冷たい石の感触が、膝に食い込んでいた。
両腕は後ろで固く縛られ、首筋に当てられた刃の冷たさが、皮膚を通して骨まで届く。
周囲には近衛兵の気配と、遠くで囁かれる観衆たちの声。
誰もが、この場の結末を既に知っているかのように静かだった。
(……終わり、なのかしら)
クラリス・フォン・アウレリアは、静かに目を閉じた。
王子に捨てられ、家に見放され、聖女の柔和な微笑みの裏で全てを仕組まれた。
転生者として必死にフラグを回避しようとした結果が、この斬首台だ。
刑吏が斧を持ち上げる音がした。
その瞬間だった。
空気が、変わった。
鼓膜ではなく、もっと深い場所。
骨の髄で、何かが鳴り始める。
低く、重く、しかしどこか高らかな旋律。
誰も口にしていないのに、この場にいる全員がそれを聞いてしまったかのように、一斉に身を強張らせた。
“死神のファンファーレ”と呼ばれる、あの音だ。
すると空から、白い影が落ちてきた。
着地の衝撃はほとんどない。
なのに石畳に細いひびが走り、白い、人の形をした何かが、腕を組み刑場の中央に静かに立っていた。
装甲のようにも装束のようにも見える表面。
仮面の奥で、金色の眼だけが冷たく光っている。
「トビザル、見参!」
近衛兵たちが槍を構える。
しかし、遅かった。
白い影は、すでに動いていた。
最前列の槍兵三人が突きを放つ。
穂先が届く前に、影は沈み込んで横へ滑った。
右手に握られた不格好な長さの武器が、短い金属音と共に刃を展開する。
「バトルベヨネット銃剣、展開」
感情のない声が、仮面の奥から漏れた。
横一閃。
三本の槍の柄が同じ角度で両断される。
兵たちは自分の武器が折れたことすら理解できないまま前に出る。
その懐に、白い膝が叩き込まれた。
三人同時に、呼吸を止めるようにして崩れ落ちた。
後方の弓兵が一斉に矢を放つ。
影は地面に手をついて回転した。
足の装甲が展開し、カチャカチャと大量の金属が装填される音がする。
「マキビシクレイモア、展開」
小さな金属片が低い軌道で石畳を跳ね、弓兵の足元に散らばる。
矢は全て空を切り、次に姿を現したときには、すでに弓兵の集団の中にいた。
残像が白い煙のように残る。
肘打ちが顎を打ち、踵が膝を潰し、裏拳が喉をかすめる。
殺さない。
正確に、立ち上がれない程度に無力化する。
「止まれ!魔術師は術式を!」
将校の声が響く。
複数の魔術師が、炎と氷の術式を展開し始めた。
白い影は別の武器を構える。
「破魔アロー!!」
光の矢が一直線に放たれ、術式の核を正確に貫いた。
遅れて爆発音。
炎と氷が制御を失い、魔術師たちを巻き込んで散開する。
残った近衛兵たちが、半ば恐慌状態で襲いかかる。
影は銃剣を正眼に構えたまま、歩みを止めない。
一人目の剣を刃の腹で受け流し、手首をひねって落とさせる。
二人目の槍を柄の中ほどで踏み折る。
三人目が背後から斬りかかった瞬間、すでに半回転しており、肘がみぞおちに入っていた。
兵たちが一人、また一人と、石畳に沈んでいく。
殺していない。
なのに、誰も立ち上がれない。
白い影が、崩れた兵たちの間に静かに立つ。
ファンファーレは、まだ鳴り続けている。
銀色の仮面が、ゆっくりと斬首台の方を向いた。
「一飯の礼、返させてもらう」
声に抑揚はない。事務的に、それだけのことを告げている。
クラリスが何か問いかけようとした、その直前だった。
「拙者はニンジャだ」
場の空気が、決定的に歪んだ。
近衛兵の一人が「正体不明の乱入者め!!ついに国へ反旗を翻したか!!」と声を上げる。
別の兵が「我々の味方だと思っていたのに!!」と確認し合う。
貴族の一人が「ニンジャ?噂のアレか!?そのような訳のわからないモノなど、この国にいるわけがない」と真剣に否定する。
その間にも、白い影は淡々と残りの兵を無力化していく。
クラリスは縛られたまま、ただ呆然と見ていた。
(……バトルベヨネット銃剣って何よ。ベヨネットも銃剣で意味が重複してるじゃない…マキビシクレイモアって何よ、まんま指向性対人地雷じゃない。それにニンジャって……私の処刑場で、何が起きているの?)
白い影が近づき、クラリスを抱きかかえるようにして抱え上げる。
軽く跳躍し、屋根の上へと逃れる。
去り際に、小さく、しかし明確に言った。
「生きろ」
銀輝く仮面を見ながら、クラリスの胸に一つの疑問が残った。
(あなたは、誰?)
そう…きっと、全てはあの日から始まったの。
♢
全ては、あの日から始まった。
異世界に転生した瞬間、オレは行き倒れていた。
名前も、身分も、何もない。
ただ、衰弱しきった体で石畳に崩れ落ちていた。
周囲を歩く人々は、邪魔なものを避けるようにオレを見て見ぬふりをする。
当然だ。誰が、見知らぬ行き倒れに構うというのか。
呼吸は浅く、視界はぼやけている。
このままここで終わりかと思った、そのときだった。
足音が止まり、影が落ちた。
「……あなた、大丈夫?」
若い女の声だった。伯爵家の令嬢らしい、上品な服装。金髪に、澄んだ瞳。
後にクラリス・フォン・アウレリアと呼ばれることになる人物だ。
彼女は迷いなく、持っていた小さなパンを差し出した。
「これしかありませんが。とりあえず、口に入れて」
オレはそれを受け取った。
味など、ほとんど分からなかった。ただ、温かかった。
乾いた喉をわずかに潤し、冷たくなりかけていた体に、僅かな熱が戻る。
「……ありがとう」
掠れた声でそう言ったとき、彼女は小さく微笑んで、そのまま去っていった。
振り返りもせず、足早に人混みの中へ消えていく。
たったそれだけのことだ。
一宿一飯にも満たない、ほんのわずかな施し。
だが、オレはその恩を忘れなかった。
(礼は、返す)
その言葉を、心の中で繰り返した。
そして、オレは生き延びた。
その後のことは、長くは語るまい。
紆余曲折の末、オレは貴族の養女となり、ライラ・フォン・シルバニオンとして育てられた。
養父母への恩返しも兼ねて、あらゆる分野で成果を出し、「銀の令嬢」と呼ばれるようになった。
この世界に来てからも、ニンジャの鍛錬は欠かさなかった。
オレは前世で、ニンジャに心酔していた男だった。
ニンジャを繰り返し見て、忍術の知識を集め、忍者がどう動くべきか、どう在るべきかを、子供じみた熱量で考え続けていた。
その趣味が、転生しても消えなかった。
異世界に落ちて、行き倒れになって、クラリスにパンを恵んでもらって、生き延びて、貴族の養女になって。
それでも、オレの中で一番強かった欲求は「ニンジャになりたい」だった。
令嬢としての生活は、養父母への恩返しと、表の顔を立てるためのものだ。
本気で打ち込んでいるのは、忍術の鍛錬と、トビザルとしての活動の方である。
理由なんて、要らねえ。
好きだからやってる。
この程度の動機でいい。
だから身体を鍛え、術を試し、やがて変身する術を得る。
この世界では、私は思うように成長できた。
だから夢中で鍛錬した。
等身大の白い機体が完成した。
仮面の奥で金色の眼が灯る、あの姿だ。
オレはそれを「トビザル」と名付けた。
名前は、伝説の水戸黄門クランのニンジャから拝借した。
鍛え抜いて研ぎ澄まされた感覚は、ニンジャレーダーとして人のピンチに反応する。
そうやって各地の騒動に乱入した。
商人を襲う盗賊を壊滅させ、贈収賄の現場を押さえ、将軍の暗殺を阻止した。
最初は「謎の白い何か」だった。
やがて「ニンジャを名乗る異形」として知られ、兵士たちは「死神のファンファーレが聞こえたら走れ」と噂するようになった。
(有名になりすぎたな。忍べなくなってきた。だが、仕方ない)
表は可憐で上品な令嬢で、裏はニンジャ。
この二重生活、意外と性に合ってる。
そして、ある日の茶会。
オレはそこで、クラリスを見つけた。
王太子と婚約し、「増長した性格の悪い伯爵令嬢」として知られていた彼女が、最近”とても優しくなった”などと様子を変えたと噂されていた。
俺は彼女をじっと見つめる。
ああ、あのときの人だ。
しかし、オレの研ぎ澄まされたニンジャセンサーが言う”中身が違う”と。
たぶんオレと同じ転生者なのかもしれない。
それなら急激な性格の変化も頷ける。
しかし、中身が誰だろうとオレには関係ない。
オレはケツイした。
これまで各地の騒動に割いていたリソースを、彼女のために使う、と。
“一飯の礼だ。必ず返す”
そうやって彼女を見守っている間に、セレスティアが動いた。
聖女のセレスティアはとても素晴らしい聖職者だ。
だがヤツを一目見たオレのニンジャセンサーが、頭の中で警告音を鳴らす。
そこでオレは分かった。
アイツの性根は、腐り切ったジャガイモのようだ。
臭すぎて「あらとっても良い匂いね!何の匂いかしら!聖女様は醸し出す香りも清廉なのですね!」などとヤツに冗談を言ってしまった。
それを言われて喜ぶコイツも、余程前向きなんだろうな。
しかし聖女セレスティアは狡猾だった。
オレの観察を出し抜いて、柔和な微笑みの裏で邪魔者クラリスの悪評を決定的なものにし、見事に反逆の証査を捏造した。
結果王子は彼女を切り捨て、家も見放した。
即座に処刑が決まった。
処刑の前夜。
オレは別の令嬢に変装し、牢へ入った。
警護兵には一時、全員休憩してもらった。
牢獄の奥でクラリスは壁に背を預けて座っていた。
もう、泣くことも怒ることもしていない。
「……あなたは、どうしたいのですか」
ボロボロの彼女が顔を上げるまで、少し時間がかかった。
「……死にたくない」
掠れた声。
オレは頷いた。
「分かりました」
それだけ言って、牢を後にした。
生きたいと言うなら、お望み通り生かしてやる。
それだけの話だ。
一応ケジメとしてクラリスの意思を確認しておきたかっただけ。
そして、当日の刑場。
“死神のファンファーレ”などと彼らから揶揄される音楽が鳴る。
この音楽は何故か、トビザルが出現している間ずうっと皆の頭に流れる仕様不明の音楽だ。
オレだけじゃなく、周囲の人間全てだ。
これはオレも止める事は出来ない。
だからトビザルの姿では決して忍べない。
だが構わない。
本当に忍ぶときは、ライラや変装で十分だからだ。
そうやって謎の音楽を垂れ流しながら、オレは白い機体として広間に着地した。
既に有名になっていた謎の乱入者が、恩人の処刑場に現れた瞬間だった。
「トビザル、見参!」