言っているのかを、初めて正確に理解した。この人は、四十年黙って、そのまま相手を失った。二度目は、黙らないと決めたのだ。
雪蓮さまは両手で顔を覆った。しばらく、そのままでいた。
「……ずるいわよ。本当にずるい。……そんなの、私、止められるわけないじゃない」
「……」
「母様に言えなかったから、今度は言うって、そんなの……」
この人は顔を覆ったまま、しばらく肩を震わせていた。やがて手を下ろした。目が赤かった。
「……祭。一つだけ、条件を出すわ」
「なんなりと」
「私と、境目を決めて」
祭どのは少し驚いた顔をした。
「……境目、でございますか」
「そう。あなたと私で決めるの。どこまでが私で、どこからがあなたか。それを、今ここで決める」
「なぜ、そのようなことを」
「決めないと、私が壊れるからよ」
雪蓮さまははっきりと言った。
「私、王よ。……嫉妬で判断を誤ったら、死ぬのは兵なの。冥琳にそう言われたわ」
「……」
「だから、決めておきたいの。決めておけば、境目の中にいるあいだは、私は怒らずに済むわ」
祭どのはしばらく黙っていた。それから、深く頭を下げた。
「――承知いたしました」
二人が決めたことを、俺はその場で聞いていた。口は挟まなかった。挟むなと言われていたからだ。だが、内容は、正直に言えば俺には少し辛かった。辛かったのは、二人が俺のことを一つずつ数え上げていったからだ。
夜のこと。飯のこと。誰がどの日に来るか。誰が病んだときにどちらが看るか。人前でどう振る舞うか。
二人は、それを淡々と決めていった。途中で、雪蓮さまが一度言った。
「……ねえ、祭。私たち、なんか、荷物の分け方みたいな話をしてるわね」
「しておりますな」
「……灘、聞いてる?」
俺は口を挟むなと言われていた。だが、名指しされたので答えた。
「……聞いている」
「どう思う」
「――口を挟むなと言われた」
「今は許可するわ」
俺は少し考えてから言った。
「……荷物のほうが、まだ気楽だ」
「そうよね」
「だが、一つわかったことがある」
俺は卓の上を見た。
「二人とも、俺を取り合っていない」
二人が顔を見合わせた。
「取り合っているなら、相手の分を減らそうとするはずだ。……あんたたちは、さっきから互いに譲り合っている」
「……そう?」
「そうだ。雪蓮さまは、病んだときは祭どのが看ればいいと言った。祭どのは、それは雪蓮さまの役だと言い返した」
「……言うたな」
「言ったわね」
「その譲り合いを、俺は聞いていた。……だから、今、そんなに辛くない」
しばらく、二人とも何も言わなかった。やがて、雪蓮さまが吹き出した。
「……あなた、本当に変な人ね。祭、聞いた? この人、こういう人よ」
「知っております。……十六年、見ておりますので」
境目の話が終わったあと、雪蓮さまが最後に一つ言った。
「……ねえ、祭。もう一つだけ、聞かせて」
「なんなりと」
この人はしばらく言葉を選んでいた。
「……蓮華のことは、どう思う?」
部屋が静かになった。俺はそこで背筋が冷えた。祭どのはしばらく答えなかった。
「……気づいておられましたか」
「気づくわよ。妹だもの。……去年から気づいてたわ」
「……」
「あの子、何も言わなかったのよ。私が灘のところに通ってるのも知ってて、それでも何も言わなかった。……そのくせ、私の回数を数えてたの」
その声が少し震えた。
「私、それを聞いたとき、自分が最低だと思ったわ。……でも、譲らなかったの。知ってて、譲らなかった」
雪蓮さまはそう言って、顔を上げた。
「祭。私、あなたには境目を作れるわ。あなたが四十年黙ってたって聞いたら、止められないもの。……でも、蓮華はどうなるの」
「……」
「あの子は、一年黙ってるのよ。私が言うのを見て、あなたが言うのを見て、それでも黙ってるの」
祭どのはしばらく黙っていた。やがて、こう答えた。
「……雪蓮さま。それは、わしが答えることではございません」
「じゃあ誰が答えるのよ」
「蓮華さまでございます」
この人ははっきりと言った。
「あの方が、ご自分で言われるべきことです。……わしらが代わりに決めることではない」
「でも、あの子は言わないわよ」
「言われんのなら、それも、あの方が決めたことでございます」
祭どのはそう答えた。
「わしは、四十年黙って、後悔いたしました。……ですが、黙ることを選ぶのも、その者の権利でございます」
「……」
「わしが言うたのは、わしが後悔したからでございます。……蓮華さまが黙られるなら、それはあの方のお選びです」
雪蓮さまはしばらく黙っていた。
「……そうね」
やがて、そう言った。
「そうよね。……私、また、あの子のぶんまで決めようとしてたわ」
この人はそう言って、少し笑った。
「昔から、そうなのよ。私、あの子のことになると、すぐ決めてあげようとするの」
そのとき、戸が開いた。誰も、叩く音を聞いていなかった。蓮華さまが立っていた。手ぶらだった。帳面を持っていない。この人が帳面を持たずに部屋へ来るのを、俺は初めて見た。
「――蓮華」
「……失礼します」
この人はそう言って、中へ入ってきた。入ってきて、卓の前に立った。
「聞いていました。……廊下で」
雪蓮さまが、明らかに動揺した。
「あなた、いつから」
「祭どのが、母様のことを話された頃からです」
蓮華さまはそう答えて、その場に座った。座ってから、姉を見た。
「お姉様。一つ、申し上げます」
「……なによ」
「私も数に入れてください」
部屋が、しんとした。雪蓮さまが絶句した。祭どのが、少し笑った。笑ってから、慌てて口を押さえた。
「……蓮華。あなた、何言ってるの」
「言葉の通りです」
この人ははっきりと言った。
「お姉様は、祭どのと境目を決めました。……それは、祭どのが四十年黙っていたからです。黙っていた人が言ったから、お姉様は止められなかった」
「……」
「では、私はどうなりますか。私は一年黙っていました。……一年では足りませんか」
雪蓮さまは、その問いに答えられなかった。
「そういう問題じゃないでしょ」
「同じ問題です」
蓮華さまは即答した。
「黙っていた年数で決めるなら、私は一年です。祭どのは四十年です。……でも、黙っていた理由は同じです。言ったら、隣にいられなくなると思ったからです」
この人はそこで少し声を落とした。
「私は、あなたの妹です。……言ったら、お姉様に嫌われると思いました」
雪蓮さまが、そこで顔を上げた。
「嫌わないわよ」
「今なら、そう言えます。……去年は、言えなかったでしょう」
この人はそう言って、姉の目を見た。
「去年、私が言っていたら、お姉様は譲ったと思います。……お姉様は、そういう人ですから」
「……」
「譲られるのは、嫌です」
雪蓮さまは、しばらく何も言わなかった。言わないまま、俺のほうを見た。俺は口を挟むなと言われていたので、黙っていた。やがて、この人は溜め息をついた。
「……わかったわ」
「いいんですか」
「よくないわよ」
雪蓮さまは即答した。
「よくないけど、あなたを外して決めたら、私は一生あなたに謝ることになるもの」
この人はそう言って、卓の上に手を置いた。
「……じゃあ、もう一度やり直しね。三人で決めるわ」
三人での取り決めは、最初のときより長くかかった。二人のときは半刻で済んだものが、三人になると二刻かかった。日が暮れて、灯りを入れて、それでも終わらなかった。途中で、蓮華さまが帳面を取りに行った。
「――書くのか」
俺が思わず聞くと、この人は真顔で答えた。
「書きます。書かないと、忘れます」
「……それは、書くようなことか」
「書くようなことです」
蓮華さまはそう答えて、筆を取った。
「口約束は、必ず食い違います。……半年経つと、言った言わないになります」
「……そうだな」
「それに」
この人はそこで少し目を伏せた。
「書いておけば、破られたときにわかります」
その一言で、部屋の空気が少し変わった。雪蓮さまが、少し笑った。
「……あなた、そういうところ、容赦ないわね」
「数える人ですから」
結局、決まった中身は、二人のときとそう変わらなかった。
変わったのは、日の数え方だけだ。月を三つに割るのではなく、日ごとに決めた。祭どのが「わしは月に四日でよい」と言い出して、二人がそれに反対した。反対されて、この人が渋々増やした。
最後に、雪蓮さまが一つ付け加えた。
「――一つ、約束して。三人とも」
「なんじゃ」
「嘘をつかないで」
この人はそう言った。
「私にも、祭にも、蓮華にも。……誰にも、本当のことを言って。それだけでいいわ」
祭どのが頷いた。蓮華さまも頷いた。俺も頷いた。俺が頷いたところで、雪蓮さまがこちらを見た。
「……灘。あなた、一つも喋らなかったわね」
「喋るなと言われた」
「言ったわ。でも、最後くらい何か言いなさいよ」
俺はしばらく考えた。考えて、こう言った。
「……悪かった」
三人が、同時にこちらを見た。
「――何がですか」
蓮華さまが聞いた。
「気づかなかったことだ」
「三人とも、俺が気づかなかったせいで、言えずにいた。……雪蓮さまは二年、蓮華さまは一年、祭どのは四十年だ」
「……」
「四十年のうち、俺が関わったのは十六年だけだが、その十六年は俺が気づかなかった」
俺は卓の上を見た。
「気づく人間なら、もっと早く片がついていた。……俺が鈍かったぶん、三人に待たせた。それは、悪かった」
しばらく、誰も何も言わなかった。最初に口を開いたのは、祭どのだった。
「……若いの」
「なんだ」
「それはな、謝ることではないわ」
この人はそう言って、少し笑った。
「あんたが鈍かったから、三人とも言えんかった。……それは本当じゃ。じゃがな、あんたが鈍かったから、三人ともここにおるんじゃ」
「――どういう意味だ」
「あんたが鋭かったら、とっくに誰か一人を選んどるじゃろう」
祭どのはそう言って、瓶を持ち上げた。持ち上げたが、飲まなかった。
「選ばれんかった二人は、とっくにおらんようになっとる。……鈍いのも、役に立つということじゃ」
俺はその理屈に、返す言葉を持たなかった。その夜、全員が帰ったあと、俺は一人で家の前に座っていた。三人が決めた取り決めの写しを、蓮華さまが置いていった。読めと言われたので、読んだ。
読んで、少し途方に暮れた。日の割り振りと、病んだときの役と、人前での振る舞い。全部が書いてある。書いてあるのに、俺はこれをどう扱えばいいかがわからなかった。
足音がして、公瑾どのが来た。この人は、俺の手元の紙を見て、それから少し笑った。
「……決まったそうですね」
「決まった」
「読みましたか」
「読んだ」
「感想は」
「……わからん」
俺は正直に答えた。公瑾どのは、その答えに少し目を細めた。それから、俺の隣に腰を下ろした。
「楚航どの。一つ、申し上げてよろしいですか」
「言え」
「これは、いつか誰かが泣きます」
この人ははっきりと言った。
「今は、三人とも納得しています。決めたことですから。……ですが、決めたことは破られます」
「……破られるか」
「破られます。必ず」
公瑾どのはそう言って、川のほうを見た。
「誰かが病んだとき。誰かが戦に出たとき。誰かが先に死ぬとわかったとき。……そういうときに、境目は意味をなさなくなります」
「……」
「そのときに、あなたがどうするかを、私は見ています」
俺はその言葉を、しばらく胸の中で転がしていた。転がして、こう答えた。
「――わからん」
「わからん、では困ります」
「困る。……だが、今わかったことにすると、そのときに嘘になる」
俺は紙を畳んだ。
「今は、わからん。……そのときに、考える」
公瑾どのは、その答えにしばらく黙っていた。黙ってから、少し笑った。
「……それでよろしい」
「――いいのか」
「いいです。……『大丈夫だ』と即答されるほうが、よほど信用できません」
この人はそう言って立ち上がった。
「一つだけ、覚えておいてください。三人とも、あなたのために黙っていたのではありません。……自分のために黙っていたのです」
「……」
「ですから、あなたが背負うことではない。……背負うと、三人が困ります」
公瑾どのはそう言って歩き出した。少し行ったところで、振り返った。
「それと、楚航どの」
「なんだ」
「北で、動きがありました」
俺はその言葉に、少し身構えた。
「……いつだ」
「三日前です。……曹操どのが、河北を平定されました」
この人はそう言って、川の北のほうを見た。
「袁紹どのが敗れました。……これで、北は一つになります」
「――一つか」
「一つです。……そして、一つになった北は、必ず南を向きます」
公瑾どのはそう言って、少し声を落とした。
「三年、いや、五年でしょうか。……それまでに、こちらが形を作らねばなりません」
俺はその言葉を聞いて、手元の紙を見た。三人で決めた取り決めが書いてある。日の割り振りと、病んだときの役と、人前での振る舞い。五年後、この紙がまだ意味を持っているかどうかは、わからなかった。