兄貴、見守る。 作:キュウリ大好き人間
グルメ30
誰かが言った。
ツルツル、しこしことした歯ごたえで、この上ないほど上品な香りを放つ絶品のそばが、まるで葉っぱのように生い茂る柳の樹――『ソバ柳』があると。
水気を帯びると濃厚で深い味が染み出て、ふんわりとした食感軟らかいのどごしの最高な味わいとなる豆腐が果てしなく広がる広野――『高野豆腐』があると。
世はグルメ時代。未知なる味を追い求め、探求する時代――。
「やあ、伝説の王者よ。」
トリコがバトルウルフに向けて、不敵に声をかける。
「…………」
リゼルは何も語らなかった。
ただ、その黄金の瞳をさらに細め、静かに、じっと王者の様子を観察している。
《 グルルルルルルル……!! 》
守るように立ちはだかった二人に向けて、バトルウルフが低く鋭い唸り声を響かせる。
そんな一触即発の状況とは裏腹に、客席のボルテージは上限を突破していた。
「ト、トリコ……本物!?」
「本物のトリコか!?」
「隣にはレジェンド・リゼルもいるぞ!」
「本当だ……! ってことは、トリコとリゼル、二人のバトルがここで見れるのか!?」
会場のあちこちから二人の名前が連呼され、お祭り騒ぎのような大歓声へと変わっていく。
「トリコさん……リゼルさん……」
小松はハラハラと眉を下げ、心配そうにガラスの向こうの二人を見つめていた。
「あのアホウ共、いったいどこから乱入しやがった……――ん? ぬおっ!?」
マンサムは最初、呆れ果てて目を閉じていたが、不意に上のほうから異様な気配を察してカッと目を見開いた。
「なぬっ!? 厚さ二・五メートルの特殊超強化アクリルだぞ!?」
慌てて天井を見上げたマンサムは、それこそ目が飛び出さんばかりの形相で驚愕した。
彼の視線の先――そこには、あり得ないほどの大きさの大穴がポッカリと開いていた。
「トリコ! リゼル! なんでコロシアムの中にいるの!? こんな所を取材できるなんて、てんこ盛りおいしー!」
ティナは興奮気味にアクリル板の向こうへビデオカメラを向け、少しでも近くで撮ろうと客席の通路を走る。
その後ろをモーブも必死に追いかけていた。
「本物のリゼル様だ……! ティナ先輩についてきて本当に良かった……!」
アクリル板の向こうで輝くリゼルの姿に、モーブはあまりの感動でボロリと涙を流し、頬を真っ赤に染めて呟いた。
〈クルッポ、クルッポ、クルッポー!〉
肩の上のクルッポーも、主人の興奮に合わせるように喜びの鳴き声を響かせる。
「ティ、ティナさん? なんでここに……」
客席を走るティナの姿を見つけた小松は、驚いて眉を下げた。
「ティナさん、ティーナさん!」
小松は歓声に負けないよう手を口元に当て、ティナへ呼びかける。
「ハアッ!? 何よもう、邪魔しないでってば!」
撮影を遮られたティナはイラッと眉を吊り上げ、呼ばれた方向へと勢いよくビデオカメラを向けた。
「あっ、小松くん!? ……って、あ、アハハ……」
ファインダーの向こうで一生懸命に手を振る小松。
――そしてその隣には、腕を組んで、困ったように眉を下げてこちらを見つめているマンサムがいた。
ティナは「怒られるかも……!」と一瞬ビクッとなり、慌ててビデオカメラを後ろに隠しながら、引きつった苦笑いで必死にごまかした。
「兄ちゃんの知り合いか?」
マンサムはニカッと豪快に笑いながら小松に尋ねる。
「はぁ……ティナさんは知り合いですけど……隣の男の人は初めてお会いします」
小松は困ったように頭の後ろを掻きながら答えた。
「そうなのか?」
マンサムは少し意外そうに眉を上げ、再び客席の二人へと視線を戻した。
客席からふたたび地鳴りの声が湧き上がり、マンサム、小松、ティナはすぐさまトリコとリゼルのいる舞台へと視線を戻す。
隣でモーブは慌てて涙を拭うと、憧れに目を輝かせながら、ふたたびリゼルの一挙手一投足を見つめていた。
《 グガァアア――!! 》
トリコの釘パンチを食らったガウチが意識を取り戻し、怒り狂ったような鋭い声を上げた。
「2連で止めたが、さすがに力不足だったか」
トリコはポツリと呟く。
《 ブガァアア!! 》
ガウチはトリコに向けて激しく鳴き叫び、獰猛に威嚇した。
「やかましいぞ!!」
トリコがピキッと眉を吊り上げ、凄まじい怒りのオーラを放ちながら吼え返した。
その瞬間、トリコの背後に禍々しい『赤い鬼』がその姿を現す。
《 オオオオオオオ……!! 》
赤い鬼の口から、大地を揺らすような地鳴りの咆哮が漏れ出た。
さっきリゼルの黄金の鬼に気圧され、すでにバトルウルフから距離を取っていた猛獣たちだったが、このトリコの追撃で完全に心が折れた。
あまりの圧倒的な恐怖に、ガウチも一瞬で戦意を喪失し、他の三匹がいる場所まで大慌てで逃げ出していった。
(こいつ、戦う目をしていない……。俺や兄貴の威嚇にも反応しなかったな)
トリコはバトルウルフの様子を観察しながら、心の中で静かに呟く。
バトルウルフは登場してから一度も、その場所から動いていなかった。
ただ、目の前に立つ二人だけをじっと睨みつけ、低く唸り声を上げているだけで――。
「兄貴、やはり……」
トリコは視線を外さないまま、隣に立つリゼルに向けて低く呟く。
「あぁ…」
リゼルもまた、目の前の王者をじっと見つめたまま、静かに短く返事を返した。
客席のボルテージは最高潮に達し、興奮した観客たちの中にはリングに向かってお金を投げ飛ばす者まで現れ始めていた。
ティナが興奮気味にビデオカメラを回し、その隣でモーブが目をキラキラと輝かせて舞台を見つめている
――その時だった。
〈クルッポ、クルッポ、クルッポー!!〉
肩の上のクルッポーが、突然激しく鳴き出した。
二人が驚いて隣を振り向くと、いつの間にかそこには、エプロン姿の一人の女性が音もなく佇んでいた。
「こちら、サービスになっております」
女性は営業スマイルを浮かべ、皿に載せた食べ物を差し出してくる。
「うわぁーっ! これ、ラ・フランスパン!? 1個七十万円もする超高級品じゃない!?」
ティナはカメラを持ったまま目を丸くして驚愕する。
「わぁ、凄い……! こんなものが無料で食べられるなんて……!」
モーブも信じられないといった様子で目を輝かせ、嬉しそうに声を弾ませた。
「試合が盛り上がったときは大盤振る舞いだ。アハハ!」
特等席のマンサムはラ・フランスパンを豪快に頬張りながら小松に向けて言い、ガハハと笑った。
「へへ」
小松もマンサムの笑顔につられて、ホッとしたように笑い返す。
同じ客席側の少し離れた場所では、ティナもさっそく配られたその高級品を口に運んでいた。
「タダでこんな味が楽しめるなんて……。んー、美味しさ山盛り! 柔らかくってジューシーで、口の中でとろけるようなのに、それでいて絶妙な噛みごたえがある。そして何より、この香り……。んー、甘くて切なくて……!」
ティナはカメラを持ったまま極上の味を噛み締めるように、うっとりと目を瞑って呟く。
「んー、本当にティナ先輩の言う通りですね! この歯ごたえがたまらない。それに、この香りも……」
モーブも同じように目を瞑り、鼻に抜ける上品な香りを目一杯楽しみながら幸せそうに呟いた。
「狼特有の獣の匂いに紛れる、わずかなフェロモン……間違いない! 身籠もっている……出産直前だ!」
トリコは驚愕に眉を跳ね上げながら、低く呟いた。
「やはりな……」
リゼルは最初から全てを見抜いていたかのように、目の前のバトルウルフを見据えたまま静かに応じる。
「兄貴は知ってたんだな。こいつが命を宿しているって」
トリコがリゼルの顔を覗き込んだ。
「まあな……。だが、俺とて雌だという確証を得るまでは、そこまで見極めきれなかったさ」
リゼルはふと自分の髪に触れ、トリコの視線を受け止めながら返す。
足元のバトルウルフは、ハァ……ハァ……と、すでに限界を超えたような荒い息を吐き出していた。
(しかし、一匹のクローンが妊娠、しかも単為生殖だと!?……そんなあり得ないことが、現実に起きるのか!?)
トリコは心の中で激しく困惑する。
リゼルは無言のままじっと王者の様子を観察していたが――その直後、目の前の光景にハッと息を呑んだ。
信じられないことに、あのバトルウルフの巨躯が、力なくその場へ崩れ落ちるように倒れ込んだのだ。
「バトルウルフ!!」
トリコの悲鳴のような叫びがリングに響き渡る。
リゼルもまた、想定外の事態に一瞬だけ言葉を失い、険しい表情でその姿を凝視していた。
「おいおい……どうしたんだ、ありゃ?」
マンサムは不穏な動きを見せるバトルウルフたちを凝視しながら、低く呟く。
隣に座っている小松は、不安そうに眉を下げてマンサムの顔を見つめた。
「所長、試合は中止だ! バトルウルフは戦えねぇ! リンにバトルフレグランスを早く止めるよう言ってくれ!」
天井の大穴から響き渡るトリコの切迫した大声に、マンサムはすぐさま反応する。
「わかった」
マンサムは弾かれたように立ち上がり、ポケットから通信機を取り出して連絡を入れようとした
――その時だった。
ガラスの向こうの異変に、小松が真っ先に気づいて喉を震わせる。
「あ! トリコさん、リゼルさん、後ろ――!!」
「トリコ! リゼル! 後ろ――!!」
小松とティナの悲鳴のような叫びが、同時に会場に響き渡った。
その警告に、トリコとリゼルが瞬時に後ろを振り向く。
そこには、完全に理性を失い狂暴化したシルバーバックが、四本の腕のうち二本ずつを使い、二人を目掛けて猛烈な勢いで拳を振り下ろしてくるところだった。
「ふんッ!!」
トリコは自身の強靭な腕を交差させ、その肉体で真っ向から重い一撃を受け止める。
対するリゼルは、凶悪な拳が到達するよりも一瞬早く、自身の周囲に『黄金の手のオーラ』を出現させて、傷一つ負うことなく完璧にその身を守りきっていた。
攻撃を防ぎ終えると同時に、黄金の手はスッと霧のように消え去る。
「すまねぇが……ちょっと寝ててくれ!」
トリコはシルバーバックの懐に踏み込み、その分厚い腹部へ力いっぱいの拳を叩き込んだ。
シルバーバックは冷や汗を流しながら白目を剥き、その巨躯をピクリとも動かさず、その場へドサリと崩れ落ちた。
『リン! リン! バトフレを止めろ!』
リンがオペレーター席の椅子に座り、コンソールのキーボードを猛烈な勢いで叩いていた、その時だった。
通信機からマンサムの怒鳴り声が降ってきたのだ。
「ムリだし! これ、システムがバグってて全然直んねーし!」
リンは額にじわりと冷や汗をにじませ、眉を吊り上げて歯を食いしばりながら言い返す。
『なんとかしろ!』
通信機の向こうから、マンサムがさらに大きな声で無茶な要求をぶつけてきた。
「ムチャ言うな、ハゲ!」
リンは一度作業の手を止め、モニターの向こうのマンサムに向けて声を荒らげる。
『ハハッ、ハンサムっつったか、今?』
『ハンサム』という単語にだけ異常な反応を見せ、マンサムがニカッと笑う。
「……言ってねーし。もう、ウチが直接そっちに行ってフレグランスを使ったほうが早いし!」
リンはがっくりと目を閉じ、手をひらひらと振りながらツッコミを入れ、それから目を開けて一気にまくし立てた。
『やっぱハンサムって言った?』
マンサムはまるで聞いておらず、またしても同じボケを被せてくる。
「だから言ってねーし!」
リンの青筋がピキッと浮かび、本日一番の鋭いツッコミが通信機へと叩き込まれた。
『じゃあ、さっさとこっち来い!』
「わかったしー!」
『だーっ! 今度こそハンサムって言ったろ!?』
「『ハ』っていう字の、ひとっつも言ってねーし!!」
リンはついに堪忍袋の緒が切れ、両手を大きく振り上げてコンソールをドンッ!と力任せに叩きつけた。
ピコピコピコ……!!
力任せに叩かれた操作盤が不穏な電子音を鳴らし始め、隙間からプシューッと不気味な黒煙を噴き出し始める。
直後、連動しているコロシアムの装置までもが完全に狂い狂暴化し、闘技場内のピンクの煙は、収まるどころかますます濃くなって大量に噴出し始めてしまった。
「おいおい、さらに煙が出てんじゃねぇか! どうなってんだ!?」
視界を覆い尽くしていくピンクの霧に、トリコが驚愕して眉を吊り上げ、呆れたようにポツリと呟いた。
「……リンが何かやらかしたのだろう。あいつ、怪我でもしていなければいいがな」
リゼルはちょっと呆れたように眉を下げつつも、遠くの管理室にいる仲間の身を本気で案じるように、どこか心配そうな眼差しで呟いた。