建国式典と皇帝戴冠式、そして歴史に名を刻む絢爛たる舞踏会すらも終わりを告げ、夜の静寂が王宮を静かに包み込んでいた。
熱狂と狂騒が去った噴水広場にいたのは、いつもの二人であった。
冷たい月光が水面を白く照らし、夜風が白薔薇の香りを運んでくる。
「……ふう」
漆黒の軍服に身を包んだ人狼の騎士アルフレッド・ベルンハルトは、太い葉巻の先端に紫の魔力を灯し、深い吐息とともに濃密な煙を夜空へとくゆらせていた。
大礼装の装飾を外し、見慣れた軍服の襟をゆるめた彼の指先は、今夜も手慣れた手つきで腰の革袋を探り、丁寧に磨かれた光り輝く銀の小箱を取り出している。
蓋を開け、中に転がる小粒の白い砂糖菓子をひとつ摘まんで口の中へ放り込む。
故郷の甘さと香草の苦みが舌の上で溶け合っていく。
彼自身は、伯爵の爵位を授かったことも、広間でミリアルデと舞踏を踊ったことも、すでに過去の出来事として心の中に仕舞い込んでいた。
一方で、隣に座るミリアルデは、いまだに舞踏会の熱い余韻に浸っていた。
ロザリアから贈られた美しいドレスの裾をかすかに揺らし、石造りの噴水の縁に浅く腰掛けた彼女は、式典で辺境の領主によって振舞われていた特別な地元の銘酒──皇帝酒<ボースハフト>の陶器瓶を直接あおり、喉を鳴らしていた。
「……うわ、まっずー!」
ミリアルデは顔をしかめ、湿った桃色の唇を指先でぬぐいながら、盛大に叫んだ。
「なによこれ! 苦くて渋くて、焦げた木炭と腐った果実を一緒に煮詰めたみたいな味じゃない! よくこんなのお祝いの席で出せるわね!」
アルフレッドは吐き出した紫煙の向こうで、黄金の瞳を呆れたように細めた。
「……まずいならやめとけ」
「この不味いのが逆に癖になるのよ」
ミリアルデはくすくすと悪戯っぽく笑うと、文句を言いながらも再び酒瓶を傾け、喉へと琥珀色の液を流し込んだ。
数千年の悠久を生きる彼女にとって、舞踏会でアルフレッドが見せた不意打ちの独占欲と、二人で踊った円舞の記憶は、胸の奥でいつまでも甘い火照りとなって燻り続けていた。
その不味い酒の刺激さえも、今夜の愛おしい時間を引き立てる良き肴となっていたのである。
その時だった。
カツン……カツン……と。
暗がりとなった回廊の奥から、静かに響く足音が近づいてきた。
噴水広場に差し込む月光の下へ、一つの影がゆっくりと歩み出てくる。
「──久しぶりだな、人狼の騎士アルフレッド……いや、今は伯爵閣下か、似合わないな」
低く、どこか不遜でぶっきらぼうな声が夜気をつんざいた。
アルフレッドの黄金の瞳が微かに揺れ、葉巻を指先で止める。
「……フランメか」
現れた女性の姿を目にした瞬間、ミリアルデもまた酒瓶を口元から離し、驚きに薄緑の瞳を細めた。
そこに立っていたのは、かつてのあの日とは全く異なる存在感を放つ、凛とした一人の女性であった。
当時は十歳前後の、まだ幼さの残る生意気な少女に過ぎなかった。
しかし、過ぎ去った十数年という歳月は、人間である彼女の肉体を劇的に変化させていた。
二十歳前後にまで成長を遂げたその肢体は、しなやかな背丈を伸ばし、洗練された女性らしい豊かな起伏を描いている。
透き通るような白銀の肌に、すっきりと洗練された美しい顔立ち。
聖杖法院の最高峰に連なる魔法使いとしての威厳と、繊細な魔法衣を完璧に着こなす凛とした佇まい。
だが──その端正な美貌の裏には、まるで何をも焼き尽くしかねない危険な炎が、静かに灯っていた。
聖杖法院の魔法使い。
そして、あの大魔法使いゼーリエの唯一無二の弟子。
ぶっきらぼうな立ち振る舞いと気風の激しさは、まさに師であるゼーリエの面影を色濃く受け継いでいた。
アルフレッドは黄金の瞳で成長した彼女を見定めた後、静かに腰の革袋へと手を伸ばした。
「……まあ、座れよ。煙草か、酒か、それとも前みたいに砂糖菓子でも食うか?」
アルフレッドは腰の革袋から銀の小箱を取り出すと、蓋を開けて彼女の前に差し出した。
怪物として恐れられる男が見せた、彼なりの不器用な歓待。
フランメは差し出された小箱の砂糖菓子を一瞥すると、ふっと可憐な唇を歪めて笑った。
「砂糖菓子もいいが……今夜は一服付き合うよ、人狼の騎士」
彼女がポケットから自前の細身の葉巻を取り出すと、アルフレッドは意外そうに眉をひそめた。
「……なんだ、煙草を覚えたのか?」
「あんたのせいだろ、人狼」
フランメは不遜に鼻を鳴らし、慣れた手つきで細身の葉巻を指に挟んだ。
十数年前、幼かった少女の瞳に鮮烈に焼き付いていたのは、夜の静寂の中で重々しく紫煙をくゆらせる不老の怪物の姿だった。
世界を遠ざけるように煙を吐き出し、ただ孤高に硝煙と紫煙を纏う男の佇まい──それが知らず知らずのうちに彼女の魂に深く刻み込まれ、気づけば同じように煙草を嗜むようになっていたのだ。
アルフレッドは手慣れた手つきで木製のマッチを取り出した。
シュッ、と小さな音とともに擦られた炎が、暗闇の中に橙色の光を浮かび上がらせる。
差し出された火を葉巻の先端で受け、フランメは手慣れた手つきで深く吸い込んだ。
紫の煙が夜空へとなびき、彼女の整った顔立ちをかすかに霞ませる。
アルフレッドはマッチの火を吹き消すと、煙草をくゆらせながら低く問いかけた。
「お前は、十数年前に俺という存在について『保留』としたが、あれから答えは出たのか?」
かつて幼かった彼女は、人間を凌駕する不老の怪物であるアルフレッドに対し、危険視すべきか共存すべきか「保留」と告げていたのだ。
フランメは紫煙をゆったりと吐き出すと、ゼーリエ譲りの不遜でぶっきらぼうな口調のまま、鼻で笑うように答えた。
「……ふん。答えなら、最初から出ているさ」
彼女は細い指先で煙草を挟み、まっすぐにアルフレッドの黄金の瞳を見つめ返した。
「お前は人間の理を外れた化け物だ。野放しにすれば全土を血で染めかねない危険な存在。だが……同時に、この愚かな人間どもの歴史を正しく導くためには、排除するには惜しすぎる絶対的な力でもある……だから、保留のままだ。お前がその牙を人類に向けない限りはな」
ぶっきらぼうで、一切の甘えがない言葉。
だが、そこには人間という種の弱さと可能性を誰よりも深く理解し、その上で怪物と対等に渡り合おうとする強烈な自負が込められていた。
ミリアルデは酒瓶を抱え直し、興味深そうに長耳を揺らしながら言った。
「相変わらず可愛げのない言い草ねぇ、ゼーリエの弟子ちゃんは。で? 成長した姿を見せにわざわざこんな夜更けに挨拶に来たわけじゃないでしょう?」
フランメはミリアルデの問いかけに短く頷くと、挟んでいた煙草を唇にくわえ直し、二人の目の前へと一歩踏み出した。
その瞳に宿る炎が、月光を受けて妖しく揺らめく。
彼女は周囲の気配を伺うように一度だけ視線を走らせると、低く、しかし恐ろしいほどの重みを持った声で切り出した。
「──お話があります。ゼーリエ様にも内緒で……人類のために、魔法の未来を変革するために」
その瞬間、夜の風がぴたりと止まった。
噴水が水を打ち上げる音すら消せぬほどの沈黙が、三人の間を支配する。
二人の前に立ったフランメの佇まいは、あの頃と変わらない不遜で大胆不敵なものであった。
だが、彼女が持ち掛けようとしている内容の異質さは、一国の存亡などという小さな次元を遥かに超越していた。
人類に牙をむきかねない凄惨な血塗られた化け物であり、王国の最高位騎士たる人狼の伯爵。
そして、数千年の悠久を生き、世界の真理を知り尽くした最強と謳われるエルフの大魔法使い。
その言葉を聞いた瞬間──アルフレッドの胸の奥で、何かが激しくざわついた。
数万の敵軍を前にしても、死の淵に立たされても微動だにしなかった不滅の心が、警鐘を鳴らすように不吉な脈動を打つ。
(なんだ……何か企んでいるな)
アルフレッドの手元で、魔剣フェンリスが紫の不吉な光をかすかに明滅させた。
この目の前に立つ成長した女は、ただの魔法使いではない。
歴史の理そのものを根底からひっくり返し、人類の歩みすら変革してしまいかねない──恐ろしい「狂気と野望」の炎を、その美しき瞳の奥に秘めているのだ。
月光が照らす静寂の中庭で、三人の超然とした存在たちの視線が交錯する。
人類の歴史が『統一王朝』の建国によって極限の栄華を迎えたまさにその夜、新たな時代の裏で、さらに巨大で凄絶な時代のうねりが、静かに動き出そうとしていた。
(第15話に続く)
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