前任のプロデューサーから渡された引き継ぎ資料の最初のページには、付箋で一枚のメモが貼り付けられていた。殴り書きのような筆跡で、彼女に関するいくつかの注意事項が箇条書きで並んでいる。
アメを絶やすな。
特に大きくて丸い原色系のやつを常備すること。
「働いたら負け」という文字を見ても、社会のルールについて説教をしてはならない。
隙間という隙間を警戒しろ。
ソファの裏、机の陰、ロッカーの上。彼女は液体のようにどこにでも滑り込む。
非常に頭が切れる。
サボるための論理的思考力において、彼女の右に出る者はいない。
そして、メモの最後はこう啜られている。
双葉杏は働かない
そのメモをポケットに仕舞い、配属された事務所のドアを開ける。
室内は活気に満ちあふれていた。芸能事務所というのはどこもこうなのかもしれないが、多様性を重んじる業界の最先端を行っているのだろう。
私のデスクがあるエリアの床にはなぜか色とりどりのキノコが群生しており、その奥で一人の少女が嬉しそうに胞子を撒き散らしている。
そのすぐ横、私が座るべき椅子の引き出しからは、長い髪の少女が顔を覗かせて「むーりぃー」と消え入るような声を出していた。
さらに部屋の隅に目を向けるともう一人の小柄な少女が誰もいない空中を指さして楽しそうに談笑している。
その周囲だけ妙に室温が低く、私の吐く息が白くなった。どうやらエアコンの調子が悪いらしい。
さらに部屋の奥の畳では、別の少女が動物の着ぐるみを着たまま眠っている。
私は「活気があっていいことだ」と納得し、キノコを踏まないように気をつけながら席に着いた。引き出しの少女には「少し手狭で申し訳ない」と心の中で詫び、そのままパソコンを立ち上げて事務作業を開始する。
前任者からの引き継ぎデータを精査し、書類に判を押し本日分のスケジュールを確認していく。
売れっ子である彼女の今日の予定は午後からのダンスレッスンが一本入っているだけだった。これなら新米の私でも問題なくアテンドできるだろう。
あとは主役の到着を待つだけだ。
窓の外では、活発な少女が息も絶え絶えな癖毛の女の子を励ましながら元気に走り過ぎていく。
背後ではエアコンの不調が加速したのか、うっすらと怪しげな霧が立ち込め始めていたが私はお茶を一口すすり静かに時計の針が進むのを眺めていた。
しかし、約束の時間を十五分過ぎても彼女が部屋に現れる気配は一向になかった。
約束の時間を三十分ほど過ぎた頃、部屋のドアが勢いよく開きベテランの女性トレーナーが姿を現した。彼女はレッスン場に現れない私の担当アイドルを探しに来たようだった。
私と目が合うと彼女の目つきが瞬時に険しくなる。その怒りの表情は、まるで長年大切に育てていた家庭菜園のトマトを近所の野良猫にすべて食い荒らされた直後の農家のようなものだった。芸能界の指導者というのは顔の筋肉の表現力も一流なのだと感心させられる。
私は立ち上がり、彼女が生活しているという女子寮へ直接迎えに行くことにした。
男性である私が女子寮に立ち入っていいものかという倫理的な疑問は一瞬頭をよぎったが彼女の携帯電話に何度発信しても電波の届かない場所にいるか電源が入っていないという無機質な機械音声が流れるばかりなので仕方がない。
寮の玄関をくぐったところでさきほど事務所のオフィスで誰もいない空間と喋っていた少女がいつの間にか私の背後に立っていた。
彼女が冷んやりとした指先で誰もいない空間を指さしながら建物の二階の奥の一室を示してくれる。
なるほど、この事務所のネットワークは実に見事なものだ。私は背後の気配にお礼を言い階段を上がった。
案内された部屋のドアには、「セールスお断り。宗教・新聞・労働の勧誘は一切受け付けません」と書かれた手書きの張り紙があった。
労働が宗教や新聞と同列に扱われているあたりに、彼女の強い意志を感じる。私はその張り紙の横にあるインターホンを数回鳴らしたが応答はなかった。
鍵はかかっていなかったので失礼して中へ入る。
真昼間だというのに遮光カーテンがぴっちりと閉められた室内は夜のように薄暗かった。
しかし、事前に想像していたよりも部屋ははるかに整頓されている。床に衣類が散乱していることもなく、本棚の漫画も綺麗に背表紙が揃っていた。
十代の売れっ子アイドルでありながらこれほど規律正しい生活空間を維持できるとは彼女は並々ならぬこだわりと高い意識を持っているに違いない。素晴らしいプロフェッショナル精神だ。
その綺麗な部屋の秩序を唯一乱すように中央のベッドの上に彼女はいた。
彼女は実にかわいらしかった。
小柄な体躯はまるで精巧に作られたフランス人形のようであり、色素の薄い髪が枕の上に柔らかく広がっている。
しかし、その寝相は人形のそれとは程遠く、実にダイナミックだった。
「働いたら負け」とプリントされた例のTシャツは大きくはだけて片方の肩が完全に露出しており、白いお腹が文字通り丸出しになっている。
幼さと防衛本能の欠如が奇妙に同居したその姿は、ある種の芸術的な凄みすら感じさせた。すやすやと規則正しい呼吸を刻むその寝顔を見ていると連日の過酷なアイドル業がこの小さな身体にいかに深い疲労を蓄積させていたかが痛いほど伝わってくる。
私は、彼女の健気な頑張りに深い敬意を抱いた。
そして、これほど疲弊している彼女を無理に叩き起こすのはプロデューサーとしてあまりに酷であるという結論に達した。
私はベッドに近づき、彼女の身体を敷布団ごと両側から綺麗に巻き上げ一本の巨大な布の筒、いわゆる「簀巻き」の状態にした。
彼女は一瞬「ふにゃ?」と小さな声を漏らしたが私の迅速かつ丁寧な作業のおかげで目を覚ますことなく再び深い眠りへと落ちていった。
私はその中に最高級のアイドルが詰まった重量感のある筒をしっかりと両腕で抱え、そのまま女子寮を後にして事務所へと引き返した。
事務所のレッスン場に戻り、待ち構えていた例のトレーナーの前に私は簀巻きにされた彼女を静かに横たえた。
布の端からは彼女の小さな足先と寝息を立てる頭頂部だけが覗いている。
トレーナーは床の筒と私の顔を交互に見つめ、一瞬だけ人類が初めて未知の宇宙生命体と遭遇したときのような複雑な表情を浮かべた。
しかし、すぐにプロとしての冷静さを取り戻した彼女は、深く一回、重々しく頷いた。どうやら私の的確な現状への対処とアイドルの体調を最優先にした輸送方法を高く評価してくれたようだった。
彼女を無事に納品した後は再びデスクに戻って事務作業を進めることにした。
私が不在だったわずかな時間にも事務所の活気はさらに増していたようだった。
給湯室の方からは、エプロン姿の少女が「スウィーティー!」と叫びながら砂糖を信じられない分量投入したお菓子を焼き上げる甘ったるい匂いが漂ってくる。
その斜め向かいのソファでは、成人のアイドルたちが「うぃ〜」と上機嫌な声を上げ、真昼間からビール缶を開けて宴会を始めていた。
よく見ると私のデスクの下にはさきほどの長い髪の少女だけでなくもう一人、頭に大きなリボンをつけた別の少女まで一緒になって潜り込んでおり二人で狭そうに膝を抱えている。
さらには、自称「ウサミン星」からやってきたという、明らかに私より年上の女性アイドルがウサギの耳をつけて元気に飛び跳ねながら年齢に関する事務手続きの書類を提出しにやってきた。
私はそれらの光景を一つ一つ確認し、芸能界という場所の底知れない奥深さに改めて畏敬の念を抱く。
これほど刺激的で多様な才能に満ちた環境のなかで仕事ができるのはプロデューサー冥利に尽きるというものだ。私は手際よく書類に判を押し続けた。
それから一時間ほど経った頃、事務所のドアが、今度は爆発でも起きたかのような勢いで蹴破られた。
そこにはすっかり簀巻きから脱出した彼女が立っていた。しかし、その表情は鬼気迫るものがある。
激しいレッスン直後特有の紅潮した頬と怒りで逆立ったかのように見える乱れた髪。彼女はまっすぐに私のデスクへと歩み寄り、机を思い切り叩いた。
その怒りの沸騰ぶりは夏の盛りに放置された炭酸飲料のボトルが限界を迎えて一気に噴き出したかのような理不尽かつ圧倒的なエネルギーに満ちていた。
彼女は息を荒くしながら前任のプロデューサーが現場を去ったこと、誠意のない運搬をされたこと、そして自分はすでに一生遊んで暮らせるだけの十分な資産を築き上げたことをまくしたてた。
だから今日限りでアイドルを引退し、これからは念願の印税生活に入るのだと強い口調で宣言する。
私はその言葉を聞き深い衝撃を受けると同時に、猛烈な自己嫌悪に陥った。
なんということだ。私のプロデュース能力が新米ゆえに未熟であるばかりに彼女はこれからのアイドル人生に絶望し、引退という重い決断を下さざるを得なくなってしまったのだ。
前任の先輩がいなくなり、頼れる盾を失った彼女の不安は想像に難くない。「印税生活」という表現もきっと業界の過酷な競争から逃れたいという彼女なりの切実なSOSの裏返しに違いない。
私は深く反省した。彼女に二度とこのような弱音を吐かせないためにも前任のプロデューサーに負けないくらい彼女のスケジュールを魅力的な仕事で埋め尽くしてみせると心の中で固く決意する。
私は顔を上げ、彼女の素晴らしいプロフェッショナル精神を心から称賛した。
引退を口にするほど精神的に追い詰められあれほど激しいレッスンの後であるにもかかわらず、わざわざ今後の身の振り方について私と直接交渉するために足を運んでくれたのだ。
その仕事に対する誠実な姿勢、アイドルとしての責任感の強さはまさに全アイドルの模範と言うべきである。
私の言葉を聞いた彼女は瞬時に奇妙な表情を浮かべた。それは、まるで大真面目な顔をした人間から「実は地球は平らで巨大なカメの背中に乗っているんだ」と力説されたときのような猛烈な戸惑いと信じられないものを見る目が混ざり合った、実に複雑な眼差しだった。
やがて彼女は、深い溜息をつき小さく肩を落とした。端から見れば完璧な美少女である彼女が、どこか疲れ切った中間管理職のような哀愁を漂わせている。
そして、自分への正当な対価としてご褒美のアメを差し出すように私に要求してきた。
私は「待ってました」とばかりにあらかじめ内ポケットに忍ばせていた一品を机の上に厳かに置いた。
私が用意していたのは青いパッケージも鮮やかな、伝統ある「龍角散のどすっきり飴」である。
これにはさすがの私も感服せざるを得なかった。
サボりたい、引退したいなどと口では言いながらも彼女はレッスン直後の荒れた喉のケアを最優先に考えていたのだ。
甘いお菓子ではなく確実に喉を保護するための実用的な銘柄を指定してくるとは。
引退を仄めかす狂言劇の裏でこれほど徹底した自己管理を行っている彼女のプロ意識の高さにはただただ脱帽するしかない。
机の上の青い袋を見つめたまま彼女は凝固した。
その静止ぶりは見事なものだった。まるで、世界的な彫刻家が「現代社会の絶望と困惑」をテーマに一億年の歳月をかけて彫り上げた大理石の少女像のようだった。まつ毛の先一本、はだけたTシャツの裾一枚すら微動だにしない。
数十秒の沈黙の後、彼女は諦めたように小さく息を吐き袋からアメを一個取り出して口に放り込んだ。
そのハーブと生薬の独特な香りに惹かれたのだろうか。事務所のあちこちから、羊の着ぐるみを着た少女やのんびりとした年少組のアイドルたちがわらわらと彼女の周りに集まってきた。
彼女はハーブの刺激に小さく顔をしかめながらも集まってきた小さな少女たちの頭を「はいはい、これは辛いからダメー」と手慣れた手つきで撫で、自分のうさぎのぬいぐるみを叩いてあやし始めた。
さらに、私のデスクの下からおずおずと出てきた二人の少女にも「あんたたちも、そんなとこにいないでこれ食べな」とお菓子作りの少女が置いていったクッキーを皿ごと手渡している。
口では「働きたくない」と言いながらもこうして仲間たちを自然と世話し事務所の調和を保とうとする彼女の姿はまさに頼れるお姉さんそのものだ。やはり彼女は、この事務所を精神的に支える最高のリーダーシップの持ち主である。
ハーブの香りが室内に広がる中、彼女は次はもっと甘いアメを用意するようにと私に次の条件を提示してきた。
素晴らしいことだ。ただアメを受け取るだけでなく、次回の物品調達に関する要望、つまり「次回の予定管理」をこの段階で早くも行ってくれている。彼女の計画性と次の仕事を見据える視野の広さがあれば、今後のプロデュースも間違いなく軌道に乗ることだろう。
私は彼女の的確な要求をメモ帳に書き留めながら、やはり双葉杏は誰よりもアイドル業界の未来を真摯に見つめている素晴らしい表現者なのだと改めて確信した。
普通のプロデューサーの活動記録です