人狼の騎士 ~統一王朝崩壊史~   作:ポオツマス亭

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第2章 統一王朝編
第12話 狼の泉と統一王朝建国前夜


大聖堂を包んでいた歓喜の喧騒から一年後、皇太子妃ロザリアは第一子となる男児を出産した。

 

大鐘の音が王都に鳴り響き、新たな命の誕生に全土が沸き立った。

 

それからも命の営みは絶えることなく続き、彼女は生涯で四人の男児と三人の女児という子宝に恵まれることになるのだが──それはまた、後世の歴史家たちが語り継ぐべき別の物語である。

 

それから、十数年という月日が流れた。

 

かつて小さかった王国は、いまや歴史上いかなる覇者も成し得なかった壮大な版図を誇っていた。

 

『人狼の騎士』アルフレッド・ベルンハルト率いる人狼騎士団の圧倒的な武力と、凄惨なまでに完璧な軍略。

 

そして皇帝コンラートの揺るぎない執政によって、北部大陸の中央、中央大陸の全土、さらには南部大陸の中央までもが組み入れられ、巨大なる帝国『統一王朝』が誕生したのである。

 

明日はいよいよ、世界全土の王侯貴族が集う統一王朝の建国式、ならびにコンラートの正式な初代皇帝即位式が執り行われることになっていた。

 

全土から集まった使節団の応接と、明日の式典に関する細かな打ち合わせが深夜まで続く中、三十代半ばを迎えた王妃ロザリアは、わずかな隙を突いて控室の喧騒を抜け出していた。

 

重厚な廊下の暗がりを通り抜け、彼女が足を向けたのは、あの懐かしい場所であった。

 

王城の中庭、月光が冷たく水面を照らす噴水広場。

 

かつて十数年前のあの日、自らの真実の熱情を放ち、アルフレッドの紫煙を口に含んだあの夜と、何一つ変わらぬ静寂がそこには広がっていた。

 

「……ふう」

 

重々しい吐息とともに、繊細な紫煙が夜空へとなびいていく。

 

噴水の縁に腰を下ろしていたのは、漆黒の軍服に身を包んだ人狼の騎士、アルフレッド・ベルンハルトであった。

 

ロザリアの視線が彼を捉えた瞬間、彼女の胸に甘く切ない旋風が巻き起こった。

 

アルフレッドの佇まいは、かつて彼女が自らの心を撃ち抜かれ、愛を告白したあの夜と何一つ変わっていなかった。

 

不老不死の怪物。

 

二十六歳の若い姿のまま、隙のない漆黒の軍服の襟を正し、黄金の瞳に静かな孤高を宿したまま、彼はそこに立っていた。

 

そして、そのすぐ隣。

 

石造りの縁に浅く腰掛け、陶器の酒瓶から直接琥珀色の酒を煽っているエルフの大魔法使いミリアルデの姿もまた、数千年の悠久を生きる者として、ただの一日すら歳月を感じさせない幻想的な美しさを保ち続けていた。

 

「……あら」

 

ミリアルデが酒瓶を口元から離し、薄緑の瞳を細めた。

 

「未来の『大帝国皇后』様が、こんな夜更けに一人で何をしておられるのかしら? 侍女たちが青い顔をして城中を探しまわっているわよ、ロザリアちゃん」

 

「ふふ……いいのですわ、ミリアルデ様。今夜ばかりは、どれほどお叱りを受けようとも、ここへ参りたかったのですから」

 

ロザリアは可憐に、そして成熟した淑女たる気品を込めて微笑んだ。

 

ドレスの裾をかすかに揺らしながら歩み寄る彼女の姿を、アルフレッドは黄金の瞳で静かに見つめ、即座に身を起こすと胸に手を当てて深々と頭を下げた。

 

「……ロザリア王妃殿下。明日の大典を前に、このような死臭漂う場所へお運びになられるとは。お身体に障ります」

 

臣下としての、一切の隙もない完璧な礼節。

 

だが、ロザリアはその言葉に秘められた変わらぬ優しさを聞き取り、温かな吐息を漏らした。

 

「相変わらず、隙のございませんのね……アルフレッド卿」

 

二人の距離が縮まる。

 

三十代半ばを迎えたロザリアの顔立ちには、母となり、一国の母として大帝国を支えてきた者だけが持つ、深く神聖な気品と美しさが刻まれていた。

 

かつて十八歳の少女だった頃の幼さは消え去り、人間としての豊かな歳月が彼女をよりいっそう美しく輝かせていた。

 

ロザリアは、不老の二人の姿をしみじみと見つめた。

 

アルフレッドの二十六歳の若々しい軍服姿。

 

そして、ミリアルデの神聖なまでに変わらぬ佇まい。

 

「……不思議な気分ですわ」

 

ロザリアは月光を背にして、小さく首を傾げた。

 

「あの夜、わたくしがあなたにすべてを捧げると誓ったあの日が……まるで幾千年も昔のことのように感じられます。わたくしはこうして、人間としての歳月を重ね、母となり、肌の瑞々しさを失い、少しずつ死へと近づいておりますのに……」

 

彼女の言葉に、アルフレッドは何も答えず、ただ静かに紫煙を吐き出した。

 

ロザリアは一歩足を進め、アルフレッドの隣で静かに微笑んでいるミリアルデへと視線を向けた。

 

「ですが……悲しくはありませんわ。なぜなら、わたくしが愛したあの美しく気高き狼が、こうして変わらぬ姿で、ミリアルデ様という最高の光とともに在り続けてくださっているのですから」

 

「ロザリアちゃん……」

 

ミリアルデが酒瓶を膝の上に置き、少しだけ照れくさそうに長耳を揺らした。

 

「あんたって子は、本当に十数年経っても言いたい放題ねぇ。私が隣にいるのが、そんなに嬉しいわけ?」

 

「ええ、とても」

 

ロザリアは躊躇うことなく頷いた。

 

「十数年前の大聖堂で、あなたがわたくしから贈られたドレスを纏い、アルフレッド卿の腕に寄り添ったあの瞬間……わたくしは悟りましたの。この不老の狼の『永遠の孤高』を終わらせることができるのは、同じ時を統べるミリアルデ様だけなのだと」

 

ロザリアの瞳には、かつての狂おしい嫉妬や未練など一切存在しなかった。

 

あるのは、己の人生を完璧に全うしている者の誇りと、大切な存在に対する心からの祝福であった。

 

コンラートとの日々は、幸福であった。

 

覇王としての重責を背負い、全土を統べるために苦悩するコンラートを支え、共に子を育て、帝国を築き上げてきた歴史。

 

コンラートは一度たりともロザリアを軽んじたことはなく、彼女を深く敬愛し、最愛の伴侶として接してきた。

 

ロザリアもまた、夫コンラートを心から尊敬し、深く愛している。

 

だが、それと同時に──。

 

彼女の魂の最も深い、誰にも侵せぬ聖域には、今なおあの日アルフレッドに奪われた「愛してる」の残り火が、静かに、けれど消えることなく灯り続けていた。

 

人間としての生涯をコンラートに捧げ、魂の深淵を不老の狼に捧げる。

 

その二律背反を完璧に調和させ、見事に生き抜いてきたことこそが、彼女が『世界で最も気高き皇后』と呼ばれる所以であった。

 

「……コンラート殿下は」

 

アルフレッドが重厚な低音で問いかけた。

 

「お元気でおられるか」

 

「ええ」

 

ロザリアは誇らしげに胸を張った。

 

「明日の即位式を控え、書斎で諸将からの報告書に目を通しておられますわ。あなた方人狼騎士団が切り拓いてくださったこの広大な国土を、いかにして民の平穏のために治めるか……そのことばかりを考えておられます。素晴らしい皇帝におなりになりますわ、あの方は」

 

「……左様ですか」

 

アルフレッドは黄金の瞳をわずかに細め、胸の深くから安堵の息を漏らした。

 

「殿下がまことの覇王となり、この大陸に安寧をもたらされたこと……俺が三百年間、戦場で流してきた無数の血も、無駄ではなかったということです」

 

アルフレッドは懐から、あの丁寧に磨かれた銀の小箱を取り出した。

 

蓋を開けると、中には変わらず小粒の白い砂糖菓子が転がっている。

 

彼はそれを指先で摘まみ上げると、静かに口の中へ放り込み、舌の上で転がした。

 

故郷の味。

 

三百年前の許嫁シルヴィアとの約束の味。

 

死者の思い出と過去の傷跡に縛られ続けた男。

 

だが、いまやその横顔には、かつてのような悲壮な冷酷さだけではなかった。

 

隣に立ち、退屈な時を分かち合うエルフの大魔法使いの体温と、こうして大人となって自分を訪ねてくる皇后の気高さが、彼の凍てついた心に確かな温もりを与えていた。

 

ミリアルデは、そっとアルフレッドの白手袋を嵌めていない指先に自分の手を重ね、何気ない動作で彼の体温を確かめた。

 

「ねえ、人狼さん」

 

ミリアルデが酒瓶を揺らしながら呟く。

 

「明日からは『統一王朝』の時代よ。歴史が人間の手によって完成するわ。私たちの仕事も、少しは楽になるかしらね?」

 

「……甘いぞ、ミリアルデ」

 

アルフレッドは口元に微かな苦笑を浮かべ、紫煙を夜空へ溶かした。

 

「光が大きくなればなるほど、陰りもまた深くなる。統一王朝の影には、常に俺たちのような怪物が潜んでいなければならん。北方の残党と魔族も、南部の反乱分子も、まだ完全に絶えたわけではないのだからな」

 

「相変わらず味気ない男ねぇ……ほんと、付き合う方の身にもなりなさいな」

 

ミリアルデは呆れたように肩をすくめたが、その瞳には愛おしさが満ち溢れていた。

 

数千年の退屈な永劫の時の中で、この不器用で真っ直ぐな狼と共に過ごす数十年は、彼女にとって何物にも代えがたい宝石のような時間であった。

 

二人のやり取りを見つめていたロザリアは、くすくすと鈴を転がすように笑った。

 

「ふふ……本当にお似合いですわ、お二人とも……あ、そうですわ」

 

ロザリアは思い出したように、軽やかな声で言葉を継いだ。

 

「そういえば、陛下がおっしゃってましたわ。明日、アルフレッドを伯爵に叙するって」

 

「……何だと?」

 

アルフレッドの黄金の瞳が、驚愕に微かに見開かれた。

 

紫煙を吐き出す指先がぴたりと止まる。

 

「コンラート陛下が……いや、皇帝陛下が、俺に貴族の爵位を?」

 

「ええ。全土を統一し、覇権を打ち立てる統一王朝において、あなたという存在の功績はもはや歴史そのものです。人狼騎士団を率いる総帥として、そしてコンラート殿下の生涯の師として……これ以上の地位と栄誉をもって報いるべきだと、陛下は強く望んでおられますの」

 

ロザリアの言葉に、隣のミリアルデが耐えかねたように肩を震わせ、大声で吹き出した。

 

「くくっ……あはははっ! 伯爵! あんたが伯爵だって!? あはは、笑わせないでよ、アルフレッド伯爵様!」

 

ミリアルデは涙を浮かべながら腹を抱え、アルフレッドの軍服の袖をバシバシと叩いた。

 

「怪物で、死神で、戦場の血生臭い狼が、人間たちの気取り返した『伯爵』になるなんてね! 似合わなさすぎて、あしたの叙任式が楽しみでたまらないわ!」

 

「……静かにしろ、酔いどれエルフ」

 

アルフレッドは苦虫を噛み潰したような顔で撫でつけられた髪を気にし、重い吐息とともに葉巻の煙を叩きつけるように吐き出した。

 

「俺にそのような爵位など無用だ。領地も貴族の権能も興味はない。俺はただ、王家の影として戦場を駆ければそれでいい……コンラートの奴、余計な気遣いを……」

 

「余計なことではありませんわ」

 

ロザリアは優しく、だが断固とした口調でアルフレッドを見つめ直した。

 

「コンラート殿下は、本気であなたを尊敬し、心から感謝しておられるのです。あなたが『影』として消えてしまうことを、殿下は決して望んでおられません。人間としての誇りと、王国最高の栄誉を、あなたという不滅の騎士に受け取ってほしい……それが、新しい皇帝の真摯な願いなのですから」

 

アルフレッドはロザリアのまっすぐな瞳から逃れるように視線を落とし、静かに沈黙した。

 

彼の手元で燻る太い葉巻。

 

その濃密な香りは、十数年前の夜、ロザリアが自らの可憐な唇で吸い込み、彼の体内に永遠の刻印を残していった香草の匂いそのものであった。

 

「……承知した」

 

長い沈黙ののち、アルフレッドは静かに頷いた。

 

「陛下の御意のままに。明日、その爵位を拝受しよう……コンラート殿下がそこまでの覚悟を持って示されるのであれば、俺も最後まで付き合うまでだ」

 

「ええ、ありがとうございます、アルフレッド卿」

 

ロザリアは二人に向けて、ゆっくりとドレスの裾を持ち上げ、最高位の気品を込めたカーテシーを捧げた。

 

「アルフレッド卿、ミリアルデ様。わたくしは、これで安心して明日、コンラート殿下の隣に立ち、世界の頂点たる皇后として即位いたします……ですが、どのような立場になろうとも、わたくしが十数年前にあなた方からいただいた輝きは、生涯消えることはありません」

 

彼女は顔を上げ、二人をまっすぐに見つめた。

 

「わたくしが人間として命を終え、歴史の露となって消え去った後も……どうかお二人で、この国を、そして人間の歩む未来を、遠い影から見守り続けてくださいませ」

 

それは、一人の人間としての、不老の怪物たちに対する切なる願いであり、最上級の愛の告白であった。

 

人間は移ろい、やがて老いて去っていく。

 

だが、彼女が紡いだ愛と覚悟は、この不老の二人の中に永遠の記憶として刻まれ続けるのだ。

 

アルフレッドは煙草を指先で消すと、胸に手を当て、膝をついた。

 

「……はい、ロザリア王妃殿下……いえ、統一王朝皇后陛下……」

 

彼の黄金の瞳が、月光を受けて神聖な光を放つ。

 

「この命果てるまで……我が魔剣とこの身は、貴女様とコンラート陛下が創り上げし帝国の影となりて、永久に王国を守護いたしましょう」

 

ミリアルデもまた、持ち前の怠惰さを消し去り、一人の大魔法使いとして静かに深く頭を下げた。

 

「約束するわ、ロザリアちゃん。あんたが命を懸けて愛したこの国を、私たちが退屈しのぎにずっと見守ってあげる」

 

「……ありがとうございます」

 

ロザリアは美しく微笑むと、最後にもう一度、アルフレッドの黄金の瞳と、彼の指先に漂うかすかな香草の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。

 

十数年前のあの日、彼の体内に満ちていた煙を自らの口に含んだ熱情。

 

その熱は、いまや一国の皇后としての誇りと重厚な美徳へと昇華されていた。

 

「それでは……失礼いたします。明日、最高の式でお会いしましょう」

 

ロザリアは振り返り、一度も足を止めることなく、月光の差す回廊へと歩み去っていった。

 

その歩みには、一国の母としての威厳と、己の運命を完全に受け入れた者の恐ろしいほどの気品が宿っていた。

 

彼女が去った後の中庭には、甘い薔薇の香水の残香と、冷たい夜風だけが残されていた。

 

月が上空の頂点へと達し、大聖堂の鐘が深夜の訪れを告げる。

 

「……行ったわね」

 

ミリアルデがぽつりと呟き、酒瓶に残った最後の液を飲み干した。

 

「あの子、本当に素晴らしい女性になったわね。あんたの煙を吸っていっただけのことはあるわ」

 

「……ああ」

 

アルフレッドは立ち上がり、静かに夜空を見上げた。

 

「人間は……実に強くて、美しいものだな」

 

彼の手から、一粒の砂糖菓子が消え、彼の体内で故郷の甘さが溶けていく。

 

不老不死ゆえの途方もない孤独と、死にきれぬ苦痛。

 

しかし、この短い生の輝きを極限まで燃やし尽くす人間たちの熱情に触れるたび、彼の凍てついた魂は、温かな救いを得るのであった。

 

「行きましょうか、アルフレッド」

 

ミリアルデが立ち上がり、彼の腕に自分の細い腕をしっかりと絡めた。

 

「明日は歴史的な日よ。あんたの正装、またジャラジャラさせてあげなさいな」

 

「……フン。手がかかる」

 

アルフレッドは口元に微かな笑みを浮かべると、彼女をエスコートするように歩き出した。

 

満月の光が、二つの重なり合う超然とした影を、永遠の静寂の中に白く浮き上がらせていた。

 

明日、大聖堂の鐘が鳴り響く。

 

無数の花びらが舞い踊り、万雷の拍手と歓声が統一王朝の誕生を祝福するだろう。

 

覇権を唱える皇帝と、世界で最も気高き皇后。

 

権力と武力の頂点が組み合わさり、人間たちの歴史は極限の栄華を迎えるはずであった。

 

統一王朝の輝かしい建国の日。

 

だが、それは終わりの始まりであった……

 

 

 

(第13話に続く)




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