TCG能力《創世札典》を手に入れた俺、一日一マナから現代社会を攻略する~治療、未来予知、若返り。マナが足りないので山を買います~ 作:パラレル・ゲーマー
休日の朝。
マンションのリビングには、窓越しに穏やかな朝日が差し込んでいた。
啓介は、ダイニングテーブルの上に広げた丈夫なキャンバス地のトートバッグへ、手慣れた動作で次々と荷物を詰め込んでいた。
今日は、先日新しく借り受けた廃校へ向かう日ではない。政府の人間と顔を突き合わせて、重苦しい制度や価格の会議をする予定も入っていなかった。
「よし、予備バッテリーよし、記録用のタブレットもよし、と」
本日は、青梅に所有する山林の、定例の巡回日だった。
バッグに収まっていくのは、純粋な管理作業のためのアイテムだ。
万が一のための救急用品セット、虫除け、厚手の手袋。記録用のタブレット端末とスマートフォン。現場で簡単な修繕が必要になった時のための小型工具類。ゴミ袋。そして、啓介自身の飲料水と、アカネに飲ませるための安全なボトルウォーター、それに小ぶりなタオル。
ただし、今日は大掛かりな間伐や施設の増設を行う予定はない。そのため、重量のあるチェーンソーや、けたたましい音を立てる電動工具の類は持ち出さなかった。
今日の目的は、ただ一つ。
『自分の山に異常がないことを、自分の目で確かめて帰ってくること』。
啓介が準備を進めていると、ソファの上で丸くなっていたアカネが、身を乗り出してこちらを見ていた。
短い前脚を揃え、金色の瞳が啓介の手元をじっと追っている。
啓介はバッグのジッパーを閉め、アカネの方を振り返った。
「いいか。今日は遊びに行くんじゃないからな」
「あぎゃ」
アカネは、小さく首を傾げて鳴いた。
「……絶対に分かってない顔だな、お前」
啓介は苦笑しながら、部屋の隅からお出かけ用のキャリーケースを引っ張り出してきた。
最近は、政府関係の極秘の打ち合わせや、旧校舎の視察など、アカネを連れて行けない用事が多く、マンションでの留守番が続いていた。だが、今日のような純粋な山林巡回であれば、同行させることに何の問題もない。
啓介がキャリーケースの扉を開けると、アカネはトテトテと歩み寄り、自らすすんでケースの中へと入り込んだ。
中でぐるりと一回転し、居心地の良い位置を見つけて座り込む。
「……今日は妙に素直に入るな」
先日、山で一日中遊んだ時よりも、明らかに入りが早い。
啓介はそれ以上考えず、キャリーケースの扉を閉めた。
車を走らせ、青梅の山林へと到着した。
空は薄い雲が広がっているが、概ね晴れと言っていい天候だった。木々の隙間から落ちる木漏れ日が、風に揺れて地面にまだら模様を描いている。
啓介は、車を既定の路肩に停め、周囲に人気がないことを慎重に確認してから、キャリーケースの扉を開けた。
「よし、出ていいぞ」
「あぎゃ!」
アカネはケースから飛び出すなり、短く元気な声を上げ、空へと舞い上がった。
そして、空中で一度だけ周囲を見回すようにホバリングすると、迷うことなく一直線に《アカネの守り巣》がある方向へと飛んでいった。
啓介は、その小さな赤銅色の背中を見送ってため息をついた。
「お前は本当に、まずはあっちへ直行するんだな」
先日の「遊びの日」とは違い、啓介の頭は到着した瞬間から完全に管理モードへと切り替わっていた。
まずは、アカネが向かった《守り巣》周辺の安全確認からだ。
啓介はカートを引いて山道を進み、守り巣の前に立った。
外観をチェックする。周囲の土砂崩れや、フェンスの大きな変形はない。
屋根の上の防水シートも破れておらず、落ち葉が少し積もっている程度だ。
扉の開閉もスムーズで、蝶番の歪みも見られない。
上部に設置した監視カメラも正常に稼働しており、非常用ブザーの外観にも物理的な損傷は見当たらなかった。
「よし。守り巣の外周、異常なし」
啓介はタブレットを取り出し、チェックリストにチェックを入れる。
次に、アカネ用の飲み水を確認し、トレイに残っていた古い水を捨てて、持参したボトルから新しい水へ交換した。
ふと見ると、アカネは守り巣の屋根の上にちょこんと座り、自分の家の状態には全く興味がなさそうな顔で、周囲の木々を眺めていた。
次は、作業拠点と雨水設備の確認だ。
タンクの据え付けに緩みはないか。波板の集水屋根が風でズレていないか。雨樋の詰まり、ホースの接続部、そしてオーバーフローの管に異常がないかを目視で点検する。
周辺の地面も、過剰に水が集中してぬかるんでいるような箇所はなかった。
アカネが、屋根からふわりと降りてきて、タンクの流入口のあたりを一瞬だけ見上げた。
だが、今日はそこから水滴が落ちてくる気配がないと分かると、すぐに興味を失って別の方向へ歩いていった。
啓介も、そのまま点検を続けた。
今日は設備を確認しに来たのだ。わざわざ水を流してアカネの反応を見る理由もない。
拠点回りの点検を終え、啓介は山林内の《第一管理通路》へと足を踏み入れた。
歩を進める啓介の少し前方を、アカネが自由についてくる。
パタパタと低く飛んでは、手頃な枝に止まって啓介を待ち、啓介が近づくとまたふわりと飛び立って、今度は地面のふかふかした腐葉土の上に降り立つ。
つかず離れずの距離を保ちながら、山の中を進んでいく。
啓介の目は、足元や頭上を鋭く行き交っていた。
新しい倒木はないか。頭上に、折れて引っかかった大きな枯れ枝や吊り枝はないか。斜面からの土砂の流出痕はないか。
フェンスの向こう側から、ゴミの不法投棄がされていないか。人の侵入した形跡はないか。
確認事項は多岐にわたるが、啓介はそれを淡々とこなしていく。
「……うん。特に問題なし、と」
歩きながら、啓介は落ちていた小さな枯れ枝を拾い上げ、通路の脇の邪魔にならない場所へヒョイと投げた。
風で外から飛んできたらしい、色褪せたコンビニのレジ袋の切れ端を一つ見つけ、持参したゴミ袋に回収する。
必要な作業と言えば、本当にその程度だった。
「……平和だな」
啓介は、木々の間を吹き抜ける風の音を聞きながら、ポツリと漏らした。
そして、すぐに自分で自分に言い聞かせるように言葉を継いだ。
「いや、管理地っていうのは、これくらい平和で何も起きないのが一番いい状態なんだ」
この山を買ったばかりの頃を思い出す。
頭上の危険な枯れ枝に怯え、まともに歩けない斜面に管理用の道を作り、フェンスを確認し、監視用のカメラや設備を整え、雨水タンクの設置にも手を入れた。
来るたびに、解決しなければならない仕事が次々と見つかったものだ。
だが今は違う。
必要な設備はある程度整い、現在はそれを維持する段階に入っている。
無理に新しい設備を増やしたり、山そのものへ余計に手を入れたりする必要はない。
巡回も後半に入った。
啓介は、山林の境界線である外周フェンスに沿ってゆっくりと歩いていた。
アカネは、啓介より数メートルほど先を行っていた。
低い枝に止まり、すぐに地面へ降りて、落ち葉をカサッと踏む。
その時だった。
アカネの動きが、ピタッと止まった。
背中に畳んでいた小さな翼が、わずかにピクッと動く。
金色の視線が、フェンスの向こう側、薄暗い茂みの方へと釘付けになっていた。
啓介も歩みを止め、アカネの視線の先を追った。
フェンスの向こう側。
雑木林の陰から、一匹の猫が音もなく姿を現した。
見覚えのあるキジトラの縞模様。
胸元の白い毛。
左耳の欠け。
そして、少し曲がった尾。
あの野良猫だった。
啓介は、思わず小さく声を漏らした。
「あ」
フェンスの外を歩いていた猫も、啓介とアカネの存在に気づいたらしい。
足を止め、こちらを見る。
猫の視線が、まず啓介を捉え、次にフェンスの内側にいる小さな赤銅色の竜へと移る。
アカネもまた、じっと猫を見つめ返している。
啓介の脳裏に、この猫と初めて遭遇した頃の記憶が蘇った。
互いの存在を警戒し、すぐには距離を縮められなかった頃だ。
啓介は、咄嗟に動けるように少しだけ腰を落とした。
だが。
今回は。
何も、起こらなかった。
猫は毛を逆立てることもなく、低い唸り声を上げることもない。
アカネもまた、翼を広げて威嚇の姿勢をとるわけでもなく、ただ静かに相手を見つめているだけだった。
やがて、猫が視線を外し、フェンスの外側を山道の奥へ向かってゆっくりと歩き始めた。
啓介は、少しだけ肩の力を抜いた。
「今日も通り道か」
そう思い、啓介が再び歩き出そうとした時だ。
地面にいたアカネが、トテトテと歩き出した。
向かった先は、啓介の方ではない。
フェンスのすぐ内側の地面だ。
猫が、フェンスの外側をのんびりとしたペースで歩いていく。
アカネが、フェンスの内側を、その猫と同じ方向へトテトテと歩いていく。
金網を一枚隔てて、二匹の動物が平行に移動し始めた。
啓介は目を瞬かせた。
「……お前、どこ行くんだ?」
声をかけても、アカネは振り返らない。
金色の目は、フェンスの向こうの縞模様を真っ直ぐに捉えていた。
数メートル進んだところで、猫がふと足を止めた。
すると、内側のアカネもピタッと足を止めた。
猫が、フェンス越しにアカネを見る。
アカネも、猫を見る。
啓介は声をかけず、少し離れた位置から二匹の様子を見守った。
その静寂を破ったのは、猫の方だった。
猫が突然、タッタッタッ! と小走りになったのだ。
ほんの数メートルだけ、前方へ駆ける。
一瞬の遅れ。
アカネが、トトトトッ! と短い足で走り出し、それを追った。
啓介は、思わず目を丸くした。
「……ん?」
猫が、急ブレーキをかけるようにピタッと止まる。
アカネも、ズルッと土を少し滑らせながら止まった。
啓介は、そのまま猫を見る。
このまま走り去るなら、単にアカネから距離を取っただけだ。
だが。
猫は少し先で立ち止まり。
クルリと首を後ろへ向けた。
フェンス越しに、自分を追いかけてきた小さな竜を見る。
そして。
今度は、それまで進んできた方向とは逆へ向かって、タタタッ! と駆け出した。
アカネは、即座に反応した。
「あぎゃ!」
弾むような鳴き声を上げ、急激に方向転換する。
バサッ!
地面を走るだけでは追いつけないと思ったのか、アカネは小さく翼を広げ、地上から数十センチの低い位置を飛びながら、フェンス沿いに猫を追いかけ始めた。
啓介は、すぐには笑えなかった。
まず見るべきなのは、二匹が本気で争っていないかだ。
フェンスの向こうの猫を見る。
毛を極端に逆立てて、身体を大きく見せようとしているか。
背中を弓なりに丸めているか。
明確な威嚇声を上げているか。
必死にその場から逃げようとしているか。
フェンスへ飛びかかり、アカネへ攻撃しようとしているか。
どれも見られない。
内側のアカネも同様だった。
威嚇するような声は出していない。
フェンスへ突っ込むことも、飛び越えて外へ出ようとすることもない。
ただ、金網の向こうを走る猫を夢中になって追っている。
啓介は、少しだけ身体の力を抜いた。
二往復目。
猫が、またフェンス沿いで急停止し、方向転換する。
アカネも、空中で小さく旋回し、それを追う。
フェンスを挟んで。
外側を、縞模様の猫が走る。
内側を、赤銅色の小竜が追う。
数メートル走っては止まり。
金網越しに互いを見る。
そしてまた、どちらかが動くと、反対方向へ駆け出す。
啓介は、その光景をしばらく眺めてから呟いた。
「……お前ら、遊んでるのか?」
少し間を置く。
「いや。……端から見ると、遊んでるように『見える』、か」
アカネの動きに、変化が出始めた。
猫は完全に地上を走っている。
アカネは、最初は飛んで追いかけていたが、途中から動きを混ぜ始めた。
地面をトテトテと二、三メートル走り。
そこからポンッと小さく飛び上がり、空中を滑空し。
また地面にトンと着地して、走る。
本気で飛べば、アカネの方が遥かに速い。
それでも追い越さない。
フェンスの向こうを走る猫の近くを行ったり来たりしている。
猫の側にも、変化があった。
走り止まった時、フェンスの金網にかなり近い位置まで自分から近づいたのだ。
ただし、前脚を金網の目から内側へ入れたり、鼻先を擦り合わせたりするような接触はしない。
啓介としても、それはありがたかった。
野良猫がどんな病原体や寄生虫を持っているか分からない以上、アカネと直接身体を接触させるつもりはない。
二匹の間にあるフェンスが、そのまま安全な境界になっていた。
それから、およそ三分から五分。
時間にすれば短い間だったが、二匹のフェンス越しの追走は続いた。
猫が走る。
アカネが追う。
アカネが先へ行く。
猫が反対方向へ走る。
またアカネが戻る。
啓介は、自分が本来やるべき巡回をしばらく忘れ、その光景に見入っていた。
「……何やってんだ、俺は」
ふと我に返り、管理記録用のスマートフォンを取り出す。
そして、その様子を数十秒だけ動画に残した。
外へ公開するためではない。
これまでの接触記録と比較できるよう、観察資料として残しておくだけだ。
追いかけっこは、唐突に終わりを迎えた。
外側の猫が、ピタッと足を止めた。
今度は振り返ることもなく、その場にどっかりと腰を下ろす。
そして、おもむろに右の前脚をペロペロと舐め始め、そのまま毛繕いを開始した。
内側のアカネは、猫がまた走り出すと思っていたのか、そのまま少し先までトテトテと進んでしまった。
だが、後ろが続いてこないことに気づき、不思議そうに立ち止まる。
アカネが、トコトコとフェンス越しに猫の正面まで戻ってくる。
しかし猫は、目の前にいる小竜のことなど完全に視界へ入っていないかのように、一心不乱に自分の尻尾を毛繕いしている。
完全なる無視だった。
アカネは、フェンスの向こうの猫をじっと見つめ、首をコテンと傾けた。
「あぎゃ?」
その落差に、啓介は思わず吹き出してしまった。
「ははっ……おい、アカネ。向こうはもう終わりらしいぞ」
アカネは、まだしばらく毛繕いをする猫を見ていたが、相手が全く反応しないと分かると、近くの地面へ視線を落とし、落ち葉を前脚でいじり始めた。
この、相手の都合など一切お構いなしのマイペースさ。
まさに《自由気ままな猫》という名前にふさわしい。
しばらくして、毛繕いを終えた猫が、フェンスの外側でそのまま香箱座りをしてくつろぎ始めた。
内側では、アカネが地面に座り込んで落ち葉をいじっている。
その二匹の距離は、およそ一メートルから二メートル程度。
以前、フェンス越しに五メートルほど離れて過ごしていた時よりも、明らかに距離が縮まっている。
互いに触れることはない。
威嚇もしない。
猫は猫でくつろぎ。
アカネはアカネで落ち葉をいじる。
啓介は、静かにその様子を眺めた。
最初、この猫とアカネは互いの存在を警戒していた。
啓介は、この猫を《アカネの友達》という名前でカード化しようと考えたこともある。
だが、当時の二匹はそんな関係ではなかったため、結局《自由気ままな猫》という名前になった。
今でも、その名前の方がよほど似合っている。
「……だからって、今さらお前の名前を《アカネの友達》に変える気もないけどな」
啓介が小声で呟いたが、フェンスの向こうの猫は知らん顔で目を細めているだけだった。
一度一緒に走ったくらいで、カード名を変える理由もない。
この猫が好き勝手に山へ来て、好き勝手に去っていく関係は、そのままでいい。
「ほら、俺らも巡回の続き行くぞ」
啓介は立ち上がり、パンパンとズボンの土を払ってから声をかけた。
「アカネ」
アカネが、啓介を見る。
一度だけフェンスの向こうの猫へ顔を向け。
それから、パタパタと飛び上がって啓介の方へ戻ってきた。
フェンスの外の猫は、当然のように追ってこなかった。
のっそりと立ち上がると、そのまま山道の奥へ歩いていく。
啓介は、その背中へ軽く手を挙げた。
「じゃあな」
返事はない。
猫は、そのまま雑木林の陰へ姿を消した。
それでいい。
それが、この猫との今の距離感だった。
啓介は、残りの山林の巡回を再開した。
外周のフェンス沿いを歩き切り、斜面の状況を確認する。
異常はなし。
作業らしい作業といえば、風で飛んできた小さなゴミの回収と、通路に落ちていた枝を数本脇へ移動させたこと。
記録用のタブレットへの入力。
そして、アカネの飲み水の容器を軽く洗ったことくらいだ。
アカネも、途中からはいつもの山での行動へ戻っていた。
木の枝から枝へ飛び移り、啓介の足元を歩き、時折立ち止まっては何かを凝視する。
猫を探してフェンス沿いを歩き回ったり、外へ出ようとしたりすることもなかった。
すべての巡回ルートを終え、啓介とアカネは《アカネの守り巣》の前へ戻ってきた。
啓介が帰り支度を整えている間、アカネは内扉をくぐって、自分の家の中へ入っていった。
啓介は、外からその様子を何気なく見ていた。
アカネが向かったのは、部屋の奥に作られた宝物棚だった。
そこには、これまでアカネが集めてきたものが並んでいる。
プルタブ。
磨いた小石。
金属製のボタン。
赤い丸石。
黒い木の実。
小さな木片。
そして、猫が転がして遊んでいた松ぼっくり。
アカネは、その松ぼっくりの前へトテトテと近づいた。
鼻先でコツンと触れ。
少し斜めになっていた松ぼっくりを、前脚でわずかに押して位置を直す。
啓介は、その様子を見て少しだけ目を細めた。
「……それ、まだ大事に取ってあるんだな」
「あぎゃ」
アカネは短く鳴いた。
啓介はタブレット端末を取り出し、正式な山の管理記録とは別に、簡単なアカネの観察メモを開いた。
《アカネ/自由気ままな猫・接触観察》
【観察事実】
・外周フェンスを隔てて互いを視認。
・双方に明確な威嚇行動、攻撃準備行動はなし。
・猫がフェンス外周を小走りすると、アカネが内側から追従する動きを確認。
・猫が方向転換すると、アカネも方向を変えて追従。
・同様のフェンス越しの往復運動を数分間、複数回確認。
・猫側もそのまま完全離脱せず、複数回反対方向へ戻る行動を確認。
・フェンスによる物理的隔離のため、直接的な身体接触はなし。
・運動終了後、一から二メートル程度の距離で双方が滞在。攻撃・威嚇行動なし。
そして、【推測】の欄。
啓介は少し考えてから、短く入力した。
『遊戯行動の可能性あり』
そこまで書いて、タブレットを閉じた。
「まあ……。お前らが本当に一緒に遊んでたんだとしたら。それはそれで、良かったな」
啓介がぽつりと言うと。
「あぎゃ」
アカネは、いつもの顔で啓介を見上げて鳴いた。
「よし、帰るぞ」
啓介はキャリーケースを広げた。
先日、一日中遊び倒した時は、ここからアカネがなかなか守り巣を離れず、キャリーへ入れるまでにかなり時間がかかった。
今回も少し身構えていたのだが。
アカネは守り巣の周辺を数歩だけうろついた後、トテトテと戻ってきて、自分からキャリーケースの中へ入った。
「……今日は、そんなに粘らないのか」
啓介は少し拍子抜けしながら、キャリーの扉を閉めた。
帰路の車内。
助手席のキャリーケースの中で、アカネは静かに寝息を立てて休んでいる。
啓介は、ハンドルを握りながら、今日の巡回結果を頭の中で整理した。
山林の土砂や倒木。
異常なし。
作業拠点と雨水設備。
異常なし。
外周フェンス。
異常なし。
そして、あの野良猫。
「……異常ではない、な」
啓介は、前を向いたまま少しだけ笑った。
マンションへ帰宅した。
キャリーケースから出されたアカネは、いつもの生活空間へ戻っていく。
水皿から水を少し飲み、しばらく部屋の中を歩いた後、ソファの上の古いパーカーへ登って丸くなった。
夕食後。
啓介は自室のPCを開き、正式な『青梅山林管理記録』を入力した。
山林設備:異常なし。
外周フェンス:異常なし。
雨水設備:異常なし。
不法侵入・不法投棄:確認なし。
小規模落枝:通路脇へ移動済み。
次回対応事項:特になし。
そして、その下の別欄。
『《自由気ままな猫》:外周フェンス越しに確認』
啓介のタイピングする指が、一瞬だけ止まった。
少し考えてから、その横に追記する。
『アカネとの間で、フェンス越しに互いの動きに合わせた追走行動を複数回確認』
PCを閉じ、啓介はリビングの方を見た。
ソファの上では、アカネが古いパーカーの真ん中にすっぽりと収まり、完全に熟睡していた。
数時間前まで、あの野良猫を相手にフェンス越しを走り回っていたとは思えないほど、無防備な寝姿だ。
啓介は、足音を立てずにソファへ近づき、アカネを見下ろした。
「……お前、今日は楽しかったのか?」
啓介の声に反応して、アカネが右目だけを薄く開けた。
「あぎゃ……」
眠たげな、気の抜けた声で短く鳴き。
またすぐに目を閉じてしまった。
啓介は苦笑した。
「……まあ、本人に聞いても分からんか」
啓介は、手元にあった紙のメモ帳の端に、今日の結論をペンで書き残した。
『対象(猫)との関係性評価:保留。ただし、少なくとも互いに対する明確な敵対・排除行動はなし』
そこまで書いて、ペンを置こうとしたが。
啓介は少しだけ考えてから。
その堅苦しい文章の下に、小さな字でこう付け足した。
『でも、端から見れば。一緒に遊んでいたようには見えた』
ここまで読んでいただきありがとうございます! もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ページ下部より【お気に入り登録】や【評価】、感想などをいただけると執筆の励みになります。 作者のモチベーション上昇に直結しますので、是非ともよろしくお願いします!